原本『異本阿波志』 全文解読

第三部:天正十三年 阿波平定の軌跡

各城の明け渡しと阿波九城への配置

(暮秋の下)旬に、ことごとく城を開け渡して、思い思いにまた落ち延びて行った。 家政公によって、一宮城の城番として(守将を)置き、南方の押さえとして富岡の城に置き、山林の逆徒の押さえとして仁宇山に城郭を構えられた。土佐国境の隣国の押さえとして海部・鞆の湊に小城郭を構え置き、淡路渡海のため撫養の湊に小城郭を構え置き、北方里分の押さえとして西条に城を構え置き、上郡の入り口の道中の番手として川島に小城郭を構え置き、上郡方面の押さえとして脇の城に置き、伊予・讃岐・土佐の国境に程近いことにより隣国の押さえとして大西の城に置いた。

太閤秀吉公の命と阿波国拝領

太閤秀吉公からの仰せにより、寄手(攻め手)の軍勢は渭山に本城郭を構え、武威を振るって様々に仰せ出され、「摂津国大坂の御居城に近い国に召し置かれるべきである」と仰せられて、阿波国を下し賜わった。

家政公の善政と自国侍の帰順

家政公は阿波国を拝領されて、その徳が窮民を撫でる(いたわる)ことは至れり尽くせりであった。万人の上に被さるその権勢に服従しない者はない。朝の太陽に侵される残星が光を奪われるような道理であるので、自国の侍たちは首を垂れて、招かれないのに集まり、攻められずして従い、帰着(帰順)することはただ吹く風に草木が靡くかのようである。誠に天から受けた聖なる主、地に奉られる明君であると、その徳を称え奉らない者はいない。

渭山城への移城と祖谷地方の統治へ

すなわち(家政公は)渭山の本城にお移りになり、老臣たちがそれぞれ相談をして、祖谷の奥深い里や遠い山家の民で、心から服従しない者たちを治めさせるために、真松惣右衛門を遣わされたところ、傍若無人な奴原(やつばら)が、あちらの谷やこちらの在所の民家から雲霞のごとく馳せ集まり、惣右衛門に鉄砲を撃ち掛けることは雨が降るかのようであった。向かって来る賊徒を数多く、惣右衛門は手に掛けて討ち果たしたといえども、多勢に無勢では叶い難く、惣右衛門も討ち死にを遂げた。仁宇谷の奥を攻めさせなさるために、梶浦与四郎を遣わされ、あちらこちらの在々を攻め平らげなさって、梶浦与四郎が渭津(いづ)へ引き取る所に、正路(本道)を建て塞ぐ徒者(あぶれ者)どもが、葛谷の坂に待ち掛け、一方より矢を射かけ鉄砲を放った。その音は山々に響き渡り、雷鳴が轟き雨雹が降るごとくであった。手先に進む賊徒どもを討ち捕ったといえども、与四郎は深手を負い、ついに討ち死にした。

家政公の逆徒討伐と民の帰順

家政公はこれを聞こし召し、山林の逆徒どもを一人一人首を刎ね、その在々に懸け置き(晒し首にし)なさったので、残る民たちは間違いなく従いやって来て、皆その勤めをなすことについて、事や心が及ばない(行き届かない)ということはなかった。

九城の守将への恩賞と国政の安定

九つの城を預け置きなさった老従の侍へ、秀吉公より御服(衣服)を一重ねずつ下し賜わった。各々は有り難く頂戴し、その所を守って居住した。同じく老従の樋口長右衛門尉は内蔵助に任じ、長谷川孫右衛門尉は兵庫に任じ、この二人は渭津に居住して、国の法令を開き(発布し)万事を治めた。非番・当番で出仕する侍たちは昼夜・朝夕に怠る事なく、(そのため)山の下や山の外の辺境においても、民の竈(生活)は賑わった。

蜂須賀家政公の入国と城代配置

家政公。正勝公の長男。天正十三年五月、阿波国へ御入国される。この国は長曾我部元親の讎敵の国なれば、土民・百姓に至るまで土佐を恨むこと、と言うばかり無し。土州の兵を退治せし事を悦び、一時に服従して、譜代の国民の如くであった。

家政公は御慈愛深くして、国中の山士、兵、農百姓、この三品を分けて、山士・郷士が世を持ち来る所に、この山畠を給わって安堵せしむ。国中の兵士、この血脈の者をば、奉公人の家格筋として事ある時は軍兵に従い、下は田夫の筋を百姓筋とす。事ある時は夫馬の役を勤む。平生は交わりなし。その家は貧窮なりといえども、奉公人筋の者を上座となし、その家は富貴なりといえども百姓筋の者を下座に置いた。

家政公が故家舊姓を哀れみ給うゆえに、家政公が御入国遊ばされ、渭山城を今の御本城となされて、その余の御国中の城々を押さえとして御家老一人に御手勢三百を相添え、それぞれに指し置かれる。

一宮城:益田宮内少輔
仁宇山城:山田織部正
富田城:細山主水正
海部鞆城:中村右近太輔
撫養湊城:益田内膳正
西條城:森監物
川島城:林圖書亮
脇ノ城:稲田左馬亮
大西城:牛田掃部頭

大坂の陣と蜂須賀至鎮の軍功

慶長十九甲寅年冬、大坂御陣。蓬庵様 在江戸。至鎮公 大坂へ御出陣。大坂に大将・大野道犬が楯籠り、織多ヶ崎ならびに伯樂ヶ淵を乗っ取る。

その後、十二月十六日夜、城中より大野主馬之助が次将・塙團右衛門直之、柴田監物の両人を大将として、軍勢百四十人が打って出る。至鎮公の御本陣は西本願寺の御堂なり。御家老・中村右近は淡路町筋南の方の城構えから今一町ばかり引き退き、陣営を構え相備える。右の陣所へ敵が夜討ちに入る所、至鎮公の御人数が早速駆け付け、城兵と相数戦い、城兵を数多く討ち取り、味方には中村右近を始め討ち死にし、手負いが数多く有った。稲田修理亮、岩田七左衛門は粉骨を尽くし相戦う。修理亮の嫡子、鵜飼七郎右衛門、四宮與兵衛、横井十兵衛は能く戦って各々首を得た。両将軍の御感の余り、御書を蓬庵公へ下され候。 (御文 これを略す)

慶長二十乙卯年正月十一日、右の御軍功によってそれぞれに御褒美、御感状を賜う。 (御文 略す)

大御所様より: 黄金、御腰物 等の品々
大樹様より: 御感状、御綿衣

慶長二十乙卯年五月、東西の御和睦が破れ、再び関東の大軍が大坂を攻める。同月五日より軍が始まり、所々の合戦に大坂の諸将が討ち死にする。同七日落城し、秀頼卿は御生害なさる。(天正癸未年五月、秀吉公が大坂の城に移り給いより、慶長二十乙卯年、秀頼公に至り、父子二代三十三年にして亡ぶ)

この時、この御軍功によって、至鎮公は淡路国を御拝領なされ、誠にこれをもって御大祖・正勝公、家政公、至鎮様、智と勇才は古今に秀で給いし名将におわし給う。是より御代を連綿として阿淡両州を治め給い、徳澤は民を撫で給いて、国は富み万民は豊かにして、御世は大いに治る。御当家の御子孫は百億万歳である。 阿波記 終

阿国記跋と神域補足

阿国記跋 その文はすなわち史であり、これ記である。近世、村野の父老の口授や小説が存するといえども、多くは杜撰である。今初めて阿史が成りて、事実がすなわち後生の眼目に在りて照々然である。豈愉快ならずや。先生が繙かれたことは、百年後の香西氏とも謂うべきであろうか。 宝暦十三癸未年季秋 室住 秀安敬んで題す

大麻比古神社: 大板東郡。忌部社は大麻酒折宮の島に有り、今は八幡宮と云う。
天石門別八倉比賣神社: 大名方郡矢野村。
馬石: 勝浦郡田野村に有り。
蛙石: 名西郡尼寺村茶臼山中央に有り。