◆僕はたぶん青空の実験者として生まれてきた
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■ 1954年
東京浅草に生まれる。射手座。一白水星。
父は工業デザイナー。
祖父は和菓子や。三越などに卸していた。
いわゆる浅草の旦那衆の一人だった。
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母方の祖父母と父母、二人の妹
家の裏が工場だったため常に職人や
住み込みのお手伝いさんがいる大所帯だった。
父が祖父の仕事を嫌って別の仕事を持っているため跡取りだった。
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神谷家は三重県の出で造り酒屋だったが
祖父が東京御徒町の時代にハーレーと女遊びで身代をつぶしたらしい。
父は御徒町の生まれで早くに父を亡くし
日本橋の芸者置屋の女将の義母に育てられた寂しがりやだった。
「俺は一日に五分しか働かない」が口癖。
「人と同じことをするな」が遺言。
ブック型の洋酒入れやピストル型のライターなどを考案した。
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浅草の仲見世から入ったところにある浅草寺幼稚園へ通い
小堀遠州造園の伝法院の庭で遊び
ジローのホットドックを食べ
仲見世にあった祖父の店へ立ちより
隣の道具屋で赤胴鈴の助の衣装を買ってもらったりしていた。
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小児ぜんそくで夏は川治温泉へ転地療養にでかけていた。
子供の時から「もうひとつの時間割」を持っていた。
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小学校五年生から来てもらっていた家庭教師の先生(国語担当)から
「少年少女世界の名作文学全50巻」(小学館)を勧められ読破。
参考書を買いに初めてお茶の水へ連れて行ってもらう。
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よくしゃべるので放送局というあだ名があったらしい。
1966年
ロシア黒海幻想派
アレクサンドル・グリーン
晶文社の文学の贈りものシリーズは
十代の少年には衝撃的だった。
このページを開いて以来
「成らざる夢」に僕は呼ばれたのかも知れない
1972年
星の詩人マーク・ボラン◎試聴
星その黒い憂愁の骨の薔薇
(北園克衛)
この本の監修は西脇と金子光晴だった
1974年
北園克衛と足穂の二人が
僕に新しい道を造った
1975年4月1日発行
本はすっかり退色してしまったが
まりの・るうにいの絵が白いオーロラとなって
本の中から光り輝き出す
1975年10月1日印刷
中学高校 芝公園の中にある私立の学校へ通う。
校庭から毎日東京タワーを見ていた。
公園ではデモが
隣町の六本木にはロックの大波が押し寄せる
風景を眺めていた。
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サッカー部に所属。
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勉強をすれば成績は上がったが、
それよりも友だちのノートの取り方やノートの色や
万年筆のペン先の細さや
勉強法に関心が移る。
パイロットのノック式万年筆のペン先をひっくり返して書いていた。
こうするとさらに《極細》になった。
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16才新宿のロック喫茶ソウルイート、渋谷BYGへ出入りする。
後の東京ニューウェーブシーンを代表するミュージシャン
菅原保雄(後のリザード、モモヨ)と出会う。
詩を書き始める。
「ディラン船長」「おしゃべりなお話のお相手マシン」
「アリス教授の世界一長い長いコート」
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東京開催のほとんどのロックコンサートを見る。
(グランドファンク・BST・シカゴ・ELP・
ピンクフロイド・ドノバン・キャットスティーブンス・
はっぴーえんど・岡林信康・遠藤賢司他)
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ノンセクトラジカルだった。
学校バリケード封鎖の時には岡林信康の歌をかけようとしていた。
成田へもでかけビニールハウスで寝た。
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寝袋をかついで夏休み北海道2週間一人旅行。
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京都DAMHOUSEまでヒッチハイク
ドロップアウト
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復学後「ナルニア国物語」「指輪物語」を読む。
ブリティッシュトラッド・民族音楽系の音楽
「インクレティブル・ストリングス・バンド」
「フェアポート・コンベンション」「ティラノザゥルス・レックス」を聴く。
マークボランの詩とロジャー・ウォータースの詩が好きだった。
ケルトミュージックをかけながらケルト系ファンタジーを読んでいた。
雑誌ワンダーランドをかかえてお茶の水めぐりが始まっていた。
19才頃 モダニズム詩人北園克衛を読む。
稲垣足穂を図書館で探すが
詩人で探したため見つからず。
福島淳子と同居。
目黒五本木→吉祥寺成蹊学園前
20才頃 オブジェマガジン遊(ゆう)の第8号「反文学・非文学」特集号に
好きな詩人の北園克衛と好きな作家の稲垣足穂の
《二人が同時に》特集されているのを見て
書きためた原稿をもって出版元の工作舎まででかける。
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編集長の松岡正剛に初めて会う。
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挿画家まりの・るうにいを紹介されて絵を見せてもらう。
その後たびたび会って話をきく。
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松岡はタルホ=セイゴウ・マニアル(潮出版)を執筆中。
「君の最初のファンになってあげよう」と言われる。
同書で都会量子派と命名される。
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冬イラストレーター鴨沢祐二と建築中の新宿副都心を散歩。
遊編集部にちょくちょく遊びに行き
編集者の戸沼恭からダンセイニを教わる。
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書き上げた物語は工作舎周辺
特にまりの・るうにいが読むことが多かった。
彼女経由で荒俣宏も読んでいたようだが、
出版化などほとんどのリクエストには応えなかった。
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遊にはエッセイ「レーザーリアリズム販売機」発表。(福島元彦名義)
23才頃 西式断食をしたら編集者後藤繁雄に弥勒みたいだといわれる。
雑誌ソムニゥムの原稿ことわる。
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都下福生市の米軍ハウスへ引っ越す。
【生涯の研究】を胸に秘める。
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国立のタウン誌の副編集長。
その後コピーライターとして都内の広告会社に勤めはじめる。
コピーライターとしては上司と衝突し会社移動多々。
『緑色電気集』に結実する物語を書き始める。
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退職空白期間に八高線などに乗って遠い街へ行き
ブリキのおもちゃを買い始める。
30才頃 広告の仕事が増えさすがに郊外からは通いきれなくなったので
北品川と高輪台に住む。
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深夜の埠頭の倉庫街でバイクの練習をする。
ホンダGB250クラブマン
のちにスズキジェンマ50をきっかけに
ラビットスクーターS301、カワサキSS90、パリラGS175、
アリエルリーダーのオーナーとなる
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正月父死去。浅草の実家へ戻る。
33才〜 広告会社の所属するチームが解散したので、
父の事務所を改造して空想雑貨開業。
サロンかスタジオののりだった。
美術家小林健二が最初の客だった。
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古いまだ見ぬおもちゃを探して日本中を旅する。
Marino Lounie
デルタ・ミラージュにて
1997.4.22(火)
40才〜50才 小林健二の勧めもあって初めて自分の本を出す。
装幀・オブジェを彼が全部引き受けてくれる。
『緑色電気集』出版。
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大天才漫画家谷岡ヤスジと知り合い意気投合。対談する。
浅草の玩具の魂をサブタイトルにした「ガンタマ」出版。
おもちゃにカモフラージュされた「物質論」だった。
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サッカーのフランスワールドカップで
中田英寿選手のホームページにアクセスしたくなり
「パソコン」をはじめる。
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おもちゃと日本文化「風流」をテーマに
慶應大学で講義
のち同大学より出版化。
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一世一代の大長編推理時代小説『江戸の重力』を書く。
取材で初めて奈良へ行く。
東京のディフォルトを書いた。
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福生時代からの親友伊賀公一の紹介で
バックミンスター・フラーの弟子梶川泰司と出会う。
「クリティカル・パス」にはさんでいた付箋の多さに驚かれる。
後に「宇宙エコロジー」(美術出版社)の編集。
宇宙階層表を
自在に読みこなせなくては
フラーに
フラーのファンタジーを
感じることはできないだろう
いったいいつになったら
バックミンスター・フラーは
《地球の科学者》ではなく
《宇宙の詩人》として
迎えられるようになるのだろう
僕は表紙にどうしても
フラーのこの絵を使いたかった
2004年


50才〜
『ダンセイニ論』発表、
『虚無の宝石箱』執筆。
ようやく思い通りのものが書ける。
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前年よりインターネットテレビ番組「ガンタマTV」を企画。
映像ディレクターとなる。
谷岡ヤスジ展のカタログ製作などに関わる。
次に夜空に君臨するモノ「星」を
(一角獣は)
角で集めはじめた。

角でかき集められた星は
かすかな暖かさをともなった
「春」となった。
次に一角獣はどこからか
「ヒト」を呼びだした。
長い角をまわすと
ヒトはたちまち・・・・・・
(虚無の宝石箱より)
2005年
準備完了 朝、夜が明けてから
夜、星の瞬きまで
よく見て、感受し、清書して、考えて
生活しつづけてみてください。
そしてトキドキは
その話を聞かせてください。
(from U・T 2006.1.5)