阿波歴史資料

貞光町史と阿波忌部

昭和40年(1965)編纂の記録から読み解く、阿波忌部氏の歴史的実像と
町を二分した忌部神社所在地論争(端山説・山崎説)の全貌

【特別史料解説】『貞光町史』から読み解く「忌部」の郷土認識と歴史的意義

本書は単なる郷土の記録にとどまらず、古代阿波の黎明を担った「忌部氏」に対する地域住民の熱烈な信仰心と、そのルーツを希求する「愛郷心」を鮮明に映し出す第一級の精神史料です。以下の史料本文からは、主に3つの歴史的意義が読み取れます。

1. 神官としての「忌部」と信仰の連綿

大和朝廷との直接的な血統関係については津田左右吉の学説などを引きつつ客観的かつ批判的に論じていますが、その一方で、紀元7世紀以前から忌部という「最高の神官」が阿波に存在し、祖先たちが誇りを持って奉仕してきた事実は疑いようのないものとして捉えています。吉良の御所など端山地区に色濃く残る伝説は、忌部氏を神の分身として尊信してきた地域の誇りそのものです。

2. 「端山説」対「麻植郡説」― 終わらぬアイデンティティの探求

江戸時代の「忌部公事」から明治の国幣中社指定をめぐる激しい論争に至るまで、忌部神社の所在地問題(美馬郡貞光谷か、麻植郡山崎か)は、町にとって妥協できないテーマでした。編纂委員会は、これを日本史の大きな流れの中では局地的な問題としつつも、「自分の郷土を誇りあるものとしたいという先人の愛郷心のあらわれ」として極めて高く評価しています。

3. 解決なき永遠の宿題

明治18年に徳島市富田浦へ社地が新設された後も、昭和10年に貞光町長らが社地の奉還を請願している事実を収録し、「住民としては全く解決したとは思っていない」と結んでいます。この記録は、古代史の謎解きであると同時に、阿波の人々がいかに「忌部」という存在を自らのルーツとして渇望し続けてきたかを物語る、非常に訴求力のあるテキストと言えます。

史料原文(『貞光町史』 1965年 より抜粋)

〔古代前期〔大宝令(七〇一)以前〕 第二章〕

第一節 忌部氏とはどんな歴史上の人物か

ここではっきりしておきたいことは、この頃の社会は神―――神人―――氏子という信仰が生きて行われていた時代であるということである。忌部という氏は、そういう神をまつる家柄であった。

その最高の神官は忌部氏の他にも日本国内に大小幾百、小国家ごとにあった。そして自らは神――祖神に奉仕しつつその氏人から尊信せられた。氏人はその神官を神の分身として奉仕する―――そういう組み立てが氏族制度というのである。弥生式時代の末期に出来たと思われる。こういう小国家(クニ)の王(最高の神官)たちは、大和朝廷の勢力が伸びてくるにつけて、国ゆずりをしてその支配をうけるようになったが、その氏の内部での組立てはもとの通りで、血族を中心とした氏の上(かみ)が一族の首長となり、その下に氏人や氏の私有民が奉仕しているわけである。

忌部氏
徳島県は神武天皇のころから忌部氏によって開拓せられたものと信ぜられていた。この根拠は大同二年(八〇七)に斎部広成があらわした古語拾遺の文章である。

古語拾遺の中に
「天日鷲命の孫(すえ)は木綿(ゆう)及麻(あさ)及織布(あらたへ)を造る。仍(か)れ天富命をして、日鷲命の孫を率て、肥饒地を求ぎて、阿波国に遣して、穀・麻の種を植えしめき。其裔今彼の国にあり。」(下略)

津田左右吉博士は「古語拾遺の研究」で次の様な解釈を下している。
「忌部は朝廷の神事に与るものの特殊の称呼である。地方において忌部と称せられたものはこの忌部の部下であった。阿波の忌部も朝廷の神事に与かった忌部氏のために織物や木材などを奉ったものである。朝廷の忌部氏とは血統関係はない。したがって同族ではない。」

右の解釈は左の三つの事を考えさせる。
一、朝廷において特殊の地位(職掌)を有する氏は、地方においてその氏に附属する部曲を有すること。
二、それは主家と同じ職業ではなかったこと。
三、それは主家と同じ血族ではなかったこと。

この説が正しいとすれば、従来阿波の忌部氏が大和朝廷の直属の臣下であると伝えられていることに疑が生じる。ただ朝廷に直属する忌部氏の部曲の民として自分の主家に重みをつけることによって自家を尊大にみせようと期したようである。〔※混入: 第二章古代前期〕

しかし、大和朝廷からみれば直系でも派遣でもないかもしれぬが、忌部という最高の神官が紀元七世紀以前に往古阿波にあり、我々の祖先はその忌部氏を天日鷲命の子孫であると信じ、むしろ誇りをもってその神官にすなおに奉仕していたことは考えられる。

忌部氏はいまの麻植郡、美馬郡の南岸一帯を神域としていた。我々の祖先は武力によって服従さされるという風な考え方でなく、神に奉仕する信仰によってこの忌部氏に奉仕した。
ただ、一寸気になることは、もし最高の神官忌部氏が古語拾遺の伝える如き権威をもっていたとすれば麻植、美馬の地域にも北岸美馬町のに匹敵する位の大古墳が発見せられていいはずである。これは将来への宿題である。

第二節 忌部神社の位置の問題について

阿波の忌部氏が大和朝廷直系の血族でなく、更に大和朝廷に隷属した最高級の豪族ではなかったにしろ、忌部という名の氏人が奈良朝以前に阿波を開拓したことは認めねばならない。さてその根拠地がどこであったかという問題が有名な忌部神社の位置問題である。

貞光谷には端山において忌部神社あり、また忌部氏に関する伝説がはなはだ多い。それで端山が忌部氏の根拠地であるといわれているのである。
ところが阿波忌部氏に関して記述されている文献はわずかに前記(五五頁)の古語拾遺の文章だけである。
これによると忌部氏の根拠地は当時麻殖と称せられていた郡にあったことになる。であるから麻植郡の境域が古来変っていないとすれば問題はないのであるが、中古麻植郡の一部を美馬郡に編入しているという学説があるのでそこに忌部氏の位置問題が生れるのである。

そこで忌部神社は一体どこにあったかということが問題をきめるかぎとなった。
従来の学説は二派に分かれている。一は麻植郡説で忌部郷は麻植郡山川町の山崎の地である。山崎には忌部山という山があり、天日鷲神社があるとなす説。一つはわが端山説で、当時の忌部郷は今の貞光を中心とし東は穴吹、南は一宇、西は半田、北は吉野川を境とする一円の土地であるとするのである。〔※混入: 第二編通 一美馬郡脱 史〕

一 美馬郡説

美馬郡説をとっている学者

美馬郡説の理由
(11) 阿波国忌部伝説 古代史料 (1) 忌部神社正蹟考
美馬郡貞光町端山に忌部神社と称する神社がある。その附近忌部氏に関する伝説がすこぶる多い。

〔※混入: 第2 図忌部神馬〕

忌部神社正蹟補考古代史料 2
忌部神社は最初友内山上にありたるならんと言う。けだし友内山上、西森・東森・日名祈の岩屋等忌部に関する遺跡伝説多きを以てなり(云々)

(12) 貞光村村田国蔵所蔵の一棟札がある。古代史料 33
長さ五尺七寸(一・七m)横巾四寸五分(一四㎝)に図の如き文字あり。(細矢氏原写)
この棟札「天日鷲命四国一宮」とあるので、真の式内忌部神社であるとする。
また、裏面の地名、ケカ・長瀬・平は何れも現に端山にある。これでこの棟札は端山忌部神社のものである。これは同社が天正(一五七三) 兵乱の為やかれたので永禄四年(一五六一) 再建したときつくられたものであると一般にいわれているが、年代が前後するので長曽我部元親でなく、天文年間(一五三二)に三好山城守康長のためにやかれて再建したときのであろう。

延喜式神名帳にある忌部神社、和名抄にある忌部郷、いずれも麻植郡とある。これをもって直ちに現在の麻植郡の地を考えるのは早計である。
重清村板東勘吉所蔵三好康長の感状に
「今度内山合戦之初、尽軍功、攻落持光之本城、歴々討取、残党悉令降参、彼地平定相成、無比類、手柄感覚候、依之於八田重滑而庄弐拾貫領地指道、且又麻殖領一円、己後為美馬郡内、所預置相違無之候間、依之於八田山古城跡へ砦を構へ、引移、諸事押役、無油断可相勤者也、依て感状如件
天文二十一年 康長花押
藤兵右衛門殿」
八田は半田である。藤兵右衛門というのは藤原友清で、子孫が重清村に居住している。
持光は麻殖系図によると麻殖因幡守と称して世々忌部大宮司を職とし、内山の城により、天文二二年(一五五二) 三好豊前守義賢に攻められ、内山城おちいり、麻殖内山の神社ことごとく焼き払われたという。
そこで、これによって所謂麻殖領一円というのは穴吹以西半田町にいたるの地で、本社所在の境であることがわかる。
また、貞光町に麻殖定光の墓がいまなおまつられている。
これでこの古文書によって麻植郡忌部郷が美馬郡に入っていたことがあきらかである。

古代史料 10) 祖志に (原漢文)
「定光村は吉良の正北一里にあり。もと麻殖庄という。麻殖氏記に称す。寛元四年(一二四六)三月大西小笠原氏、阿波国村里の名称を改め、悉く国主の姓名一字をもって号と為す。因って美馬里を改めて郡里となし、大村を重清、宗重二村となし、忌部神社有るところの山里を貞光荘となす」云々

阿波麻植忌部郷考
抑、今、山崎村忌部神社のどとき、三木氏所蔵古文書と称するものに「山崎の市を定む」とあるにより、以て忌部社地の旧趾なりと定むれども、其古書を一見せしに贋造に出でて取るに足らず。且つ地勢を以て之を見るも、その西、瀬詰村以南の射立郷たる、其東、西麻殖村以東の呉島郷たる、その中間の川島郷たる、今その地名を存すれば、また疑をいれず。すなはち、 僅々(きんきん)山崎一村の地をもって忌部郷にあつ。たまたま忌部山の名ありといへども、瀬詰村に属し、且つ其地狭隘、古、大社の遺址にして、多少の神戸別当等の居をいるるに足らず、又麻殖氏割拠の地を証するあたわず。はた旧俗を以て之を推すも、山崎村東西並びに隣の地、学村、瀬詰等旧××の輩住する者多と云。豈神官潔済の場、××不浄の徒と混居するあらんや。但蜂須賀氏の封を阿波に受くる、三好、長曽我部氏割拠の遺を受け、土地租税皆其の旧による。故に古昔大社の地と雖も、一旦堙没(いんぼつ)に帰すれば、従ってその有を私するは亦怪むに足らざるなり。しかるに朝廷幕府より之を捜索するに及び、式内大社たるを以て、再び崇敬を表し、或は神領を復するのおそれなき能はず。ここに於て其跡の湮(いん)し、復た考索し難きを欲し、一切忌部社及び麻殖氏の事に係り隠蔽して之を記せず」云々(一部書き改む)

〔※混入: 第二章原始時代 ZBOOK〕

(6) 美馬郡内であるが貞光谷でなく穴吹谷であるとする説
忌部神社旧記古代史料77
忌部郷 穴吹山左右奥深く宮内榛原木屋平迄一円なり。今穴吹山と貞光山との境に忌部山という高山あり。此左右、古日鷲命数多の忌部を率いて荒妙の衣を織らせ給ふ古風あり。此を忌部古社といふ。絹織岩屋、機織岩屋、苧取石(おとりいし)、苧尻(おじり)、苧晒(おざらし)なむと種々古績あり。予(岩雲花香)按んずるに宮内山上に神代古跡とて名代の作り岩屋あり。これも忌部の神の旧跡ならん。又此処の百姓の由緒を尋ぬるに皆神孫にして中頃忌部社の盛なる時、神主、神子、楽人等の後胤なり。今村雲氏といふ神主あり。是忌部神社の長官なりとぞ。「其系図天村雲命より系統たえず」
このは忌部郷美馬郡説の内の更に小さい争点である。

二 麻植郡説

麻植郡説の主なる学者とその著述

  1. 山崎村忌部神社考 野口年長
  2. 阿波式内社考 長谷川貞彦文
  3. 阿波国式内社略考 永井 五十鈴麻呂文
  4. 阿波志麻郡 藤原
  5. 大日本地名辞書 吉田東伍 明治四十年

麻植郡説の中にも諸説があるが、有力なのは山崎村忌部神社であり、右の1、4、5はその説である。
山崎村に忌部山々と称する山がある。麓に『天日鷲神社」あり。この社の一名は忌部神社である。元は五六〇間上方の『黒岩」という所にあったが、宝永年中(一説に応水) 地震の為に崩壊したので今のところへうつしたという。旧社地の東に『日鷲谷」という谷がある。
天日鷲神社を中心として横谷・白山・南久保・北久保の四ヶ所に大きな立石がある。立石の間隔東西一一町(一、二〇〇m) 南北七町(七〜八○○m)である。宝亀年中(七七〇) 太政官府に「大社四位限九町」 とある。この立石はその式内社四至の境石である。

3) 応仁武鑑に「細川右馬頭持賢居城阿波麻植郡、城山は京都より五十一里、所領阿波忌部庄三百町、讃岐小豆島二百五十町、塩飽島、摂津中島七百町、和泉早和田千二百町合二千四百五十丁」とある。今山崎村に城の池という池あり。其上の種野山に『城山あり。一に城が丸々という。この地が細川氏の居城にあたるであろうから『忌郎荘もこの附近を中心としたものである。

4) 麻植郡山分の地は始『麻殖山々と総称し、嘉暦(一三二六) 頃から正平(一三四六)頃には種野山といった。今の『木屋平村三ツ木々の地も『麻殖山々の内である。同地の"三木氏”は"忌部宿禰の後裔と称し、忌部氏の荒妙貢進に関する古文書数通をもっている。これで忌部郷が現在の麻植郡内にあったことがわかる。
川田村神主早雲家は忌部の後裔と称し忌部系図」をもっている。また天日鷲神社旧神主であった“村雲家に当国郷名神名等を記せる巻物をもっている。これをみると忌郎神社の摂社入あり。内志良夜末比売社、宮本羅久毛社、岩戸社の四社は今山崎村の中にある。その他の三社も同村中にあるともいわれる。

(6) 大日本地名辞書に
「忌部郷は今山瀬村の大字山崎及学局などの地とす。忌部山あり。麻神此に鎮座す。中世以降忌部荘の名起る。美馬郡南岸の地方を籠絡し上下両郡に誇有したり。応仁武置に「細川右馬持個阿波忌郎三百町」などある急なり。古郷と其分界を異にすと」
また、忌部神社については
「按ずるに畑山、一字、貞光の諸村は中世忌部の属邑にして処々に忌部氏の故跡を伝ふ。幡山村吉良名の忌部祠の如き其の著大なるものとす。しかれども延喜式、和名抄の忌部は此を指せるに非ず、貞光村民所蔵の棟札(中略)とありて其の「平、ケカ、長瀬は皆貞光村の地名を存すといふも亦中世忌部社の時の事経たるのみ」

第三節 江戸時代にあった忌部公事

(1) 元文年中、(一七三六〜四〇)麻植郡山崎村の神主村雲氏と、貞光村の神主との間に忌部神社の位置について争議が起った。
これは当時日本中に国学が勃興し、神社の祭神について庶民が再認識をするようになった時勢のあらわれである。
その時川田村種穂神社の神主中川某が藩士の長谷川某の知遇をえていたのを幸いに、山崎、貞光の両方ともを非として川田の種穂山に奉祀しているのが本当の忌部神社であると公式に認めさせた。これが有名な「忌部公事」である。

(2) 宝暦年中(一七五一〜六四) 貞光村の忌部神社の神主村雲左近が忌部神社の本宮は貞光であるとする確証となるべき神宝をもって再びこの問題をもち出した。ところが藩はこれに対して、ひそかに信仰してもよろしいが正式には公認しないと設定した。
それで本宮を造営し、鳥居に弘仁五年(八一四)中、空海執筆の額をかけたところ近国は勿論遠国までも尊敬一方ならず、多勢の参拝者が貞光へ入りこんで来た。それで藩は村雲神主と子の伊織を逮捕して 「かねてひそかに信仰致すべき旨申聞けおき候処神宝を飾り判然と忌部の名義をあらはし候儀不行届之段」申渡された。
そして入獄の上阿淡両国を父子共追放され、忌部正統の証拠となるべき品々を没収され、問題の額面は打ちくだいて吉野川の川原でやきすてた。
その時の神宝は

宝暦四年(一七五四)甲戌十一月 宮内伊織広重の書きし文章中抜書

第四節 明治時代の忌部神社問題とその解決

明治(一八六八ー)になって皇室を国民の総本家とする思想がすべて国家経営の中心となると、忌部神社についての権威もまた新味をおびた。そしてふたたび忌部神社位置争奪戦がはじまった。
この事については左の文献によることが便利である。

一 明治一四年一月二二日 土曜日 朝野新聞(第二千二百三号)
六年以前ヨリ紛争アリシ国幣中社阿波国忌部神社へ其ノ昔忌都郷三里四方へ其神領ニテアリン程ノ大社ナリレモ、天正年間長曽我部元親ノ為二兵火二曜リジ後、再建ノ沙汰モナク旧政府ノ時代屡々取調モ有シカド、領主ニオイテ唯曖昧ノ答ヲナン歳月ヲ忌過キシヲ新ノ後敬神愛国ノ道ヲンゼラレ、該社モ調査アリン折柄同国山崎村ョリ日吉谷山上二奉祀スル天日鷲命ノ社地二忌部神社遺営ノ儀ヲ出願セジニ付、早速教部省ニテ調査アリン処、不分明ノ廉アルニヨリ採用ニナラズ。又同村へ新タニ一天日鷲忌部神社造営ノ儀ヲ出願セジニ是同ジク許可アラザリシ故、山師共ガ一策ヲ設ケ正慶元年ノ古文書ヲ偽造シ、天日鷲命ノ後裔忌部神社ノ御衣御殿人ノ家筋ナル三ツ木村ノ三木貞太郎トイエル者ニ依頼シテ其家ニ伝フルモノナリト称シ、又山崎村日吉谷山上稍凹形ナル地へ往昔忌部神社旧跡ナリト取繕と其筋へ申立、去ル明治七年(一八七四)同村へ該社ヲ造営スル事トハナリタリ。
然ルニ其後往古ノ麻植郡(後世沿革ニョリテ今ハ美馬郡トナレリ) 忌部郷吉良名御所平ヨリ同処へ忌部神社ノ旧跡ナリトノ証拠物数ヲ以テ本社再建ノ事ヲ其筋へ出願セリ。其証拠へ同地ヨリ掲出シタル数多ノ神宝忌部郷中ナル末社児宮二在ル壽永二年再建ノ棟札、従五位下忌部大宮司麻殖兵部大輔自筆明応五年再建ノ棟札(麻植ヲ宇恵ト書ス。麻宇恵ノ義ニシテ古へ此字用ヒンヨシ)永正六年(一五〇九)五社明神社再建ノ棟札(大願主忌部友定)、天文二年(一五三三)八月白人宮再建ノ棟札(忌部秀清ノ名アリ)、応永四年(一三九七)忌部殿御代官沙弥慈光トアル白人神社神代盆ノ蓋、就中確証トスペキハ永禄二年(一五五九)忌部神社再建ノ棟札ニテ、上棟天日鷲命四国一宮四国無為忌部神主本願兵太夫惣称宜トアリ。又旧神領忌部郷、吉良名、御所平ノ隣村ナル平、ケカ、長瀬三ツ村ノ名ヲ記載セリ。山師共へ此棟札二補筆アリナド種々言触ラセシヲ、去ル明治十三年(一八八 )十一月古筆了仲、了悦ノ両氏コレヲ鑑定シテ真物トナシテ「永禄四年再建棟札右遂彐鑑定候処真跡無疑補筆等文字無之候仍証之」トイブ極書ヲ付シ、又貞太郎ノ家ニ伝へシト申立テン右ノ古文書へ、了仲氏鑑定シテ古紙ヲ以テ偽造セシモノニ相連無之ト云極書ヲ附シタリ。其上貞太郎ハ元山師等二カサレ心ナラズモ承諾セン事ナレバ其露顕二及バン事ヲ恐レ管轄職二自首をナシヨリ真偽始メテ判然トナリ、且ハ御所平ノ往古ノ忌部郷ナルコトハ去ル明治十一年(一八七八)此地誌課二於テモ調済ニナリ居ル由ニテ、此度其筋ニテ夫々調査ノ上弥々同処ヲ以テ国幣中社天日鷲命忌部本社造営ノ地ト定メラレタリ。三百余年廃絶セシ旧社ノ再と建設ノ時至リシハ偏二明治聖代ノ徳沢ニティトメデタキ事ニコソ。

【現代語訳】
6年前から紛争(本社争い)があった国幣中社 阿波国 忌部神社は、その昔、忌部郷3里四方がすべて神領であったほどの大きな神社でした。しかし、天正年間に長宗我部元親による兵火で焼失して以来、再建の動きもなく、江戸幕府(旧政府)の時代にも度々調査はありましたが、領主はただ曖昧な返答をするばかりで歳月が過ぎていきました。

明治維新後、神を敬い国を愛する道(敬神愛国)が重んじられるようになり、この神社についても調査が行われることになりました。その折、同国(阿波国)山崎村から、日吉谷の山上にお祀りしている天日鷲命(あめのひわしのみこと)の神社の敷地へ「忌部神社の跡地として造営したい」との出願がありました。早速、教部省で調査したところ、不明確な点があったため不採用となりました。さらに同村は、新たに「天日鷲忌部神社」を造営したいと出願しましたが、これも同様に許可されませんでした。

そのため、山師(詐欺師や投機家)たちが一計を案じ、正慶元年(1332年)の古文書を偽造しました。そして、天日鷲命の末裔であり、忌部神社の御衣御殿人(みそみあらかんど)の家筋である三ツ木村の「三木貞太郎」という者に依頼し、「その家に伝わっているものだ」と偽称させました。また、山崎村日吉谷山上の少し窪んだ土地を「昔の忌部神社の旧跡である」と取り繕って役所へ申し立てた結果、去る明治7年(1874年)、同村へこの神社を造営することになってしまったのです。

ところがその後、かつての麻植郡(後世の変遷により現在は美馬郡となっています)忌部郷吉良名御所平の地域から、「自分たちの場所こそが忌部神社の旧跡である」という数々の証拠物をもって、本社再建の出願が役所になされました。その証拠として同地から提示されたのは、忌部郷内にある末社・児宮にある寿永2年(1183年)再建の棟札をはじめ、従五位下忌部大宮司麻殖兵部大輔の自筆による明応5年(1496年)再建の棟札(※原文注:麻植を「宇恵」と書いており、麻宇恵の意味で古くはこの字を用いたとのこと)、永正6年(1509年)の五社明神社再建の棟札(大願主 忌部友定)、天文2年(1533年)8月の白人宮再建の棟札(忌部秀清の名がある)、応永4年(1397年)の「忌部殿御代官 沙弥慈光」と記された白人神社神代盆の蓋など、数多くの神宝でした。

中でも確たる証拠とすべきは、永禄2年(1559年)の忌部神社再建の棟札で、そこには「上棟 天日鷲命 四国一宮 四国無為 忌部神主 本願兵太夫 惣禰宜」とありました。また、旧神領である忌部郷、吉良名、御所平の隣村である、平、ケカ、長瀬の三つの村名が記載されていました。山師たちは「この棟札には後から書き加えられた筆跡(補筆)がある」などと様々に言いふらしていましたが、去る明治13年(1880年)11月、古筆鑑定家の了仲、了悦の両氏がこれを鑑定し、本物であると判定しました。「永禄4年の再建棟札(※史料原文ママ。前段の永禄2年と記述が異なります)は、鑑定の結果、間違いなく真筆であり、後から書き加えられた文字などはない。よってこれを証明する」という極め書き(鑑定書)を付けました。また、貞太郎の家に伝わったと申し立てていた先の古文書については、了仲氏が鑑定した結果、「古い紙を使って偽造したものであることに間違いない」という鑑定書が付けられました。

その上、貞太郎は、元々は山師たちにそそのかされ、心ならずも承諾したことであったため、それが露見することを恐れて管轄の役所へ自首したことで、初めて真偽がはっきりとしました。かつ、御所平が昔の忌部郷であることは、去る明治11年(1878年)に地誌課においても調査済みであったとのことでした。この度、役所においてそれぞれの調査が行われた結果、いよいよ同所(御所平)が「国幣中社 天日鷲命忌部本社」の造営地として定められました。300余年も途絶えていた古い神社が再び建設される時が来たのは、ひとえに明治という聖代の豊かな恩恵によるものであり、大変おめでたいことです。

二 御祭文
天皇刀大命爾堅世掛巻母恐交
忌部神社乃大前爾德島県令酒井明代理徳島県少書記官正七位上島明政乎使止為弖白給波久止白左久此所爾新宮造泰利員派志鎮米泰良日有テ此御殿乃内不仕奉良志米給布事乎開食弖天皇乃朝庭乎始弖仕奉留百宮人等四方乃公民商至留万デ爾伊加志夜具波延乃如久立栄志米給傍止白給布 天皇乃大命平開食世止恐美恐美母白須
明治十四年十月十九日

【現代語訳】
天皇の畏れ多い大命(勅命)を、謹んで申し上げます。
忌部神社の大前(神前)に、徳島県令・酒井明の代理として、徳島県少書記官・正七位上の島(上島)明政を使いとして遣わし、次のように申し上げます。

この所に新宮を造営し、深くお鎮まりいただき、この御殿の内に仕え奉らせていただくことを聞き召されて(お聞き受けいただき)、天皇の朝廷をはじめとして仕える百官の人々から、四方の公民に至るまで、草木が青々と茂り栄えるように大いに繁栄させてくださいますようお願い申し上げます。
天皇の大命を、どうかお聞き届けくださいと、畏れ多くも申し上げます。
明治14年10月19日

このような次第で軍配はわが端山忌部神社に上がり、新官がつくられ知事酒井明は代理官を派遣して鎮魂の儀を行った。ところが山崎の方でもだまっておらずいろいろ陳情したので、当局ももてあまして明治一八年(一八八五)一一月二一日太政大臣三条実美はついに徳島市富田浦の現在の社地を新に設定して喧嘩両成敗とし、五所神社はもとのままにおくことにした。

三 太甲第一六九号 古代史料 忌部神社
今般別紙ノ通り御達二相成候条此段相連侯事
明治十八年十一月廿六日
內務卿伯爵 山形有朋
內務省
国幣中社忌部神社社地之儀明治十四年一月七日相達置候処更二阿波国名東郡富田浦町ヲ以テ社地下被定候条此段相達候事
但旧跡所在五所神社は社殿修造其儘保存スペシ
明治十八年十一月廿一日
太政大臣公爵三条実美

【現代語訳】
今般、別紙の通り通達がありましたので、この旨を連絡いたします。
明治18年11月26日
内務卿 伯爵 山縣有朋
内務省

国幣中社 忌部神社の社地については、明治14年1月7日に通達しておりましたが、このたび改めて阿波国名東郡富田浦町を社地として定められましたので、この旨を通達いたします。
ただし、旧跡にある五所神社は、社殿を修理・修造しそのまま保存すること。
明治18年11月21日
太政大臣 公爵 三条実美

ここでさしもの長い紛料も結論に達し徳島市南二軒屋町の新設忌部神社は徳島県を代表する神社としての格式をもって今日に及び、戦災の為社殿は焼夷弾をうけて焼失したが神徳はついている。しかし昭和一〇年(一九三五) に再び左の陳情書が出ているのだから住民としては全く解決したとは思っていないし、歴史家にとってもこれについての解決が大きな宿題である。

四 請願書
要旨
現今徳島市御鎮座ノ国幣中社忌部神社ヲ太古以来由緒正シキ美馬郡西端山吉良名御所平へ奉還御鎮座ノ御裁断アランコトヲ請願ス
理由
抑我阿波国忌部神社へ延喜式内ノ大社ニ在シマシ旧記ニ徴スルニ忌部郷三里四方八神領ニシテ国内へ調フニ及バズ違国リモ参拝者引キモ切ラザル有様ナリシガ天正年間(一五七三)長曽我部元親ノ兵火二罹リ給ヒテヨリ明治維新ニ至ルマデ復興再建ノ事アラザリシガ明治七年(一八七四)二至リ教部省ヨリ国幣中社ニ列セラレタルヲ以テ旧跡調査方御下命アリ。仍テ慎重審議調査ヲ尽サレタル結果別紙太政官御達ン写ノ通り明治十四年(一八八一)一月七日付ヲ以テ美馬郡西端山村吉良名御所平ヲ以テ社地ト定メラレタル処同十八年(一八八五)二至リ更二名東郡富田浦町ヲ以テ社地ト定メラレタル次第二有之、右御転社ノ理由奈辺ニ在リシャ旧記ノ後スベキモノ無之候。太古以来忌部神社ノ御鎮座マシマセシ忌部郷住民タル私共、此御転社ノ件ヲ回顧スルトキ、感慨無量転夕断腸ノ思二不堪候。時恰モ非常時二際会シ、上下一致建国ノ大義二雲ミ日本精神発揚ヲ高潮セラルル此時此際往昔我阿波国民崇敬ノ標的タリシ忌部神社ヲ、由緒正シキ美馬郡西端山吉良名御所平へ奉還御鎮座相成ルニ於テハ敬神ノ実ヲ宣揚シ崇祖ノ範ヲ垂ルル事相成申スペキ義カト存ゼラレ候。仰ギ希クパ閣下ノ御明鑑ニョリ私共請願ノ趣旨御採納下サレ侯ハバ宿二郷土ノ喜悦タルニ止ラズ国家ノ為慶賀スペキ儀カト愚考仕リ候。意余ツテ言尽サズ。或へ閣下ノ尊嚴ヲ冒漬スル恐ナシトセズ、唯徹意ノアル処ヲ御賢察下サレ御寛容下サレ候ハバ幸甚之ニ過ギズト
右満腔ノ赤誠ヲ捧ゲテ別紙太政官御連写並二奇蹟伝説ノ一部相添へ請願仕候也
昭和十年一月
徳島県美馬郡貞光町長 田所多喜二
全県 全郡端山村長 松尾都惠
全県仝郡一字村長葛籠与一

【現代語訳】
【要旨】
現在、徳島市に鎮座している国幣中社 忌部神社を、太古より由緒の正しい美馬郡西端山吉良名御所平へお返しし、ご鎮座させるようご裁断いただきたく請願いたします。

【理由】
そもそも我が阿波国の忌部神社は延喜式内の大社であり、古い記録に照らすと忌部郷3里四方が神領であって、国内は言うに及ばず遠国からも参拝者がひっきりなしに訪れる有様でした。しかし天正年間(1573年〜)に長宗我部元親の兵火に遭われてより明治維新に至るまで復興再建の事もありませんでした。その後、明治7年(1874年)に至り教部省より国幣中社に列せられたため、旧跡調査のご命令がありました。
よって慎重に審議・調査を尽くされた結果、別紙の太政官通達の写しの通り、明治14年(1881年)1月7日付で美馬郡西端山村吉良名御所平が社地と定められましたが、同18年(1885年)に至り、あらためて名東郡富田浦町が社地と定められる次第となりました。この転社(移転)の理由がどこにあるのか、古い記録において根拠となるようなものはありません。

太古より忌部神社が鎮座されていた忌部郷の住民である私どもは、この転社の件を振り返る時、感慨無量であり朝夕断腸の思いに堪えません。時はあたかも非常時に際会し、上下一致して建国の大義に目覚め、日本精神の発揚が高潮しているこの時この際、昔から我が阿波国民の崇敬の的であった忌部神社を、由緒正しき美馬郡西端山吉良名御所平へ奉還・ご鎮座されることになれば、神を敬う誠意を大いに高め、祖先を尊ぶ模範を示すことになるのではないかと存じます。
仰ぎ願わくば、閣下(県知事等)の明らかなるご判断により私どもの請願の趣旨をご採納くださいますならば、単に郷土の喜びにとどまらず、国家のためにも慶賀すべきことかと愚考いたします。思いが余って言葉を尽くせません。あるいは閣下の尊厳を冒瀆する恐れがないとは言えませんが、ただ徹底した真心のあるところをご賢察くださり、ご寛容くださいますならばこの上ない幸せでございます。

右、満腔の誠意(赤誠)を捧げて、別紙の太政官通達の写しならびに奇蹟伝説の一部を添えて請願いたします。
昭和10年1月
徳島県美馬郡貞光町長 田所多喜二
同県 同郡端山村長 松尾都惠
同県 同郡一宇村長(※原文ママ:一字村) 葛籠与一

第五節 結論

忌部神社位置の係争は日本歴史の上から考えると九○頁第五節で後記した通りそう重要な問題ではないが、自分の郷土を誇りあるものとしたいという先人の愛郷心のあらわれとしては価値ある史実である。たゞ、今回貞光町史を編さんするにあたり貞光谷説、山崎説のいずれともきめ手のなかったことを報告する。


(120)
郷高取(折目家)
市中の高取諸奉行(食禄五○石以上の士)に準じた称で、郷中暮しの高取という義で郷中の士、すなわち郷士である。折目家(天津夫)六代の主人伊勢蔵(安政四(一八五七)年丁巳五月一三日卒)の左書に郷高取とあるが、 その子徹之助(幼名宇三郎)に至って、明治維新になった。同家は高七六石を給されていたが、なお世襲したのであろう、天保時代(一八三〇)の郷高取席順に 七拾六石 貞光村 折目徳兵衛とあるが、天保時代の徳兵衛ではなく、文化の棟付以前から、安政四年(一八五七)に至る間の主人は既に伊勢蔵であった。大方古い名家であるから父祖の名をそのま入世襲したものと思われる。

御銀主 (折目家)
藩の御用銀調達方で幕府発行の金銀貨幣および紙幣と阿波藩発行の紙幣すなわち、一〇匁、一匁、五分、三分、 二分等の落札との間における両替、為替の御用を勤めた今のいわゆる金庫である。郷高取の折目家は、その以前この身居(みずわり)で初代徳兵衛(貞享元年(一六八四)卒)以来代々同名を襲名し三代、徳兵衛栄綱(寛政五年 (一七九三)卒)、四代徳兵衛満保(寬政八年(一七九六)卒)の徳兵衛は有名な御銀主で五代の伊勢蔵雅珍におよぼした。
これまで説明した身居の面々はいずれも苗字帯刀御免の家柄で、登城してお目見(おめみえ)と称して年賀、藩主の代替り、参勤交代で江戸から帰国されたときなど藩主に拝謁を免された。殊に郷士格(俗に郷士)の人々は登城の際に槍を立て家来を連れるのを許された。

阿波歴史資料