この手紙(文章)が存在したのは、今の明治四十年よりは昔の年のことであり、その後の十年間は、昔のさらに昔であるように思われる。というのは、どのように定めたのかという証拠を後になって書き記した、その理由があるからだ。今このように同じ別れを歌に詠むにつけても、ますますしみじみと悲しく感じられる。とはいえ、二十余年前の昔の人と向かい合って直接事情を聞きたいと思い、珍しく書き留められたのである。後になって振り返って見れば、それがひときわ趣深いことと思われます。このように、たいそうその趣深い理由を知らない平凡な人のように書かれているその机もその悲しみを帯びており、心が乱れるほどに涙が袖を伝い落ちるのも、その悲しみによるものなのだ。
村の内にいる従兄弟と久しく親しんだことを言い、そう言って家へ集まって、また大酒を飲んで眠り難いのは、その一つにと呼ぶ手紙の契りになぞらえれば、とぼけて、男は手紙の筋書き(文脈)があるものだなどと言い、次々と書かれる書き様は、及ぶ限り平穏であろうと見えるのは、お考えを保ち、後には良く、今はどうだろうか。しかしながら惜しむべきは、今言うと言って言っているようである。見る人はその趣を感じて読め、ということである。 神無月二十四日の日 後藤豊尚
元より阿波の事を説くこと、左の通りである。
△阿波志 全五巻 蜂須賀家伝来螺鈿の書(今の古志を無印の傍らに書かれたものと同じである。冒頭には写しと見えた。)
阿波国名所旧跡 古戦場 所 故人の歌 奥に蜂須賀家政公阿波御入国並びに御家御繁昌の事。右を一巻とする。
◇阿波志 全五巻(今、右に九郡の名が書かれている。今の十郡の内、那賀郡が漏れている。)
国記 阿波国 神社寺院伝記 延喜式神名帳阿波神社 郡村。右で一巻とした。
◇阿波志 全五巻(今言う、ここに言う) 右で一巻。
阿淡雑記 渭府雑記 徳島 四国軍記抜書(今言う、放置国のことばかりである) 右で一巻とした。
□阿波志 全五巻 阿波志追加 阿波雑記 和名類聚抄阿波国郡村(今言う、これも今除く) 右で一巻。
右の五巻は、どれを最初の巻とも定め難いけれど、今仮にともかくその目印である△□◇の印の、いずれの所へ集めた時、条首(項目の初め)にその付した印を置いた。ただし、左に言う二巻として一つに収まり、雑記と郡村の部とをすべて分けた。こうして雑記は阿波国内で扱う文書であり、この巻は上巻としているが、本書に古書を引用して載せている所は多くが、初めと終わりの文字を五、六字記して、後は「云々」と書いており、原書のようには記されていない。
阿波志 全五巻 阿波記 そもそも阿波国は、東南に広々とした海(滄海)を前とし、西北は険しい山々(峩々たる山)を後ろにして、気候は穏やかで暖かく、五穀豊穣の地である。お城がそびえ立ってその中にあり、朱雀・玄武・青龍・白虎の五徳に相応する、永遠に変わらない万代不易の地である。神社仏閣や武士、多くの民がその四方に連なり、工業・商業の様々な職業の人々が町や路地に満ちあふれて、賑わっていることは言葉で言い尽くせないほどである。
もっとも、古跡は多いといっても、それを知る人は稀になってしまった。私は仕事の合間に、このように古い記録を見ることに詳しいわけではないといっても、常に好んで読んでいる草紙の中から抜き集めて「阿波記」と名付けた。しかしながら、そのつたなさを恥じて、人から見ることを恐れて、ある日、富田という親しい友人が私の所を訪ねてきた。これを見て、その親友のことについて言葉を交わした。その間、いくばくかの誤り(書き間違い)を直して、追記をした。楽しみであることだ。 宝暦七年 丁丑 夏六月 宇野直重 書
阿波の鳴門は世に名高く聞こえている。水門の東を淡路、鳴門のその間の海路。南海から北海へ往来する潮の潮流は、たいそう激しく、波は荒々しく、険しい岩がある。その名に、恵美須島、飞島、釼ノ口、孫崎ノ端。鳴門。(恵美須山、飛島、釼ノ口、孫崎ノ端。日本紀に「鳴門及速吸名門」、林崎に「一条禅閣の筆記に曰く」とある。)鳴門、今阿波の鳴門である。 『土佐日記』に「土佐の帰りに舟を寄せて夜中に小舟を出して、波の音をひたすらに聞きつつ、夜を明かした。西の東も見分けないほどに、神仏を祈りつつ待った……」
「鳴門より舟出されぬ……」(和泉式部集)
「世の中を渡りくらし今ぞ知る……」(清少納言)
「淡路島 瀬戸の追風……」(新後拾遺集)
「君が代を追ふとて……」(千載集)
「音に聞く 鳴門の浦……」(新千載集)
海士が潮を汲む姿を見ているという話、仲正。里の海士の「鳴門の浦の……」という歌には、「水鳥の……」とある。「淡路……」と歌われるのは、阿波と淡路との距離が近く、一月ほど近い所からか、時之。「いかにせん……」という歌は、阿波の沖の波があまりにも激しく、寄せては返す波の音が恐ろしい。「相模」とある。「思いふる……」という歌は、鳴門の浦で、色々と……と知らせて……、と言い。
里浦の海辺の、松原を言う。東南の方角に、鳴門に向かう淡路島の沖の海上に三里ほどある。この地は名勝の地としても有名であり、また「磯崎の松の堂の浦……」という歌がある。……あわれ(しんみりと)させて……と証している。
ある書物に言う。「阿波の里の海人は、歌人が尋ね至った所である」云々。人王八十二代・後鳥羽院の御世、三月十八日の柿本人麻呂の縁日に、藤原実信卿が当時の名手であったことにより勅命を受け、里の浦の人麻呂の絵をお描きになった。これを里の海人が、人麻呂の絵として珍重し伝受のこととして、今も磯崎の一本松の名にし負う大木である。清少納言が四国へ下った時、この所に留まったという。清少納言の墓がこの所にある。 里の海人の事は多くの歌書に記されている。磯崎の一つ松と言ったのは、この松が枯れて、その跡に八、九十年以前に植え替え、今も一抱え余りの太さがある。
ある説には土御門院の御陵と言い、ある説には清少納言の墓と言う。また、里人の伝えでは海士の墓とも言うとのこと。土御門院のことについては、『阿波羅記』やその他に皇居の地は木屋平であるべきとある。
清少納言については、玄旨法印の『百人一首の抄』に「清少納言は老後には落ちぶれたものである」と言う。『扶桑拾葉集』の清少納言の系図に「老後漂泊して筑前で亡くなった」と言う。考えるに、清少納言がこの浦にさまよい来たことは誠にあったのだろう。しかしながら、終焉の地とする事の明確な証拠はなく、覚束ないことである。『春曙抄』に、誓願寺にて出家し、帝のお顧みも蒙らず身罷り、往生を遂げて、かの寺に墓もあると『誓願寺記』に見えると言う。
西行法師が四国修行の時、この所にて詠んだ。(ある本には伊予と言う。ある本には伊予にて) 「縁に引かれて来て見よう。里は海人の面影が残る磯崎の松よ。」
『山家和歌集』 昔、志をほのぼの申し上げていたことであろうか、どうした事であって、四国の方へ修行しに行ったが、また帰参しない事であろうかと思って、仁和二年十月十日の夜に参上して幣を奉った。内へは参らない事であるので、御門の社にひれ伏して、お心を寄せてくださいと言って泣き居たところ、木の間より月が差し入ることよりも、神さびて哀れに思われて詠んだ。 「畏れ多い死出の山路の勝見であることよ。またいつ来てと思う心に。」西行
同じく四国の方へ指して下った同行の者が、都へ帰った時に。 「帰り行く人に心を思うにつけても、そなたへ行き難いのは都であったよ。」
西行袈裟掛石: 八幡宮の森の南の山際にある。西行法師が袈裟を掛けた石と言う。
『続古今和歌集』「里の海人の焚く藻の煙よ、心せよ。月に出で帆は空が晴れるのだ。」後鳥羽院
『続後拾遺和歌集』「里の海人の塩焼衣が立ち別れ、別れは知らないだろうな、春の暁。」定家卿
『夫木和歌抄』「幾人が袖に色香を移すだろうか。春を尋ねる里の海人は。」元可
『夫木和歌抄』「浦風に花が匂うだろうか、里の海人のこの柴垣に千鳥が鳴いている。」隆祐
「月が清らかで、磯の松の根が替わらない間に、衣が乾いたことだよ、里の海人は。」長明
「埋もれてきた煙を宿に返して、雪の中で塩を汲む里に人はいるだろうか。」元可
『後拾遺和歌集』恋二「浦風にたなびいているよ、里の海人が焼く藻の煙のように、私の心までも。」実方朝臣
里浦八幡宮の森の東に並んで、「海人の屋敷跡」ということで樹木が生い茂り、南北の木陰に古い井戸がある。小さな石を積んで、深さは一丈ばかり、底に水がある。ある年、長院殿がこの地を御遊覧された時、原安適が御供をして和歌を詠んだ。 「田となっている昔のこの跡で稲を拾い、心ある海人はしきりに昔を思っているだろうか。」
〇粟飯(あわい): 粟井大明神がある。
鍋島: 北の山ぞ、鍋を伏せたようである。「打ち寄せる浪に粟飯を炊いているのだろうか、塩煙が立ち鍋島が見えることよ。」紀貫之
阿波井、御幸の松、鏡山、木津神の浦: 『名所題集』に、木津神の浦は今の木津浦であるとある。この所は初め馬目木明神と言った。
袴腰: 木津山に袴腰という山がある。
阿波山: 眉山とも言う。『万葉集』に言う。「眉の如く雲居に見える阿波の山をめがけて漕ぐ舟は、泊まる所を知らないことよ。」船王
吾能邊山(あのべやま): 矢野村にある。神社がある。松尾大明神、八倉姫神。「雲のかかっている八倉の里の吾能邊山、その下津磐根に宮柱を太敷き立てたことよ。」
数皆(すかい)の森: 下庄村の森にある。古歌にある。「里に馴れて何度も鳴くホトトギスよ、数皆の森の杉の梢に。」
桜の池、高和の浦: この二か所も名所である。桜の池は桜間村にある。高和の浦は、四つきの所かしら波。(考えるに、井ノ戸村の北に高輪村がある。この所は高輪の浦ではないだろうか。)
土御門院の御陵。木屋平村にある。新八幡宮と号し、今、氏神として崇めている。この帝は承久の乱において土佐の畑へ流されなさり、その後、阿波国へ移りなさったとのことである。中村山の内に東護城といって古城の跡がある。世間では、嵯峨天皇が籠りなさった所と言い伝えている。この説は誤っており、嵯峨天皇が左遷されたといういわれはない。間違いなく土御門院の皇居の跡であるべきである。
右の村の内に、子捨嶽という所がある。御后が帝の御跡を慕い、皇子を抱いて来られたけれども、お体が疲れ、難所を越えがたく、皇子をお捨てになった所だと言い伝えている。また、木山に極楽寺という真言宗の寺がある。かの寺に御后が参籠なされたという旧跡が今もある。上山村にて崩御なされたと言い伝えて、麻絹名と名付けた村がある。東護城にて旱魃の節、村民が雨を祈ると、たちまち験があった。 『百錬抄』に、「寛喜三年十月十二日、帝、阿波にて崩ず」とある。 ◇古墳。ある説に土御門院の御陵と言い、ある説に清少納言の墓と言う。また、里人の伝えに尼の墓と言う。
『吾妻鏡』には土御門院の御事について次のように記されている。「承久3年閏10月10日、土御門院は土佐国へ遷幸された。土御門大納言定通卿らが御車にお供し、君臣互いに悲しまれた。女房四人、ならびに少将雅具がお供し、俊平が付き従った。」「貞応2年5月27日、土御門院が土佐国から阿波国へ遷幸される間の道のりや、お供の人数について尋ね聞き、これを注進するようにとの旨が、阿波守護の小笠原弥太郎長経のもとへ仰せ遣わされた。4月22日に、お迎えのためにすでに土州へ進発し終えた旨を、長経が言上した」とのことである。
『承久記』には、「帝は阿波国へ遷幸された」とある。 『百錬抄』には、「寛喜3年10月12日、土御門院が阿波で崩御された」とある。 考えるに、帝が阿波国におられたのは、貞応2年から寛喜3年に至る9年間であり、その皇居は斎の地であったのだろうか。
麻植郡木屋平村に新八幡宮と号してお祀りする社がある。これは土御門院の御陵であると言い伝えられている。また、中山の内に東護城といって古城の跡があり、一説には東官城ともいう。
世間では嵯峨帝王が立て籠もられた所というが、考えるに、これは後嵯峨院と誤っているのだろう。後嵯峨院は土御門院の第二の皇子で、御諱を邦仁と申し上げ、土御門上皇が遷幸された後は、土御門大納言である源通方が外戚として親しみがあったことによって養育し申し上げた。18歳の時に通方が亡くなった。そのため、祖母である承明門院のお許に移られ、ひっそりとした御様子でいらっしゃったところに、関東の計らいということで、仁治3年に皇位にお就きになられた。この時、御年23歳であった。
後嵯峨院がまだ皇位にお就きにならないうちに、思い立って当国にお越しになられたのだろうか。または、上皇の御后が御跡を慕って、皇子を抱いてお越しになられたと言い伝えられており、右の村の内に小子捨嶽という所がある。 三ツ木山に極楽寺という真言宗の寺がある。その寺で后がお亡くなりになられたといい、墓が今もある。上山村に絹をお織りになられたと言い伝えて、麻絹名という里がある。
上皇崩御の時(新院 仁治元年12月)、また、三好郡山城谷に御別宮というものがある。御神体として土御門上皇の御扇を祀る祠である。長久保氏は、その先祖が承久の頃、土御門上皇が阿波国へ遷幸された時に随侍した、久保鶴王という者の末裔である。右の言い伝へをもって考えるに、木屋平の辺りに皇居があったのだろう。
『神皇正統記』には、「土御門院は阿波国にて告文をお書きになられて、石清水八幡宮へ啓白なさった。阿波国にて崩御された。御年37歳でいらっしゃった」とある。 『日本紀』に曰く、「允恭天皇14年9月、天皇は淡路島で狩りをされた云々」。その墓は今なお存在している。考えるに、これは海人の男狭磯の墓であろう。また、この浦を黒の海士というのは、この『日本紀』に由来するのであろう。 ◇土御門院は土佐国へお遷し申し上げ、年を経て阿波国へ遷幸された。寛喜3年10月12日、阿波国にて崩御なさった。
御年37歳。後鳥羽法皇の第一の皇子であり、中ノ院とも申し上げる。あるいは土御門院とも申し上げた。 承久3年3月、不本意ながら皇位をお譲りになられたことへの御恨みが深くあらせられた。そのため、不敬の志ということでこのように配流されることになったのであるが、関東からもとやかく沙汰に及ぶことはなく、都にいらっしゃった。
土御門院が仰せになられたことには、「承久のことについては、その恨みは深いというものの、人間界に生を受けることは父母の恩である。それなのに、一院が配流所にいらっしゃいながら、我が身が都で安らぎ暮らしていることは、いよいよ不孝の罪が深いことである。同じ遠国に棲まおう」と、九条禅定殿下ならびに右大将公経に仰せ付けられたので、この旨を関東へ仰せ遣わされた。
左京権大夫義時以下の人々は驚き申し上げて、「この上は力に及ばない」ということで、同年10月10日、土佐国へ遷幸することと定まって、お供には少将定平、侍従貞光、女房三人、医師一人が参上して、土佐国にお着きになられた。
しかし、お気に召さない旨をお申し出になられたので、阿波国へお移りになる道中、阿波と土佐の両国境の中山にて、にわかに大雪が降りしきった。前後の道も分かりにくくなり、御輿を担ぐ者も歩み進めることができず、身分の上下の者たちが行き悩んでしまったため、御輿を下ろして留めた。どうなるのだろうとも分からない中、院は御涙にむせばれて、 「このつらい浮世に置かれたままになるために生まれてきたのだろうか。いや、そうではあるまい。とめどなく流れる私の涙であることよ」 後鳥羽院を一院と申し奉り、順徳院を新院と申し奉る。
土御門院は、中ノ院とも申し上げ、あるいは阿波院とも申し上げる。
貞応元年(壬午)、土御門院は阿波国へ御遷幸された。10月、土御門院は土佐国から阿波国へお移りになられた。
新院は佐渡国へ御遷幸された。
一院は隠岐国へ御遷幸された。
右大将公経は、内大臣になられた。
嘉禄3年(丁亥)、土御門院は阿波国にて出家なさった。御年33歳。法名は行覚。
寛喜3年(辛卯)10月11日、土御門院は阿波国にて崩御された。御年37歳(または11月11日に崩御ともいう)。11月4日、土御門院が崩御されたという知らせが、飛脚によって京都へ到着した。関東へも飛脚が下った。
『百錬抄』には、「寛喜3年10月12日、土御門院が阿波国にて崩御(御年37歳)」とある。『五代帝王物語』には、「10月崩御」とある。『東鑑』には、「寛喜3年11月4日、阿波院崩御の旨を伝える飛脚が、京都より下向した」とある。 土御門院が阿波へ遷幸されたのは、貞応二年の頃である。この年より寛喜三年まで九年の間であり、御歳三十三にて崩御なされたのである。
順徳院の御治世、頼家の子である公暁が、刺客を用いて実朝を殺す。北条氏が執事として将軍を立てようとした。後鳥羽院は勅命を下して、武臣の執事をやめさせて帝都に還附し、王命を受けて執行すべきであるとされたが、北条は承知せず、承久の乱が起こり、後鳥羽院を隠岐へ、順徳院を佐渡国へ、土御門院を土佐国へお遷し申し上げた。これより朝廷の権威は衰えて、左右の大将も名ばかりとなって、鎮守府将軍も遷地に……。
◇新八幡宮: 「木屋平ヱドウ」と云う所に御鎮座する。これは土御門院を祭り申し上げるのだと云々。
阿波八景: 超叟、黙宗、銕崖、寂水、丹舟、南山。この六僧が定められたということだ。八景の詩歌があり、重ねて記すべきである、とある。
泥島帰帆 沖洲夜雨 畑山暮雪 松岩晩鐘 沖浜落雁 別宮夕照 津田秋月 粟津晴嵐
当城は清和天皇の十六代・細川形部太輔讃岐守頼春が、暦応年中に足代将軍尊氏公より四国の大将軍に据え置かれて以来、代々細川家が連綿としてこの城に居住し、四国を治めた。
天文のころあい、細川讃岐守持隆の時に至り、足代将軍の権威は衰え、従臣が権力を専らにして命令や行いに背き、天下は大いに乱れ息み、国々は諸侯・領主が私的に闘争した。持隆は貪戻にして、三好家の権威が強いことを忌み嫌い、三好豊前守義賢を亡き者にしようとした。その企てが露見して、かえって義賢のために見性寺において自害し、法名...