江戸の重力■ 
【ノート】
「江戸の重力」は初めてのミステリーである。
最初は江戸論のつもりで書く予定だった。
自分の中の日本文化三部作として
「岡倉天心論」「金太郎論」(金太郎は工作舎予定になっているが僕の都合で中断している)
そして「江戸論」だった。
ところがあまり何々論ではこちらが飽きてきた。


論説を補強する資料も特別ない。
検証もできない。
この悪条件をクリアするにはどうするか。
そこで「推理的手法」を使うことにした。
舞台も江戸時代である。
知恵を絞ったあげく「怪獣映画のシーンに夜が多いのは舞台セットの貧弱さを
隠すため」ということを思いだした。
だから本編は夜のシーンが多い。昼の街の描写を描く必要がなくなるからである。
夜ならば「夜の匂いのリアリズム」で勝負できる。
幻想文学的に江戸の夜を描けばよいわけだ。
結果原稿用紙五百五十枚の大作となった。


そして「決着」は「歌垣」と決めていた。
これがありえない手法で自慢である。
歌垣とは縄文アジア雑穀焼き畑文化全般に分布する
「コトバによる宇宙返礼」である。


江戸の重力ではあらゆるものが
「話し手」が「歌い手」が「主人公」が「歌」が
「謎」が「場所」が「時」が重なりあっている。
重なりあっているだけでなく互換性を持って生きている。


ダレルの
アレキサンドリアのように
ダンセイニの
ロンドンのように
都市の霊性をいつか描きたいという思いがようやくカタチになったように思う。
自分の生まれ育ち過ごしているこの「江戸の華・浅草」という土地の霊性に
気づいている人は皆無に近い。


自分としては一大娯楽作品に仕上げたつもりが
編集者が最後まで読めずギブアップしたことには、驚いた。
まわりでも若い子たちはそんな反応だった。
「言語学」ないしは「国学」について
少しギアを上げたら誰もついてこれなくなることを実感した。


俳句を芭蕉しか知ろうとしない人には永遠にわからないだろうが、
古事記を最高の古典とする宣長などにはわかりようもないが
僕の最も尊敬する方から次のコトバをいただいた。
そして僕はその人のためにこの娯楽作品を仕上げたと言っても過言ではない。
僕の作品には高名な批評家も運行しない読者もいらない。
ぜひこの批評の深い意味を感じとって欲しい。


「其角の江戸の春に出会えそうな気がします」


2005年 SUMMER 神谷僚一