第二次大戦以前、麻植郡種野山や美馬郡祖谷山など阿波の四国山地においては二つの由緒の存在が強調されていた。一つは種野山の三木文書中に中世忌部関係文書が存在することをもって、古代以来種野山の住人は大嘗会に際して荒妙貢進をおこなってきたという由緒である。もう一つは種野山ならびに祖谷山の中世文書に南朝年号文書があることをもって、四国山地で南朝方の武士が活動していたという由緒である。これらは一八世紀中期に麻植郡・美馬郡地域で地域の人々が由緒書・縁起の枠内ではあるが、歴史に目を向け、そのなかに家の権威や地域の独自性の源泉を求めようとする動きが起こっており、そのなかで作りだされたものであった。しかし、近代になってからの阿波地域史研究においては、多くの場合、この由緒書・縁起の枠内でつくりだされている「あるべき歴史」としての由緒をそのまま史実としてうけとめ、そのなかで阿波西部山間部の南北朝期の歴史を名分論的な立場からする南朝方在地領主の活動としてのみとりあげ、あるいは古代から近世に至るまで切れ目なく続く忌部神信仰の存在をとりあげるということになっている。
中世において種野山とよばれていた麻植郡山間部にある三ツ木村(三木村)の三木家に中世三木家文書は所蔵されている。この文書群は一八世紀半ばになされている三木家の「あるべき歴史」作成とかかわって姿をあらわしているが、近代になってからの研究では文書群そのものについての、その真偽をふくめた検討がなされないまま全体を真正な中世文書として扱ってきた。このような状況を克服し、文書そのものについての検討がなされるようになるのは一九八〇年代になってからである。
(3) 一九八二年福尾猛市郎氏が写真と対照させながら三木家全文書の釈文を作成する。ここで氏は数点の文書について様式からみて疑点があり偽作文書の可能性があるとして文書そのものへの批判的検討にはじめて踏みこんでいる。さらに一九八九年に脇田晴子氏はこの文書群全体の検討をおこない全体を下記の三群に分類する。
その上で、各群の文書の特色を指摘するとともに各群とも疑問の存する文書が少なからず存在することを指摘する。この脇田氏の分析で、三木文書がどのような特質をもった文書群であるのか、文書群を構成する個々の文書がその真偽をふくめどのように位置づけられるものかが明確になった。
そして二〇〇〇年に福家清司氏は四国山地中の阿波種野山・祖谷山および土佐大忍庄に所在する南朝年号文書について検討をくわえ、これら文書群にふくまれている為仲奉書など奉書関係は近世になってから作成された文書であること、三木家文書中にも為仲奉書など数通の近世に作成された南朝年号文書がふくまれていることをあきらかにし
(5)
三木家文書の分析はこのように前進してきているが、課題も残されている。脇田氏は「疑問が存する文書群もこれが三木家に伝来したことによって何らかの効果があったことは確かであるから、その作成の時期、動機を明らかにし、それがどのような意味で有効であったかをとき明かすことこそ歴史学の使命であると考えられる」としている。それをふまえ、本稿は第一に福尾・脇田・福家氏の検討結果をもとに三木家文書群のどの部分が中世からの伝来文書でありどの部分が後世作成の文書であるのか整理する、第二に三木家はいつ頃どのような背景のもとで伝来文書に後世作成文書をつけ加えているのか、どのような目的をもってそれをしているのか検討する。これにより脇田氏提起の問題の一端に答えうるとともに、三木文書の全体像をより明確にする一助になりうるものと考える。
(7) 中世三木家文書は表一に整理した四九通から成りたつ。上記脇田氏の分類を受けつぎつつ、それを一部修正してつぎのような三群からなる文書群として把握したうえで、それぞれの群について検討する。
南朝関係と武家関係の二つに分かれる。このうち南朝関係を整理したのが表二である。27・20・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書である。脇田氏はこの四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要するとする。後に福家氏はこの四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて一九通の同種類の南朝年号をもつ御教書(奉書)が阿波山間部には所在しておりそれらは近世になって作成された文書であるとした。
32について、脇田氏は綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はないが、南朝の場合は軍隊動員上ままありえたとする。ただし、その場合には相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが通常であり、三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわないとする。さらに48もかって三木家に所蔵されていた綸旨で、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまる。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書とすべきである。
武家関係を整理したのが表三である。35・30・40について、脇田氏はいづれも花押がついているが本文書とは思われないとする。具体的に35については末尾の「右馬頭」の署名の直下に花押がなく少し位置がずれている点に疑問を感ずるとし、30・40については「官途」が唐突にでてくる点で検討を要するとする。20・30について福尾氏・脇田氏ともにふれていないが、26は冒頭「宛行種野山国衙分三木内在家弐家之事」としながら結びは「所補任之状如件」となっており整合していない。30は「依時之忠、可知行」という知行宛行状としてはあいまいな表現になっており正当な伝来文書とは考えがたい。武家関係もすべて後世作成文書からなりたっているとすべきである。
この文書群について脇田氏は一括して扱われている。しかし阿波国司に荒妙貢進をおこなうことを命じた文書群(イ)と荒妙貢進をおこなう御衣御殿人集団についての文書群(ロ)とは性質が異なるので二つに分ける。
(11) イ群を整理したのが表四である。福尾氏は24をのぞき問題はないとし、脇田氏も全体が文面に難点はなく正文の写しと思われるとする。24について福尾氏は「口宣案に二人を連署叙任するのは異例」として疑問を呈し、脇田氏は連署で叙任される例もあり正当な文書とする。脇田氏の判断にしたがうが、そうなると二イ群は全体として中世からの伝来文書群とみてよいことになる。
ロ群を整理したのが表五である。2と3は中央の斎部氏長者下文であり、福尾氏は2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」、3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」とする。脇田氏も2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわないとする。5について福尾氏は差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがあるとし、脇田氏も福尾氏の指摘通りとする。1について脇田氏は下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっておらず、書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないものになっているとする。21と2について、福尾氏は22は「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、2は「勅使の署名に疑がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とする。脇田氏も両通とも下文としての様式に不自然さがあるとする。
この六通についてさらにみておきたいのは内容である。2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとし、5・11で四郎男あるいは氏人黒女は御殿人に属するから左方長者らが所役をかけるのは不当とする。21と2も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとしており、一二六〇年代から一三三〇年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになり、作為的である。この六通は形式面からも内容面からも後世作成文書とみざるをえない。
そして20の二通の文書について、脇田氏は院宣案という端裏書をもっているが「院宣」の文言はなく、また誰かの令旨や奉書にしてもその名がもりこまれていないからどこから発したのかもわからない。しかも20文書は2文書と筆跡が似ているとする。指摘通りである。ただ、脇田氏はこの文書を二イに位置づけるが、2と同筆であり、その点で20の二通は上記の六通と一括して扱うべき文書である。
(16) 46と141について、一三名の御殿人が連署署名している南北朝期の契約状として著名であるが、原文書は失われている。福尾氏はとくにふれていないが、脇田氏は中世の一揆契状とみてよいのではとしつつも、近代の写しであり考察が困難とする。検討してみると、連署者一三名の中心となっているのは三木氏村と考えられるが、その名前は文政一〇年(一八二七)三木恒太作成の南北朝期から恒太に至る三木家代々を記した『三木氏累祖連綿記』に南北朝期の先祖の一人「三木右近允氏村」としてあらわれているのが初出である。連綿記の三木氏代々のうち中世の部分は表二・表三として整理した後世作成文書を編集しなおして作られており、氏村もこの際に新規に作られた名前である。これは氏村以外の他の人名にもあてはまり、二通の契約状は後世作成文書とみるべきである。
中世種野山にかかわる文書群で二〇通からなりたつ。まず15と札について、15の冒頭は「麻殖山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」となっているが、脇田氏は条々の内容からみて種野山全体が訴えたものとみるのが妥当で、冒頭は「麻殖山番頭百姓等訴申条々」とあるべきものとする。またつぎのようになっている末尾にも問題が残るとする。
問題は代官沙弥の花押である。この花押は福尾氏が指摘するように16の三木名番頭職補任状の御代官願仏の花押と同じである。しかも16については脇田氏は下文の場合「下 宛名」となるべきが「下三木名番頭職事」となっており宛名がなく不自然であり、後世作成の文書とする。つまり15の冒頭・末尾には作為が加えられており、また16は後世作成の文書とすべきである。
つぎに41について、その末尾はつぎのようになっている。
この41は種野山全体の在家員数などを書きだしており、15とならんで中世種野山についての中心的な史料であるが、みておきたいのは末尾における三名の署名の位置の不自然さである。三名の署名は年月の行とつぎの「但此事・・・」と記された行との間の余白に押し込められて書かれており字体も不揃いである。嘉暦年間作成はまちがいないが、三名の署名は後世に書きこまれたものとみるべきである。
28.31について、33は友近の譲状で末尾はつぎのようになっている。
脇田氏は末尾の宛所にやや不審が残るとする。それは「正平廿二年二月十二日」および「九郎兵衛のゆつりしやう」の二行の不自然さによるのであろう。後者の「九郎兵衛」は本文と関係がなく、前者の年月日とともに余白に押し込む形で記入されている。同様なことは28にもいえる。28は「とう内」の麦借用状であり、本文については脇田氏は在地文書として許容しうると指摘している。しかし末尾の「正平八年十二(月脱)十二日癸巳年とう内(略押)」については、墨色が本文と異なるとみうけられるし、字の配置からみても余白部分への書きこみと考えられる。つまり、31.28については本来の文書に正平年号が後世になって書きこまれているとみられる。
4・6・7について、脇田氏はこの三通はいづれも下文の形式になっているが、「下 宛名」となるべきところすべて宛名がなく不自然であるとする。さらに1も4と同じく正意宛行状案であるが、脇田氏は1についてもどのような状況のもとでだされたのかあいまいであり疑念があるとする。これら四通に登場する安村(4.6.7)と正意(1.4)について、安村は二ロの5に忌部安村としてあらわれており、正意も同じ二ロの4に安村とかかわってあらわれているところからみて、1・4・6・7の四通は二ロ文書群とあわせて後世に作成された文書として把握すべきである。(3)
24について、義興が植渕帯刀尉盛村に名東庄一四条郷領家職を譲るとしているが、名東庄一四条郷の存在は確認されていない。さらにこの盛村は表二33為仲奉南朝感状の宛先になっている三木帯刀丞と同一人とみてよく、三木家への感状類と一組になるものとして作成された文書としてよい。
このように種野山関係文書は本来の中世文書の姿を保持している文書(11・18・25・73・38・42・3・4・45)、中世文書に一部手が加えられている文書(15・28・33・4)、後世作成の文書(1,4, 6・7・16・23・3)、の三者から成りたっている。
「みつき・柏原名主百姓中」宛にだされている欠年九月二日蜂須賀小六感状という文書がある。近世初期には三木家に所蔵されていたこの感状は惣村連合としての種野山を構成する惣村の一つ三ツ木柏原名にあてて、天正一三年(一五八五)蜂須賀氏の阿波入部に際して抵抗する勢力の鎮静化に役割を果たしたとしてだされたものであり、惣村の惣有文書として位置づけられる。このことからいって中世三木家文書は近世初頭においては中世伝来の惣村文書として存在していたとしてよい。しかし表一にしめされる中世三木家文書は中世からの伝来文書(二イと三の一部)、一部手が加えられている文書(三の一部)、新規に作成された文書(一イ・ロ、二ロ、三の一部)から成りたつ文書群になっている。近世初頭以後の段階で惣村文書は再編され変貌をとげている。本章はこの再編された中世三木家文書がどのような過程をへてつくりあげられていくのか、またつくりあげられた三木家文書の特質はどのようなものであるのかについて検討する。(10)
(8) まず近世三木家の歴史についてみておく。天和元年(一六八一)「乍恐申奉訴訟之事」で当時の三ツ木村庄屋長左衛門は蜂須賀氏入部段階で先祖天田兵衛丞が「御入国之砌、在々為御仕置黒部兵蔵様・久代市兵衛様御廻り被成候節、近村之百姓共右御両人様へしたかい不申候処ニ私祖父天田兵衛丞・同長左衛門罷出、彼者共しつめ、三つ木村迄御供仕、・・・」という勲功をたてたが、近年無姓になり勲功に見合った待遇がなされていないので「如先年之刀指申様ニ被為仰付、并名字之義も御赦免被為成被為下候ハ、難有可奉存候」として天田姓復活を訴えている。先祖兵衛丞らの行動に黒部・久代の名前があらわれているように、この訴状は上記の天正一三年九月小六感状をもとに描かれている。このように戦国末期の段階で三ツ木柏原名の中心にすわり蜂須賀氏入部に際して尽力した三木家の先祖は三木ではなく天田を名乗っており、一七世紀後半には無姓になっていた子孫はその天田姓を再び名乗ることを望んでいる。そして延享四年(一七四七)にいたり、三ツ木村庄屋長左衛門が罷免され、そのあとを分家の元助が引き継ぎ以後惣吉・武之丞と三ツ木村庄屋をつとめる。この分家三代にかかわって、寛政二年(一七九〇)阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳で麻植郡山分のうち川井・三ツ木・木屋平などの村々における和紙生産の状況についてつぎのように述べる。
阿波では宝永三年(一七〇六)に和紙は藩の専売になっているが、そのもとで麻植郡は和紙生産が盛んな地域になっている。この報告書で和紙生産についてこれら村々のうち川井村について条件的に三ツ木と同じであるのに紙漉は十分ではないし、木屋平村についても条件はあるのに不十分であるなかで、三ツ木村は先進的な生産地になっており、それは「庄屋天田元助勝手も相応ニ仕候者ニ而」すなわち三ツ木村庄屋が状況を適切に把握し、「元入銀貸付」をおこないかつ「余楮之紙」もととのえて「紙方」にさしだしているためで、それにより漉人も多くかつよく組織されているとする。つまり、天田元助は生産・流通全般にわたり三ツ木村を中心にした麻植郡山分奥地での製紙業を大きく発展させている存在として注目されている。この天田元助については分家が天田を名乗るのは二代目の惣助からであること、さらに三代目武之丞は基助ともいわれていることからみて、初代の元助ではなく三代目の武之丞基助とみるのが妥当であるが、三ツ木村は分家三代のもとで和紙生産地として大きく発展をとげており、三代目の武之丞の代には藩役人の注目をも引くに至っていることをしめしている。
武之丞は寛政一〇年(一七九八)に「麻殖郡三ツ木村百姓恒太家筋由緒書」を書き藩に提出する。ここでは零落している三木本家の復興を目指し、自分の子息恒太を養子として送りこむとともに、三木本家は由緒ある家柄であるので無姓になっているのをあらため、三木姓を名乗ることを認めてほしいとしている。武之丞が書いているこの由緒書は一世紀前に庄屋長左衛門が書いている訴状と先祖が功績があったとして無姓からの脱却を求めていることでは共通している。ただし、復活を求めている先祖の姓は天田ではなく三木になっていること、さらに家の由緒について、蜂須賀氏入部時点の先祖の活動という由緒にとどまらず、中世にさかのぼる家の由緒をも強調している点では異なる。恒太由緒書は中世にさかのぼる先祖についてつぎのように記述する。
前半では先祖は綸旨を給わっているとし、その目録を提示する。これを表一と対比して整理したのが表六である。引用は二イ(中世伝来の文書)からもされているが、その多くは一イ・ロおよび二ロ(後世作成文書)からされている。そして後半で綸旨を与えられている先祖は忌部の子孫であり、南北朝期の忌部重村と鎌倉後期の宗時を結びつけそれを忌部を名乗る初代とし、二代目以降は地名をとって三木を名乗り戦国期に至る七代にわたり種野山内を本拠として続いていたとする。それを整理したのが表七であり、歴代は重村をのぞきすべて後世作成の文書に依拠してつくられている。
このように武之丞作成の由緒においては一世紀前の庄屋長左衛門の訴状で触れることのなかった蜂須賀氏入部以前の中世にさかのぼる家(天田家)の由緒が三木家由緒として前面に押しだされている。そして、天明八年(一七八八)の序文をもち地元の麻植郡で作られている『川田邑名跡志』、および天明二年(一七八二)の序文をもち徳島城下町で作られている『阿府志』に再編された中世三木家文書が引用されている。このことからみて再編された中世三木家文書群とそれを基礎にした三木家由緒の作成は一八世紀後半庄屋天田家三代のもとでなされており、九〇年代の武之丞作成由緒書はそれにもとづいて書かれているものとしてよい。
このようにして作りあげられた再編中世三木家文書とそれにもとづく新しい三木家由緒がどのような特質をもつかについて以下みておく。
再編された中世三木家文書とそれにもとづく三木家由緒の特質は一つは南朝関係・武家関係をふくむ三木家への感状を新たに作成し、それにもとづいて蜂須賀氏入部以前の三木(天田)家の先祖は種野山三木名を拠点にしていた在地領主であったことを強調していることである。
背景としては一八世紀中頃から麻植郡・美馬郡域で起こっている地域の人々が地域や家の歴史の発見に向けて動きだしているということがあった。美馬郡を中心とした阿波国地誌『阿陽記』が一七四〇・五〇年代に編集され、さらにそれと前後して美馬郡祖谷山においても延享元年(一七四四)に祖谷山政所喜多源内が祖谷山と喜多家の歴史を記した延享本『祖谷山舊記』を、さらに宝暦九年(一七五九)に祖谷山の高取名主八家が自らの家の歴史(由緒)を集成した宝暦本『祖谷山舊記』をつくる。
宝暦本では祖谷山高取名主八家のうち阿佐家と久保家(阿佐家の分家)は先祖は平氏の落人門脇中納言国盛の子孫とし、有瀬家は阿波守護小笠原氏のもとでの領主であったとする。残りの喜多・小野寺・菅生・西山・徳善諸家は先祖は南北朝期に活動する在地領主であったとしてそれを裏づけるために南朝年号文書および北朝年号文書を新規に作成している。これら文書は高取名主を中核とした名主(惣村を基盤にしている在地小領主)連合による祖谷山支配こそが祖谷山の本来の姿であるという名主家諸家にとっての「あるべき歴史」を裏づけるべくつくりあげられている。
福家清司氏は南朝年号文書が種野山・祖谷山に姿をみせていることについて、土佐国山間部の大忍庄関係文書中にも南朝年号をもつ栗野三位中将奉書があることを指摘し、「こうした文書が阿波では四国山地の谷あいの村々に伝わり、土佐では大忍庄にのみ伝わったということは、これらの地域で短時間に一連の文書が作成されたことを物語っている」として、ある特定の人物が阿波と土佐を渡り歩きそれぞれ別個に作成したものとする。国境を越えた交流の存在を指摘する注目すべき論であるが、考慮を要する点もある。
土佐国大忍庄関係の南朝年号文書は正平一一年(一三五六)二月一日付の文書八点と同一四年(一三五九)三月二日付文書一点とからなり、前者のうち七点は宛所は異なるが栗野三位中将御教書で占められる。この八通のうち四通は土佐国の在地文書を収集した『土佐国蠹簡集』に収められている。『蠹簡集』について横川末吉氏は享保九年(一七二四)~一一年の間に編集されたとしており、それをふまえるとこの四通は一七二〇年以前に存在していたことになる。残りは採訪もれであったのか、後に追加作成されたのかは不明である。一方祖谷山の場合南朝年号文書の初出は宝暦本『祖谷山舊記』であり、延享元年(一七四四)編集の延享本『祖谷山舊記』にあらわれていないところからみて、延享本から宝暦本に至る一七四〇~五〇年代に作成されているとしてよい。つまり、南朝年号文書は土佐山間部で一八世紀初頭頃に作成されており、それが阿波山間部に入ってくるのは同じ世紀の四〇・五〇年代ということになる。そうなると、同一人物が土佐から阿波に渡り歩き、南朝年号文書をそれぞれの場で作成したとみるのはやや難しい。
関連して宝暦本の祖谷山阿佐・久保両家にあらわれている平氏落人平国盛を家の先祖とする伝承が中世大忍庄にふくまれる土佐山間部植山郷の岡内家にもあらわれている。どちらの伝承が先行したのか前後関係は不明であるが、宝暦本にこの伝承が完成した姿をあらわしているところからみて、一八世紀の段階で四国山地内の密接な交流のもとでつくられたものとみてよい。すなわち一八世紀の四国山地内では上層農民層の家の「あるべき歴史」の出発点を平安末の平氏落人あるいは南北朝期の在地小領主に求め、それを裏付けるための伝承作りや南朝年号文書作成が土佐・阿波の国境を越えた密接な交流のなかでなされていたといえる。種野山においても、庄屋になっている天田家三代はこの動きの一環として、中世の三ツ木名に拠点をもつ在地領主一族としての三木家という中世にさかのぼる家の「あるべき歴史」をつくる作業を本家のためにおこなっていたのである。
再編された中世三木家文書とそれにもとづく三木家由緒のもう一つの特質は中世の三木氏を中心にした御殿人集団は荒妙貢進を担っているとしていることである。
一七世紀末に再発見された古代忌部神への信仰は高越山を中心に広がっていくが、高越山の麓にある麻植郡川田村は近世から近代にかけて阿波における和紙生産の中心地になっている。『川田邑名跡志』「川田渓」項で「川田村ニ尺長紙ヲ漉キ侍ル事ハ享保五年(一七二〇)子トヤ、弥五右衛門ト云者始テ漉シト也、今ハ数件繁昌シテ阿波尺長ト云国産トハナリ侍リ」として、一八世紀前期以来先進的な和紙生産地になっていたとする。川田村高尾家は弥五右衛門の流れをくむ紙漉人の中心的な家であるが、その由緒書で高越山鎮座天日鷲(忌部)神を紙祖として信仰しかつ「忌部の頭官衣笠宇内」の末裔であると主張している。川田村の紙漉人は高越山の忌部神に結びつき、何らかの排他的特権をもつ職業集団をつくっていたとみてよい。
川田村背後に位置する種野山も川田村にややおくれて一八世紀中・後期には和紙生産地として発展していたことは先にみた。『川田邑名跡志』巻一種穂忌部社項に「当社古事伝来 神代昔天日鷲命ヨリ始メテ今ノ神主中川氏、麻穀ヲ製シテ祓清メ年毎ニ禁庭ニ献シ奉ル事也、神祇伯白川殿御役所江指上来り候・・・」、巻六川井山項に「麻絹名……三木氏荒妙ノ宣旨下ル書アルヲ以考ニ、昔忌部姓大嘗会ノ年ニアタリ荒妙ヲ織り進セラル、ノ地ナルヘシ」とあるように『川田邑名跡志』がつくられている一七八〇年代には種野山住の忌部氏人が白川家(神祇伯)を通して荒妙を貢進していたという伝承もあらわれている。さらに三ツ木村庄屋元助(武之丞)は和紙の流通・販売面でも活動し、一九世紀になってから本家の三木恒太(武之丞の子)の子息多十郎も三ツ木村の余紙(尺長紙)を扱う「余紙調人」を名乗り、近縁に大阪の紙問屋が存在することなどからみて、種野山奥地における和紙の生産・販売に関して三木家を中心にした集団がつくられており、川田の紙漉人集団が高越山に結びついていたのと同様にその集団が種穂社と結び付いていたものと見られる。
これに関連して、明治三年(一八七〇)五月に三木家当主貞太郎(多十郎の子息)は「私自往古御衣御殿人与申、歴代天皇大嘗会之御時荒妙之御衣調進罷候、右は天日鷲神社神孫にて官位等蒙御勅許大賞会之砌者、上京仕御用相勤来申候処、中古以来御儀式被□□砌より荒妙御衣調進在事、今に中絶罷居申候、御綸旨並太政官符及御下文等数通所持仕居申候、………前奉申上候代御衣御殿人と被仰付御座候得者、今般御一新ニ付而者、何卒私共往古之通御衣御殿人ニ御復古被仰付被為下候者、以後且麻苧且荒妙調進」、すなわち御衣御殿人という称号で忌部神孫として荒妙貢進を中古以来おこなっていたが、新政府が引き続きその称号を認めれば今後も麻・苧を献上したいという請願をおこなっている。
この御衣御殿人集団が祖父恒太以前にさかのぼる種穂社と結びついた三ツ木村を中心とした和紙の生産・販売にたずさわる人々の集団をさす。それとのかかわりで「白川家門人帳」をみると、伯家に入門し許免状を受ける者として神官以外に百姓・番匠・杣職・木地師・紙漉などがいるが、なかでも阿波と摂津では神元講・榊講など集団での入門が多い。阿波の場合、天保三年(一八三三)五月「徳嶋神元講発願中手先世話人十二人」として、佐古・矢上・高原・瀬部・六条など城下町と近郊の村の者の名があがっているのはその一例である。この講が何を目的に結成されているのかあきらかではないが、商人・職人の集団であるとみてよく、この講集団との対比からみて御衣御殿人集団も三ツ木村の紙漉人と販売に従事する商人とから構成され、種穂社のもとに組織されている講集団とみてよい。明治二・三年段階は神社政策が維新以後の新体制に移行していく時期であり、この講集団による種穂社を媒介とした伯家への麻・楮貢進も終止符がうたれ、そのなかで三木家として「麻・苧(楮)」を直接中央政府に献上することをめざしているのであろう。
このことをふまえて、表五としてしめした御衣御殿人関係文書群(二ロ群)をみる。この群は2から20までの八通と46・147の二通に大別される。前者については御殿人集団は荒妙貢進に従事する存在であるので、阿波忌部長者は妨害を加えてはならないと中央の斎部長者が命じているものであるが、御殿人集団を南北朝期にさかのぼる古い伝統をもっており、その時点から都の忌部長者によりその自立性を保証されていることをしめすために作成されているとみてよい。
後者の二通について、一三人の連署者のなかに高河原藤次郎大夫と大坂平六がいる。高河原は吉野川沿いの名東郡の村、大坂は大阪とみてよい。これは近世の御殿人集団が紙漉に従事する者のほかに販売に従事する者をふくんでおり住む場所も三木村以外に広がっている状況を南北朝期に持ちこんでいること、つまりこの連署者集団は近世の御殿人集団のあり方を濃密に反映していることをしめす。さらにその内容について、4の正慶契約状では集団は毎年二月と九月の二度山崎で市がひらかれるときに寄合を開き評定をおこなうとしている。従来これは南北朝期に忌部氏人としての御殿人が山崎の天日鷲神社にあつまり会合を開いていたことをしめすとされていた。しかし、契約状には山崎に市が立つ日に開かれるとしか書いてない。藩政村山崎村西久保は山間部種野山への入口であるとともに吉野川の船着場にも近い交通の要衝の地である。麻植郡の紙は紙請取人肝煎の種野山村庄屋明石直衛門の検査を受けることになっており、近世末にはその紙役所が西久保に置かれており、その役所は二〇世紀後半まで種野山村旧庄屋私有の家として残っていたという。契約状にしめされる会合は天日鷲神社とはかかわりなく、西久保の市や紙役所にかかわっての三ツ木村和紙の生産・販売をめぐる会合を反映しているものとみてよく、二通の契約状は御殿人集団の結束の強さは南北朝期以来の伝統的なものであることを近世の講集団のあり方をストレートにさかのぼらせて強調しているものになっているとすべきである。
簡単にまとめておく。現存する中世三木家文書は、一三木家への感状類、二荒妙御衣奉仕関係文書、三種野山関係文書の三群からなりたつ。一は三木家は種野山に定着していた在地領主であったことをしめすために後世に新規に作成された文書群である。二は荒妙貢進にかかわる太政官符など中世からの伝来文書と、阿波で荒妙貢進をおこなう三木氏を中心とする「御殿人」集団にかかわる新規作成文書とからなる。三について在地種野山にかかわる伝来文書が大きな部分しめるが、新規作成文書あるいは伝来文書に手直しがされている文書もふくまれる。このうちの伝来文書については種野山の三木・柏原名という惣村にかかわる中世惣村文書として伝えられてきたものであった。天田(三木)家はこの惣村文書群に新規文書の追加や文書の手直しをして文書群の全面的な組みかえをおこなうのであり、それが表一にしめされている再編された中世三木家文書である。
このような再編された中世三木家文書が作られる過程について、蜂須賀氏入部当初天田姓を名乗っていた三木家は三ツ木村庄屋として続いていくが、一八世紀中期に三木本家は庄屋役を解任される。後をついだのが分家の天田家である。元助・惣助・武之丞とつづく分家三代は三ツ木村を中心とした種野山奥地を新興の和紙生産地として発展させる。それとともに、麻植・美馬郡域で忌部神の再発見を契機に庄屋・神官・上層農民層を担い手とした地域と家の発見という動きがなされているなかで、天田家も伝来文書をもとに新たに中世三木家文書を作ることにより、三木一族の中世にさかのぼる家の由緒(「あるべき歴史」)作成をおこなう。それは一七五〇年代から七〇年代にかけてのことであった。
この再編された中世三木家文書の特質の一つは三木家の先祖は三木名で活動していた南北朝期から戦国期に至る七代にわたる在地領主であったことの強調であった。それを裏づけるために新規に文書作成をするが、南北朝期については祖谷山高取名主と同じく南朝年号文書を利用している。一八世紀の段階で土佐と阿波にまたがる四国山地において、国境を越えた密接な交流もなされるなか、南朝年号文書を作成しての家の先祖が南北朝期の在地領主であったあるいは平安末期の平氏落人であったという特色のある「あるべき歴史」作りがおこなわれる。三木家の南朝年号文書作成もこのような四国山地でおこなわれていた動きの一環としてなされていた。
再編された中世三木家文書のもう一つの特質は中世の三木氏を中心に御殿人集団がつくられていたことの強調である。一八・九世紀の段階で新興和紙生産地としての種野山三ツ木村の天田(三木)家を中心とした和紙生産者らは川田村種穂社のもとで御衣御殿人を名乗る講集団を作っていた。この御殿人集団は南北朝期にさかのぼる伝統をもち、かつ都の忌部長者にその自立性を保証されながら荒妙貢進をおこなう集団であることを証明するために新規文書を作成している。
中世惣村文書として三木・柏原名に保存されていた中世三木家文書は一八世紀にいたり地域と家の歴史の発見という動きのなか、三木家の中世にさかのぼる「あるべき歴史」を作りあげるために新規作成文書をふくむ再編された中世三木家文書に姿をかえている。その再編された中世三木家文書は近世社会のなかで時代に望まれているようなかたちに作りかえられている中世文書であり、中世のまま固定されていない中・近世を通した阿波山間部の歴史をふくみこんでいる文書群になっていることに特徴があるといえる。