中世阿波の歴史を紐解くとき、守護大名や平野部の合戦にばかり目を奪われてはならない。阿波の国土の多くを占める険しい山々には、独自のネットワークを張り巡らせ、時代を動かす力を持った人々がいた。それが修験者であり、山岳武士である。
彼らは深い山林に隠遁していたのではない。平野と山、そして海を越えて広がるダイナミックな中世阿波の姿を古文書から紡ぎ合わせるとき、ある一つの巨大な「伏流」が浮かび上がってくる。それこそが、「忌部五雲(いんべごうん)」に象徴される、古代忌部の伝統、山岳武士の武力、自由奔放な修験・神官の呪術力を併せ持ったハイブリッドな一族の生存戦略である。彼らは激動の時代、状況に応じてその「複数の顔」を使い分け、阿波の戦乱を裏からコントロールしていた。
干ばつに喘ぐ村人を救う雨乞いの聖地・棚保大権現の勧進帳(天和三年)が伝えるのは、信仰が持つ「人を集める力」である。この文書の末尾に、社務として一つの名が記されている。
これこそが、のちに阿波の山岳祭祀を席巻する「忌部五雲(早雲・村雲・岩雲・花雲・飛雲)」の一角、東川田の早雲家である。彼は単なる神官ではない。武士の官職名である「兵部尉(ひょうぶのじょう)」を称している点に、彼らが【神官でありながら武装した山岳武士】でもあった生々しい現実が露わになっている。
彼ら先達(修験者・念行者)は、険しい山道での安全確保や関所の通行、宿の手配を整える実務の長であり、信者(檀那)との強固な利害関係を「権利」として有していた。貞治三年(1364年)および応安元年(1368年)の山路村十川山仙光寺文書には、その権利の排他性が明記されている。
さらに文安五年(1448年)の柿原別当常覚の売券には、熊野参詣の檀那を売買した生々しい記録が残る。
参詣の旅には莫大な費用と物資が動き、山野のルートを熟知していなければ成立しない。忌部五雲に連なる修験・神官ネットワークとは、地域を越える人のつながりを維持し、山間部のインフラと経済を握る実務家集団であった。
戦国時代、三好長慶をはじめとする三好一族が、海を渡って首都・畿内を席巻し、日本中央の覇権を握り得た背景には、驚異的な軍事動員力と兵站(ロジスティクス)の仕組みがあった。彼らの戦術の特異性は、一度の合戦の勝敗に執着せず、「優勢のときは一気に畿内へ攻め上り、劣勢になれば速やかに海を渡って本国・阿波へと退き、平野と山岳の強固な防衛線に拠って体制を立て直したのち、再び電撃的に畿内へ攻め寄せる」という、極めて強靭な「攻防・往還(撤退と反撃)のループ」にあった。
この、大名権力による広域な軍事行動を可能にしたのが、「四宮氏をはじめとする阿波水軍(海賊衆)」の圧倒的な海上輸送力・警固力と、阿波全土に張り巡らされた「修験者十九坊(十九方)」の巨大なインフラ網の完全なる結合であった。
人が集まり、権利が生まれれば、集団を保つ規則(法度)が必要になる。天文二十一年(1552年)の『阿波国念行者法度』は、宗教的戒律を超えた厳格な内部統制規則である。
「此人数何様の儀出来候共注進次第に持飯米に而可打寄事(これの人数、いかようの儀出来候とも、注進次第に持飯米にて打ち寄るべし)」。知らせ(注進)があり次第、各自が弁当(持飯米)を腰に下げて即座に指定の場所へ集結せよ。この法度の跋文に「得國司御意相改候」とある通り、「国司」とは実質的に阿波を支配し畿内へ進出していた三好氏を指す。山道を知り尽くし、農繁期に縛られない彼ら修験者・山伏の機動力は、大名の命令一つで一変する軍事インフラ programmaticそのものであった。
この法度に記録された「十九方(十九坊)」の修験ネットワークは、吉野川流域から鮎喰川流域、さらには那賀川流域、そして渡海の港湾に至るまで、阿波全土の要衝を完璧に網羅していた。
この十九坊の地理的配置を地形図に重ね合わせるとき、三好氏の「東西兵站」と「山岳統治」の動線が鮮やかに浮かび上がる。吉野川上流の池田(大西畑栗寺)を西の起点とし、川を下って勝瑞城の足元(河端大唐国寺、板西南勝房、板西蓮花寺)へ集結し、渡海の港である鳴門(大代至願寺・大谷下之坊)へと至る繋がり。さらに神山の大粟山(大粟阿弥陀寺)から一之宮、矢野へと下る鮎喰川ルート。山間部で動員された兵力と物資が、即座に港へ集結するシステムがここにあった。
そして、この山から下ってきた「移動の奔流」をそのまま引き受け、畿内へと一気に押し流した主役こそが、四宮氏率いる阿波水軍であった。
四宮氏は、渡海の要衝である撫養城や林崎館を本拠(四宮和泉守・加賀守)としつつ、大潟塁、さらに阿波南部の橘、椿、福井といった主要な港湾に一族を配置し、紀淡海峡から海部灘にかけてを広く支配していた。彼らの大船団が、十九坊のインフラによって山から瞬時に動員された膨大な兵力と物資を傷一つなく畿内へピストン輸送し、また劣勢の際には速やかに阿波へ撤退させる、完璧な「海の架け橋」として機能したのである。四宮氏の制海権なくして、三好氏の変幻自在な往還戦術は物理的に不可能であった。
さらに、阿波十九坊の価値は国内に留まらない。彼らは「大峯、伊勢、熊野、愛宕、高越」への「御代参」の特権を握っていた通り、紀伊半島の熊野修験者ネットワークと海を越えて深く結びついていた。
この「阿波修験・熊野修験」の聖なる連携は、戦国期においてそのまま、四宮氏ら水軍の船足を媒介とし、紀州の強力な鉄砲傭兵集団である「雑賀衆(さいかしゅう)」を引き込む軍事同盟へと直結した。三好氏が畿内で激戦を展開する際、十九坊を通じて動員された山の兵力、四宮氏の船団がもたらす完璧な兵站、そして海を越えて呼び込まれる紀州雑賀衆の最先端の火力(鉄砲技術)が、勝瑞城や撫養の港を「黒潮の十字路」として有機的に融合したのである。この山と海、阿波と紀州を跨ぐ巨大な影のインフラこそが、畿内を震撼させた三好政権の真の原動力であった。
阿波の山岳武士の生き様を語る上で、美馬市木屋平に拠った『三木家文書』は決定的な史料である。三木氏は、天皇一世一度の大嘗祭に「麁服(あらたえ)」を調進した歴史を持ち、朝廷の祭祀(忌部氏の伝統)と深く結びついていた。
しかし、彼らを「山奥の祭祀集団」としてのみ見るのは誤りである。三木家文書の軍忠状や宛行状は、彼らが剣山の麓を奔走し、血を流して戦った骨太な「山岳武士」であった現実を告げている。南朝に忠節を尽くした三木太郎兵衛尉に対し、正平十五年(1360年)、出雲守時有から恩賞が宛行われている。
さらに、親父・重村とともに軍功を立てた三木帯刀允(たてのじょう)に対しても、正平二十二年(1367年)に感状と綸旨が下る。
神祇のヴェールを脱ぎ捨て、一族を挙げて戦火に身を投じる山岳武士の姿がそこにある。しかし情勢が北朝幕府(細川氏)へと傾くと、彼らは生存のために冷徹な選択をする。応安六年(1373年)、阿波守護・細川頼有から下された書状が氏それである。
長年の主君であった南朝を捨て、強大な細川氏へと鞍替えすることで、領主としての地歩を確約させる。この泥臭くもしたたかな生存戦略こそが、中世阿波を生き抜いた山岳武士の真骨頂であった。
三木氏と並び、木屋平の谷に拠ったのが小屋平(木屋平)氏である。彼らもまた、ただ山の中にひっそりと暮らす存在ではなく、一族の生存を懸けて戦う強靭な山岳武士であった。南北朝期の暦応四年(1341年)、小屋平九兵衛尉に対し、軍功を賞する証状が下されている。
さらに時代が下り、応安六年(1373年)には、阿波国麻野山(種野山)の地頭職を巡る支配を命じられている。
戦国期に至っても、木屋平刑部丞(ぎょうぶのじょう)や木屋平越前守といった武士たちが、平野部の大名(三好長治や細川真之)からの直接的な軍事指示を受け、川島での合戦などで「比類なき働き」を見せている。室町〜戦国期の書状には、凄まじい戦闘のリアリティが克明に刻まれている。
ここで見逃せないのが、木屋平の地を拠点とした「忌部五雲」の一角、岩雲(いわくも)家の存在である。これこそが、歴史の表舞台から名前を消した「隠れた忌部」の正体であった。彼らは、表立った武力を振るう「山岳武士」の顔を持つと同時に、裏では「修験・神官」として山岳交通路という見えない血脈を支配していた。山岳武士としての武力と、忌部としての聖なるネットワークが、彼らの中で完全に融合していたのである。
明治期、新政府による神道国家化と延喜式内社の再編が進む中で、阿波では式内名神大社「忌部神社」の正統性を巡る前代未聞の熾烈な論争、いわゆる「忌部社比定事件」が勃発した。麻植郡の山崎忌部神社と美馬郡貞光の五所神社などが互いに正統性を主張して血みどろの論戦を展開し、最終的に明治政府が「どちらの主張も退け、徳島市眉山に全く新たな忌部神社を創建する」という強権的な政治決着を図るほどの異常事態であった。
この強烈なアイデンティティの危機と大嘗祭の近代化の波の中で、祭祀の特権を死守しようとした三木家らの古文書(なかんずく麁服調進に関わる契約書や由緒書など)が、近代的な官僚機構と文献史学のメスによって「偽書(あるいは自己正当化のための後世の補筆)」と断じられ、一連の史料群全体に対しても手厳しい疑義が呈されるに至ったのである。
しかし、現代に生きる歴史家たる我々は、これら形式的な疑義を以て彼らの記録を「無価値な偽書」として冷淡に切り捨てるべきではない。否、むしろ「なぜ彼らは歴史の偽装(補筆)や偽書作成に命を懸けねばならなかったのか」という問いを立てるとき、これらは一族の精神的生存戦略を物語る、この上なく生々しい「第一級の精神史史料」へと昇華する。
長宗我部氏の侵攻や近世蜂須賀氏の兵農分離によって「武力(山岳武士の顔)」を完全に奪われた三木氏ら山の民は、一族の誇りそのものである大嘗祭の麁服調進権、すなわち「聖なる特権(修験・神官の顔)」という最後の砦を永劫に死守せねばならなかった。中世から近世、そして近代へと時代が切り替わる激変期、実体としての武力を失った彼らが、文字という名の武器を鍛え直し、由緒を再編(偽作)してまでお上や時代の荒波と渡り合おうとした執念――それこそが、神官であり、修験であり、武士であった彼らの「複数の顔」の、近代における最後の変貌(したたかな抵抗)だったと言えるのである。
阿波の山岳地帯を支配したのは、三木氏や小屋平氏のような在地の土豪だけではない。細川氏の阿波入部に軍監や被官として随従し、関東方面などから入ってきた外来の武士団である千葉氏流の存在もまた、見逃すことのできない重要なピースである。
彼らが単なる農村の指導者ではなく、強固な武力を持った山岳武士であったことを証明する決定的な出来事が、天正十三年(1585年)の蜂須賀家政の阿波入国時に勃発した反乱である。この時、大粟山のみならず、仁宇谷(那賀)の湯浅氏や柏木氏ら、そして美馬の祖谷山で強固な地盤を持っていた菅生氏など、阿波の山間部全域で大規模な蜂起が連動して起こった。後世「百姓一揆」と片付けられがちであるが、その実態は、平安末期から独自の山の世界を形成してきた中世在地豪族(山岳武士)たちによる、新体制への命懸けの抵抗であった。
この「大粟騒動」をはじめとする動乱において、粟飯原源左衛門は、同じく在地勢力でありながら蜂須賀側に立って鎮圧に動いた木屋平(種野山)の松家長大夫や、同じ祖谷山内で激しく抵抗した菅生氏らの勢力を切り崩し蜂須賀の意を受けた喜多六郎三郎らと同様に、在地名主らの反乱に対して蜂須賀側の鎮圧軍として動き、その強大な武力と動員力をもって見事に一揆を収束させた。蜂須賀氏はこの際立った軍功を高く評価し、彼らに神山の上山谷六ヵ村を束ねる「政所(後の庄屋・大庄屋)」という絶大な権限を与え、支配体制の要として組み込んだのである。粟飯原氏は、外来の山岳武士としての武力をテコにして、近世社会における絶対的な在地支配者へと鮮やかに転身を遂げた。
しかし、時代が下り明治維新を迎えると、彼らは驚くべき「史料のすり替え」を行っている。明治十年(1877年)に編纂された『粟飯原家略伝』には、自らの出自を古代から続く粟国造(あわのくにのみやつこ)の末裔であると記し、長宗我部氏の侵攻で所領を没収された後は民間へ下って現在に至るとだけ記されている。そこには、血なまぐさい一揆の鎮圧で大庄屋の地位を勝ち取った武士としての実態も、蜂須賀体制下で権勢を振るった特権的な支配層としての顔も完全に消し去り、過小評価している。
さらに特筆すべきは、暦応四年(1341年)に一宮城主・小笠原氏によって神職と神領を奪われた悲劇を「自らの先祖の出来事」として記述している点である。阿波の在地伝承に照らせば、小笠原氏に神職を追われた当時の旧神官は、阿波の古代豪族である田口氏の末裔であるとされている。外来の武士であるはずの粟飯原氏は、かつて在地に実在した田口氏流の悲劇の歴史を丸ごと自家の由緒として簒奪(仮託)したのである。
なぜ彼らは、これほど大胆な歴史の改変を行わねばならなかったのか。それは、明治政府による神社再編の中で、自らが奉じる上一宮大粟神社こそが式内名神大社「天石門別八倉比賣神社」であるという正当性を死守するためであった。戦国期には一揆を鎮圧する武力で生き抜き、近世には大庄屋(政所)としての統治力で一帯を支配し、近代の危機に際しては在地旧神官の歴史を吸収して聖なる由緒を練り上げる。このなりふり構わぬしたたかさこそが、激動の社会を生き抜いた山岳武士の、もう一つの究極の生存戦略であった。
鳴門の撫養城などを本拠とし、阿波南部の諸港に一族を配した四宮氏は、前述の通り三好家の海上輸送を一手に担った「阿波水軍」の巨頭である。しかし、彼らの本質もまた海だけに留まらない。そもそも四宮氏は、かつて阿波守護として入部した小笠原氏に伴って信州から阿波へ移り住んだ一族であり、元来が険しい山々を駆け抜ける生粋の「信州の山岳武士」であった。
南北朝期、紀伊水道の入口である伊島には小笠原刑部亮、淡路の沼島には小笠原美濃といった海上勢力がおり、彼らは南朝方に尽くした小笠原氏の一族であったとされている。四宮氏はこれら小笠原氏の被官(家臣)として鳴門海峡周辺で通行船から関銭を徴収する実質的な「海賊」として活動しながら、海から山へと繋がる那賀川・木屋平ルートを支配する、極めて「山岳武士」としての色濃い側面を併せ持った存在へと成長していったのである。その象徴が、天正五年(1577年)の「荒田野(あらたの)の戦い」をはじめとする、山間部と平野部の結節点における動向である。戦国期の書状には、大粟(神山)の戦いで軍功を立てた木屋平の山岳武士へ宛てて、驚くべき「命令の伝達経路」が記されている。
海賊としての四宮氏が、なぜ遥か山奥の木屋平氏への命令伝達を担えるのか。地形に照らせば、その経路は明確である。四宮氏が支配する南部港湾(橘・椿・福井)から那賀川下流域、そしてさらに山間部へと入るまさに「首」のような要衝にあたるのが、新開氏の勢力圏である新野・桑野地域であった。四宮氏と新開氏が連携することで、海から川を遡り、険しい山を越えて木屋平へと至る南部的山岳ルート(動線)を完全に掌握していたのだ。
四宮氏が内陸の合戦に関わり、山の領主への媒介となったことは、彼らが単なる「船乗り」ではなく、山間部と平野部・海を結ぶ道筋(山の入口)を武力で押さえる山岳武士としてのアイデンティティを持っていたことを示している。畿内を見据えた海からの大名命令が、四宮氏という媒介を通じて瞬時に山岳武士へと伝わる広域ネットワーク。海と山は、彼らによって地続きに繋がっていた。
阿波水軍を語る上で、四宮氏と双璧をなす撫養・土佐泊の「森氏」の存在も忘れてはならない。彼らもまた純粋な海の民ではない。その遠祖・鎌田(佐田)九郎兵衛は因幡国から阿波へと流れ着き、当初は細川氏に仕えて名東郡西黒田村(内陸部)に三十八貫を領し決断役を務めた武士であった。しかし訴訟問題で失脚して板野郡段関へ蟄居し、やがて土佐泊を拠点として森氏を名乗ることになる。
彼らは、伊島の小笠原刑部亮や沼島の小笠原美濃と共に、鳴門海峡の要衝である撫養城に配され海上勢力の統制(海賊取締り)を担っていた小笠原将監の娘を娶り、四宮氏とも縁戚関係を結んだ。こうして幕府や守護による海賊統制のネットワークに食い込むことで、内陸の土豪から通行船を取り締まる「海賊」、さらには朝鮮出兵で名を馳せる強大な「阿波水軍」へと急速に変貌を遂げたのである。森氏のルーツに漂う「他国からの流入と内陸での挫折」という気配は、阿波の海賊衆が決して海だけで完結せず、常に陸(山)の権力や在地勢力と分かち難く結びついていたことを強く物語っている。
四宮氏と連携した新開氏とは、いかなる一族であったか。彼らは秦氏の流れを汲む阿波南部の有力な国人である。新開元実の代までは阿波守護・細川氏に代々仕える名門であったが、守護・細川持隆が家臣の三好実休に討たれると、実休の娘を室に迎えて三好氏の陣営へと転じた。永禄五年(1562年)に実休に従い和泉国・久米田の戦いへ出陣するも敗走し、以後は剃髪して「道然(どうぜん)」と号した。
新開道然はその後も阿波三好氏の有力な配下として、居城である牛岐城を拠点としつつ、新野・桑野一帯を強固な地盤として勢力を拡大し、阿波国南方の防衛の要となった。やがて土佐の長宗我部元親が侵攻を開始すると、その勢力下に入った東条氏と激しく対立し、頑強な抵抗を見せる。しかし天正七年(1579年)、香宗我部親泰の軍勢に敗退し、翌天正八年(1580年)にはついに牛岐城を明け渡し、長宗我部氏の軍門に降ることとなった。
降伏後も三好氏と密かに連絡を取っていたとされる道然だが、天正十年(1582年)八月の中富川の戦いでは一宮成相らと共に土佐勢として参戦し、勝利に貢献している。しかし、その強大な影響力と内通を疑った元親によって、彼の運命は無残な結末を迎える。同年九月十六日、論功行賞の相談と称して阿波の丈六寺に呼び出された道然は、酒宴で酔ったところを刺客に襲われ、配下の者たち諸共に暗殺されたのである(※土佐側の記録では元親の命による切腹とされる)。
この悲惨な最期は、新開道然一人に留まるものではない。彼と共に中富川の戦いで土佐勢として戦った阿波の有力国人・一宮成助(成相)もまた、わずか二ヶ月後の同年十一月、元親によって夷山(夷山城)へと呼び出され、騙し討ちにあって命を落としている。一宮成助は、平野部の一宮城主であると同時に、四国霊場としても知られる険しい山奥の「焼山寺(しょうさんじ)」を奥城(詰の城)として強固な軍事拠点に持つ、まさに典型的な山岳武士でもあった。丈六寺での新開道然の暗殺と、夷山での一宮成助の謀殺。海と川の結節点を握る新開氏や、山岳地帯の奥深くに独自の拠点とネットワークを持つ一宮氏といった阿波の在地勢力は、土佐衆による強権的な直接支配を基本方針とする長宗我部氏にとって、利用価値がなくなれば直ちに排除すべき危険な存在とみなされていたのである。
畿内を席巻するほどの強靭な「修験・山岳武士ネットワーク」を誇った阿波であったが、その運命は三好氏内部の権力闘争と長宗我部氏の侵攻によって無残に引き裂かれていく。天文二十二年(1553年)、三好義賢による主君・細川持隆の暗殺。これに憤激した在地領主たちが蜂起した「鑓場の戦い」では、芝原城主の久米義広(久米氏)だけではなく、英城の城主(仁木高将)や蔵本城主(小倉重信)、さらには佐野須賀城主(佐野平明)や野田山城主(野田内蔵助)などの古くからの在地豪族がことごとく討ち死にし、全滅させられた。この久米の乱には山を超えた佐那河内の豪族も参加しており、細川の力は此処まで及んでいた。
その代表格である野田内蔵助は、上八万の野田山城(寺山城)の城主であると同時に、尾根を越えた佐那河内村の佐那河内城(石峯城)をも支配下に置いていた。彼がこれら二つの城を兼ねていた事実は、本稿のテーマにおいて極めて重要な意味を持つ。この両地域の深いつながりは、決して軍事面だけにとどまらない。寺山のすぐ近く、上八万町広田に鎮座する「朝宮神社」と、尾根を越えた佐那河内村上宮前の「朝宮神社」は、古記録において勧請(神霊の遷座)の歴史を共有しており、海人族(安曇氏など)の足跡を残す式内社・宅宮神社(意富門麻比賣神社)を巻き込んだ強固な祭祀ネットワークで結ばれている。驚くべきことに、佐那河内の朝宮神社は明応元年(1492年)、他でもない領主・野田氏自身の手によって現在の地へ遷座されたものであり、その鎮座地(上宮前)は野田氏の拠点である佐那河内城とまさに一体(あるいは城の足元)であった。神様が行き来するほどの密接な宗教的血脈が存在したからこそ、野田氏ら佐那河内の豪族たちは、山の奥(佐那河内)から園瀬川を下り、上八万の大木(かつて王城があったと伝わる地)を経て津田の海へ出るルートを「一つの領国」のように支配できたのである。畿内へと直結する渡海の最短コースであり、戦国期には一宮城からも盛んに利用されたこの軍事・交通の大動脈を、彼らは武力(城)と祭祀(神社)の両輪で完全に掌握し、山の物資と兵力を一気に海(津田湊)へと押し流すネットワークの要衝を握る立派な「山岳武士」として君臨していたのだ。その野田内蔵助は天文二十二年、主君細川持隆の仇を報ぜんと名東郡北井上村黒田の槍場で三好実休の大軍と戦い、目覚ましい働きの後戦死した豪勇無比の士である。
さらに時代が下り、長宗我部元親の侵攻に伴う天正七年(1579年)の「脇城外の戦い」でも、矢野駿河守(矢野国村)をはじめ、森氏(森高次など)、川島城主(川島惟忠)、井上城主(土肥紀伊守)といった阿波の山間部と平野部を繋いだ有力な山岳武士たちが騙し討ちや激戦の果てに次々と命を落とした。こうした戦乱を通じて、阿波の戦国時代に活躍した名だたる武将たちはことごとく死んでしまったのである。長宗我部元親からの書状にも、その激戦の跡が残る。
海の覇者であった四宮一族も、天正五年の撫養館の戦いや天正十年の大潟城・中富川の戦いを経て、多くが討死し、あるいは播磨の龍野へと逃れるなどして散り散りになっていった。
物理的な「武力」による統治が限界を迎えたこの瞬間、かつて阿波を席巻した武士としての彼らは、表舞台から完全に消滅したかに見えた。だが、それは表面的な錯覚に過ぎなかった。
彼らは恐るべき戦略転換(潜行)を図る。近世の幕開けとともに刀を奪われた彼らは、本講義の冒頭で紹介したあの「棚保大権現の勧進帳(天和三年)」が示す通り、表立った武力から「忌部五雲(早雲・村雲・岩雲·花雲・飛雲)」という神官・修験者のネットワークへと活動の重心を完全に移したのである。雨乞いや神社造営という「信仰」を隠れ蓑にして、人を集め、山のインフラを握り続けることで、したたかに江戸時代を生き延びたのだ。
しかし、武力を手放し「由緒と祭祀」を生命線としたことで、彼らは新たな争いの渦に呑み込まれる。それが江戸時代を通じて繰り広げられた「忌部公事(いんべくじ)」である。延喜式内社「忌部神社」の正統な本社はどこかを巡り、川田(種穂忌部神社/早雲家)、山崎(山崎忌部神社/村雲家)、貞光(御所神社)の村々が、古文書や伝承を武器に互いの由緒を否定し合う凄惨な争いを繰り広げた。武力闘争から一転、身内同族による血みどろの法廷闘争(正統性争い)へと変貌を遂げたのである。
さらに時代が下り明治を迎えると、新政府による国家神道の波と延喜式内社の再編の中で、この因縁は「忌部社比定事件」(最終的にどの主張も退けられ、徳島市眉山に全く新たな忌部神社が創建された事件)という近代の過酷な試練へと繋がっていく。
このように江戸期の忌部公事から明治の社名比定に至るまで、正統性を巡る激しい精神的生存戦略が続く中、山の民が命懸けで守り抜こうとしたもう一つの聖なる特権があった。それこそが、木屋平の三木家が担う、天皇一世一度の大嘗祭における「麁服(あらたえ)調進」である。近代化の波の中で数々の由緒が否定される危機を乗り越え、彼らがその底力を天下に示し、一族の悲願を達成したのが、大正期における大嘗祭での麁服調進の復活であった。この巨大な国家的プロジェクトを成し遂げた背景には、数百年もの間、山に潜伏しながら保ち続けた強固な共同体の力が不可欠であった。大正十二年の木屋平村の公文書(不均一夫役許可申請)の理由書には、今なおその「旧慣」の恐るべき動員力が息づいている。
これを発議した大正期の木屋平村長・天田信一もまた、大嘗祭の麁服調進を成功させた忌部一族の末裔(旧庄屋家)であった。剣山系の高地性傾斜地集落(ソラの世界)を起点とし、山岳交通路という見えない血脈、列島最高峰の神事すら動かす「旧慣(共同体の強力な動員力)」を通じて、彼らは祭祀と祈りのネットワークとして生き残る道を選んだのである。これこそが、激動の中世から近代という荒波を生き抜いた「影の一族」の真骨頂であった。
なお、上八万の寺山(金剛光寺跡)から大川原高原(王ヶ原)、そして上八万の大木(王城)へと連なる伝承と、野田内蔵助のような在地豪族の実際の支配領域の重なりについては、また別の機会に「阿波の古代地名伝承と在地豪族の勢力圏」といった独立したテーマでじっくり考察したい。
「直銭壹貫五百文」という修験の売買証文。「持飯米に而可打寄」という十九坊の法度。「詳細は新開掃部助と四宮与兵衛尉から申し伝える」という山への命令書。そして、剣山のソラから阿波全土へ網を張った「忌部五雲」の名残り。
これら、激しい戦火をくぐり抜けて奇跡的に残されたわずかな言葉を「修験者と山岳武士、そして神官の重層性」という筋道で読み解くとき、城主の名と合戦の勝敗だけでは決して描けない、血の通った歴史が立ち上がる。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐を経て蜂須賀氏が阿波へ入部した。仁宇谷の湯浅氏や柏木氏、そして大粟山の武士たち、祖谷山の菅生氏ら山岳武士たちは広域に連動してこれに激しく抗ったが、蜂須賀側の鎮圧軍として動いた山田宗重や、いち早く寝返って体制側に回った在地勢力(粟飯原氏、松家氏、喜多氏など)の武力と権謀の前に各個撃破されていった。
長宗我部の一族が阿波から完全に排除された後も、阿波の山々に平穏が戻ったわけではなかった。新体制下で水軍の将として重用された森氏のような勝者もいた一方で、かつて阿波の戦乱を裏から動かした山岳武士の強靭なネットワークは、強力な中央集権体制と兵農分離、近世的な寺社統制が進められる中で、由緒ある史跡や膨大な古文書とともに、悲しいまでに破壊され、消滅していったのである。
中世阿波の血脈を証明する文化遺産が灰燼に帰したこの徹底的な喪失は、阿波の歴史を探求する者としては、時代とはいえ憎んでも憎みきれない痛恨の極みである。だが、だからこそ我々は、奇跡的に焼け残った断片をかき集め、見えない「影のネットワーク」を復元しなければならない。近世の幕が開く直前まで、阿波の険しい山々には、古代忌部の血脈を底流に持ち、山岳武士・修験者・神官の複数の顔を使い分けながらダイナミックに生きた「雲の一族」が、確かに存在していたのである。