徳島県麻植郡木屋平村に残された、大正時代の短い行政文書がある。一見すると、特定の村人に労働負担(不均一夫役)を強いるための事務的な申請書に過ぎないように見える。しかし、この文書が作成された「大正十二年〜十三年」という時期と、選出された工事委員の顔ぶれを紐解く時、そこには近代化の荒波の中で村の命運を賭けた、壮大な交通革命の全貌が浮かび上がってくる。
麻植郡長殿
麻植郡木屋平村長 天田信一
不均一夫役許可申請
村道開削工事の為、不均一夫役賦課の必要あるに付、御許可可被成下度別冊理由書及び村会決議書写相添へ此の段申請侯也
・別冊「理由書」
従来本村における新規事業、即ち道路開削、学校、役場の建築増築その他所有公共事業を起す場合は、事業地付近の村民は挙げて出役し、工事に従事するは古来よりの旧慣にして、善良なる慣例と言はざるべからず。本村御大典記念事業たる村道開削に当り開削の結果最も利益を受くること厚き一部の部落民に対し、町村制第一〇四条により夫役の賦課をなさんとするにあり。
・道路工事委員選挙 通知書
大正十二年三月木屋平村会に於て道路工事委員選挙の結果、工事委員に当選相成候付及通知候也
大正十三年三月四日 木屋平村長 天田信一
工事委員当選者(十三名)
川井 岩雲広輝・森本峯三郎・朝倉石藏
木屋平 下家浜蔵・張久弥右ェ門・川原窪貞太郎・石川清三郎・梅津権八・岡田治三郎
三ッ木 山内文平・佐藤利夫・山田勘左衛門・三木宗治郎
この大工事の背景を理解するには、時計の針を数年前に戻す必要がある。大正四年(一九一五年)の大嘗祭における麁服(あらたえ)調進の際、木屋平から山瀬(山川)への麻糸の奉送は、七人の青年会員らが早朝の暗闇の中を出発し、徒歩で山を越える命がけの過酷なものであった。
なぜ彼らはそれほど困難な道を歩まねばならなかったのか。木屋平(三木村)から吉野川流域の穴吹へと抜ける穴吹川沿いのルートは、当時、厳しい渓谷沿いの崖を這うような悪路であり、車道を通すには固い岩盤を掘削して進む途方もない難工事を要したのである。そのため、大正四年の時点では、機織りの拠点である山瀬町へ向かうには、どれほど険しくとも直線的に北上する「燧ノ窪峠(ひうちのくぼとうげ)」を越えた方がまだ早かったと推測される。
この「決死の山越え」という強烈な原体験こそが、次代の大嘗祭に向けて是が非でも安全な車道を開削しなければならないという、村人たちの悲願の原動力となった。
この一大プロジェクトを強引に推し進めた木屋平村長・天田信一。彼と、名簿の最後尾に名を連ねる三木宗治郎の背後には、数百年に及ぶ一族の凄絶な盛衰史があった。
江戸時代中期、三木家は「忌部」や「三木」の名字すら公称できず、単なる「三ッ木村 長左衛門」として藩の役人にへりくだり、古文書(由緒)を盾に特権を守ることに必死であった。一方、三木家の分家である天田家は、庄屋として楮(こうぞ)生産の元入銀を融資する金融・流通システムを構築し、絶大な経済基盤を確立する。天田家から養子を入れることで両家は強固な同盟を結び、地域を挙げて楮紙の生産に励み、阿波和紙ブームを牽引した。
しかし、その栄華は天保の飢饉(一八三三年)によって破綻する。村人への莫大な貸付金は焦げ付き、天田家は身銭を切って貴重な「酒造株」まで手放す自転車操業に追い込まれた。そして明治四年(一八七一年)、新政府による「庄屋廃止」という制度的暴力によって、彼らは行政のトップという世俗の支配権を完全に剥奪され、村の当事者からも外されてしまったのである。
それから半世紀。彼らはこの大正の大嘗祭と村道開削を機に、鮮やかな復権を試みる。天田信一は「俗と行政」を統括する村長として権力を奪還し、三木宗治郎は「聖と由緒」を体現する奉仕者として君臨した。この道作りは単なる土木工事ではない。どん底を味わった在地実力者たちが、国家事業を利用して木屋平の支配権を再構築し、過去の栄光を取り戻すための「執念の総力戦」であった。
この木屋平から穴吹へと下る渓谷沿いのルートが、いかに人を寄せ付けない険絶な難所であったか。それを如実に物語るのが、穴吹川沿いに今も残る「恋人峠(こいととうげ)」の伝説である。
屋島の合戦に敗れた平家の一族(公達)は、源氏の追っ手を逃れて剣山や祖谷の山奥へと落ち延びていった。彼らの後を必死に慕って追ってきた妻や恋人、官女などの女房たちであったが、現在の穴吹町首野(くびの)付近に差し掛かった際、目の前に立ちはだかるあまりにも険しく険絶な峠道を前に、これ以上一歩も進むことができなくなってしまった。
愛する人との逃避行を断念せざるを得なくなった女房たちは、この峠で激しく泣き崩れ、引き返すか留まるかの苦渋の選択を迫られ、涙ながらに最後の別れを告げた。この「悲涙のうちに袖を分かった」という哀話から、いつしかこの地が「恋人峠」と呼ばれるようになったという。現在では国道492号線が通り、フェンスに南京錠を掛けると永遠に結ばれるという恋人たちの聖地となっているが、当時はまさに絶望の壁であった。
愛する者を追う必死の女たちすらも無情に拒絶し、引き返させた絶望的な岩壁。天田村長や木屋平の村人たちが車道を通そうと挑んだのは、まさにこの平家の怨念すら眠るような、険絶極まる断崖だったのである。
大正九年(一九二〇年)四月、吉野川流域の穴吹から木屋平へと至る旧道が「県道木屋平穴吹線」へと昇格した。県道として自動車の往来を視野に入れた大規模な拡幅が至上命題となったが、莫大な資金と労働力が必要であった。天田村長は「御大典記念事業」という錦の御旗を掲げ、不均一夫役という無給の過酷な労働を村民に強いた。
なぜ「三ッ木」「木屋平」「川井」の三地区が選ばれたのか。それは、大正三年(一九一四年)に吉野川沿いに開業していた鉄道(徳島本線・穴吹駅)へと直結する、木屋平側の生命線沿いに住む人々だったからである。かつて村を挙げて励んだ楮生産の利益を、穴吹駅への自動車ルート開拓によって爆発的に増大させる。これは天田家・三木家にとって、莫大な富を生み出す究極の物流革命であった。
ここで注目すべきは、この工事が大正十二年から始まり、わずか四、五年で自動車通行を可能にしているという事実である。下流の穴吹側の整備は穴吹町の管轄であり、天田村長ら木屋平の民が己の血と汗で挑んだのは、恋人峠へと連なる最も険しい「木屋平の入り口から三木村(三ッ木)に至るまでの断崖区間」であったはずだ。平家の落人すら阻んだ最大の難所に、彼らは立ち向かったのである。
この大工事を遂行するため、大正十三年に選出された工事委員は驚るべき「オールスターチーム」であった。
筆頭に名を連ねる川井地区の「岩雲広輝」。岩雲氏とは、古代阿波忌部の神官家として君臨した「忌部五雲(早雲・村雲・岩雲・花雲・飛雲)」の一角である。村長は、近代の行政権力だけでなく、地域に根深く残る五雲の精神的・伝統的権威を利用することで、川井の民衆を強固に束ね上げた。
さらに、木屋平地区の代表として「梅津権八」が選ばれている。かつて川井村の庄屋であった梅津氏は、のちに木屋平の近代土建業(梅津建設)の礎を築く一族である。労働力(人足)の采配や資材調達に長けた旧庄屋層が、ここでは近代的な「土木工事の現場監督」として躍動していた。精神的支柱たる神官家と、実務のプロフェッショナルたる元庄屋。この完璧な布陣こそが、岩崖を削る難工事を可能にした最大の原動力であった。
大正四年の命がけの山越えから十数年。天田家・三木家の執念はついに実を結ぶ。
過酷な不均一夫役を経て木屋平の断崖に道は拓かれ、昭和三年(一九二八年)、昭和天皇の大嘗祭において歴史的な記録が残された。川井日吉神社で紡がれた麻糸は、「九月二十一日自動車で山瀬町の麁服織殿へ送られた」のである。平家の女たちを泣かせ、徒歩でしか越えられなかった四国山地の奥深くから、近代文明の象徴である自動車が、神事の供物を載せて吉野川流域へと駆け下りていった。大正から昭和へと至るこの数年間の土木工事は、木屋平に未曾有の交通革命をもたらしていたのである。
一枚の「不均一夫役許可申請」。そこには、天皇即位という国家の威信と、近代化の波、没落から這い上がった天田家・三木家の野望、そして悲恋の伝説すら眠る絶壁への挑戦が渦巻いていた。天田信一は、忌部五雲の古代ネットワークと庄屋層の実務能力を束ね上げ、村人たちと共に岩を砕き、「荒妙の道」を拓いた。
彼らが汗と土にまみれて築き上げたその轍(わだち)は、やがて自動車を走らせ、昭和の大嘗祭を成功へと導き、そして現在の国道492号へと姿を変えて今も息づいている。これは単なる地方行政の記録ではない。激動の時代を逞しく生き抜き、奪われた権力を取り戻し、未来へと道を切り拓いた阿波の村人たちの、壮大なる勝利の叙事詩なのである。