阿波国麻植郡・美馬郡の山間部における中世から近世にかけての社会構造を紐解く上で、川田村の土肥(住友)氏と、木屋平(三ツ木村)の天田(三木)氏の動向は極めて重要な歴史的意義を持つ。近代以降の阿波地域史研究においては、三木家文書などの由緒書が示す「あるべき歴史」をそのまま史実として受け止め、古代から連綿と続く神聖な血脈としてのみ捉える傾向が強かった。
本論は、川田の『住友家記録(川田町史)』という外部史料の具体的な記述と、四国中世史研究における丸山幸彦氏の論文「近世において再編された中世三木家文書」に示された厳密な史料批判を交差検証する。これにより、由緒書が編纂される以前の天正期における在地領主の確かな実像と、丸山氏論文の死角を補完しつつ、近世社会において「家」の由緒がいかにして合理的に再編・構築されていったのかを時系列に沿って緻密に解き明かす。
川田村の在地領主であった土肥氏は、新羅源氏の嫡流を自認する一族である。元祖である小笠原長政が下野国足利領に在城し、嫡子政直の代に土井(土肥)と改姓したと伝わる。その後、細川頼春に従って四国へ渡り、讃岐国寒川側に在城した。天文年中には細川氏の命により阿波の川田村へ移り、川田村や大州古茂田庄、讃岐三木郡などを領有する勢力となった。
同族の土肥因幡守源綱真は、天文年中に川田井上城に移住した。綱真の三男・新右エ門秀実は、天正7年(1579年)に長宗我部軍と脇城外で戦い、矢野駿河守國村ら義士数百人と共に戦死を遂げている。
一方、川田村に移った八代・正真の系譜では、子の正守が一宮合戦で戦死し、従弟の正勝を養子に迎えて「住友」と改姓した。しかし天正の頃、長宗我部氏の侵攻により居城が陥落し、正勝も戦死する。この非常事態において、幼少であった嫡子の住友正家を預かり、養育して庇護したのが「縁者同郡三ッ木村三木何某」であった。
四国中世史研究における丸山幸彦氏の論文「近世において再編された中世三木家文書」は、のちに三木家となる一族が戦国末期の段階で「天田」を名乗っており、寛政10年(1798年)に分家の武之丞が由緒書を提出するまで「三木」という家は存在していなかったと論じている。すなわち丸山氏の論考に従えば、天正期において「三木家」自体が元々存在していなかったことになる。
しかし、丸山氏の論文はこの点において注意と再考を要する。『住友家記録』という外部史料には「縁者同郡三ッ木村三木何某預り養育し」と明確に記されている。この記述は、のちに由緒書で創出されたような「古代忌部の名門・三木家」という偉大な存在ではなかったにせよ、三ツ木村という地名をもとに外部から「三木某」と呼ばれた有力な在地領主が、天正期に確実に存在していたことを示準している。丸山氏の研究は内部文書の批判においては極めて精緻であるが、外部史料に記録された「地名に基づく三木氏」の実在を見落とす危険性を孕んでいる。
天正13年(1585年)、蜂須賀氏の阿波入部に際して仁宇・大粟山で一揆が発生した。
住友豊蔵氏所蔵の『乍恐奉願覚』(天正13年草案)には、一揆勢が木屋平や川井山の勢力に援助を求めた際の状況が次のように記されている。
これを受け、住友彦兵衛と弟の五郎右エ門、伊沢志摩の三名は申し合わせ、「早速馳付一揆之者共追払」、鎮圧に成功した。この軍功により、住友家は藩主から城へ召し出されて褒美の言葉を賜り、代々の「御目見」と「郷高取」という確固たる武家待遇を獲得したのである。
一方、丸山氏論文が引く天和元年(1681年)の三ツ木村庄屋・長左衛門の訴状には、自らの祖父の功績がこう記されている。
外部史料である住友家記録の「三ッ木村兵衛之丞」と、内部史料である三木家記録の「天田兵衛丞」。一揆に与しなかったという行動と「兵衛丞」という実名が見事に符合する。この交差検証は、天正期の木屋平に「兵衛丞」という実力を持った在地指導者が実在し、彼らが周辺地域(川田の住友氏など)からは地名に基づき「三ツ木村の某(三木某)」として認識されていた実態を裏付けるものである。
武力鎮圧によって厚い恩賞を得た住友家に対し、飛脚での情報提供に留まった三ツ木村の兵衛丞に対する身分保障は限定的であったと推察される。江戸時代に入ると彼らは無姓へと転落し、天和元年の訴状にある通り、長左衛門が「近年無姓になり…名字之義も御赦免被為成被為下候ハ」と藩に懇願する状況に陥った。
決定的な転換点は延享4年(1747年)に訪れる。本家の庄屋長左衛門が罷免され、代わって分家の元助が庄屋職を引き継いだのである。このとき、分家の元助は「天田」を名乗って村の行政と経済を掌握していくこととなる。元助・惣助・武之丞と続く分家三代は、三ツ木村を中心とした和紙(尺長紙)の生産・流通を牛耳った。寛政2年(1790年)の「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、その経済的覇権が克明に記されている。
分家の天田家は資金貸付から紙の集荷までを主導し、地域を先進的な和紙生産地へと押し上げ、絶大な実権を握ったのである。
和紙ビジネスで村を支配した分家の武之丞は、寛政10年(1798年)、零落した本家を復興させるため、実子の恒太を本家の養子として送り込み「麻殖郡三ツ木村百姓恒太家筋由緒書」を提出した。ここで初めて、先祖は天田氏ではなく「忌部宗時入道同佐兵衛尉重村」であり、地名をとって「三木」を名乗ったとする中世に遡る壮大な由緒が内部から公式に主張されたのである。
丸山氏論文によれば、この由緒を裏付ける『三木家文書』に対し、福尾猛市郎氏、脇田晴子氏、福家清司氏らによる厳密な史料批判が行われている。
1. 南朝年号文書の作為:
脇田氏は、天皇の命令書である綸旨が三木氏クラスの地侍に直接下される際、相手を慮って充所を書かないのが通例であるにもかかわらず「三木太郎左衛門尉」と不自然に記されている点などを指摘し、後世作成の偽作文書であると断じた。福家氏も、阿波・土佐の四国山地に散在する南朝年号文書が、18世紀において地域の人々が由緒を求める動きの中で一斉に作成されたものであることを明らかにしている。
2. 御衣御殿人集団の仮託:
13人の御殿人が連署したとされる南北朝期の契約状には「毎年二月と九月の二度山崎で市がひらかれるときに寄合を開き評定をおこなう」とある。しかし山崎村西久保は、近世末において麻植郡の紙を検査する「紙役所」が置かれた交通の要衝であった。これらの文書は、中世からの忌部神信仰の集会を示すものではなく、近世において三ツ木村の和紙生産・販売従事者たちが川田村の種穂社のもとに結成していた「講集団」の結束と特権を、そのまま南北朝期に遡らせて正当化するために作成されたものである。
『三木家文書』に見られる中世に遡る壮大な記述は、18世紀の阿波山地において、新興の和紙産業による経済力を背景に創出・再編された「あるべき歴史」の集成であった。不祥事で没落した本家を復興させるにあたり、実権を握る分家の天田氏は、本家に同じ「天田」を名乗らせるのではなく「古代忌部氏直系の名門・三木家」という不可侵の精神的権威を付与することで、村落支配を盤石なものとしたのである。
しかし、『住友家記録』と『三木家文書』の交差検証が雄弁に物語る通り、天正期の木屋平には、長宗我部の侵攻や蜂須賀氏入部という戦国の動乱をしたたかに生き抜き、外部からは地名に基づいて「三木某」と呼ばれた確かな在地領主の血脈が息づいていた。丸山氏論文が指摘する史料批判の正当性を受け入れつつも、その過度な内部史料依存による死角を外部史料によって補正することで、歴史の真実にさらに肉薄することができる。
この天正期に実在した「三木某」が、果たして真に古代忌部氏の血を引く者であったのかどうかは、今回交差検証を行った両史料の記述のみから直ちに証明することはできない。しかし、近世の庄屋たちが実在の先祖の足跡を基盤に中世文書を再編し、強固なアイデンティティを築き上げていったプロセス自体が、阿波山間部の村落社会が有する力強い歴史のダイナミズムである。そして、忌部の血脈という阿波古代史の深層に迫るためには、『三木家文書』という巨大な史料群に対する、先入観を排したさらなる解読と多角的な分析の継続が不可欠となるのである。