阿波中世史
『三木家文書』の全貌

神祇と武家のはざまを生きた阿波忌部の軌跡

本資料は、「徳島県文化財基礎調査報告 第5集 阿波の中世文書」に基づき、中世阿波の歴史を紐解く上で極めて重要な三木家文書の現代語訳と詳細な解釈を、郷土史家の皆様に向けて再構成したものです。

古代の神事から中世の武家社会へと変遷する激動の時代において、朝廷の祭祀と深く結びつきながらも独自の勢力を保ち続けた阿波忌部・三木家の歴史的実態が、全40通の古文書から鮮明に浮かび上がります。史料の記述を一切省略せず、原文と現代語訳・解釈を収録しました。

※【ご利用にあたってのご注意】
できるだけ忠実に解読を行っておりますが、誤読等が含まれている可能性があります。あらかじめご留意のうえご参照ください。

第一部:三木家文書理解のために

阿波忌部とそのルーツ

安房忌部の系図(『姓氏家系大辞典』など)には阿波忌部の祖を大麻比古命とする記述があり、『延喜式』神名帳に板野郡の名神大社として記載され後に阿波国一宮となった「大麻比古神社」と結びつける通説もある。しかし、近世の『阿波国二十二社巡拝記』等における同社の祭神は正一位の猿田彦大神であり、神職も坂東氏や永井氏などが世襲してきた歴史を持つ。つまり、同社の実際の祭祀や歴史的実態において忌部氏の神格や系譜が登場するわけではない。地方忌部の性格については、中央の忌部氏の血縁的支族とする見方よりも、本来は中央忌部氏に隷属して職業的役割を担った部民(職業的集団)であったとする説(津田左右吉『日本古典の研究』)が有力視されており、平野部の大社と忌部氏を結びつける通説には慎重な再考が必要である。

一方で、阿波忌部は麻の栽培や織物生産に従事したとされ、その居住の中心地域はこれに因んで「麻殖郡」の名がつけられた。『延喜式』神名帳の麻殖郡には名神大社として忌部神社が記され、『倭名類聚抄』にも同郡内に忌部郷(伊無倍郷)の地名が見えることから、この麻殖郡一帯が氏族の本拠地であったと考えられている。なお、阿波忌部は狭義には「麻殖忌部」とも呼ばれる。

美馬市木屋平に拠る三木家は、この阿波忌部の末裔と伝える旧家である。「三木」の苗字は中世以降の在在地名(三ツ木)に由来する。同家には朝廷の御大典(大嘗祭)に麁服(あらたえ)を調進した歴史や関連文書(三木家文書)が伝わるが、古代忌部氏と中世以降の三木家を直接的につなぐ確実な一次史料は乏しく、「本姓を忌部とする」系譜の成立時期やその歴史的実態については、後世の伝承形成の可能性を含め、なお慎重な学術的検証を要する。

神祇祭祀と神祇官

祭政一致の古代にあっては事あるごとに神を祭って神意をうかがう行事をおこなった。朝廷においてこの祭祀の支度をするのが斎部氏の役目であり、神と人の間を執り持って神の言葉を人に伝え、人の言葉を神に奏するのが中臣氏の仕事であった。中臣氏が勢力を伸ばして政治に接触をもつのもこの辺の事情から来ている。しかし本来は両氏対等で、天皇即位の儀式において中臣が天神の寿詞を奏し、斎部が神璽鏡剣を上ることはきわめて古い行事に相違なく、このことは後世まで行われた(日本書紀以下の諸書、神祇令など)。

しかし地方に分布する忌部が地方での祭祀に神祭の事に当っていたかどうかは明らかでない。

律令制の施行に当って中央に神祇官・太政官の二官が相並んで置かれたことは周知の事実である。しかし官位相当では顕著な差別がつけられ、太政官の左右大臣が二位相当であるのに対し、神祇官では長官の伯が従四位下、次官の大副が従五位下、少副が正六位上、判官の大祐が従六位上、少祐が従六位下、主典の大史が正八位下、少史が従八位上であり、神祇官は一つの省よりも低い扱いとなっている。ただし現実にはこれらの相当位より高い場合が少なくない。

これは太政官その他の官庁についてもいえることである。その職業を略言すれば、伯は神祇祭祀・大嘗・鎮魂・卜兆その他の官事を惣判し、大副は伯を助けて同じことを掌り、大祐は官内を糺判し文案を審署することを掌り、大史は祐以上の上官の命を受けて記録に当り公文を読申することを掌る。以上四等官の下に雑任として多人数の神部・卜部・使部などがある。

神祇官の慣例として大副・少副・大祐・少祐などは大中臣・斎部・卜部の三氏のうちから任ずることになっていて、したがって京都在住の斎部氏が副あるいは祐に任命されている。例えば貞観十一年(八六九)神祇大祐正六位上斎部宿禰高善の名が見え(三代実録)、それ以後にも史料に散見し、三木家文書にも多くの例を見る(五号・一一号・二一号・二二号)。

斎部氏長者

京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことである。この氏長者には平安末期の氏長神祇大祐斎部明友のように神祇官に仕えるものが兼ねるのが通例であった。また大嘗会の支度のため勅使として阿波国に下向して来る者も斎部氏の有力者で氏長も少なくなかったと思われる。

斎部氏長者は麻殖忌部に対して何かと指示を与え、氏の所役を勤めさせる権能を有していたようである(二号、一一号)。これらの指示は大嘗会の後に出されているため、この所役は大嘗会関係以外と考えるほかないが、どのような事物を納めさせたのか明らかにできないのが残念である。江戸幕末までもあった氏長者の例として藤原氏長者や源氏長者があるが、前者は藤原氏の氏神・氏寺のことを掌るもので多くは摂関家がこれを兼ねるのであり、後者ははじめ源姓公卿の筆頭者がこれを帯びて収入を伴うものであったが後に名目化して足利・徳川の将軍の帯びるタイトルに過ぎなくなった。ところが斎部氏長者の場合は中央氏族の長が地方支族を統属させていた古代の遺制を南北朝時代にまで残すものであり、神事にかかわることとはいえ、まことに驚嘆すべきことである。

大嘗会(大嘗祭)

三木家代々が深く関係をもったのが天皇一世一度の大嘗祭である。大嘗祭は節会の語に中心を置いて大嘗会とも称した。大嘗会は大がかりな準備を必要とするため、天皇即位の儀式の行われる月が七月以前ならばその年の十一月に行われるが、八月以後ならば翌年の十一月とするのが一般的であった(延喜式)。その中心行事は天皇が悠紀・主基の田の新穀をもって天照大神及び天神地祇を奉祭される儀式で、早くからいろいろな建物をたてたり、種々の調度を支度することが行われる。その中で阿波国麻殖忌部の役割としてまず注目されるのが御殿として指名された忌部たちで麁妙神服を織って神祇官に進じることである。それに至る手順は『延喜式』に省略されているが、麁妙に対する和妙神服を織る三河国服部については『延喜式』にその手順がみえる。すなわち神祇官が駅制を利用する使を現地に遣わし、現地の神戸を召集めて神服を織る長二人、織女六人、工手二人、計十人を卜定し、この十人が使に率いられて三河国神服部貢進の調糸十絢(絢は二丁分の糸の単位)を携え入京し、斎場に向い、織屋を祭ってのち織りはじめる。おそらく麻殖忌部(一〇号)の場合ももとは同じ方法で織らしめられたであろう。麁妙奉仕者を御殿とよぶいわれも京斎場の織屋に由来することが考えられる。三木家文書の太政官符や官宣旨の写からも織手自身が上京して織ったとは思えず、神祇官の使に附して進上せよとあるものもあり(一三号)大嘗会の儀式も『延喜式』に比して後世次第に簡略化してきたことが考えられる。

近代に写された文書のため三木家文書に収録しなかったが、同家にある正慶元年(北朝)(一三三二)十一月日阿波国御衣御殿人契約状によると十三人の連署があり、これが光厳天皇大嘗会の御殿人の全員であることが考えられる。その名は次のごとくである。
中橋西信、北野宗光、高如安行、今鞍進士、高河原藤二郎大夫、名高惣五郎、藤三郎、治部法橋、田方兵衛入道、赤松藤三郎大夫、永谷吉守、大坂平六、三木氏村

同じく近代の写の元弘三年(南朝)(一三三三)十一月日阿波国御衣御殿人契約状によると同じく十三人の連署があり、後醍醐天皇再度大嘗会の御殿人全員と考えられる。
長者長村、赤松右満允、長谷吉定、北野宗光、名高惣五郎大夫、千野法橋、田方兵衛入道、高河原藤二郎大夫、中橋西信、今鞍進士、三木氏村、大坂平六、高如安行。

(:これを見ると三木氏村は、阿波国御衣御殿の13人の中の一人であったことが解る。
更に、正慶元年(1332年)の光厳天皇大嘗会に続き、翌年の幕府滅亡後には元弘三年(1333年)の日付で後醍醐天皇への御衣調進に関わる契約状が矢継ぎ早に作成されている。このように、中央の政権交代に連動して在地の調進体制が激しく改編を迫られている様子は、鎌倉幕府滅亡前後の激動の世相をよく表している。)

両文書は年代が接近しているとはいえ、それぞれ別個の大嘗会に関するものである。これによって御殿人は十三人を原則としていること、御殿人は家筋もほぼ固定していたことが知られる。すなわち両文書を比較して明らかに違うのは前者の藤三郎が後者の長者長村に替っているだけであることが注目され、卜定によってその都度選定されるものでなくなっていると考えられる。

阿波国麻殖忌部の役割として次に注目されるのは由加物の貢上である。由加物とは神に供する雑器・雑贄であって所定の数か国に指定の品々と量を貢上するのでそのため由加物使が国々に遣わされた。『延喜式』によれば、阿波国では麻殖・那賀両郡に対して、馬一疋、太刀一口、弓一張、箭廿隻、鍬一口、鹿皮一張、庸布一段、木綿麻各一斤、堅魚煎海鼠各四斤、海藻滑海藻各四斤、酒米各四斗、塩四升が課されており、そのほかにも数々のものが忌部所作として及び那賀潜女十人所作として献上せしめられている。

三木家文書で由加物の語をみるのは、二通だけであり、いずれも正慶元年(一三三二)の光厳天皇の大嘗会に関して弁官が後伏見上皇の命を奉じて阿波守に宛てて出した奉書である(二ノ一・二号)。前者には「当国荒妙神服并由加物等使」とあり、後者には「大嘗会由加物使等」とあって、由加物使が阿波国に派遣されていることが知られるが、由加物の内容がいかなるものであるか全く明らかでない。おそらく延喜式時代に比して著しく簡略化され形式化したことと思われる。

麻殖忌部長者

中央の斎部氏長者についてはさきに述べたが、麻殖忌部にも長者があった。神祇官の長官伯ははじめ家筋が一定していなかったが、寛徳三年(一〇四六)花山天皇の孫延信王が伯に任じられてからはその子孫が代々王を称して永く世襲することになり、これを伯家と呼んだ。この伯家が官事を惣判することは後世まで変らないのみか、斎部氏長者の任命はもちろん麻殖忌部長者をも任命した。仲資王記建久五年六月十二日条に「阿波国忌部久家還補氏長者下文、依官人致状申今日成之了、件忌部者大祀之時職主荒妙御衣之氏云々」とあり、久家が荒妙御衣をつかさどる氏というからには麻殖忌部であることは明らかである。鎌倉時代には左方長者、右方長者の二人があったらしく(三号、一一号)氏人はそのいずれかに属しているが(一一号)長者の支配を受けない独立の御殿人もあった(三号)。また前述元弘三年の御殿人には長者長村の名もみられ、三木家の歴代である。また御殿人三木氏に対して長者の乱妨を禁ずる(二一号、二二号)という長者も麻殖忌部長者を指すものと解せられる。

種野山(麻殖山)

律令制の理想とした公地公民制は奈良時代すでに崩壊の兆を示し、平安時代貴族社寺が利権拡大のため各地を荘園化して公領は次第に侵食されてきた。荘園化から取残された公領は国衙の支配する所として国衙領または単に国衙と呼ばれ、その税収である年貢諸公事は在庁官人や在京の国司(守で五位程度)、公卿の権守、それらの上首の知行国主などに分けられていた。種野山も麻殖郡山地部の大部分を掩う広大な地域を占めながら貴族社寺の侵食を受けず国衙領として残された。その事情は田地や物産の多くないことにもよろうが、麻殖忌部などを通じて朝廷と深く結んでいたための敬遠もあっただろう。

鎌倉幕府の当初、文治元年(一一八五)朝廷は全国に守護・地頭の設置を勅許されたが、阿波国では守護はおかれても地頭はおかれず、荘公の別なくあまねくこれがおかれるのは承久の乱以後であるとされている。

承久の乱後種野山に補せられた地頭の人名は不詳であり、また地頭自身が入部した証跡もなく、入部したとすれば地頭代であっただろう。しかし地頭を欠く地域でなかったことは地頭名(四号)の存在で明らかである。それと共に国衙とか国方とか呼ばれる所領のあることも知られる(一七号、二六号、三五号)。

ところで阿波国においては守護小笠原氏が国内の諸地頭をかなり早くから兼ねていたといわれる。こうしたことが事実とすれば、非常に特異な例として国衙(国守)と守護所の談合の上で共通の種野山代官をおき政所で政務をとらせていたことが考えられる。現に鎌倉末期嘉暦三年(一三二七)の種野山在家員数同年貢公事注進状(四一号)によると、在家総数一二三宇のうち四九宇は国衙の直接支配下にあるが、三木名を含む七四宇が代官の支配に属し、うち五三宇半が国衙分、二〇宇半が地頭名となっており、普通の荘園や国衙領にみられない特異な様相を呈している。この注進状は種野山の全貌を物語る貴重な史料である。

【参考史料】『粟の落穂』にみる太布と三木家文書

江戸時代後期から末期にかけての阿波の地誌『粟の落穂(あわのおちぼ)』には、当時の阿波における「太布(たふ)」の生産状況や、それが大嘗祭に供進された「麁妙(あらたえ)」と同一のものであるとする考証が記されています。

同書では、本居宣長の『玉勝間』を引き、太布が木綿(綿花)ではなく穀(コウゾ)の皮から織られた布であると解説しています。また、筆者が実際に天保13年(1842)に祖谷山へ赴いて人々の服装を観察した記録や、太布が「タフ(栲・たえ)」に由来すること、そして麻植郡三木村の三木氏が所蔵する古文書(本ページに掲載の文書)の中に、大嘗会の料として忌部氏に織らせた旨を記す官符が四十余通伝わっていることなどが紹介されています。

このように『三木家文書』は、江戸時代の郷土史家や国学者からも、阿波忌部と大嘗祭の関わりを証明する第一級の史料として注目され、現地調査を伴う考証の対象となっていました。本ページの文書群を読み解く上で、江戸期におけるこれらの認識は非常に有用な参考情報と言えます。

第二部:三木家文書 原文ならびに現代語訳・解釈

一、正意宛行状案

正元二年(1260)
宛行柿平四郎大夫守貞領所葛例也、右件領所、東、かつらたに、きたハ先つへたに、下はたけせをかきて、ぜんれいのごとくあてたふところ一としかの、山のひきちの事、西にハ大くほのをさかうて、ひきちをさかうへき物也、自今以後不可有他人妨状、如件、 正元貳年正月十一日 正意在判
柿平四郎大夫守貞に領所の葛例を宛がう(与える)。
右の件の領所は、東は「かつらたに」、北は「先つへたに」、下は「たけせ」を境界として、前例の通りに宛がう所である。「一としか」の、山の「ひきち」の事について、西には「大くほ」の尾(峰・尾根)を境として、「ひきち」を境界とすべきものである。
今より以後、他人の妨害があってはならない。状(文書)は以上の通りである。
正元2年(1260年)1月11日
正意(判あり)

柿平四郎大夫守貞に領所を四方の境界を記して与えた文書の写である。正意は国衙領種野山地頭の代官か。四号文書参照。

二、斎部氏長者下文

文応元年(1260)
(花押) 下宗末 早先例可致氏百姓等沙汰、右件氏人等、雖限所当符物代有限、於氏所役者可致沙汰、状、如件、 文応元年十一月廿四日 宗末入道所

(花押)
宗末(むねすえ)に下達する。
早く先例に従って、氏(うじ)の百姓等へ沙汰(指示・処置)を致すべきである。
右の件の氏人等は、負担すべき規定の税(割り当てられた品や代物)には限りがあるとはいえ、氏の所役(氏族としての役目)においては沙汰(実行・管理)を致すべきである。
状(文書の趣旨)は以上の通りである。

文応元年(1260年)11月24日
宗末入道 所(宛)

亀山天皇大嘗会の行われた十一月十六日の後に発せられている。忌部姓の氏人といえども一般人と同じく種々の課役があろうが、それ以外の忌部氏人にかかる氏の所役は宗末入道が中心になって勤めるようにと命じたもの。下令者は京都の斎部氏長者と考えられる。ただそれにしては書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである。

三、斎部氏長者下文

文応元年(1260)
(花押) 下宗時入道 早任先例可為上御殿人也、 右、不可随左右長者也、先例有限、為御殿、心之状、如件、 文応元年十二月二日 宗時入道所 尚友奉

(花押)
宗時入道に下達する。
早く先例に従って、御殿人とするべきである(御殿人として参上させるべきである)。
右(の件)について、左右の長者に従って(支配されて)はならない。先例には限り(定め)があり、御殿人とする心得(趣旨)は、以上の通りである。

文応元年(1260年)12月2日
宗時入道 所(宛)
尚友 奉る(命を受けて記す)

亀山天皇大嘗会の行われた十一月十六日の後に発せられており、これも京都の斎部氏長者から出たものである。前号文書と同一筆者で粗雑な書風であり、尚友なる者が氏長者の命を奉じて出したことになっている。内容は麁妙の御衣を供進する御殿人とするというのである。左右の長者とは麻殖忌部集団の二人の長をさし、その支配から独立させるの意か。

四、正意宛行状

文永三年(1266)
わたつりや内の事也、右件之わたつりや内ニおきてハ、新次郎大夫安村處宛下處実也但シ此わたつりや内ハ地頭名也、安村ハ雖百姓也依、有志下宛處、如件 文永参年二月 日 正意(花押)

「わたつりや内」の事である。
右の件の「わたつりや内」においては、新次郎大夫安村へ宛て下す(与える)ことは確実である。
ただし、この「わたつりや内」は地頭名(地頭の所領)である。
安村は百姓であるといえども、志(誠意や奉仕の意志)があることによって、下し宛てる(与える)次第は以上の通りである。

文永3年(1266年)2月 日
正意(花押)

わたつりや内は地頭名に属するが特別に三木安村に与えるというもの。差出人正意は地頭代官であろう。

五、神祇少副下文

文永十一年(1274)
(花押) 下ス 四郎男事 右年来有由緒、彼四郎男波為忌部安村家人之處、安守入道当時初可亟入僻道男處役出之由申之条、極僻事也、新次郎大夫安村不可叙用之者也、其外家人同、他人難懸煩不可有銀用、仍為館復証文所似如件、 文永十一年十一月十九日 神祇少輔□員

(花押)
下達する。四郎という男の事。
右(の件について)は年来(長年)の由緒があり、かの四郎という男は忌部安村の家人であるところ、安守入道がこの時初めて、急ぎ道理に外れたやり方(僻道)でこの男を使役に出すべき旨を申し立てた事(条)は、極めて道理に外れた事(僻事)である。
(四郎は)新次郎大夫安村(の家人であるから、安守などの他人が)召し使ってはならない者である。
その他の家人も同様であり、他人が煩わしさを懸けることはできず、金銭の負担(銀用)などがあってはならない。
よって、館(安村の屋敷)への権利回復の証文とする次第は、以上の通りである。

文永11年(1274年)11月19日
神祇少輔 □員

安村家人四郎なる男を安守が不法に使役せんとするのを停止した裁許状。差出人は「神祇少輔」とあるが、少輔は八省の次官である。神祇官の次官は「神祇少副」でなければならない。偽文書の疑がある。

六、某下文

正応二年(1289)
下安村所二所渡事 一所、宗利之あと、 右件於所領二所安村之處當下著也、有限御年貢己下御事無懈怠可致其沙汰状、如件、 正応二年三月 (花押)

安村に下達する。二か所(の所領)を渡す事。
一か所は、宗利の跡(遺領)である。
右の件の所領二か所において、安村の元へ確かに下し与える(宛がう)ものである。
限りある(定められた)御年貢以下の御事(公事・諸役等)について、怠ることなくその沙汰(処理・納入)を致すべきである。状(文書の趣旨)は以上の通りである。

正応2年(1289年)3月
(花押)

安村に対し、宗利の跡を与えるというもの。差出人は宗利・安村らを配下にもつ上首で種野山代官であろう。

七、某一宇預ヶ状

正応二年(1289)
下安村處 一色 合一宇内料、耐 件於在家者、依、有逃亡、万雑公事を名主安是等鄭中間、一態之街二申詣によて彼屈家公役毎年に壱貫六百文之用途を可令立状、如件、 (花押) 正応二年五月 日

安村のところへ下達する。
一色、合わせて一宇の内の料、「耐」。
件の在家においては、(百姓の)逃亡があったことによって、万雑公事(種々の雑税)を名主の安是らが「鄭」中間へ、「一態の街」に(特別な事情として)申し詣でた(嘆願した)ことによって、かの「屈家」(在家の誤記か)の公役として、毎年に一貫六百文の用途(年貢・費用)を立てさせる(納入させる)べきである。状(文書の趣旨)は以上の通りである。

(花押)
正応2年(1289年)5月 日

半間分の小百姓二家合せて一宇逃散のためその跡を三木安村に与えられたが、苛税のため名主らから万雑公事免除ヲ歎願したのに対し、公役として毎年本年貢一貫六百文だけを上納することを命じたもの、差出人は種野山代官か。山地部の所領は宇の数で表現されるのが普通である。宇とは家のことで間(軒の意)とも記され、居住人とその生活資源としての山林田畑を含むものである。小家の場合は半間といい、二家を一宇とする。まれに大(三分の二間)小(三分の一間)の単位も用いられた。宇の数によって徴税の多少が量られる。四一号参照。

八、官宣旨案

永仁六年(1298)
左辨官下、阿波国 右権大納言藤原朝臣実泰宣、奉勅大嘗会主基所料、宜彼国依例以忌部氏人織備附神祇官之使早以進上国宜承知依宣行之、会期有随、不得延怠 延慶六年九月 日 (葉室頼房) 右大史中原朝臣在判 右少辨藤原朝臣在判

左弁官、阿波国に下達する。
右(の件について)、権大納言藤原朝臣実泰が宣る(天皇の命令を伝える)。
勅(天皇の命令)を奉るに、大嘗会の主基所(すきしょ)の料(品)として、宜しくかの国(阿波国)は先例に従って忌部氏人をもって織り備えさせ、神祇官の使者に託して、早く進上させるべきである。国(阿波国)は宜しくこれを承知して、宣に従い実行せよ。
会期が迫っているので、遅延や怠慢があってはならない。

延慶6年(※原文ママ)9月 日
(葉室頼房)
右大史中原朝臣(判あり)
右少弁藤原朝臣(判あり)

伏見天皇大嘗会に関するもの。大嘗会にはその都度朝廷から阿波国に命を下して、麻殖忌部の氏人らに麁妙の御衣を織らしめ、神祇官から下向する使に手渡して進上することになっていた。この文書は天皇の命を洞院実泰が宣し右少弁の葉室頼房と右大史の中原某が奉じ、左弁官の下文として阿波国衙に下した官宣旨の写である。

九、太政官符案

延慶二年(1309)
太政官符阿波国司 使従五位下斎部宿禰口継 神部貳人 右得神祇官解偁、為織進大嘗会荒妙御衣、差件使等人依例申送如件者国宜承知依件行之、符到奉行。 修理右宮城使従四位上行右中辨藤原朝臣判 正五位上行左大史小槻宿禰判 延慶二年九月日

太政官符(だじょうかんぷ)。阿波国司に下す。
使(使者):従五位下斎部宿禰口継、神部二人。
右(の件について)、神祇官の解(げ:上申文書)を得て称(もう)すには、大嘗会の荒妙(あらたえ)の御衣(みそ)を織って進上させるため、件(くだん)の使者らを差し遣わし、先例に従って申し送ることは右の通りである、と。
国(阿波国)は宜しく承知し、件の通りにこれを行え。符(官符)が到着しだい奉行(実行)せよ。

修理右宮城使従四位上行右中弁藤原朝臣(判あり)
正五位上行左大史小槻宿禰(判あり)
延慶2年(1309年)9月 日

花園天皇大嘗会に関するもの。鎌倉時代の太政官符は珍しいが朝廷の重要儀式のため古例を尊重して発したものの写である。太政官から阿波国司に対して勅使が神部二人を伴って下向する旨を伝えた官符の写である。

一〇、官宣旨案

延慶二年(1309)
左辨官下阿波国 応早速織荒妙御衣事右権中納言藤原朝臣兼季宣、奉勅大嘗会悠紀所料宜彼国依先例以麻殖忌部氏人令織備、附神祇官使被進上国宜承知依宣行之、 (今出川) 延慶二年九月 日 大史小槻宿禰判 (藤朝) 右中辨藤原朝臣判

左弁官、阿波国に下達する。
早く荒妙(あらたえ)の御衣(みそ)を織るべき事。
右(の件について)、権中納言藤原朝臣兼季が宣る(天皇の命令を伝える)。勅(天皇の命令)を奉るに、大嘗会の悠紀所(ゆきしょ)の料(品)として、宜しくかの国(阿波国)は先例に従って麻殖忌部(おえいんべ)の氏人をもって織り備えさせ、神祇官の使者に託して進上させるべきである。国(阿波国)は宜しくこれを承知し、宣(天皇の命)に従ってこれを実行せよ。

(今出川)
延慶2年(1309年)9月 日
大史小槻宿禰(判あり)
(藤朝)右中弁藤原朝臣(判あり)

当時は吉事は左弁官、凶事は右弁官として出した、しかし奉者は両官が混合するのが多い。これは左大史と右中弁が奉じている。

一一、勅使神祇権大祐下文

延慶二年(1309)
下氏人黒女隠事 右、左方長者行信違乱之上者、於彼黒女者為治部丞友村進有限随所役、諸事任先例無懈怠可致沙汰之状、依勅使執達如件、 延慶二年三月六日 大使左衛門少尉(花押) 勅使神祇権大祐(花押)

下達する。氏人の黒女の隠しの事。
右(の件について)、左方長者の行信が違乱(不法行為)を行った上は、かの黒女においては治部丞友村の進め(所属・管轄)とし、限りある(定められた)所役に従い、諸事は先例に任せ(従い)、怠ることなく沙汰(処置・実行)を致すべきである。状(文書の趣旨)は、勅使の執達(命令の伝達)により以上の通りである。

延慶2年(1309年)3月6日
大使左衛門少尉(花押)
勅使神祇権大祐(花押)

忌部の氏人黒女が行信に属していたのを行信に不法行為があったため、改めて三木友村の所属と認定したもの。黒女は麁妙の織女であろう。左方長者とは麻殖忌部集団に左右の長者があり、その一方を指すもの。

一二、太政官符案

文保二年(1318)
太政官符阿波国司 使従五位下斎部宿禰親能 神部貳人 (花山院) 右、従一位行大納言藤原朝臣師信宣、件人差荒妙御衣使、発遣、如件、国宜承知、依件行之、符到奉行。 (甘露寺冬方) 右少辨正五位下藤原朝臣在判 正六位上行右少史兼左衛門少尉高橋朝臣在判 文保二年九月廿六日

太政官符(だじょうかんぷ)。阿波国司に下す。
使(使者):従五位下斎部宿禰親能、神部二人。
(花山院)
右(の件について)、従一位行大納言藤原朝臣師信が宣る(天皇の命令を伝える)。件(くだん)の人物を荒妙(あらたえ)の御衣使(みそつかい)に差し遣わし、発遣(派遣)することは、以上の通りである。国(阿波国)は宜しく承知し、件の通りにこれを行え。符(官符)が到着しだい奉行(実行)せよ。

(甘露寺冬方)
右少弁正五位下藤原朝臣(判あり)
正六位上行右少史兼左衛門少尉高橋朝臣(判あり)
文保2年(1318年)9月26日

斎部親能を麁妙御衣使とし、神部二人をつれて阿波国に派遣することを太政官から阿波国に申下した官符の写。後醍醐天皇大嘗会に関するもの。

一三、官宣旨案

文保二年(1318)
左辨官下阿波国司 応早織進荒妙御衣事 右大納言藤原朝臣師信宣、奉勅大嘗会主基所料、宜彼国依先例以常氏、令織備附神祇官之使早以進上国宜承知依宣行之、会日有期、不得延怠 文保二年九月廿六日 右少史高橋朝臣在判 (甘露寺冬方) 右少辨藤原朝臣在御判

左弁官、阿波国司に下達する。
早く荒妙(あらたえ)の御衣(みそ)を織り進上すべき事。
右(の件について)、大納言藤原朝臣師信が宣る(天皇の命令を伝える)。勅(天皇の命令)を奉るに、大嘗会の主基所(すきしょ)の料(品)として、宜しくかの国(阿波国)は先例に従って常氏(いつもの氏人)をもって織り備えさせ、神祇官の使者に託して、早く進上させるべきである。国(阿波国)は宜しくこれを承知し、宣に従ってこれを実行せよ。
会日(大嘗会の日程)には期日があるので、遅延や怠慢があってはならない。

文保2年(1318年)9月26日
右少史高橋朝臣(判あり)
(甘露寺冬方)
右少弁藤原朝臣(御判あり)

弁官局が阿波国に下した官宣旨の写。阿波国の受けた原文を写して三木氏に交付した。後醍醐天皇大嘗会に関するもの。奉者は二人共右官であるが吉事のため左弁官下文としている。

一四、官宣旨案

文保二年(1318)
左辨官下阿波国司 早令織進荒妙御衣事 (花山院) 右大納言藤原朝臣師信宣奉勅大嘗会主基所料、宜彼国依先例以常氏分織備附神祇官之使早以進上国宜承知依宣行之、会日有期、不得延怠 文保二年九月廿六日 右小史高橋朝臣在判 右小辨藤原朝臣在御判

左弁官、阿波国司に下達する。
早く荒妙(あらたえ)の御衣(みそ)を織り進上させるべき事。
(花山院)
右(の件について)、大納言藤原朝臣師信が宣る(天皇の命令を伝える)。勅(天皇の命令)を奉るに、大嘗会の主基所(すきしょ)の料(品)として、宜しくかの国(阿波国)は先例に従って常氏(いつもの氏人)の分をもって織り備えさせ、神祇官の使者に託して、早くもって進上させるべきである。国(阿波国)は宜しくこれを承知し、宣に従ってこれを実行せよ。
会日(大嘗会の日程)には期日があるので、遅延や怠慢があってはならない。

文保2年(1318年)9月26日
右小史高橋朝臣(判あり)
右小弁藤原朝臣(御判あり

前号と同文の写。

一五、代官沙弥願仏条々下知状

元亨元年(1321)
麻殖山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事 一、入口うりさいもくとう山出河流事、かのむらおくやまふんとしてまいねんりやうとの御ねんくにおいてハ、かわらいたをもてしんせいの事せんれいたり、しかるにきんにおいてハ、かわらいたなんかんのよしやすむらなけき申あひた、御ねんくにおいてハ用途二なされおかんぬ、よてかくのごとくの山出河流等事おほせつけらる、ことなり、せんずるところ、しんきひほうのよしうたへ申うゑハ、うりさいもくとうの事ハちゃうし、 一、てさけの事、いちこうしろしめされさる事なへし、このうゑハおしいがさげにおいてハちゃうしすへし、うがさげの事ハとやまこすんす 一、ふきりやうのしん二任補ヲつけてせむるよしの事、御ねんくとうのきなかしの時、申うくるにしだかてもうたださる、事、せんずるところ、きやうこうちゃうしすへし、ただしきりやうのしんに任補ヲくたす事、せんれいなり、なんそしんきと申へき乎、 一、はうくきやうしやうの時、くさてをめさるよしの事、御代官しやうらくの時、子息とうをあひくするに、はうくのふんとてくさてをりやうやうにめされたる事ゆめくなき事也、ゑちうけかう時、ならひこさいきやうの時、かたのごとくはうしを申事せんれいなり、なんそ新きのよし可申乎、せんするところ、きんねんさたのふんをしるし申へきか、かくのごとき事、たうさんこかきらさる事也、 一、ここみ桑の事、ぜんねいこまがすへし、そのの事ちうし、 一、にひぐうこおぐりの事、かいしやうそうの時、きりやうについてはんとうをめしくする事せんれいなり、むようの時ハちゃうし、 一、御はつもの、事ハかみよりあつけくださるあひた、せうふんつ、はいふんするところなり、せんずるところなんきたらバ、本利共二きん日のあひたさたをいたすへきなり、つきにわたしの利せにの事しるしらずハよく百姓のこころなり、おしあつくる事ハちゃうし、 一、御うるしかき、百姓二物ヲこう事ちやうし、きうる事ハわたくしのハからひこあらす候とも、しやうやくすへし、 一、いなりの御こく、白米ヲ栗ノこめこなさるへきよしの事、これ又わたくしのハからひこあらす、かみよりおかる夏ハ、このむねをとり申てさうにしたかうへし、 一、いさいげ二一つの御せいれいんするうゑ二、あしたを被召よしの事、この事さうなくけちしかたし、せんれをたつぬへきなり、しかれともなけき申うゑハ、あしたにおいてハちゃうし、 一、こうれいのふさゑのほか、わきくのふさゑの事、切らしたらハちゃうし、 一、正月廻せにの事、おくやまふんについてハぜんれいなり、そのふんせんとつふさにもんたうおんぬ、なんぞなんきたるへき乎、 一、かけいとの事、全そのろうなし、せんずるところ、せんちとうの時、ハかりをもてはんとうのさたとして、かけしんすへきなり、 一、ところかいの事、またくしろしめされさる事也、かのきうハをぬしにかへすへし、きやうこうもちゃうし、 一、なつあきのはつ物の事、きやうのきみそんしやうの時、せんれいとてさたしきたるものなり、いまさらなんそせんれいなきよし申へき乎、 一、三木村てうまうの事、さいそいつれのところそやろしめされす、御なん以下事、いまにみしんなし、夫ちん以下の事へそうはんとうよりあひてそのさたあるへき、 一、御馬のまさの事、わたしの畑からひここの事とくうたゑ申といへとも御へからひなきうゑハなんそ御代官いほうのよし申へき乎、 一、當はんすいちやきんしのこうてうむまの時まてめしつかへるよしせんとの申状二めいはなり、いう日めしつがう事まだくそのぎなし、きゃうこうちゃうし、 一、三日かうニはうくより御さかなをこうよしの事、こころさしあらへきくへし、なくはさはたのかきりにあらす、なんぞそせうにおよふへき乎、た、百姓の心たるへし、 右三木分下知如此、かたくこのむねをまぼてきやうこうのらんそをとむへきもの也、仍下知如件、 元亨元年十一月十九日 御代官沙弥(花押)

麻殖山内三木村の番頭・百姓らが訴え申した条々について下知(裁決)する事

一、入口のうり(瓜)・さいもく(材木)等の山出し・川流しの事。かの村の奥山分として毎年の領主への御年貢においては、「かわらいた(榑板)」をもって進済する(納める)事が先例である。しかしながら近年においては、「かわらいた」の納入が難儀である由を安村が嘆き申したため、御年貢においては用途(代納)になされ置かれた。よって、このように山出し・川流し等の事をおおせつけられる事である。所詮(つまるところ)、新規の非法である由を訴え申した上は、うり・さいもく等の事は停止(ちょうじ)する。

一、「てさけ」の事。全くお治め(ご存知)されない事である。この上は、「おしいがさげ」においては停止すべきである。「うがさげ」の事は外山へ越す(移す)とする。

一、「ふきりやう」の「しん」に任補をつけて責める由の事。御年貢等の「きなかし(未納)」の時、申し受けるに従って申し正さない事。所詮、強行は停止すべきである。ただし、「きりやう」の「しん」に任補を下す事は先例である。どうして新規のことと申すべきか。

一、「はうく」京上(上京)の時、「くさて」を召される由の事。御代官の上洛の時、子息等を相具する(連れて行く)のに、「はうく」の分として「くさて」を様々に召された事は夢にもない事である。「ゑちう」下向の時、ならびに「こさい」京の時、型のごとく奉仕を申す事は先例である。どうして新規の由を申すのか。所詮、近年の沙汰の分を記し申すべきか。このような事は、「たうさんこ」に限らざる事である。

一、「ここみ桑」の事。前例に任せるべきである。「そのの事」は停止する。

一、「にひぐうこおぐり」の事。「かいしやうそう」の時、「きりやう」について番頭を召し具する事は先例である。無用の時は停止する。

一、御初物の事。上(かみ)より預け下さる間、「せうふんつ(処分し)」配分するところである。所詮、難儀であれば、本利ともに近日の間に沙汰をいたすべきである。次に私の利銭の事は、知る・知らずはよく百姓の心次第である。押し付ける事は停止する。

一、御漆掻きについて、百姓に物を乞う事は停止する。「きうる」事は私の計らいではない候とも、「しやうやく」すべきである。

一、稲荷の御穀、白米を栗の米(粟の米)になさるべき由の事。これまた私の計らいではない。上より置かれる夏は、この旨を取り申して、「さう」に従うべきである。

一、「いさいげ」に一つの「御せいれいん」する上に、「あした」を召される由の事。この事は左右なく(たやすく)決着しがたい。先例を尋ねるべきである。しかれども嘆き申す上は、「あした」においては停止する。

一、恒例の「ふさゑ」のほか、「わきく」の「ふさゑ」の事。(百姓を)切らしたならば停止する。

一、正月廻銭の事。奥山分については先例である。その分「せんとつふさ」に問答は終わっている。どうして難儀となるべきか。

一、「かけいと」の事。全くその「ろう」はない。所詮、「せんちとう(前地頭)」の時、量りをもって番頭の沙汰として、「かけしんす(掛け納める)」べきである。

一、「ところかい(所替)」の事。全くお治め(ご存知)されない事である。かの「きうハ(旧場)」を主(ぬし)に返すべし。強行も停止する。

一、夏・秋の初物の事。「きやうのきみそんしやう」の時、先例として沙汰し来たったものである。今さらどうして先例がない由を申すべきか。

一、三木村「てうまう(逃亡)」の事。最初いずれの所ぞお治めされず(ご存知なく)、御難以下の事、いまだに未進なし。「夫ちん」以下の事へ惣番頭より会いてその沙汰あるべきである。

一、御馬の「まさ」の事。私の「畑からひ(計らい)」、此処の事とくと訴え申すといえども、お計らいがない上は、どうして御代官の違法の由を申すべきか。

一、「當はんすいちやきんし」の「こうてうむま」の時まで召し仕える由、「せんとの」の申状に明白である。夕日に召し使う事は全くその儀(事実)はない。強行は停止する。

一、三日「かう」に「はうく」より御肴を乞う由の事。志があれば受ける(食う)べし。なければ沙汰の限りにあらず。どうして訴訟に及ぶべきか。ただ、百姓の心次第であるべし。

右、三木分への下知(指示)はこの通りである。固くこの旨を守って強行の「らんそ(乱訴)」を留めるべきものである。よって下知は以上の通りである。

元亨元年(1321年)11月19日 御代官沙弥(花押)

三木村の番頭(領域内を幾つかの番に分け各番におかれる長、ここでは三木安村)と百姓らが麻殖山(種野山)代官願仏の苛斂誅求に堪えかね、十九条にわたって改善を要求したことに対する代官の返答書兼命令書の原本である。その中には百姓側の要求を承認する条もあれば、弁解しながら却下した条もあり、要求を幾分やわらげて施行するとする条などがある。これらの個条によって領主・代官として如何に多くの名目の課役をかけ、または百姓の自発的貢納の名のもとで徴収を行っていたかがわかる。「御代官沙弥」を願仏とするのは次号の願仏の花押と一致するからである。

一六、三木名番頭職補任状

嘉暦二年(1327)
下す 三本名番頭職事 右於當村番頭職者、以沙弥直達如元所令還住也、有限於御年貢以下御公事等者、任先例勤仕之可随御代官所勘者也、依、下知如件、 嘉暦二年三月十二日 御代官願仏(花押) 御使廣氏(花押)

下達する。三本名(三木名)の番頭職の事。
右(の件について)、当村の番頭職においては、沙弥直達(しゃみじきたつ)をもって、元のように還住(復帰)させるものである。
限りある(定められた)御年貢以下の御公事(諸役)等においては、先例に従ってこれを勤め、御代官所の勘(裁定・指示)に従うべきものである。
よって、下知(命令)は以上の通りである。

嘉暦2年(1327年)3月12日
御代官 願仏(花押)
御使 廣氏(花押)

沙弥直達を一旦排除したが元のように三木名番頭職に復帰させるもの。三木名は種野山に属し荘園にならって名と稱している。直達は三木安村の沙弥名らしく、前号の訴訟事件などで一時処罰を受けていたものか。

一七、政所下文

嘉暦二年(1327)
下 麻殖山加志原内大窪在家一間事 補任所権大夫 右、以彼補任者也、然而於彼在家者、相伝道理権大夫可知行之、但有限国方於御年貢者無懈怠可勤也仍下知之状、如件、 嘉暦貳年三月 日 政所(花押)

下達する。麻殖山(おえやま)の加志原(かしはら)の内にある大窪(おおくぼ)の在家一間の事。
補任(任命)するところは権大夫(ごんだゆう)である。
右(の件)について、彼(権大夫)をもって補任するものである。そうであるから、かの在家においては、相伝(代々受け継ぐこと)の道理によって権大夫がこれを知行(領有・支配)すべきである。
ただし、限りある(定められた)国方(国衙側)への御年貢においては、怠ることなく勤める(納入する)べきである。よって下知(命令)の状は、以上の通りである。

嘉暦2年(1327年)3月 日
政所(花押)

政所は麻殖山(種野山)の政務をとる代官所であろう。内容は大窪在家一間の権大夫相続を認めたもの。所定の国方(国衙領)年貢は怠ることなく勤めよと命じている。

一八、左衛門尉由信宛行状

嘉暦四年(1329)
種野山内大窪在家半事 右件在家者、以折中之儀所被宛行於久重也、向後無煩可令領掌之状、如件、 嘉暦四年五月十二日 左衛門尉由信

種野山の内にある大窪(おおくぼ)の在家半分(半間)の事。
右の件の在家は、折中(折半)の儀(取り決め)をもって久重に宛がう(与える)所である。
今より以後、煩い(妨害や異議)なく領掌(領有・支配)させるべきである。状(文書の趣旨)は以上の通りである。

嘉暦4年(1329年)5月12日
左衛門尉由信

在家一間の所領を折半して、その一方を久重に与えたもの。

一九、太政官符案

正慶元年(1332)
(端裏書) 「官符案」 太政官符阿波国司 使従五位下斎部宿禰親春 神部貳人 右得神祇官解偁、為令織進大嘗会荒妙御衣、差件等人依例申送如件者国宜承知依件行之、符到奉行 (冷泉定親) 右少辨正五位下藤原朝臣在判 従四位上行左大史小槻宿禰在判 正慶元年八月 日

(端裏書)「官符案」

太政官符(だじょうかんぷ)。阿波国司に下す。
使(使者):従五位下斎部宿禰親春、神部二人。
右(の件について)、神祇官の解(げ:上申文書)を得て称(もう)すには、大嘗会の荒妙(あらたえ)の御衣(みそ)を織り進上させるため、件(くだん)の人等(使者)を差し遣わし、先例に従って申し送ることは右の通りである、と。
国(阿波国)は宜しく承知し、件の通りにこれを行え。符(官符)が到着しだい奉行(実行)せよ。

(冷泉定親)
右少弁正五位下藤原朝臣(判あり)
従四位上行左大史小槻宿禰(判あり)
正慶元年(1332年)8月 日

正慶元年(一三三二)光厳天皇大嘗会に関するもの。光厳天皇は後醍醐天皇の北条氏討伐に踏切って都を去ったことにより擁立された。

二〇ノ一、権左少辨藤原房光奉書案

正慶元年(1332)
(裏書) 「院宣案二通」 大嘗会主基方当国荒妙神服并由加物等使親春親門申、祭物准擬雑事等事、業清状如件、子細見状、依例然可令下知給之旨、被下候也、仍執達如件、 正慶元年九月廿九日 (藤原) 権左少辨房光 阿波守殿

(裏書)「院宣案二通」

大嘗会の主基方(すきかた)である当国(阿波国)の荒妙神服(あらたえのしんぷく)、ならびに由加物等の使者である親春と親門が申す、祭物の準備(准擬)や雑事等の事について、業清の状(書状)は件(くだん)の通りである。
子細は状に見える通りであり、先例に依って然るべく下知(命令)を下し給うべきであるとの旨が、下されました。よって、執達(命令の伝達)は以上の通りである。

正慶元年(1332年)9月29日
(藤原)権左少弁房光
阿波守殿

光厳天皇大嘗会に関するもの、父君後伏見上皇が指揮をとられたようである。由加物とは神に供すべき雑器・雑贄の類で『延喜式』巻七によれば阿波国の貢進だけでも種類は数十種を数えるが、この時代にはかなり簡略化していたと思われる。親春親門は斎部氏。業清は前神祇伯資清王子、時に伯か。荒妙の神服と由加物貢進などの諸事は業清の文書と関係書類に明らかであるとし、阿波守(藤原公明説があるが彼は権守であるから別人)に実行を命令したものの写である。

二〇ノ二、右少辨藤原定親奉書案

正慶元年(1332)
(前号と同じ一紙に書継ぐ) 大嘗会由加物使等事、当国々宣事、業清状申如件、子細見状候歟任先例可令下知給之由、御気色所候也、仍執達如件、 正慶元年十月三日 阿波守殿 (藤原) 右少辨定親

(前号と同じ一紙に書き継ぐ)

大嘗会の由加物(ゆかもの)使等の事、ならびに当国(阿波国)への国宣(命令)の事について、業清の状(書状)に申すところは件(くだん)の通りである。
子細は状に見える通りであるから、先例に任せて(従って)下知を下し給うべきであるとの旨の、御気色(おぼしめし・ご意向)である。
よって、執達(命令の伝達)は以上の通りである。

正慶元年(1332年)10月3日
阿波守殿
(藤原)右少弁定親

前号と同様の内容のことを右少弁定親が院の命を受け、念を入れて阿波守に伝達したものの写である。前号もこの号も端裏書によれば院宣とされているが院宣の様式をとっていない。朝廷伝統の神事だからであろう。

二一、神祇官勅使下文

正慶元年(1332)
下勅使御殿人三木右近が事 右於彼右近九者、自往古、為勅使御殿人致課之上者、向後更不可致長者等濫妨之由、勅使殿被下候也、仍執達如件、 正慶元年十二月一日 勅使神祇権少副斎部(花押) 御代官(花押)

下達する。勅使の御殿人(ごてんにん)である三木右近に関する事。
右の、あの右近九については、昔から勅使の御殿人として役目(課役)を果たしている以上、今後は決して長者らが不当な介入や妨害(濫妨)をしてはならない、と勅使殿がお下しになった。よって、以上の通り通達する。

正慶元年(1332年)12月1日
勅使 神祇権少副 斎部(いんべ) [花押]
御代官 [花押]

三木右近尤氏村は昔の代から大嘗会に御殿人として奉仕するのであるから麻殖忌部の長者として濫妨しないようにと代官と勅使の連署をもって下したもの。種野山の代官が書いたものと思われる。

二二、神祇官勅使下文

暦応元年(1338)
下勅使御殿人三木左近が事 右於彼左近九者、自往古、為勅使御殿人致課役之上者、向後更不可致長者等乱妨之由、勅使殿仰候也、仍執達如件、 暦応元年十二月二日 勅使神祇権少斎部(花押) 御代官重秀

下達する。勅使の御殿人(ごてんにん)である三木左近に関する事。
右の、あの左近九については、昔から勅使の御殿人として課役を果たしている以上、今後は決して長者らが不当な介入や妨害(乱妨)をしてはならないと、勅使殿が仰せになった。よって、以上の通り通達する。

暦応元年(1338年)12月2日
勅使 神祇権少 斎部 [花押]
御代官 重秀

北朝光明天皇大嘗会に関するもので、内容は前号と同じである。勅使の署名に疑がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう。

二三、仏心請文

暦応五年(1342)
あしたにのきらいのな子とものふるまいの事、右大くほのむまとの又大郎とさうろんありといふとも、仏心らこときのな子ハいつれのかたをもきらいまいらする事あるましく候うゑハ、むまとの御方へむけてもうしろをむけまいらする事有ましく候、かくのごとく申候うゑハ、いまより以後へいつれの御方をもわれらがにんとしてきを申事またくあるましく候、仍而如件、 暦応五年八月十一日 仏心(略押)

あしたにのきらいの名子(なご)どもの振る舞いの事。
右、大くほのむまとの又大郎と争論(相論)ありというとも、仏心らごときの名子はいずれの方をも嫌い参らする事あるまじく候うえは、むまとの御方へ向けても後ろを向け参らする事あるまじく候。
かくのごとく申し候うえは、今より以後へ、いずれの御方をも、我らが「にん」として「き」を申す事、まったくあるまじく候。仍(よっ)て件(くだん)の如し。

暦応5年(1342年)8月11日
仏心(略押)

大窪の右馬と又太郎の争いに関して、又太郎側と誤解された名子身分の仏心が何れの方にも加担するものでないとの一札を差入れたもの。三木氏は仲介者であろう。

二四、口宣案 (宿紙)

康永四年(1345)
上卿権大納言 康永四年九月六日 忌部重村 宣旨 道任左兵衛尉 源康継 宜任右馬允 蔵人東宮学士藤原兼綱奉

上卿(しょうけい)である権大納言のもと、
康永4年(1345年)9月6日
忌部重村に対する宣旨(天皇の命令)を下す。 左兵衛尉(さひょうえのじょう)に任ずる(※)。
源康継を、右馬允(うまのじょう)に任ずる。
蔵人(くろうど)であり東宮学士(とうぐうがくし)である藤原兼綱が(天皇の命を)承ってこれを通達する。

北朝光明天皇の朝廷の叙任書。蔵人が書し上卿が宣する。一通の口宣案に二人を連名叙任するのは異例である。当時官職名を稱するためには朝廷からこのように口宣案を頂くべきであった。上卿の権大納言は時に八人あり、人物を特定できない。

  • 卿権大納言(しょうけいごんだいなごん):「上卿」は朝廷の会議や儀式、公事の執行において責任者・指揮者となる高位の公卿を指します。この文書ではその役職が「権大納言」であることが記されていますが、担当した個人の名前は史料上に記載されていません。
  • 康永(こうえい):南北朝時代(北朝)の元号で、康永4年は1345年にあたります。
  • 宣旨(せんじ):天皇の命令を伝える公文書のことです。
  • 道任左兵衛尉:史料の文字通り「道任」として記載していますが、任命の公文書(宣旨など)における定型句である「宜任(よろしく〜にんずべし:〜に任命するのがよい)」の誤写、あるいは異同の可能性が高いと思われます。「左兵衛尉」は、宮中の警備などを担う左兵衛府の第三等官(判官)です。
  • 宜任右馬允(よろしくうまのじょうににんずべし):「右馬允」は、朝廷の馬の飼育や管理などを担う右馬寮の第三等官(判官)です。
  • 蔵人東宮学士藤原兼綱奉:「蔵人(くろうど)」は天皇の側近として事務などを扱う役職、「東宮学士(とうぐうがくし)」は皇太子の教育係です。「奉(うけたまわる)」は、天皇の命を受けて文書を作成・発行したことを示します。この文書は藤原兼綱が承って手配したことがわかります。

二五、名主職裁許状

貞和二年(1346)
下大浦内宇津井歩一宇職事 右、彼於宇津井歩一宇五百文跡者、依為道念私領譲渡覚盛處、円勝自覚盛手預領知号由處之地、敵對之被召合遂問答之處、道念之譲状云円勝之奪状覚盛之帯之處、証文明白間、彼於名主職者任相伝道理所下知如件、 (花押) 貞和貳年九月廿八日

下大浦(しもおおうら)の内にある、宇津井歩(うついぶ)の一宇(いちう:一棟の建物、または一つの区画)の職(しき:権利や役職)のこと。

右の件について。あの宇津井歩の一宇・五百文の跡(屋敷や土地)については、道念(どうねん)の私領であるため覚盛(かくじょう ※読みは推測)に譲渡したところ、円勝(えんしょう)が「覚盛の手から預かって領知(支配)している」と主張した土地である。
(そこで)敵対する双方を召し合わせて問答(裁判・審理)を遂げたところ、道念の譲状(ゆずりじょう)、ならびに円勝の奪状(だつじょう:土地を奪ったことに関する文書、あるいは権利を放棄した文書)を覚盛が所持しており、証文(証拠文書)が明白である。
したがって、あの名主職(みょうしゅしき)については、相伝(代々受け継ぐこと)の道理に任せて下知(命令・判決を下すこと)するのは以上の通りである。

(花押)
貞和2年(1346年)9月28日

宇津井歩一字五百文(銭五百文の年貢地の意)跡の係争について、円勝をしりぞけ覚盛の訴を認めたもの、裁許者は不明であるが、種野山代官であろうか。貞和は北朝光明天皇の年号。

二六、在家二家宛行状

観応二年(1351)
宛行 種野山国衙分三木内、在家貳家之事 右、於御方、依致忠、彼在家所補任之状、如件、 観応二年七月廿二日 (花押) 三木衛門尉殿

宛行(あておこない:所領や権利を与えること)

種野山(たねのやま)の国衙分(こくがぶん)である三木(みき)の内にある、在家(ざいけ)二家(二軒)のこと。

右の件について。(あなたが)当方(味方)において忠節を尽くしたことにより、あの在家(の支配権)を補任(ぶにん:任命・授与)する状(文書)は、以上の通りである。

観応2年(1351年)7月22日
(花押)
三木衛門尉(みきえもんのじょう)殿

観応(かんのう)2年:南北朝時代の北朝の元号で、西暦1351年にあたります。三木衛門尉が北朝(あるいは室町幕府)側として武功や忠節を立てたことに対する恩賞の文書であることが読み取れます。
軍忠の功として国衙領三木のうち在家二家分を宛行つたもの。観応は北朝崇光天皇の年号であるが、前年来足利尊氏・直義がたがいに南朝に降って相戦い、阿波国でも内戦が展開した。花押の主は不明。尊氏とするのは誤り。

二七、阿波守為仲南朝安堵状

正平七年(1352)
阿波国種野山内三木村事為本知行不可有相違領掌之旨、依執達如件、 正平七年七月日 三木左衛門尉殿 阿波守為仲奉

阿波国(あわのくに)の種野山(たねのやま)内にある三木村(みきむら)のこと。

(この地は)本知行(ほんちぎょう)であるので、相違なく領掌(りょうしょう)すべきであるという旨について、執達(しったつ)により(申し伝えるのは)以上の通りである。

正平7年(1352年)7月 日
三木左衛門尉(みきさえもんのじょう)殿
阿波守為仲(あわのかみ ためなか) 奉(ほうず / うけたまわる)

正平(しょうへい)7年:南朝の元号で、西暦1352年にあたる。
前号文書の翌年で南朝は再び北朝の足利氏と対立した。南朝方の為仲が主君の命を奉じて三木村の本領を安堵したもの。

二八、とう内借麦証文

正平八年(1353)
三木中口うつらをちう人とう内申上け候しゆこのむきの事 合五斗者 正平八年十二十二日癸巳年とう内(略押) 右件むきハひやうゑ殿なり、らいなつのとき七わりのりふんをくわへてけたい候へすわきまへまいらせ候へん、もしけたい候わバみあいにからしちをとられまいらせ候へん、又いかなるけふもんぜいげの御りやうにこもりいて候とも、このしようもんのしやうにまかせてさたしとられまいらせ候へん、よてこにちさたのためにしようもんのしゃう如件、

三木中口うつらをちう人 藤内 申上げ候 しゆこの麦の事
合(あわせて)五斗は、正平八年十二十二日 癸巳年 藤内(略押)

右、件(くだり)の麦は兵衛殿なり。来夏の時、七割の利分を加えて懈怠(けたい)候わず弁え(わきまえ)参らせ候わん。もし懈怠候わば、見合いにから質を取られ参らせ候わん。又いかなるけふもんぜいげの御領に籠り居て候とも、この証文の状に任せて沙汰し取られ参らせ候わん。依って後日の沙汰のために証文の状、件の如し。

藤内が五斗の麦を借り、来夏七割の高利を付して返済すると約したもの。抵当としてからし地を入れる。

二九、出雲守時有奉南朝宛行状

正平十五年(1360)
阿波国高越寺庄内西庄為御恩可知行之旨、依執達如件、 正平十五年八月三日 三木太郎兵衛尉殿 出雲守時有奉

阿波国の高越寺庄内にある西庄を、御恩(ごおん)として知行すべきであるという旨について、執達(しったつ)により(申し伝えるのは)以上の通りである。

正平15年(1360年)8月3日 三木太郎兵衛尉殿 出雲守時有 奉(ほうず / うけたまわる)

時有の主君(袖花押の人物)の命により、恩賞として高越寺庄内西庄を与えたもの、出雲守時有は菅生文書正平五年七月廿二日粟野三位中将御教書をはじめ阿波・土佐各所の南朝文書の奉者としても見られる。三木氏村が南朝方の有力な山岳武士として活動していた様子がしのばれる。

三〇、阿波守為仲奉南朝安堵状

正平十八年(1363)
種野山内三木半分不可有相違旨、依執達如件、 正平十八年六月日 三木九郎兵衛尉殿 阿波守為仲奉

種野山(たねのやま)内にある三木の半分(の領有・支配)について、相違(他からの妨害など)があってはならないという旨について、執達(しったつ)により(申し伝えるのは)以上の通りである。

正平18年(1363年)6月 日 三木九郎兵衛尉殿 阿波守為仲(あわのかみ ためなか) 奉

為仲が主君の命を奉じて三木半分の三木氏知行二代を認めたもの。

三一、友近譲状

正平廿二年(1367)
こまけ三分一のつほさしの事 合やしきたか又うしろち、さかい谷也、やまつおなり 右、件のさかいわせんねんのごとくなり、これにつくさんはくの事、すへりさかねきかけのミちのお、さかう八らくのゐのしりへ、これにつく御ねんじハ、百二十七文なり、ほたいなくそうりやうゑさたあるへし、仍ゆつりしゃう如件、 正平廿二年二月十二日 九郎兵衛のゆつりしやう 友近(花押)

こまけの三分の一の坪差(つぼさし:区画や面積)のこと。

あわせて屋敷高(屋敷地)、また後地(背後の土地)。境界は谷である。山つお(山の尾根)である。 右の件について、この境界は先年(以前)の通りである。これに付随する「さんはく」のこと。(境界の目印は)「すへりさか」、「ねきかけの道の尾(尾根道)」、「さかう」、「八らくの井」の尻辺(後ろ側)。これに付随する御ねんじは百二十七文である。怠ることなく惣領へ沙汰(納入など)すべきである。よって、譲状(の内容)は以上の通りである。

正平22年(1367年)2月12日 九郎兵衛の(への)譲状 友近(花押)

友近が九郎兵衛尉重村に与えた譲状である。年貢は族長の惣領を通して領主や代官に納めるものであるが、この場合は友近の本家をさすのであろう。

三二、後村上天皇綸旨(宿紙)

正平廿二年(1367)
忠節之次第被聞召候以神妙、可守其節之由天気如件、悉之、 正平廿二年三月廿三日 左少辨(花押) 三木太良左衛門尉館

忠節の次第(行い)について、(天皇が)お聞き届けになられました。神妙(殊勝で立派なこと)であるので、(今後も)その忠節を守るべきであるという天皇のお言葉(ご意向)は、以上の通りである。この旨をよく承知せよ(あるいは、忠義を尽くせ)。

正平22年(1367年)3月23日 左少弁(さしょうべん)(花押) 三木太良左衛門尉館

天皇が太郎左衛門尉の忠節を聞しめした、まことに神妙である、ますます忠節をつくすようにとの天皇の仰せである、以上を実行せよという感状の綸旨である。宛名の館は武家の邸宅を意味する。阿波の山岳武士は社会一般が北朝の世となっても南朝方として活動した。

三三、阿波守為仲奉南朝感状

正平廿二年(1367)
親父太郎左衛門尉重村同致軍忠之由被聞食以神妙次第也、別可有賞之旨、依仰執達如件、 正平廿二年卯月十四日 阿波守為仲奉 三木帯刀允殿

親父である太郎左衛門尉重村が、同じく軍忠(戦場での忠義・戦功)を尽くしたという旨について、お聞き届けになられ、神妙(殊勝)な次第である。別に(特別に)恩賞があるべきであるという旨について、仰せにより執達(しったつ)により(申し伝えるのは)以上の通りである。

正平22年(1367年)卯月(4月)14日 阿波守為仲 奉 三木帯刀允(みき たてわきのじょう)殿

為仲が主君の命を奉じて出した感状である。三木重村と子息の盛村とが同じく軍忠をした由を聞しめしたというもの。袖花押は為仲の主君のものである。

三四、義興譲状

正平廿五年(1370)
ゆつりわたす阿波国名東庄内十四条郷領家職事 右植渕たでわき丞盛村やう子として彼所をゆつりわたす所実ぜ、若義興子孫していんまたをいたし候ふけうの子して義興かあとをもつましく候、仍為後ゆつり状如件、 正平廿五年四月廿六日 義興(花押)

譲り渡す、阿波国(あわのくに)の名東庄(みょうどうのしょう)内にある十四条郷(じゅうしじょうごう)の領家職(りょうけしき)のこと。

右の件について、植渕たでわき丞盛村(うえぶち たてわきのじょう もりむら)を養子として、あの所(領地)を譲り渡すことは実ぜ(真実)である。もし義興(よしおき)の子孫で「いんまた」をするようなことがあれば、ふけう(不孝)の子として義興の跡(家督や所領)を持たせる(継がせる)べきではない。よって後日のための譲状は、以上の通りである。

正平25年(1370年)4月26日 義興(花押)

義興が盛村を養子として所領の一部を譲与したらしい。もし義興の子孫にしてこの所領を押妨するなどの行為があれば勘当して義興の跡を継がせないとする。盛村勢力の飛躍的拡大がしのばれる。

三五、細川頼有預ヶ状

応安六年(1373)
阿波国種野山国方内三木名事、所預置也、守先例可致沙汰之状、如件、 応安六年七月廿五日 三木太郎左衛門殿 右馬頭(花押)

阿波国の種野山の国方(くにかた)内にある三木名(みきみょう)のこと。

(この地を)預け置くところである。先例を守り、沙汰を致すべきであるという状(文書)は、以上の通りである。

応安6年(1373年)7月25日 右馬頭(うまのかみ)(花押) 三木太郎左衛門殿

国衙領三木名を守護細川頼有が渡しおいたもの、これは北朝方から与えられたもので、このときから三木氏は北朝側に転向し、三木名の領主たることを認められたのである。この文書の差出人を従来細川頼之としてきたが、それは誤りで、官職名といい花押といい頼有のものである。守護がその管内を領国とする意識が「預置」という言葉にうかがわれる。

三六、某知行宛行状

至徳三年(1386)
下 阿波国種野山事 可領知所、中村五間 右、彼於所領處時之忠三木之太刀帯可知行之状如件、 至徳三年十一月廿八日

下(くだ)す。

阿波国種野山のこと。 領知(支配)すべき所は、中村の五間(ごけん)。

右の件について、あの所領のところ、時之忠(ときのちゅう)、三木の太刀帯(みきのたてわき)が知行すべきであるという状(文書)は、以上の通りである。

至徳3年(1386年)11月28日

至徳(しとく)3年:北朝の元号で、西暦1386年にあたる。
北朝方としての三木帯刀の武功に対し、主君某が種野山中村五間を授けたもの。

三七、覚妙譲状

応永十四年(1407)
ゆつりわたす名田の事 かきた平一家 右、件名田者左衛二郎にゆつりわたすところ在地めはくなり、此うゑへいつれ人たりというともいいらんさまたけあるへからさる状、如件、 応永十四年八月三日 覚妙(花押)

譲り渡す名田(みょうでん)のこと。

かきた平(ひら)の一家(いっか / いちげ)。

右の件について、くだんの名田は左衛二郎に譲り渡すところであり、在地(土地の所在や境界)は明白である。この上は、どのような人物であっても「いいらんさまたけ(違乱妨げ)」があってはならないという状(文書)は、以上の通りである。

かきた平一間の名田を覚妙が有していたのを左衛二郎に譲与したもの。

三八、有村久村連署渡シ状

文安六年(1449)
大おうくほのミやうてんの事 合へんけんの分 五郎さへもん方二わたし申也、よの方のさたいしんあるましく候也、もしゆわれぬ事候共、もちいへからす候也、 三月十七日文安六年己巳年 有村(花押) 久村(花押)
半間分の名田を五郎左衛門に手渡したもの。

三九、細川常有感状

寛正四年(1463)
就畠山右衛門佐御対治永々在陣之条尤神妙候、仍官途之事、不可有子細候也、謹言、 寛正四年三月廿三日 刑部少輔(花押) 三木帯刀丞殿

畠山右衛門佐の討伐につきまして、長らく在陣していることは誠に立派(神妙)に存じます。 よって、(ご希望の)官途(官職)の件につきましては、何ら差し支え(異議)はございません。 謹言。

寛正4年3月23日 刑部少輔(花押) 三木帯刀丞殿

畠山義就討伐のため永々在陣のことを賞し、官職所望のことを諒承したもの。この年三月十四日義就の拠城とした河内国嶽山城が幕府方諸将の大軍のため攻落されている。三木帯刀丞も細川常有の配下として出征していたのであろう。やがて応仁の大乱となる。

四〇、細川元常官途状

永正九年(1512)
望申官途之事、得其意候也、謹言、 永正九年八月八日 三木左京進殿 元常(花押)

ご希望されている官途(官職)の件につきまして、了承いたしました。 謹言。

永正9年8月8日 元常(花押) 三木左京進殿

本来、官職は朝廷から下されるものですが、主君である武将が了承して名乗らせる場合も少なくありませんでした。
差出人の細川元常は阿波国守護であり、この文書から三木氏がその家臣となっていたことがわかります。