名城大学デイハイク 馬篭〜妻籠を歩く
これはいささか旧聞になりますが、名城大学経済学部では新入生歓迎行事として、教職員と共に長距離歩くデイハイクを毎年行っていますが、今年は10周年記念として地元住民にも呼びかけがあり、それに参加し馬篭から妻籠まで約10キロを歩きました。
このコースには、中部に電力事業を興した福沢桃介の偉業がのこされていること、木曽ヒノキに代表される木工品の産地であること、馬篭にはここに生まれた島崎藤村の「夜明け前」に描かれた日本の近代化過程を知るための端緒があること、妻籠宿は古い街並み保存の町おこしに成功した先駆的事例であることなど、経済学研究の第一歩を踏み出すフィールドワークの導入部として絶好の地として選ばれたとのことです。
8時に大学へ集合、バス20台の大編成で馬篭に向かい、10時半頃から石畳の坂道を歩き始め、途中車道と交差する場所では、屈強なラグビー部、アメフト部などの学生のガードに従い、妻籠を目指しました。妻籠では木曽の名物(朴葉寿司、五平餅)をいただき、脇本陣を見学しました。
さらにバスは桃介橋広場へ進めて豚汁を振舞われ、名城大学応援団、プラスバンド、チアリーダーなどの演技に見入りました。そして最盛期は過ぎていましたがこの広場の右岸台地の天白公園のつつじの群生を見て17時半帰途につき、20時頃大学へ戻りました。 いろいろなもてなしも多く大変楽しいデイハイクでした。、
恵那山を正面に見て歩き始めました
馬篭の水車小屋
藤村の夜明け前にも、こうした江戸時代の大混雑の様子が描かれています。特に
幕末”皇女和宮様”の東下りは、この街道最大のイベントのようでした。
その時、飯田近郷のわが村からもはるばる大平峠を越えて助郷に来ていることが書かれています。
馬篭宿の石標、高札場が見えます。
恵那山を望む展望広場、昭和33年以来望んだ中津川市への越県合併を果たした住民の心を代弁するかのように、
藤村の夜明け前の中から美濃にあこがれる文章を抜き書きした碑が建っていました。また越県合併記念碑には、
田中康夫長野県知事が反対したため当時長野県議会議長だった高校の後輩の名が刻まれていました。、
江戸時代からの道かも
道端にあった道祖神、その古びた様子からいつから通る人々を眺め続けてきたのだろうか
峠の街並み、越県合併した県境の集落です。馬篭峠まであとわずかです。
峠の民宿、くぐり戸の障子に猫の出入り口があけてありました。
馬篭峠、ここは長野県です。
馬篭と妻籠の中間にあたる立場茶屋、牧野家住宅、
かっては間口10間半の堂々たる構えだったそうです。(今は8間半)
牧野家の内部
江戸時代の雰囲気が残る道
藤村の「あるときは山の尾めぐる谷の入り口である」というのはこんな道(下り谷)?
大妻籠、軒下に古い簡素な籠が吊るしてありました
新入生と思われるギャルたち
昔ながらの石をのせた屋根の茶屋です。
妻籠寸景
旧妻籠小学校で五平餅を焼く学生たち、御馳走になりました
脇本陣奥谷(国重要文化財)。明治の初めに、それまで禁制だったヒノキをふんだんに使い、
当時の粋を集めて建て替えられました。
脇本陣にはお上からの下付金(本陣はこれで営む)がないので
代々造り酒屋を営んできたそうです。
囲炉裏を囲んで妻籠宿の説明を聞きました。
明治天皇が休息された座敷です。
座敷の続き間、中央の黒いのは冬炬燵をセットするための畳の切り込みです。
信州の昔の家の座敷にはみなありました。
藤村の「初恋」の詩のモデル「ゆふ」さんはこの脇本陣に嫁ぎました。
後日乞われてその人のために書いた藤村の自筆です。
桃介広場(木曽川左岸河川敷、下流側が桃介橋でこの広場に橋台があり階段で橋へ上れます)に全員集合しました。
ここで豚汁をいただきました。
名城大学学長のあいつがありました。
名城大学応援団とチアガールのパフォーマンスです。
桃介広場の木曽川対岸にある、南木曽・天白公園のつつじの群落、つつじ祭りの最終日でした。
木曽川に架かる桃介橋(1922年完成、全長247m、写真は1993年再建のもの)
日本の橋百選に選ばれてます。
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