阿波国に於ける忌部族調査史料 第一報
阿波国 忌部神社比定論争・政府調査記録

【序文】昭和八年の編纂趣旨

(執筆時期:昭和8年3月)

本会(徳島県史蹟名勝天然記念物調査会)が前年来より調査に従事している「阿波国における忌部族」に関しては、委員の分担によって種々その史料を蒐集しているが、茫漠たる大昔の事蹟であって、その材料が今日において豊富であるはずもなく、単に伝説に留まる事項をもって論断すべきものではない。その間、慎重な調査研究を要すべきことは止むを得ないことであり、委員の発表もそのために時日を要するに至った。

かくも重要な調査に対しては、早急に処理する必要も認めざるをもって、まずは現存している遺跡・記録を十分に調査し、漸次これを綜合整理して研究発表するのが適当であると感じ、ここに蒐集した材料の一部を刊行して将来の断案に供するものである。これは所謂「九牛の一毛(ほんの一部)」であるべきだが、願わくは大成を待って刊行することを期し、いささか事由を述べて巻首の序とする。

昭和八年三月 徳島県史蹟名勝天然記念物調査会長 三浦直彦

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【第一章】明治四年の初期調査と「忌部神社新設」の建言

(執筆時期:明治4年8月)

① 西出張所の調査報告(明治4年辛未8月8日)

阿波国における忌部族調査史料 第一輯 忌部神社。式内の忌部神社は、川田、山崎、貞光など数ヶ所にこれ有り、委細を取り調べた結果は以下の通りである。

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一、川田村 種穂社 天日鷲命・天太玉命・栲幡千々姫命・長白羽命・津咋見神を祭り、式内社と称すといえども、天和三年(1683年)の社殿造営の時の勧進の表には、「そもそも当社は伊弉諾・伊弉冊二命の応化にして、紀伊国熊野大権現と同体異名の霊神である」と書き顕しており、忌部式社の称などは毫もなかった。然して、世々の神主が麻穀を朝廷へ奉献して式内忌部の社と云い、また式社考類に「忌部の正統は、応仁・天正の頃の兵乱を避けて讃州多度津郡中村に落ち延びた。本(本来の)次男である家越の忌部氏が、世々麻穀を奉るようになったのが種穂忌部、これなり」とある。これに因って推察するに、麻穀を奉ずる故にその神裔であるからなのだろうか、この社をどうにも式内忌部とは定め難く覚えるのである。

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一、山崎村 忌部社 今は王子社と称し、本殿に至って天日鷲命と王子権現とが並立している。伝承に云うには「昔は天日鷲命の社は山の上にあったが、応永とか宝永とかの頃の地震・土砂崩れで今の所へ移した」という。四至の立石・御供田・その他の古器もあるが、信じ難く覚える。神主は天日鷲命の末裔であると『阿府志』に見えるが、そうであれば、この社は自家祖神の廟であって式内社にはあらずと見えるのである。

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一、貞光村 忌部社 東端山村に落ちる神社にて、奥山の絶頂の平地、三間四方程の小社である。傍ら近くに絹織岩・鳥居跡・遥拝所等の古名があり、社も一見古く見えるけれども、確固たる拠るべき証拠も無い。神主は忌部の子孫であるよし『阿府志』に見えれば、これも前(山崎村)と同じく(自家祖神の廟と)覚えるのである。

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此の外、宮島村の八幡宮、西麻植村の中内明神、上浦村の斎明神、牛島村の大宮など、これらが式社忌部であろうかとの説もあるが、確証の拠るべきものはない。因って新たに熟考するに、現在は社は無いけれども、西麻植村に「広堂」と云う所があり、ここが忌部社の古跡であろうと『式社略考』にも見えるため、その地を細かく検分した。広堂(または大原と云う岡山)は、西麻植南山の下にある。古松数株がその上に老い繁り、里人も堂の裏松と申し伝えて、いと幽静な地である。邱(おか)を下りて西手の山腹を見れば、荊榛(いばら)の中に「神泉」という池があり、里人が神泉を訛ったものであろうか。また年を経た丸木の華表(鳥居)もあり、その他に馬場・的場・御供田・神木・絵馬堂・古麻神社・築地・巫塚・土器免などの字名が地に残っている。また四至の立石といって、一基は山田村、一基は川島町、一基は敷地村、一基は西麻植丑寅(北東)の方に立石と云う字名のみ残りて石は見えない。しかし他の石は各々およそ九丁ばかり隔たっており、宝亀年中の諸国大中小社四至石丁数(大社の境界)にも叶っているのである。されば、前書の岡山という閑雅幽静の地は、恐らくは旧社の蹟にもこれ有るべしと相考え候。

右、忌部神社今日までの取り調べの趣、絵図面相添え差し出し候。 辛未(明治4年)八月八日 西出張所

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② 小杉榲邨の「新設案」建言(明治4年辛未8月)

忌部神社の所在が不明のことは、先頃届け出給うた延喜式内外旧社取調帳にも書き載せ置いたが、考証の及ぶ限りは尚も力を尽くすべきことである。西麻植村の広堂と云う所に云々という古伝があるということは、愚臣も追々聞き保っている。いまだその実地を踏んではいないが、四至の立石と云うものより字(あざな)の唱えなど、最も心寄り(有力と推測)せられる。一両所ながら、かの山崎村なる王子権現と云う地もまた捨て置き難き所なれば、御届帖上も考証をそれこれ撰意抄写したのである。此の外、高越山にも旧伝があり、是もまた一古蹟であろうかと覚える。川田村の種穂は実に別紙上の如く、また貞光村・宮島村やその他の里老の口碑はあるけれども、皆今は採るべき確証がおぼつかない。

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そもそも天日鷲命は此の阿波国において然る著明なる尊神なれば、その神裔が此れ彼れに散在している所にては、必ず崇敬祭祀したことは疑いなかるべし。麻植の地名が興る所以を惟(おもんみ)れば、本社は必ず此の本郡内に認めるべきものを、中古より衰微して実跡を失ったことは、真に万世の遺憾と云うべし。

また案ずるに、宝亀二年二月十三日の太政官符に云うものは『類聚神祇本源』に引用してある。その文に「正一位より正三位以上を大社と為し、従三位より従四位以上を中社と為し、正五位より従五位以上を小社と為す」とありて、大社の四至は限り九丁、中社の四至は限り八丁、小社の四至は限り四丁などと見えるけれども、式内大小社の例に当たっているや否や、最もいまだその意を得ず。然るに近頃、二、三の家の説をもって数所に唱える所の浅深を撰ばず、一地に決定しようと欲する時は、おのずから一己専断の弊(個人の独断による間違い)を免れないだろう。ただ一己専断の弊のみならず、高き古の神霊を過ちて恐れんか、能く思慮し奉るべき御事である。

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愚臣謹んで案ずるに、前顕の旧蹟がいちじるしき所は尚も存して、尤も崇敬し奉らんことは申すまでもないけれども、古例もあれば、今神祇官に申し乞いて、新たに本郡内の山野の不浄に触れざる一清地を択びて卜定の上、官祭の本社を造替し、霊代には神鏡神幣類を招請し奉り御祭典あらせられ給わんには、かの一己専断の弊なきのみならず、後代に至りて疑似の恐れも無く厳重至当にこれ有らん。 辛未(明治4年)八月 権小属 小杉榲邨(こすぎかしむら)建言

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右の西民政所の見込み、および小杉榲邨の当庁建言に則り、辛未年(明治4年)神祇省に進達し指揮を仰ぐ。

(註)明治四年伺い置き候へ共、今以て何等の御指令これ無く、二月右写しに添へ更に伺い出づ。右伺い出・御指令共、県庁に筆記あり。六年十月尚又伺い出づ。右伺い出・御指令トモ県庁筆記にあり。

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【第二章】三木家文書の発見と「山崎説」への方針転換

(執筆時期:明治7年2月〜3月)

③ 小杉榲邨 教部省への上申(明治7年2月2日)

右の末、上京につき左の建言せり。 頓首陳言、本県下・阿波国忌部神社所在の件、辛未(明治4年)八月よりしばしば上陳を経る如く、小社なりと雖も麻植郡中数所に御旧跡の口碑の伝わるありて、各地村民は尊崇を尽くし全く往昔より祭祀が中絶しているにあらず。然りといへども、その数所の御旧跡をみだりに地方にて断決せんには、ただ兆域四至の立石と云う形ばかりのモノ、或いは本社に限らざる田地の小字、および即今二、三家の穿鑿説を以て一地とする時は、軽忽の弊を免れず。また以て自余の村民等の敬神の衷情を割かんのみならず、最も容易ならざる神社万古の蹟を誤ち奉らん恐れ少なからずとせば、確乎たる明証を得るに非るよりは、前に上表せし如く「本郡中清潔なる山野の閑地を卜定し、新たに該社を造替してその霊代を招請し奉らば」、彼等の各所の村民も敬神の衷情を割りて憂苦することなく、加之(これにくわえて)国中の士民ともに神祇省より下付ある所の霊代を奉斎し、悉く意を該社に致さんこと必せり、と敢えて持重せんとするは、そもそも臣・榲邨一己の赤心過慮の致す所である。

嗚呼、忌部神社は神典正史に燦然と所見ある如く、旧来朝廷より御尊敬の大社に在ませば、速やかに国幣社に列して官祭あらせらるべきを、前顕の颠末を以て荏苒(じんぜん:いたずらに)年月を経れども、爾後速やかに何等の御指令もなし。

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とはいえ、新年・新嘗の両官祭幣帛神饌料等の御回しこれ有り、以てなお「新地卜定・営造云々」と、六年二月に至って再度長官より伺書を進達す。同(明治6年)三月十九日の御指令に云う、「新地卜定・神社造建の儀は御沙汰に及ばず(許可しない)」と。

是において愕然とし篤く稟議すらく、かくの如き御尊崇の大社を如何せん、厳密なる御捜求もなく朝議此に及び、ただ曖昧に湮滅せんことは愚輩厚く恐惶し、且つ県官が力を尽くさぬ事に依ると一層奮発し、昼夜焦思して意を此に注ぎ、幸いに微証を得まく欲するになるかな、神助有りて不可抜の証文(絶対的な証拠)を感得せしは実に明治六年八月三十日なり。是において山崎村の神社を以て本社とするに決定す。

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斯く本社に決定して是を按ずるに、先年来より考証する所の口碑伝説および田地の小字等、悉く以て明証とするに足る。直ちに長官に議して、為に同(明治6年)十月、新造するには及ばず且つ祭典中絶するに非れば依然として官祭と相心得え、該社神官の如きは地方において選挙すべきや御委任になるべきやの旨を伺い出づ。豈(あに)図らんや、同月二十日の御指令に云う、「忌部神社所在不分明につき未だ官祭仰せ出され候儀これ無し、但し同社官祭仰せ出されこれ無し候に付ては、更に同国・大麻比古神社を以て国幣社に列せられ候儀と心得べし」と。然れば則ち、此にして此の大社官祭の建てられし盛挙が一変して此に至るは、該社不分明の所以を以てなりと思惟す。

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今や上文の通り、本社が分明せしを捨てんことは、千歳の御欠典何事か之に如かん。臣・榲邨は地方属官に列し、兼ねるに神道教導の職を辱しめ、微力を我が国教に尽くし県下士民を誘掖(ゆうえき)せんと欲し、日に敬神愛国・朝旨遵守せしむる御主意を説解せんとして、心に之を愉快とせず。仰ぎ願わくは、次下の考証文書を懇切に御細検を加えられ、忌部神社をして先年御命達の如く依然官祭たらさしめ給はんことを。意進んで言尽くすを得ず、みだりに尊厳を冒涜する罪、その責を負う。将又(はたまた)実地に就いての詳細具状の如きは御下問を待ち奉るなり。

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臣榲邨 誠恐誠惶頓首謹言 名東県権中属兼大講義 小杉榲邨 明治七年二月二日 教部大輔 宍戸璣 殿

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【別紙考証文書】

『正慶元年(1332年)十一月 氏人十三人契約状』 右一紙縮臨ス 臨写略之 右の三木氏は本郡・三木貞太郎の祖先なり。御衣御殿人と云うは此の連署の人になるべし。古語拾遺に阿波忌部の裔人と見えるも、今は三木を始め隣邑に二、三家現存せるのみ、惜しむべし。

今一通、元弘三年十一月日となる御衣御殿人けいやく状と云うモノあり。紙尾に連署する人に上文の余に「長者長村」「長谷吉定」など云う名見えたれども、山崎云々の事に関せざればココに臨写せず。

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上件の古文書を所蔵する者は、麻植郡小五区三木山の農、三木貞太郎なり。此の農は元より農にあらず、藩制の時は郷人とて特別の取扱を受けり。醇乎たる忌部氏人にして、され共その本系は今三、四家を下らず。真に旧家たることは云うも更なれども、中世失火に罹りて其の本系帳および上古伝来の調度類、多少烏有に帰す。今二、三品の旧物、また亀山院正元年間領所充行の文書より起り、氏長者・御殿人等の補状、大嘗祭に荒妙御衣を織り進せしむる官符・宣旨、または下し文・綸旨と云うモノ、或いは三木名番頭職下知状および此の氏人契約状の類、寛正・応永間に及んで凡そ四十数篇が現存す。上に掲ぐる所のモノも其の一なり。

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さて、本郡山崎村に「忌部市」と唱え、二月・九月の二十三日に市立ちあり。今故事として忌部社の祭もあり。此の市立ちの日、三木氏は代々三木山より凡そ距離山越しの険路五里程余なるを必ず参詣すと云う。是れ所謂、御衣御殿人契約会合の遺風なること疑うべからず。此の一事また以て本社の明徴とするに足る。

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然るに、徳島藩治の際、本社所在探索の折に此の文書の実検に及ぶへかりしに、村吏輩は「ただ三木氏の家例にのみ関して忌部神社には係らず」と云ひ、時の官吏も其の言を信じて敢えて問わざりしは何ぞ忌はざるの事や。徳島から距る十数里の山間なれば、数十篇の古文書を尋常の人が知ることは稀にして、殊に三木家は重宝無比として一生出さぬ如く秘蔵す。今此の挙なかりせば本社将に湮没を極めんとす。六年八、九月、教部長官の命を以て阿麻都(あまつ)開設の地、国山村に至り、聞き保つ所の古文書なれば徴証如何を探らんと一日三木氏に乞うて之を一覧し、忽ち明証を得たり。上言に云わずや、神助有りて為に此の徴証を感得すと。

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此の余、旧藩人・故野口年長も此の神社考証数種ありといえども、未だ此の明証を得ざる前の者なれば、的確なる旧蹟と指し居るに至らざりしも、今此の古文書に「山崎」とあるを以て照合すれば、今にも説く口碑伝説・田地の小字、みな以て明徴とするに足れり。詳なることは実に一紙の尽くすべきにあらざれば、猶実地の検査を仰がんとす。

右書面該省へ持参、社事課長応接の上、書面は直ちに付属書記へ回す。考証課において其の所在明徴等の議論は大録・小中村清矩に委す。 明治七年三月廿三日

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【第三章】山崎村を「忌部神社」と決定する政府の検註と論証

(執筆時期:明治7年)

④ 忌部神社所在地検註(いんべじんじゃしょざいちけんちゅう)

阿波国麻植郡(おえぐん)に鎮座する忌部神社は、『延喜式』神名帳において「名神大、月次・新嘗」に配されていることからも分かるように、特別に祭祀され崇敬を受けた極めて著名な大社であった。しかしながら、幾多の年月を経る間にその神社の所在が世に知られなくなり、埋もれてしまったことは、いかにも畏れ多く嘆かわしい事態であった。

然るに、明治4年に社格が国幣中社に定められたものの、依然としてその鎮座所が定かでなかったため、国事を執り行う人々が右往左往し探し求めたものの、どこを頼りに辿ってよいか判然としない有様であった。

そこへ、神の御導きであったのだろうか、名東県(当時の徳島県)の権中属・小杉橿邨(こすぎかしむら)という人物が思い立ち、三木山(みきやま)にある旧家・三木貞太郎が所蔵している古文書を調査した。その中に、正慶元年(1332年)11月の日付を持つ「阿波国御衣御殿人等(みそみどのびとら)」の十三人連署による契約状があり、「この上は一年に二度寄り合いを加え、評定あるべく候。当面は二月二十三日山崎の市、九月二十三日山崎の市に定むべき者なり」と記されているのを見出した。この「山崎の市」とは山崎村に立つ「忌部の市」のことであり、毎年二月と九月の二十三日の神祭の折に市が立っていたのである。

事実、この三木貞太郎は昔から代々、祭礼の当日には五里余りの険しい山路を経て、今に至るまで怠ることなくこの地へ参詣している。これはまさに御衣御殿人の契約会合の遺風にほかならない。したがって、山崎村にある王子権現と同列に鎮座している天日鷲命(あめのひわしのみこと)の神社こそが、式内の忌部神社であるべき旨を詳細に論証し、明治7年2月に上申した。これは実に行き届いた調査であったといえよう。

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かくして臣等(調査担当者)に命じてその所在地を視察させたところ、かの地に赴き神社の鎮座する周辺の地理や字(あざな)などを検分するに、寛政5年(1793年)に編纂された『阿波志』の「忌部祠」の項には「山崎村に在り(即ち忌部山の所在の処なり)」と記されており、神社の背後にある山を古くから「忌部山」と呼んでいる。また同じく『阿波志』に「日鷲谷(忌部祠の東に在り、昔は古来喪を生ず)」と記されている谷は、社地の西にある谷を指しており、今もそのように呼ばれている。

(中略・一部割注の考証)

また、神社より西北の方角へ三、四丁ほど離れた、人家が二十戸ばかりある地を前述の古文書に符合して「市の西」「市の東」と呼び、昔「忌部の市」が立った場所であると伝えていることは、先の正慶元年の文書に「二月二十三日やまざきの市」と見えることと見事に符合する。その他、「日鷲谷」などの字名も図面に記した通りに残存している。

また「旧社地」と称する場所があり、そこは東西八十間ばかり、南北三十五間ばかりの広さで当時は畑となっていた。現在の社地より百三十間ほど山上に位置しており、神社は昔この処にあったが、応永年間の大地震で山崩れに遭い倒壊したため、今の社地に遷座し、今日まで祭祀を続けてきたという。この経緯は享保12年(1727年)の訴訟記録(附録に詳述)にも詳しく記されている。

伴信友の『神名帳考証』に引用されている当国神社帳に「忌部郷山崎村ニアリ」と言い、『阿波志』に「忌部祠(山崎村忌部山上百歩ばかりに在り。その址厳として存す。土人、地を穿ちて二組の長剣および古鏡・祭器を得る)」と記されている通り、この地を忌部神社の所在ではないとするのは、実に滑稽なことである。

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(中略:忌部山の東麓にある「天石門別神社」付近の奇岩「麻さらし石」「麻揉石」や、神代の遺跡とされる岩穴の水「延命水」の伝承、および天日鷲命の病気平癒の霊験譚について記述。さらに西北六町にある「雲の宮(天村雲神社)」の由来と、寛保の改めにおける川田村の他社との混同を論証している。)

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【第四章】貞光(吉良)側からの反論と出願書

(執筆時期:明治7年5月)

【史料背景】 政府が「山崎説」に傾く中、貞光村(東端山・西端山)の村雲義直らが、かつて宝暦年間に村雲左近が主張した「神宝出現」や「吉良名」の伝承を持ち出し、猛烈な巻き返しを図った出願書です。

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⑤ 忌部神社旧跡の建言(明治7年5月)

第六大区美馬郡五小区西端山 吉良忌部・天日鷲尊霊地の趣意 往古より、右の神社においては尋常ならざる神霊の地でありながら、未だ確固たる社地が定まっていない趣である。しかしながら、天日鷲尊が吉良の里にご滞在なされたことから、以後これを「吉良名(きらみょう)」と改め唱え、すなわち吉野川と申すのもこの吉良の里を基として名付けられたという趣旨が『阿陽記』に判然と見えている。往古からの遺説は確実なものばかりではないが、今現在の詳細な図面を相添えて、以下の通り建言する。

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右の事柄について、書類・旧記等は何も無く、これといって確然たる証拠はないけれども、従来の伝説、かつ地中より掘り出した器物が現在あるという謂れをもって、差し控えつつ申し上げ奉る次第である。

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第六大区美馬郡五小区西端山村長 谷庄内 印 第五小区 戸長 折目義太郎 印 明治七年五月 小杉権中属 殿

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⑥ 忌部神社御取調付指上帳(明治7年5月29日)

(表書き) 明治七甲戌年五月 忌部神社御取調付指上帳 申上証

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往古、御国は麻植郡の内を美馬郡として御制定なされ、さらに美馬郡の内を三好郡として御分割なされた旨。只今は美馬郡の東西端山・貞光村と三ヶ村に分かれて御座候が、根元は貞光村山里と申立て候村にて、慶長年間に三ヶ村に御分割を仰せ付けられた旨である。

然る処、有麻山(ゆうまやま)に忌部の御社が御鎮座ありて崇め奉る旨、かつまた荒麻を作り始め給うた故に、右の山内においては地面の様子から総じて「苧地利(おじり)」と今に唱え伝え、他の村に類が無いように伝承し奉っている。

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然るに、東端山の友落神社の儀は、東西端山・穴吹村の氏中にて、遥拝所まで登り十八丁ほどである。当山の儀は、古代より本定(ほんさだ)の丸と申し伝え、絶頂は忌部御社と相唱え居り申す儀である。

社地は南北五十間ほど、横三間ほどの地にて、三尺四方ほどの御殿がある。西へ五丁ほど下り、一反歩ほどの平地にて「行司」と相唱える小社がある。なおまた二丁ほど東に寄り、山の正面に「火杉の磐屋」と申す八丈敷ほどの岩屋内の御殿には、すなわち友落神社と崇め奉る御社があり、ならびに南の方にもまた磐屋があり、その麓に「彦久保」と申す所、二丁四方ほどは平地にて、此処に遥拝殿がある。毎年八月十八日に祭礼を仕り来たり、近村より数多の参詣を仕る。此の地は至極清浄の地にて、谷水が沢山にある。往古は人家等もあったように申し伝えている。

此の谷筋、東西三、四十丁ほどの間に猿田彦社ならびに「御輿森」と申す所がある。また「頼織之磐屋」があり、此の岩屋も四、五丈敷ほどにて小社がある。また「釜床」「神田久保」「神業名」と申す処がある。

然るに、友落山の麓に大石の立石がある。且つまた「七平野」と申す地名が七ヶ所ある。尚また東西に両道あり、右の七平の内「古麻平」と申す所に三つの立石、小社がある。其の下に三ッ石、車尾先(?)の三名石がある。何れも山口にて、友落山の儀は外の山から離れ、至極の高山にて、貞光村より格別に登山に骨を折り見上げるほどである。

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然るに、貞光村の東西の山口に、両天皇、両御崎、両笹賀大神、両天宮と申す所、ならびに両丸山、両貞の丸(ただし西の貞之丸の儀は六十年程前までは検地除けに相成り候趣にてある)、ならびに朝日御子・夕日御子塚と申す伝えがある。ならびに「仮屋」と申す地に忌部神社の仮御殿所と伝承している。ならびに「釜床」と申す処がある。夫より一丁ほど下り、只今は八幡郷社・忌部前社と合殿として尊拝し奉る所、ならびに「御丸」と申す塚がある。

此の社より一丁ほど南に「八ッの門跡」と申す所がある。然るに往古は如何なる謂れであるか詳しからず。ならびに五丁ほど南に当たり、「別所京司」と申す所にて、天保九戌年八月に図らずも参詣人が見当たり掘り出し候品があった。焼き物の壺の内に、二斗入りほどの金の壺一つ、一斗入りほどの金の壺四つ(夫れ俗物入りて)、ならびに四、五升入りほどの金の壺の内に脇指六腰、長さ一尺ほどにて入っていた。然る所、忌部の神宝と申し立て、数人が参拝仕り候由。其の砌、御役所様へ召し上げられたとのことである。

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右忌部御社の儀は、三好長治の代までは御社領も多く御座候ように申し伝える。長治が悉く横領して、また天正中、長宗我部(元親)により社頭残らず炎上した。然るに、宝暦年中に、山崎村、川田村、貞光村の三ヶ村、何れも忌部御鎮座所について訴訟出入りに相成り候所、先祖の村雲左近、以前に顕れし八幡神社において神業を始め候処、御治定に相成らず、御場合を容易ならず御指出なされ、余所において終に不調法にて神役御取放し(免職)を仰せ付けられた。その折、何れも忌部御鎮座所と申し立て候儀は後日と御指し留めに相成り候につき、其の節、川田村の種村において御勤所を仰せ付けられ、御鎮座処は追って御取調べを仰せ付けられる旨、大体承った。依って、別家の私先祖へ本家役を仰せ付けられ、是まで勤め仕り居り候。然るに此度、神社明細の御取調べにつき、右の通り有りの姿を記し上げ奉る次第である。

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【御神宝等の記録】

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右の通り御神具はそれぞれ、天正年中の乱逆ならびに炎上の中より、先祖の広重と申す者が身命を投げ打って取り退け、隠し置き候て、其の後還御と相成った。然るに宝暦年中に、先祖・村雲左近の儀、貞光村において遥拝処と仕り、神楽を始め御霊を出し候処、川田村の種村神主先祖が出願仕り、其の砌、前述の御神具は御役所様へ召し上げられた。その内、長刀一振、木面との二品の儀は如何仕り候や残り還りこれ有り候。其の外は愚筆の写しにてあるにつき、有りの姿を申し配り上げ奉るなり。

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【御免許状神代記写ならびに添書】

そもそも、天日鷲尊、供を召し連れ、当村の内「吉良」の所に御留まりの古跡は左の通りである。

吉良御所。此の所に鈴なりの紅梅という名花あり、もっとも千重なり。吉野と唱え伝え、右以来、川下りを吉野川と言うなり。

藤の森。此の処は「実なしの藤」と申して、花咲きても実ならず。大御所平、馬ヶ淵。此の所に御馬石という大石があり、馬蹄の跡あり。駒留。此の処の道石に駒の蹄跡あり。遠見陣場、麻釜と三所二ヶ所あり。馬の死地なり。ならびに峯頂五社大明神。右の堂前、駒四足の蹄跡あり。

此の上、三川見津(みかわみつ)と申す処あり。此の処にて鷲津咋見命(わしつくいみのみこと)が都織(つをり)る故に「津都(つづ)」と唱え来る。西方に津都見坂と云う所あり。是より御魂処、山上に二ヶ所あり。一ヶ所は控え六丈程、半ば成る大石敷き廻り、大成る立石囲い、此の所は人往き難し。

忌部古社。絹織岩あり。此の処は広石屋にて、尊が機織りを始め仕り給う所なり。清頭谷、同名願谷、落合の処に鷲津咋見命の二神を奉祭する大社、両森大神宮と奉り唱える処を「清頭岡」と唱え来たる。

神孫第一にご出現、金銀の御平足(みてぐら)を立て給う処を「神平」と号す。直ぐ白河御所と唱え賜う。此の処より二神、川を見渡し給う所、「佐久良谷」。花都より吉野まで流れ来る花、珍しき御川上と御勇め給う故、此の原数を「名川見」と唱え来る。

当山、天日鷲尊御座す岩屋、日名顧し名大神宮と奉り号す。友内宮、忌部社頭なり。東森大神宮、西森京司大神宮、都べて奉彰す。

御麓の含村より三里四方を曲輪とし、夫より三里に曲輪野の跡、其の後に忌部大神宮と崇め奉る。もっとも四国は当宮の神領なり。日本神楽の始めは当社なり。

東端山、西端山、一宇山、穴吹山、貞光村、社家神主子孫十人あり。尊、当村に麻を植え始め給う。夫より国々に麻を植え、布初め、右の五ヶ村は社内の由、代々末社数あり。右、麻を植え初めさせ給う故、祭礼に麻を捧ぐ。其の節、三好郡は美馬郡と云い、美馬郡・麻植郡は麻植郡の一郡なり。其の後、美馬郡・三好郡と云い、麻植郡を中分し、外(ほか)を美馬郡と改め三好郡と成す。麻を捧げ奉るにより「麻植(おえ)」と云い、麻植と唱え、馬をば美々しく飾り神馬を奉るに「佐美馬」と書き「美馬郡」と唱え、奥州へは「麻」と書き「馬郡」と唱う(※推測)。四国の諸郡村に右の古言あり。

ただし、里分の惣体五ヶ村、地名を苧地利(おじり)と云うなり。

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右免許状写しの儀は、貞光村別所にて平民・大蔵後家と申す者が所持して御座候。先祖は東山川見上平名(?)の本百姓にて、先祖代々の中より忌部大神宮御宝と申し出配り(由緒書)を自宅神棚に納め置き、代々一人宛て下さる等は仕らず、尊崇仕り現在まで伝承仕り候につき、早速見出し、右の筆記を写し取り、委しく記し上げ奉り候也。

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美馬郡第五小区貞光村 村雲義直 印 明治七甲戌年五月二十九日

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前書きの村雲義直が誌上した外、管内において更に確乎たる証体、其の他旧記等はこれ無く候。依って右の件、添え書仕り指し上げ候也。 第六大区五小区 戸長 明治七年五月三十日 小杉権中属 殿 折目義太郎

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【第五章】政府調査官による貞光(吉良)説の徹底論破

(執筆時期:明治7年)

【史料背景】 貞光側からの出願と、宝暦年間に村雲左近が主張した神宝・由緒に対して、政府(教部省周辺)の調査官が詳細な史料批判を行い、「全くの捏造である」と冷徹に断じた検証記録です。

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⑦ 忌部神社所在検註 附録(川田・貞光説の論破)

忌部神社は、前段で陳述した通り、山崎村の忌部山の麓に鎮座しており紛らわしい事など無かったのだが、天明年間(1780年代)頃から「此処にまします」「彼処にまします」と書物にも種々記載され、土地の言い伝えもひどく混乱する事態が生じた。ここにおいて、誤って伝えられてきた妄説を粗方解き明かしておきたい。

その発端は、元文年間(1736年〜)より西川田村の多那保山(たなほやま)に鎮座する「多那保権現」の社を指して忌部神社であると言い張る妄説が蔓延したことにある。『阿波志』の「種穂祠」の下注に「元文中、山崎・貞光両村の祠官相争う。忌部氏遂に中川式部に命じて此に祭る」と見えるように、享保12年に多那保権現の神職である早雲民部(そううんみんぶ)という者が、忌部神社を押領しようとして山崎村の忌部神社神職・村雲勝太夫と訴訟(作論)に及んだ。この争論は元文5年に至り、勝太夫が土御門家の者に誘われて装束や免許を受けたことを民部が越訴であると讒言したため、遂に勝太夫が処罰されて寛保元年(1741年)に海部郡へ放逐されてしまった。以後、民部は自ら忌部神社の摂社・末社など九社の神主を兼務し、社務は民部の望む通りになってしまったのである。

(中略:その後、民部の息子・式部が山崎村の神社の再興を恐れて神社に火を放ち焼き払った事件や、その後の神職の変遷、さらには多那保神社を白川伯王家に「忌部社」として公認させようとした経緯などを暴き、多那保権現が忌部神社を簒奪した仮の姿であることを論証している。)

また、『川田村名跡志』を引いて川田村の高越山(こうつさん)に鎮座する神社(高越寺)や八幡神社を忌部神社とする説があるが、これらはいずれも古い縁起や『阿波志』の記述、祭神の構成(蔵王権現、熊野祠など)から見て、かつての「射立郷(いたてごう)」の領域にあたり、忌部神社に比定することは到底困難である。同じく、宮島村の八幡神社や西麻植村の古墳(中内大明神)などを忌部神社とする説も、地理的な条件や郷の配置(川島郷や射立郷との境界)を鑑みれば、根拠のない付会に過ぎない。

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さらに、美馬郡貞光村の友落神社(友内神社)の社地の上方に忌部神社が鎮座するという説もある。享保の訴訟の折に、この貞光村の祠官・村雲義直の先代も争いに関与したという。貞光村の神社も『延喜式』神名帳に記された神社ではないかという説があるため、村雲義直に尋ねたところ、「昔、三好郡を置く際に麻植郡を割いて美馬郡とし、元の美馬郡を三好郡としたため、貞光村に鎮座する神社こそが麻植郡忌部神社である」と主張した。しかし、『日本三代実録』貞観2年3月2日の条には「阿波国美馬郡を割いて三好郡を置く」とはっきり記されており、麻植郡を分割したという事実は認められない。行程を見ても麻植郡の境界から貞光村まで六里も離れており、とうてい辻褄が合わない。

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⑧ 第三条 宝暦の事件(村雲左近の捏造の看破)

願面に云う。宝暦四年、忌部神主・村雲左近が、忌部神社の本宮である確証となる神宝をもって再建に及び出願し候ところ、密かに信仰致すべき旨、蜂須賀家より申し渡され候。貞光(※「定光」は貞光の誤り)の荘へ本社営造を為し居り、大同年中、空海(※原文「茶海」)執筆の額を掛け、近隣の者より遠国まで尊敬一方ならず。

参詣人数が入り込み候につき、蜂須賀家は「密かに信仰せよ」と申し渡したにも関わらず、神宝を飾り云々、判然と忌部の名義を顕し候儀は不届きであると申し渡され、入獄の上、阿波・淡路両国から父子共々追放(※「被中部/質」等の文脈からの推測)の処分となり、確証となるべき品々は引き揚げに相成り、また鳥居に掛け候額面等は吉野川へ放り出し、鳥居共々打ち砕かれた。その後、吉良・貞光の所へ、忌部郷の里正(村役人)らへ、京都または江戸などの者が入り込み、忌部の儀が相尋ねられ候共、判然明白に相答え候。(中略)

両方を案ずるに、貞光村忌部神社の神官・宮内氏の祀る実の文書・公物あり。本文・額面と参考すれば、その事情は知られる。これにより、先ず此れを抄出し、大小杉氏の説を挙げるべきである。

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忌部神社神主 宮内伊織広重 謹白

そもそも当国忌部大明神の由来を奉る(尋ねる)に、天照大神の御神慮を以て天日鷲命も天降られ、麻の種を植え下ろし給うに、肥饒の地たるにより御国へ来臨あり、則ち当社に御鎮座ましまして、穀・麻を初め給ひ、延喜式以来、郡の御割替が間々あるにより、今は美馬なりといえども、上代の麻植社と申すは是なり。

当社が神去り給ひ、境内に御魂を納め忌部大明神と崇め奉る御正社なり。天正の頃、土佐の猛将・長宗我部元親(※原文「秦元親」)の逆意に任せ、社頭残らず炎上す。乱世の軍役に四民の力尽きて再興の事絶えたり。御当家様(蜂須賀家)が御入国遊ばされ候て、郡の遠近の間違いを以て断絶同段に過ぎたりといえども、四方に道ある君が代の恵みも厚き時至り、公儀御崇敬あるにより、神代よりの重財出現ありし事は誠に上々様方の御武運長久、五穀豊穣にして四民安全の基ならんか。御神託は則ち神前に書記す者なり。

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忌部大明神 御神体

御鏡: 御神号、真に有り。

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御棟札: 元享元年辛酉十一月二十三日 大檀那北条相模守平朝臣高時公。同年より暦数四百十余年に成る。

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御鏡: 右は社頭炎上の砌、我が先祖・宮内少輔広重という者が身命を投げ打ち炎の中より取り除き、末社・東山権現の社に隠し置き、此度還御す。

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御長刀: 一振、中身とも長さ五尺五寸。天之日鷲命(※「天ノ目一箇命」の文脈)の御作なり。日鷲命御国へ御来臨の節、御所持を遊ばされた御打物なり。社頭炎上の時より百八十余年を経て石塚より出現す。日鷲御神は万物の守護神、別して武家崇敬の御神に候えば、武門に志しあらん人には格別御信心有之度候。此度出現候。

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日鷲尊御子: 豊岩間戸命(とよいわまとのみこと)御神体なり。

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鬼面一面(※原文「鬼面登面」): 奇岩間戸命(くしいわまとのみこと、※原文「梅岩開戶命」)の御作なり。 其の外、小財あまたあるといえども記さず。宝暦四年甲戌十一月。

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【小杉氏の考証による論破】

右の原書は当今その所在を知らずと言えども、往年・長谷川貞彦が国内巡回の時に写せるものを、字句など原書のまま転写したるなり。

案ずるに、この宮内某は貞光村に住して、則ち元文の忌部公事の一人なり。この文中に「当社神去り給い、境内に御魂納め忌部大明神と崇め奉る御正社なり」とあるのは、即ち『阿陽記』等近世の書に忌部古社または御魂処とある同じ所を指すなり。

また「元享元年十一月二十三日」とある棟札は、その実は永禄の棟札と同物ならん。然るは当時、未だ古蹟を定かに議論せざるにより、少しにても古めかそうとして元享と定め、また「元年」の元は実物に「永」とある文字を「元」と見誤った(※原文「膜僻」)なり。また大檀那北条云々とあるも、実物である「北条助太郎」らが磨滅に属せしにより「高時」と作れるならん。また先祖・広重が炎の中より取り除き、末社・東山権現(東山十二社権現を指す)の社に隠し置き此度還御す、とあることについて考えれば、この宝暦の度に何れの山村よりか取り出しつる物にして、再び還りたるにはあらず。「御鏡以下の物を出現」とあることに心を注ぐべし。伝来の物ならば何で斯く言わん。当時に突然、神宝などと言わんには、その土人(地元の者)といえども受け入れざるを以て、このように物語ったこと論を俟たざるなり。

さて、この文書を作り神宝出現と言いなしたる原意を推し量れば、先年追放せられしは全く一時官府の失錯なりと人に思わせんとする奸謀にて、この頃よりして頻りに「吉良名の御旧跡」ということを主張したりき。(小中村清矩云う。宝暦の末に成った異本『阿波志』貞光村の条に吉良名の移り、忌部旧跡は見えず。ただ永禄の棟札の略をのみ記したり)

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さて、『阿陽記』『細見録』『国饒郡村記』などはみな近世の末書なることは言うまでもないけれど、そうはいえども各一編の例則・体裁は備えたる物である。その例則に違い、西端山条下の文に忌部旧跡を記せる辺りが最も精しきに過ぎたるは疑うべきの甚だしきなり。村雲左近らの捏造(※原文「故造」)ならんと見なすのはどうであろうか。これをもって之を推せば、大蔵後家所持の旧記(細矢氏が主として引証せる書にて専ら五所平の霊蹟を述べたる書なり)と云う物も、かの宝暦の文書を種子として作れる妄書なり。

さてこの吉良名の御旧跡と云うもの、宝暦以前は未だ世に唱えざりし事、上件に述べる如くなるに、その後三十四、五年経て寛政の頃は漸々その地方にも唱えしと見えて、寛政五年蜂須賀家より『阿波志』編輯の料を各郡に求めし折、美馬郡西端山よりの書上に次のようにある。

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蜂須五社大明神: 此社忌部御類社とも申伝御座候。

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古社跡: 忌部大神宮社床と申伝、此場所近来御検地の節、百姓共名負請に相成候地方、作付難相成荒地に相成小社御座候。天日鷲命御神鏡の由申伝にて、唯今俗家に古鏡所持御座候。且つ鈴形の梅と申す御神木二十五、六年以前迄御座候所、枯失し山白花咲き実成らずの藤の古木も御座候由。申谷と申す処にも右御神御鎮座の由申伝の後御座候者は立石の社と唱え所御座候。忌部御類社の趣申伝御座候。

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と見えたる、その奸策を施し得たる片端にして、殊に此文に「忌部大神宮社床と申伝云々」とあるは、かの元文の度に取払いに逢いし所なるを、「往古兵乱に焼失せし蹟なり」と言い紛らせる一区域なり。是を以てもその新旧・正邪を明らかに思い弁うべし。(以上、小杉氏の磯座考辨妄・正蹟補考辨の二書を参考し、その要となる所を節抄せるなり)

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さて、願面に「宝暦四年神主・村雲左近重ねて忌部神社本宮たる確証となる神宝を以て再建に及ぶ出願候」とあるのは、元文の公事に非分に落ち下りしかば、更に前文に録せる如くの神宝を作為し「出現」と言い做して本社再建を願い出たるに、「忌部の本宮たる由は定かならねど、此れも其の分社の一つならんと思わるる由もあれば(第十二条参考)、窃(ひそか)に信仰致すべき旨、蜂須賀家より申し渡し来たるならん」。然るを、公然と本社営造し諸人の参詣を招きしにより、神主は捕縛・追放せられ、偽造の神宝は藩へ引き上げられしと、願面に述べる事状の如くにして当今に至りしなり。空海の額の事は更に誌書に見えず。また「元享」と称せし永禄の棟札は、この頃より村民の家へ移されしにや(※原文「移ン、ニャ」)(願面に言う「蜂須賀家へ引き上げに成りたる」由を記し来るは誤りなるべし)。然るは異本『阿波志』に此棟札の略文を挙げるに「貞光・鉄砲村田信蔵預り東山十二社の棟札なり」とあるのとも思い合わさるるなり。此条、殊に今般出願の眼目とする所なれば、冗長を厭わず上文を録し出し愚見を加ふ。

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【明治の出願人・村雲義直への痛烈な批判】

註一: 本文「宝暦再願云々」は跡形もなし。その故は、寛保元年八月、種神社を以て忌部の本宮と取り成し、社寺進退を司る郡奉行所の記録および寛保三年神社改帳にも「忌部社は判然と種(村)なり」と決定せる上なれば、藩主の命を以てかの貞光村の社を「窃に信仰すべし」など申し渡される情勢は更にあるべきことなし。これはその頃の藩政の片割れをも知らぬ者等が、現今の凡俗な感覚を以て無構造意し、まことしやかに掲出したるなり。明治七年五月教部省役員の実地検覈の折、今般の願人・村雲義直が書くには、この再願云々の事は何の事も書載せず、ただ「宝暦年中山崎村川田村貞光村三ヶ村何れも忌部御座所の儀につき出入りに相成云々」とありて、必ずかの元文の度の一件に混淆して、この公事の顛末を心得てからの言い様ならんとも思うべし。そもそも、この宝暦の文書および神宝出現など言える事は、かの元文の処分にも遭いて痛恨の念あり、連年何くれと奸計を施して同四年云々の件を物しつる、その事情は能く所在考の弁妄または正蹟補考の弁などに詳しく述べたるが如くなれば、再願云々は跡形なき作為のこと明亮なるべし。前にも其書面の文を摘要して述ぶるが如く、七年書上に乗るは宝暦の再願に何の事も物せざりしが、昨日の今日に至りてその自語の矛盾せるにも心付かず、斯くの如く掲出せるは、いかに其事実を知らぬ本省の官員へ上告すればとて、神明の照覧これを如何。

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註二: 「里正等へ京都または江戸等の者入り込み忌部の儀相尋ね候共云々」とあるは虚妄なり。既に前にも述べる如く、忌部は公然と川田村種社と定められ、白川家にも取り成して、朝廷の大嘗祭の荒妙もこの種社より白川家まで進献せる例なりしを思うべし。何の憚りありて斯くの如き秘物にせしと思わるるか。すべて藩政の勢を知らぬ虚言、信ずべからず。

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註三: 宝暦の件は上にも述べる如く作為なること明亮なれば、ここでの評語は無用に属すべし。これは皆、元文の公事已前の状勢なり。かの細矢が書きし所在考弁妄の説、また正蹟補考弁などを照会せば判然たるべし。細かにはここに記すべきにあらず。

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【第六章】政府の最終決着と事後考証

(執筆時期:明治7年12月〜明治11年)

⑨ 太政官からの達し(明治7年12月22日)

何の趣、別紙達書の通り相心得べく事。 明治7年12月22日 太政大臣 三条実美 印、権大録 栗田 寛

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(結論の太政官達) 国幣中社 阿波国忌部神社の儀、所在が不分明につきこれまで祭典が行われていなかったが、麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲神社こそが当該の忌部神社であると実検したため、今後は同社を忌部神社と称し祭典を行うよう相建てる候事。 明治7年12月22日 太政大臣 三条実美

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⑩ 小杉橿邨の弁証ならびに追憶(明治8年1月23日)

『忌部神社旧記』に対する小杉橿邨の弁証ならびに追憶

中川清暁(なかがわせいきょう)が集録した『忌部神社旧記』というのは、天保・弘化頃の人物の旧記に基づいて考説したものを、二、三種類合冊にしたものである。この清暁は美馬郡某村の者(祠官か)であり、かの「吉良名(きらみょう)」の由緒を非常に牽強付会に飾る性質の持ち主である。

今、この旧記の説や、次に連ねる清暁の『忌部神社愚考』などの説は、この吉良名の粉飾であるから論ずるに堪えないが、忌部郷や忌部山の所在に関係する文章は等閑に見過ごすわけにいかないため、大まかにその誤りを排して、忌部郷の所在をもう少し詳しく述べよう。

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清暁は『忌部神社旧記』などにおいて、忌部郷が今の美馬郡の地であるとし、「穴吹山の左右奥深く、宮内・榛原・木屋平で一円である。今、穴吹山と貞光山の境に忌部山という高山がある」などと言っている。

また、『忌部神社愚考』において「『和名類聚抄』によれば」と称して勝手に新図(※原文「新聞」)を捏造し、「麻植郡西部の旧地は今の美馬郡の半分に配置されていた」という私説を主張して、次のように述べている。

「忌部郷は東の小島山から南方へ至り、西境は毛田山から南は祖谷山に至る。その中央はみな忌部郷内である。この内の高山を今、友内山という。この友内山こそ吉良名の山頂であり、古の忌部山という名地であろう。その証拠に山上に忌部古社という旧祠がある」と。

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これらの説は、吉良名に箔を付けるための都合の良い策略である。

そもそも『和名類聚抄』の郡郷の順序は「阿波・美馬・三好・麻植」となっており、貞観2年(860年)以前はいまだ三好郡が置かれていなかった。美馬・麻植の両郡は、美馬郡半田山あたりまでが麻植の郡内であった。貞観の度に美馬を割いて三好を置いた時、美馬の郡内があまりに狭小となったため、麻植の西部を美馬に割譲して現在の郡境が建てられたのである。すなわち、今の美馬の東部は旧麻植であり、三好の在地は悉く美馬であったと決着する。

それにもかかわらず、清暁の新図は麻植と三好を隣接させ、美馬の在地を吉野川の以北にのみ配置している。これは全くの当て推量(暗推無頼の憶測)であり、このような配置の明証が『阿陽記』や宝暦の文書などのどこに見えるというのか。これらの妄説は論ずるに足りない。郡境の変遷は国史に精細に記載される体裁のものであり、それを無視したかの暗推説のように神名帳を解釈するのは、最も首尾一貫しない凶説と言うべきである。まことに、その忌部山は今の麻植郡山崎の内にあるのである。

(中略)

さて、わが師である野口年長(のぐちとしなが)は、「民戸が少なく土地が広い郷もあったであろうから、忌部郷が山崎村の辺りであったかも測り難い」と記していた。一見するとかの旧来の偽書を採用しているように見えるが、年長のこの言い回しには深い配慮があった。

この人は極めて実直な性質であり、神社の御所在を軽率に決着させるべきではないと慎重を期していたのである。元文年間の訴訟(忌部公事)における処分の不当な意味なども、内心ではよく知っていたはずだが、確たる証拠を得ない限りは『和名類聚抄』の順序に従うにとどめていた。私はかつて年長翁に「『阿波志』になぜそのように書かれているのか」と問うたことがあるが、翁は「京都からのお便り(公的な証拠)など、確かな証拠を得ぬ限りは断定できない。だが、結末においては山崎の事をほのめかしておいたぞ」と語っていた。

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この年長翁は安政5年(1858年)に77、8歳で亡くなった。私は幼い頃からこの翁に問い聞き、皇国の大道を教わったため、明治6年8月に御本社の所在(山崎村)を確証し得たのも、全くこの翁の積年の苦辛の賜物である。

ただ惜しまれるのは、翁が三木山の古文書(氏人が契約状)を心ゆくまで見通していなかったのではないかという点である。

明治7年5月ばかり、私が山崎村の実検のついでに文書を所蔵する三木貞太郎を呼び出し、「年長翁は古文書を残らず見たのだろうか」と尋ねた。

すると貞太郎はこう語った。

「翁が麻植郡を巡村して我が家に来られ、古文書を見たいと言われたのは天保年間のことでした。あの頃は古文書を大殿様(藩主)の御上覧に供した後であり、みだりに人に見せることを固く禁じられていたため、秘蔵して虫干の時以外は私自身も底から出すことはありませんでした。翁には『私用に観るのではなく地誌を書き留めるためだ』と言われ、半ば強引に見せましたが、父とともに櫃から取り出して扱った一部だけでした」と。

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やはり年長翁はあの「契約状」を見ていなかったのだと確信し、翁が存命であって今の御盛典を直接見聞してもらいたかったと偲べば、涙が注ぐのである。

山崎の旧跡の件は、氏人の契約状を得たことでこれに勝る明徴はないが、忌部郷の位置をはじめ、年長翁が往年に考証した志を心として、今回の治定の助けとするため、細矢氏の論に備えて答弁するものである。

明治八年一月二十三日 小杉橿邨(こすぎかしむら)

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⑪ 小中村清矩の考証および結語(明治11年6月27日)

長く世に隠没していた忌部神社の所在を考証するにあたっては、この神が阿波国に鎮座する由緒、またその神の末裔がこの地に留まって神に仕え奉った事実、さらにはその神孫である忌部氏(三木家)に伝わる文書などの古典を徴証とするべきである。

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そもそも忌部神社に斎き祀る所の初めは、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子である天太玉命(あめのふとだまのみこと)に従い、天祖に仕え奉った天日鷲命(あめのひわしのみこと)にまします。上古、天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、この神が穀(かじのき)や麻を植え、木綿和幣(ゆうにきて)を作り給うた事績により「麻殖(おえ)の神」とも申し上げ奉った。その吉例に因み、神武天皇が都を橿原にお定めになった際、太玉命の孫である天富命(あめのとみのみこと)に従って肥饒の地を求め、阿波国に至って穀や麻の種を植えた。その末裔はかの国に在り、大嘗祭の年には木綿・麻布や種々の神宝を貢進した。それ故に郡名を「麻殖(おえ)」とした旨が『古語拾遺』に見えている。

すなわち、この郡中には天日鷲命の神孫が居住したことが明白である。また『続日本紀』には阿波国麻植郡の忌部連等が宿禰の姓を賜った記録がある。忌部氏が世々この郡中に住み、その祖神を祀ったが故に、神名帳にも同郡に忌部神社があり、また「忌部郷」という郷名も存在するのである。

(中略:『貞観儀式』や『延喜式』の大嘗祭式を引き、阿波国の忌部氏が神御衣の木綿・荒妙を織り、朝廷に貢進する職務を帯びていたことを考証。その末裔が現在の三木家であることを実証している。)

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この正慶元年(1332年)の連署状において、一族が力を合わせて「御衣御殿人(みそみどのびと)」と称し、山崎村の「忌部の市(二月、九月の二十三日)」に集結して神祭を行っていたことは極めて重要である。三木家の者が五里の山路を越えて山崎村へ参詣する例が現代まで続いているのは、その地が祖神である天日鷲命の鎮座する忌部神社の旧地だからにほかならない。

以上の考証と上文に記された調査結果を考え合わせれば、山崎村の神社がいよいよ式内の忌部神社であることは明瞭である。寛政年間に一旦は式内社と定められながら、世の無知なる者が川田村や宮島村の神社を忌部神社だと主張する妄説が聞こえていたが、それらは全く確証のないものである。

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【忌部神社所在考証 結語および太政官布告】

(忌部の末裔が古代より神事に携わる役所へ出仕し)そこに遺業を伝え、またその由緒ある文書を所蔵し続けているのは、彼らが天日鷲命の神孫であるからにほかならない。ただその由緒正しき神孫であるからこそ、(昔からの契約の例を違)えることなく山崎の市へ赴くものと見受けられる。かの市を疎略にせず、五里もの険しい路程を経て参詣するのは、ひとえに忌(部の祖神たる天日鷲命の神社がその地に)ある故である。忌部神社のために立つ市であるからこそ「忌部市」と呼ぶことなども、これまでの文に記した趣旨と照らし合わせれば、いよいよこの山崎村の社が式内の忌部神社であることは明瞭である。

この社を式内忌部神社と定めるのは、決して今になって言い出した新説ではない。そのことは寛政年間に編纂された『阿波志』に見える記述からも知るべきである。それにもかかわらず、(川田村)の八幡、あるいは宮島村の八幡を忌部神社であると強弁する説も聞こえてくるが、それらは全く確証のあるものではないので、これまでの論考の趣旨をよく見て思い悟るべきである。

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国幣中社・阿波国忌部神社の儀は、所在が不分明であったためこれまで正式な祭典が行われていなかったが、麻植郡山崎村に鎮座する天(日鷲神社が則ち忌部神社であることを実)検した。これにつき、今後は当該社を忌部神社と称して祭典を行うものとする。この旨、相達する候事。

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明治七年十二月二十二日 太政大臣 三条実美 明治十一年六月二十七日 御用係 小中村清矩

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【第七章】新居正道による貞光説(美馬郡編入説)の完全論破と大麻比古神社の影(明治12年)

(執筆時期:明治12年4月)

【史料背景】 明治12年(1879年)、史誌編輯係附属の新居正道(にい まさみち)が、貞光村などを忌部神社の旧跡とする説(美馬郡編入説)を、平安時代の公的記録を用いて学術的に完全に論破した極めて論理的な考証文書です。

(※原文の活字認識の乱れについては、前後の文脈および依拠している古典『日本三代実録』『類聚三代格』『和名類聚抄』の原文と照合して精緻に補正・解読を行っています。)

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⑫ 「麻植郡忌部郷を割いて美馬郡に編入したと云う説は非である」という考証

明治十二年四月十三日 史誌編輯係附属 新居正道 史誌編輯御用係 殿(※後の記述より川田秀穎 宛)

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「麻植郡忌部郷を割いて美馬郡に編入せられた」と云うのは誤りであるという考証

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『日本三代実録』の貞観二年(860年)三月二日壬申の条に「阿波国美馬郡を割いて三好郡を置く」とある。幾つの郷を割いたとも、何という郷を割いたとも見えないけれども、「割いた」とあるからには、『阿波国鑑(あわこくかがみ)』という書に言っているように「美馬郡という名称を三好郡に改めた」のではないことは明白である。

また、『阿波国鑑』に「麻植郡の半分を美馬郡に改めた」とあるのは、一体何を根拠に言っているのか。総じて、此の『阿波国鑑』という書は近来の者が書いたものであり、甚だおぼつかなく、証拠とするには足らない。

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ある論者の説のように、「貞観の折に美馬郡を改めて三好郡とし、麻植郡忌部郷を割いて美馬郡とした」というのであれば、『和名類聚抄(和名抄)』の麻植郡の項の下に忌部郷は載るはずがなく、必ず美馬郡の項の下に載るべき理屈である。

その証拠に、『類聚三代格』に次のようにある。

「太政官符。まさに名東郡の主帳一員を省き、名西郡に置くべき事。右、阿波国の解を得るに、名西郡司の解を称するに、『名東・名西の両郡は、元は一郡(名方郡)であった時に件の職(主帳)を二員置いていた。しかし太政官の去る寛平八年九月五日の符の旨により、分割して両郡と為し、七箇郷を名東郡と為し、四箇郷を名西郡と為した。しかし未だこの職を分けておらず、すでに令の条文に違反している。望むらくは官裁を請い、かの(名東郡の)一員を省き此の(名西)郡の員と為さんことを』と。国(国司)が覆覈(ふくかく:再調査)を加え申す所に道理が有る。官の裁可を請うところ、大納言正三位兼行左近衛大将藤原朝臣時平が宣し、勅を奉じて請いの通りにせよ。昌泰元年七月十七日」と見えている。

そして『和名類聚抄』には、名東郡として「名方、新居、賀茂、井上、八万、勝占(※原文OCR「殖果」)」、名西郡として「埴生、高足、土師、桜間」と記されている。

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此の例をもって比較考証するに、先に云う如く、『和名類聚抄』の麻植郡の項の下に忌部郷が載せられているのは、全く貞観の折に美馬郡に編入などされていないという事が判然としているではないか。

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因みに云う。『和名類聚抄』は、源順(みなもとのしたごう)が勤子(いそこ)内親王のために撰修した書である。源順は延喜十一年に生まれ、永観元年に卒した。勤子内親王は醍醐天皇の皇女にして、天慶元年に崩御し給うた。されば、此の抄(和名抄)は承平年間(931年〜938年)に作られたものであると推して知られる。

殊に、『類聚三代格』や『延喜民部式』の頭書などに見える、「貞観より延喜までの間に分割せられたる諸郡、また増益せし諸郷」が悉く皆、此の抄(和名抄)に記載されているのを見れば、その当時の実記にして、もっとも証拠とするに足るものである。

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大麻比古神社等考証(※推測) 史誌編輯係附属 新居正道 明治十二年四月十五日 官司 川田秀穎 殿

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【史料の読み解きと論点の整理(郷土史家としての検証・考察)】

この明治12年の文書は、貞光側の論拠(美馬郡への編入説)を、「和名抄の記載の確実性」を証明することによって根底から崩した非常に重要な考証です。新居正道が展開した見事な論理構造と、その背後に推測される「真の動機」は以下の通りです。

1. 貞光側(および『阿波国鑑』)の主張の矛盾を突く

貞光の論者たちは、「貞観2年(860年)に三好郡が新設された際、麻植郡の西半分(忌部郷など)が美馬郡に編入された。だから現在の美馬郡貞光にある神社こそが忌部神社である」と主張していました。しかし新居は、『日本三代実録』には「美馬郡を割いて三好郡を置いた」としか書かれておらず、麻植郡を美馬郡へ編入したなどという記録は一切ないため、近世の俗書である『阿波国鑑』の記述は無根拠であると一蹴しています。

2. 『和名抄』の正確性を「名東・名西の分割」で証明する

ここからが新居の真骨頂です。貞光側の「貞観年間に境界変更があった」という言い分に対し、新居は「もし貞観2年に編入があったのなら、その約70年後に書かれた『和名類聚抄』(承平年間:931〜938年成立)には、忌部郷は美馬郡の所属として載っていなければおかしい」と指摘します。

その論拠を補強するため、新居は「名東郡と名西郡の分割」という実例を持ち出します。

寛平8年(896年)に名方郡が名東郡と名西郡に分割されたという行政の変更記録(『類聚三代格』昌泰元年の太政官符)が存在しますが、『和名類聚抄』にはしっかりと「名東郡」「名西郡」が分けて記載され、それぞれの郷名も正確に反映されています。

つまり、『和名類聚抄』は貞観(859〜877年)以降、延喜・承平に至るまでの「行政区画の変更(郡の分割や郷の増減)」を完璧にアップデートして記載している最新の実記であると証明したのです。

それほど正確に当時の行政区画を反映している『和名類聚抄』において、「忌部郷」は美馬郡ではなく、明確に「麻植郡」の下に記載されている。したがって、「麻植郡の忌部郷が美馬郡に編入された」という前提に立つ貞光側の旧跡論は、学術的に完全に成り立たない、という文献学的証明です。

3. 新居正道が貞光説を徹底的に叩き潰した「裏の動機」――大麻比古神社の由緒再編と社格防衛

推測の域を出ないが、当時の時代背景を俯瞰すると次のような仮説が成り立ちます。

大麻比古神社の神職(新居一族)であった新居正道が、なぜ自分の神社とは直接関係のない「忌部神社の所在地論争」にこれほどまで熱心に介入し、貞光説を徹底的に論破したのか。

第一に、彼は「史誌編輯(歴史編纂)の専門官僚」でした。当時の政府や県が地誌を編纂する上で、貞光側が提示した偽書『阿波国鑑』の蔓延は、国家の正史を捻じ曲げる看過できない事態であり、これを学術的に叩き潰すことは歴史編纂官としての純粋な義憤と使命でした。

第二に、さらに深層を探れば、明治初期の神道界における「大麻比古神社の由緒再編」という裏面史が推測されます。江戸時代において、大麻比古神社の祭神は一般に「猿田彦大神」とされていましたが、明治政府の新たな社格制度の下、大麻比古神社は自らの由緒を「天太玉命の孫・天富命が、阿波を開拓した忌部氏の太祖(大麻比古神=天太玉命)を祀った、阿波国最高の開拓祖神の社である」という壮大な神話的アイデンティティへとアップデートを図っていた過渡期にありました。

この新たな由緒を政府に認めさせ、最高位の社格(国幣中社)を確固たるものにするためには、「忌部氏が阿波のどこを開拓し、どこに拠点を置いていたか」という歴史地理が、国史の通りに「麻植郡」に定まっていなければなりません。もし貞光村の村雲氏が主張する牽強付会な説が政府に公式に認められてしまえば、大麻比古神社が構築しようとしていた「忌部氏の太祖を祀る一宮」としての由緒の前提(歴史地理)が根本から崩されてしまう危険性があったのです。

新居正道が『和名類聚抄』などの文献を駆使して貞光説を完膚なきまでに論破した背景には、自社の新たなアイデンティティ確立の邪魔になる貞光側の「政治運動」を学術的に完全に息の根を止めておく必要があったという、大麻比古神社側としての極めて切実で政治的な狙いが隠されていたと考えられます。忌部神社の正蹟をめぐる争いの背後で、阿波一宮もまた、神道界の頂点に君臨し続けるための高度な学術戦を繰り広げていたという構図が浮かび上がります。