想い出の写真集(荒井公康の親族や仲間たち)

   昭和46年の横浜市立東高等学校時代の修学旅行の時の写真です。これで高校二年の16歳でしたから、今と比べると信じられないと思われるのではないでしょうか。皆、こんな感じで、勉強に励んでいました。場所は山口県秋芳洞です。
   東芝の保養所での写真です。
   東芝在職中に同期で四国へ研修旅行に行った時の写真です。
   東芝在職中に同期と箱根へドライブへ行った時の写真です。
   東芝在職中に同期で四国へ研修旅行に行った時の写真です
   同上。
   同上。
   同上。
   同上。
   東芝在職中に同期の上野一郎君が急逝し、彼の九州福岡の実家へお見舞いに行った時の写真です。亡くなったのは、上の写真で、右から三番目に写っている男性です。
   同上。大宰府天満宮にて。「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の和歌で有名な菅原道真を祭った場所です。
   同上。
   同上。長崎にあるカトリックの教会にて。
   両親とはよく伊豆へ車で温泉に行き海鮮料理を楽しみました。いなとり荘にはよく行きました。二人の子供は姪です。この他、熱川第一ホテル、熱海の遊季亭などへも行きました。東電に勤めている弟の名前を語って、利用したこともあります。高速道路は使わず、一般道を通り、景色を楽しみながらゆっくりと行きました。母が必ず、洋菓子などを用意して、途中で食べたりしながら、目的地に向かいました。帰りには必ず、アジの干物を買ってきましたが、鶴見辺りの魚屋さんと違って、油が乗っていて美味しかったですね。
   右端はリコーダー奏者の小俣達郎さんで、東京芸大卒のチェロ奏者で佐藤道子さんの主催していた「横浜音楽工房」で小俣さんにリコーダーを習っていました。他の生徒さんと一緒に何回か合宿に行きました。山梨の道志村などにも行きました。横浜音楽工房には通勤帰りに夜間によく行ったものですが、佐藤道子さんがひとりでいて、お茶やお菓子をふるまってくれました。最初はこの佐藤さんにピアノを習っていましたが、直ぐに止めてしまいました。結構、ここで飲み会などにも参加していました。
   同上。
   弟の結婚式での様子です。左から母、父、私、叔母、この叔母の孫です。後姿は叔父の荒井福太郎です。
   同上。
   叔母の孫は気品があって綺麗でしょう?
   平成25年4月1日の神奈川県立三つ池公園での写真です。私も歳を取ったものです。白髪に見えますが、写真のせいです。まだ、白髪はそれほどありません。まだ歳よりも若く見えると、マンションの隣に住んでいる猪俣さんや、鶴見区平安町にある日本ホーリネス教団鶴見キリスト教会に所属する坂本兄弟も、そんな歳に見えないと驚きます。この間は、夜間に、自転車の防犯登録のことで二人の警察官に呼び止められましたが同じようなことを言われました。まぁ、子供っぽいところがまだあります。独身のせいですかね。
   33歳頃の写真です。
   姪の荒井友里恵です。
   斉藤祥子さんというピアノの先生に演奏を習っていて、3回ほど神奈川県民小ホールで発表会に参加しました。1500万円の新品のスタインウェイピアノが3台置いてありました。私は自作曲とジャズしか弾きませんでしたので、場違いだったかも知れません。
   東芝入社直後の新人研修での写真です。同じような性格の人でグループ分けをしていたようです。数学科を出た人が多く、数学の話ばかりしていました。私も化学が専攻でしたが、数学が好きでした。化学系では珍しいの。私の右側にいるのは藤本さんで青梅工場でパソコン関係の仕事をしていて、よく年賀状や電話をくれました。川崎で偶然出会い、飲みに行ったこともあります。左側一人目は東大数学科を出た河津さんで頭の切れる人でしたが、私よりも早く退社しました。左側二人目は藤井さんという数学の博士課程を修了した人でしたが、博士号は持っていないと言っていました。群論に関する研究をしていて、問題を一部を解決したそうです。化学でも群論を使うでしょうとか言っていました。実際に習いますが、あまり役には立ちませんね。下の眼鏡を掛けた二人は人事部の人とチューターです。名前は忘れました。
   東電が経営していた老人ホームのイベントで海の方面へ外出した時の父の最晩年の写真です。
   伊豆稲取のいなとり荘に行った時の母の晩年の写真です。
   母方の祖父で、中央大学法学部卒業で、警察に勤めていたそうですが、性に合わず植木屋さんになりました。親戚からは私に似ていると言われます。大友養吉という名前でした。母も若い頃警察署に勤めていたそうです。今時、こんな風貌の警察官がいます?信じられないでしょう。戦時中は近衛兵だったそうで、戦地には赴きませんでした。近衛師団で何をしていたのか分かりません。記録がありません。軍馬に乗った写真が残っています。
   植木屋に落ちぶれた祖父の哀れな姿です。本当に私みたいですね。家にひきこもって植木をいじっていたそうです。昔からひきこもり、というか世捨て人というか仙人みたいな人がいたようですね。小堀博先生も私のことをそのように表現していましたね。隔世遺伝でしょうかね。
   父方の祖母:荒井ヨシです。私のNTTの電話の名義はまだ、この祖母の名前のままです。信じられない話でしょう。昔の日本人はこんな格好をしていたんですよ。しかし、凄い金持ちの娘で、お婿さんを貰ったんですよ。それが秀吉爺さんなんですが、写真が残っていません。従姉妹が持っているかも知れません。
   母方の慶子叔母です。美人でした。
   母方の叔父:大友英雄で、東芝の青梅工場の総務部に勤務していました。
   父が常に持ち歩いていた姪の友里恵の写ったテレフォンカードです。
   左から小堀真吉町会長夫人、日石社宅の山泉さん、小堀真吉栄町通町会長、母、京浜バッテリーの羽生田夫人です。小堀真吉町会長は精神科医の小堀博先生の父上で、鶴見川の護岸工事に尽力されました。私の祖父:荒井秀吉とも親交があり、母とも仲が良かったです。護岸工事が完成する以前は、台風が来ると、よく氾濫しましたが、子供たちはむしろ、水の中を歩いて喜んでいました。当時は鶴見川はゴミ捨て場で、よく遊びに行きましたが、蟹が這っていることもありました。鶴見川で知らない叔父さんにグループでモーターボートに乗せてもらい、それを叔父に言ったところ、そんなことをすると攫われると注意されました。
   小堀真吉町会長と母:荒井操です。
   左端が私の父:荒井徳蔵です。昔はお祭りでも、今みたいに江戸時代のヤクザのような気持ち悪い格好をした人はいませんでした。子供たちが主人公です。今は大人が出しゃばって、子供など無視されていますから、酷い世の中になりましたね。父は東電の鶴見支社で働いていまして、電気工事士などの免許を持っていたので盆踊りなどの時は、盆踊りの照明のために、配線を担当していました。近所の京三製作所に勤めていた小林さんが、よく太鼓を叩いて上手なので評判でした。この息子さんはタレントの経験があり、現在は栄町通のゴム通りで料理屋を営んでいます。
   父の勇姿です。
   姪の友里恵です。小さい時は可愛かったですね。今はねぇ・・・・・
   日光へ両親と親戚の山崎家と一緒に行った時の写真です。二人の子供は従兄弟の山崎博の娘です。この従兄弟は靴を製造する会社に勤めていました。
   栄町通の実家の居間の様子です。18歳の時から住んでいました。ここで音楽を聴きながら、読書をするのが好きでした。
   母が可愛がっていたジョンという名の犬です。座敷犬でした。血統書付きの犬で、本名はジョージ・バーナード・三世という凄い名前でした。犬というものは家族に序列をつける性質があるようで、1番目が母、2番目が父、最後は私で、私が一番馬鹿にされていました。子供の頃は、犬や猫がすり寄ってきましたが、さすがに、大人になると逃げてしまいますね。犬には人間の言葉が分かりますが、人間には犬の言葉は分かりませんね。それでバウリンガルが開発されて犬と人間が対話可能になったのは喜ばしい限りです。犬は人間の十倍近い速さで歳をとってしまうので可哀想な動物です。人になつきますから尚更です。
   神戸の異人館の一室です。こんな部屋に住みたいですね。
   伊豆大島に東芝の田辺さんという人と一緒に行った時の写真です。椿祭りミス椿で、綺麗な方でした。焼酎を酌んでくれているところを写した写真もありましたが、失くしてしまいました。田辺さんは、手紙を出すといいと言っていましたが、名前も住所も分かりませんでしたから、出しようもなかったですね。ホクロがありました。これは余計なお世話ですね。田辺さんとは東芝のほとんどの保養所に一緒に行きましたが、今考えれば不思議ですね。
   昭和25年9月23日。左から父、田村君、上田君との父の自筆が写真の裏に書かれています。こういう写真には何か悲しみを覚えます。時の流れを感じます。父にも青春時代があったんですね。
   若い頃の父です。
   若い頃の母です。
   弟が母のお腹の中に居る間、幼い私は叔父:荒井福太郎のもとに一時的に預けられました。横浜市鶴見区潮田町にある家でした。現在の私の本籍地です。叔父家族、祖父や祖母とも一緒でした。母と一時的にでも離されたことは幼心にも不安で寂しかったです。写真は叔父に抱かれた幼い日の私の姿です。
   博士号でなくて残念ですが、博士号を取ると就職できませんし、現在もそれは同じで、行方不明になったり、自殺したり、大学に居残ったり、と悲惨なことになります。製造業などの民間企業にも博士号を持った人も多いですが、論文博士が多いようです。私は経験分野が広すぎて、論文の提出先は東大にはありません。応用化学系に出せるような研究は現在していませんから、諦めるしかないです。1980年代には東大の修士ならばどこにでも就職できました。東芝は家から近いので選んだだけです。東大に入学したのも、家から通えるからでした。下宿しろ、と周囲から言われましたが、下宿している同級生のところに泊まったことがありましたが、様子を知って下宿するのは嫌だと思いました。東芝でも寮に入ったらどうかと言われましたが、狭い部屋に二人暮らしは嫌でしたね。部屋でひとりでいたほうがましだと思いましたね。アイネス在職中に日新製鋼にスカウトされたことがありますが、ここに署名されている久松敬弘先生は当時日新製鋼の副社長をされていて、お会いしましたが、断ってしまいました。これで完全に信用を失ってしまったようです。セラミックの窒化珪素の仕事でしたので面白くないと思いました。高温超伝導もやってもいいと言っていましたが、今考えても無駄な話でした。私は向坊隆総長と笛木和雄教授が共同で運営していた研究室にいましたが、当時は既に向坊隆教授は居らず、面識はありません。就職できない人は向坊隆教授に頼めば、電話一本で日産自動車に入れてくれたようです。他の研究室には「味の素」専門に斡旋してくれる教授も居ました。名前は忘れました。
   この映画を観ると、何故、東芝が貧乏会社であるのかや、東芝の社風や、私がお医者様でも治せない病気であったことや、実際はそう単純な話ではなかったですが私が東芝を辞めた一因が何であったか分かると思います。まぁ、いろいろ誤解もありましたがね。この映画は米国の保健会社でのことですが、観ていてよく潰れないなときっと思いますよ。米国ですが東芝そっくりの会社が舞台の映画です。なにしろ、昔は、この辺じゃ、「恋の東芝」「ワタリガラスは旭ガラス」と言われていたそうですからね。当時の上司の村野稔部長も東芝はそんな野暮な会社じゃないと言っていましたね。少し誤解があったようですがね。この映画をよく観たらシャガールの「空飛ぶ人」という絵画が部屋に飾ってあるのに気づきました。シャガールが絵に「愛」を籠めたのだそうです。私の詩にも書いてあります。まぁ、後味爽やかな、サラリーマンの悲哀を描いた恋愛映画でした。ユーモアと人情を語らせたらハリウッドNo.1といわれるビリー・ワイルダー監督の作品です。ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンが主演でした。
   ジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスです。こんなに知的で繊細な感じのする人は少ないですね。演奏も素晴らしいですよ。おかしな連想は止めて下さいね。
   同上。
   同上。アルバム「Explorations」の表紙です。
   家を整理していたら、こんなビル・エヴァンスの肖像が見つかりました。
   父は東京電力に勤めておりました。
   同上。退社記念に高価な碁石と木製の碁盤を頂き、実家に置いてあります。




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