私の宗教観

儒教
仏教
キリスト教
イスラム教
日本神道(天皇制)


● 儒教 根底にあるもの 理想の天下国家のあり方の希求 創始者 中国の孔子等、諸子百家の各学派 経典 四書(大学、論語、孟子、中庸)五経(易経、書経、詩経、春秋、礼記) 生まれた背景、歴史 中国に異民族が流入し、周王朝の勢力が衰えた頃と、(春秋時代 前770-403) 戦国の7雄(斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙)が乱立割拠した頃、(戦国時代 前403-221) 新しい気運の到来とともに思想界が活発になり、 儒家(孔子・孟子・荀子)、墨家(墨子)、道家(老子・荘子)、法家(商鞅・韓非)をはじめ、 名家(公孫竜)、兵家(孫子・呉子)、縦横家(蘇秦・張儀)、陰陽家(鄒衍)、農家など、 諸子百家と呼ばれる多くの学派がうまれた。 戦国時代後は、秦が強大になり中国を統一した。 春秋時代末の孔子(前551ごろ - 前479ごろ)は、 社会秩序の基礎を、親に対する「孝」と兄に対する「悌」という ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 家族道徳の実践によって完成される「仁」におき、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 人は身を修め家を斉えた(ととのえた)上で、(修身斉家 しゅうしんせいけ) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 国を治め、天下を平らかにすることができるとして、(治国平天下 ちこくへいてんか) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 政治と倫理道徳を相関させる人間中心の説を立てた。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ その説は「論語」にまとめられ、弟子たちによってひろめられた。 この学派を儒家とよび、そのうち 性善説を主張した孟子(前372 ? - 前289 ?)と、 性悪説を主張した荀子(前298 ? - 前235 ?)が有名である。 儒家を批判する立場に立った墨家は、無差別の愛(兼愛)と相互扶助(交利)を説き、 戦争を否定し、平和を主張した。 老子・荘子の説といわれる道家(老荘思想)も、 墨家の思想を人為的な虚礼を説くものとして避け、無為自然を説いたが、 この説はのちに、秦漢以後にさかんになった迷信的な民間思想と結びついて、 中国思想界におおきな影響をあたえた。 韓非や商鞅に代表される法家の思想は、儒家の「礼」にかわって君主の「法」を重んじ、 法によって天下を治めようとするもので、秦はこの思想を採用した。 私の所感 天下国家の最小単位は夫婦。 「仁」は人が二人と書いて仁。 この二人は、「夫と妻」あるいは、「親と子」または「兄弟、姉妹」を指す。 人は家族を構成して、その中で役割を果たして、はじめて一人前。 家庭の中で、役割を果たせないような人は、国を治めることもできない。 国を治めるようなことは、健全な家庭生活を営める者こそができる。 日本国の歴代の天皇のお名前に「仁」という文字が頻繁に使われている。 昭和天皇は「裕仁(ひろひと)」、昭和天皇のお孫様の浩宮皇太子殿下は「徳仁(なるひと)」。 儒教の考え方は、日本国に強く根づいている。 天下国家のあり方に関する政治倫理や社会道徳が問題になるときは、 儒教をよりどころとし、その原点に立ち返ることが有効と思われる。 社会や、社会の中での仕事において問題に直面したら、 家庭において家庭での役割を自分が果たしているかを省み、 もし、家庭での役割を果たしていなかったら、その役割を果たすようにすると良いかも知れない。
● 仏教 根底にあるもの 苦しみをなくしたいという願い 創始者 インドの仏陀(お釈迦様) 経典 (様々、多種多様) 生まれた背景、歴史 中央アジアで半農半牧の生活を送っていたアーリア民族の一部が 紀元前1500年ごろ西北インドに侵入し、 先住民族を征服しながら、紀元前1000年ごろガンジス川流域へ進出した。 このような移動定着のあいだに社会の階級化がすすみ、 それがしだいに固定していって、4つの基本的な階級が生まれた。 バラモン(司祭階級)、 クシャトリア(武士・貴族階級)、 ヴァイシャ(一般市民階級)、 シュードラ(被征服民族が大部分を占める賎民階級) 最高位のバラモンは、知識階級としてヴェーダに通じ、 宗教儀礼を複雑に規定して自己の権威を高めた。 このためにバラモン教は祭式万能となり、儀式も複雑化して、 それが社会の発展を阻害するようになっていった。 ヴェーダに関して書かれたウパニシャッドの中には、 哲学思想といえるものが認められるが、 そこにはバラモン教の司祭万能に反対する考えがあった。 仏教は、これをさらにすすめて宗教革新運動を起こしてあらわれたものだった。 現在のネパール南部にいたシャカ族の王子 ガウタマ=シッダールタ(前563ごろ - 前483ごろ)(尊称は釈迦牟尼)が開いた仏教は、 徹底した無常観に立ち、バラモンを無視して ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ すべての人間を平等なものとし、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 正しい道をおこなうことによって、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ すべての人間が「生・老・病・死」の「苦しみ」からのがれることができると説き、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 精神修行を主張した。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 仏教はとくにバラモン階級に不満であったクシャトリアのあいだで支持された。 仏教が興った当時、インドではいくつかの強国が対立するようになっていたが、 ガンジス川中流域のコーサラ国と下流域のマガダ国が有力となり、 仏教はマガダ国の保護を受けて、北方インドにひろまっていった。 -------- 当時西北インドは、ペルシャ領となっていたが、 紀元前4世紀にアレクサンダー大王の遠征軍が侵入し、 その撤退後の混乱の中から興ったマウルヤ朝がマガダ国を滅ぼし、インドを統一した。 カーストの区別やバラモンの権威を無視する仏教は、 小集団から統一国家となった国の宗教として、 また、国家をになう武士・貴族階級の宗教としてふさわしいものであったから、 マウルヤ朝とむすびついて発展した。 アショーカ王(前268ごろ - 前232ごろ)の死後、マウルヤ朝の統一はくずれ、 ギリシャ系のバクトリア、イラン系のクシャーナ族などの異民族が侵入した。 クシャーナ族は、1世紀なかごろ独立してカニシカ王のとき全盛期に達し繁栄した。 カニシカ王もあつく仏教を保護し、仏教は西北インドを中心に栄えた。 原始仏教は個人的修行を重視するものだったが、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ この地に栄えた仏教は、菩薩信仰を中心に広く衆生の救済をはかろうとするもので、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 原始仏教を小乗仏教、この地に栄えた仏教を大乗仏教といって区別した。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 仏教徒ははじめ仏像をつくらなかったが、ギリシアのヘレニズム文化に影響され、 仏像を作るようになった。このギリシャ式仏教美術はガンダーラ美術とよばれる。 私の所感 もともと仏教は個人的精神修行を重んじ、それによって身を修める小乗仏教で、 身を修めた上で正しい道を行い、 生きることの苦しみや、世の中の病気の苦しみをなくし、 世の中の老いや死の恐怖をなくすもの。 後に広がった大乗仏教は、精神修行によって身を修めることができない人々のために、 正しい道を行う身を修めた人々の姿や、 その人々の行いによってどのような世界が実現されるかを、大衆に説くものと思われる。 日本国に仏教を根づかせた聖徳太子は、十七条の憲法の第二条で 「あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。」と定めている。 私の解釈では、 + 仏教の精神修行は、禅を通して「自分というひとりの人が、 身も心も、宇宙一切を支配している法則・真理に契合すること」、 そして「小我を打破して真実の自己に目覚めること」であり、 (逆にいうとそのための精神修行が禅であり、) + その頂点を極めたものが「仏」であり、 + 「仏法」は、身を修めて仏になる過程で、正しい道を行うこと、 一般の人にとっては「己を無にして他のために尽くす 利他の行に生きること」であり、 + この正しい道を行う人たちが菩薩であり、 + 「僧侶でない一般の人にとっての修行」は、 天から与えられた自分の役割を果たすこと、 あるいは自分の仕事をちゃんとすること、 である。 生きるのが苦しかったり、世の中に病気の苦しみがあったり、 老いや死の不安がある場合は、 仏教の原点に立ち、精神修養することが有効と思われる。 逆に、元気だったり、老いや死の不安がないときは、 僧侶だけが仏教を守って、一般の人は仏教を省みず、 仏教の教えを忘れる傾向があると思われる。 苦しみや争いをなくすためには、先祖の霊を慰めることが重要であり、 日本国では江戸時代以降は、仏教はおもに先祖の霊をまつることに使われている。 仮に、ものすごく苦しんでいる人がいたとして、 どこかの菩薩様の行いによって、その人の苦しみが消えた場合、 苦しんでいた人からは、その菩薩様は救いの神様に見える。
● キリスト教 根底にあるもの 罪の意識 創始者 イエス=キリスト 経典 旧約聖書、新約聖書 生まれた背景、歴史 ヘブライ人はもと遊牧民であったが、紀元前1500年ごろカナーンに定着し、 一部はエジプトに移住して、新王国のはじめごろ王の圧政にたえかねて脱出した。(出エジプト) 紀元前1000年ごろ王政となり ダビデ(前1000ごろ - 前960ごろ)とソロモン(前960ごろ - 前922ごろ)のころ栄華をきわめたが、 ソロモンの死後、国はイスラエルとユダに分裂した。 イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、ユダは新バビロニアに征服されて 住民の大部分がバビロンに連れ去られた。(バビロン補囚 前586 - 前538) 50年後ペルシャがバビロンを占拠したときユダヤ人は帰国を許されたが、 政治的不幸はその後も長くつづいた。 ヘブライ人は、古代オリエントで一神教を固持した唯一の民族であった。 かれらが信仰したヤーヴェ(エホヴァ)は、民族的苦難のあいだに、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ひとつの自然神から唯一全能の神に変化したもので、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ そこからユダヤ人だけがその神によって救われるという排他的な「選民思想」や、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 救世主(メシア)待望の観念がうまれた。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ユダヤ人はバビロンから解放されて帰国すると、イェルサレムにヤーヴェの神殿を再興し、 儀式・祭祀の規律を定めて、ここにユダヤ教が成立した。 最後の審判や天使・悪魔の思想は、ゾロアスター教の影響を受けている。 のちに信仰や日常生活の規律である律法を極端に重んじるパリサイ人があらわれたが、 この形式化した信仰に新しい生命を吹き込んだのが、イエス=キリストである。 なお、ヘブライ人が書きのこした伝説や予言者の言葉などは、 「旧約聖書」として、新約聖書とともにキリスト教の経典となった。 -------- ローマの属州となったユダヤには、ローマのはじめごろユダヤ教が行われていたが、 ナザレのイエスは、ユダヤ教の一派であったパリサイ人を痛烈に批判し、 階級や貧富の差をこえた神の絶対の愛を信じ、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ おのれを愛するように隣人を愛すべきことを説いた。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ この教えは、神の国は信じる人の心の中にあり、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ それはまた、最後の審判によって完成されると約束した。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ イエスにしたがうものは、イエスを神からつかわされた救世主(メシア)、 すなわちキリストとみなしたが、ユダヤ教の司祭やパリサイ人はイエスを敵とし、 民衆もまたイエスの教えがあまりに内面的で現世的な救いをもたらすものでないことに失望し、 ローマへの反逆を企てるものとして総督に訴えた。 イエスは捕らえられ、イェサレム郊外で十字架の刑に処せられた(30年ごろ)が、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ まもなく弟子たちのあいだに、イエスは復活したとの信仰がうまれ、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 十字架上の死は、神の一人の子が ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 人間にかわって人間の罪をあがなったものと信じられるようになった。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 神のあわれみによる罪の許しを説くキリスト教は、 ペテロなどの使徒、とくにパウロの異邦人への伝道によってローマ帝国内にひろまり、 各地に信者の団体がうまれた。 かれらは、世俗の権力に対しては従順であったが、 ローマ皇帝崇拝を認めようとしなかったので、ネロ帝以来たびたび迫害を受け、 多くの殉教者をだした。 それにもかかわらず、キリスト教は3世紀ごろまでに、 現世での幸福を望めない下層市民や奴隷のあいだに広く普及し、 しだいに上流社会にも信徒を獲得していった。 各地に教会が建てられ、キリストの言行を記した「福音書」、 初代使徒の活動を述べた「使徒行伝」、 および、使徒の書簡などが集められて「新約聖書」がつくられ、 旧約聖書とともにキリスト教の経典となった。 のちに旧約聖書・新約聖書は、ヨーロッパ人の精神の糧として、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ その思想・文芸のひとつの大きな源泉となった。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 私の所感 キリスト教の根底にあるものは「罪の意識」でその罪をつぐなうためには、 「おのれを愛するように隣人を愛せ」というものと思う。 現在キリスト教が支配的なのは主に欧米と思われるが、この 「おのれを愛するように隣人を愛せ」という教えがどれほど実践されているだろうか? 欧米は先進国として世界を支配するような立場にあるが、 その立場に甘んじ、キリスト教の教えを忘れ、 キリスト教が形骸化して形式的なものになっているということはあるまいか?
● イスラム教 根底にあるもの 堕落の意識 創始者 アラビアのマホメッド 経典 コーラン 生まれた背景、歴史 ササン朝ペルシャとビザンティン帝国(東ローマ帝国)の間に長い戦争状態がつづいたため、 6世紀の後半になると、絹の道(シルクロード)は両国の国境地帯で途絶した。 またビザンティン帝国の国力が低下して、紅海貿易もおとろえた。 そのため、従来の絹の道と海の道にかわって、 商品はいずれもアラビア半島を経由することになった。 アラビア半島において、国際的な中継貿易を独占して莫大な利益をあげたのが 「メッカ」の大商人階級であった。 予言者マホメット(570 ? - 632 ?)は、このような町にうまれ育った。 メッカの人々のあいだにひろまっていた「利己主義を精神の堕落」と考えたマホメットは、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 当時のアラブ人の多神教が宗教的な情熱を失っていたことから、 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 「絶対者に対する恐れの念」を説くことにより、アラブ人の堕落した精神を正そうとした。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ マホメットの唱えたイスラム教は、ユダヤ教やキリスト教の影響を受けた一神教で、 アラーを信仰した。その経典が「コーラン」である。 やがて、メッカの大商人による迫害が始まったので、 622年、マホメットとイスラム教徒はメディナに移住し、教団国家を建設した。 この移住をヘジラといい、イスラム暦はこの年を起源元年とする。 その後、マホメットはメッカ征服に成功し、マホメットが没する632年までには、 アラビア半島の大部分にわたって教団国家の政治支配が確立していた。 これが予言者マホメットの国づくりである。 私の所感 己を律する求道者にとって、 「栄華を極めて豊かになったのに度を越えて欲ばりになってしまった利己主義者や 自分は富や権力や名声を持っているという驕りを持ってそれらを見せびらかす者」は、 堕落している者と映る。 そして、自分はそのようになるまいと、さらに自分を律する。 キリスト教の目にみえる物理的な戒律はせいぜい日曜日に教会に行く、や 宣誓するときには聖書に右手を置いて、や感謝祭などだが、 イスラム教では、ラマダンの断食など、目にみえるより大きな物理的戒律を持っている。 目に見えにくい戒律は、長い時間が経つと形骸化しやすいが、 目に見える戒律は、長い時間が経っても形骸化しにくい。 イスラム教徒は、利己主義になったり、強さを見せつけたりすることは少ないので しいたげられている弱者、貧者には受け入れられやすい。 敬謙なイスラム教徒は戒律を守り、自分に厳しく生きているに違いない。 もしも仮に、最近の米国に利己主義や驕りがあるなら、 つつましく生活しているイスラム教徒からは、米国は堕落していると映るだろう。 イスラム教の原点に返った生活を送ろうという人たちがイスラム教原理主義者だが、 悲しいかな、いつの世にも過激な人々が存在する。 そのような人々にとっては米国は堕落していると映り、 そのような過激な人たちがテロなどの過激な行動を起こしているのだろう。
● 日本神道(天皇制) 根底にあるもの 理想の人間社会の象徴 創始者 創始は日本の紀元の頃(紀元前660年(辛酉)頃)。 創始者は不明だが、天皇の権威を明らかにした(十七条憲法の推古604年(甲子)頃)のは聖徳太子。 経典 古事記 生まれた背景、歴史(推測・捏造) 紀元前7世紀後ごろ 当時の縄文人の食料生産性に比べてはるかに高い食料生産性の「稲作文化」を持った 文化も言語も体格も異なる弥生人が 理想の国家建設を夢見て中国大陸から渡来して来た。 (当時の縄文文化は、狩猟・漁労民が中心だったが、 高度な技術を持つ古代オリエントのシュメールの民と 狩猟・漁労民が融合したものだった。 シュメールの民は、高度な文明は争いのもとになることを熟知していたので、 文明の産物は最小限におさえ、狩猟・漁労民の文化を尊重し、 ひっそりと静かに生活していた。) 弥生人と先住民族の縄文人とのあいだで争いが発生したが、 縄文人には争うことを嫌う民族性があり、徹底抗戦せずに和解し、 稲作という文化を伝えてくれたことに敬意を表し、 縄文人は弥生人の長を 紀元前660年2月11日に初代の「神武天皇」としてあがめた。 弥生人も征服ではなく縄文人に敬意を表した。 (神武天皇の東方征夷伝承は、弥生人が北九州から奈良に至るまでの 弥生人と縄文人の争いの伝承である。) 「天照大御神信仰」は、弥生人を天子にたとえた天孫降臨伝承に通じるが、 縄文人にもともとあった、地上を照らす天の太陽や月や星への信仰と 万物に霊魂がやどるというシャーマニズムと 海への海洋信仰をも尊重したものでもあり、 天(あま)は海(あま)とかけ言葉になっている。 その後、縄文人と弥生人は融合していき、 背格好・体格などについても両方の特徴をそなえた民になっていた。 文化も、弥生人の文化と縄文人の文化が融合した弥生文化が花開いていく。 -------- しばらくたった頃、今度は中国大陸から、 馬にまたがってさっそうと走り抜ける遊牧騎馬民族が渡来して来た。 当時都は奈良にあったが、大陸からのこの渡来人の勢力は 北九州を本拠地とした。 北九州を中心とする勢力は、奈良の都をそっくり北九州に遷都したが、 奈良を中心とする勢力と北九州を中心とする勢力が競い合い、 双方が大君(おおきみ(天皇))と称した。 「祟神天皇」が即位したのはこのころであるが、 このときどちらに都があったか定かではない。 そうこうしているうちに、稲作中心の弥生文化と 馬や牛を養う遊牧民の文化が融合した文化が普及する。 それまでは大きな墳墓を造営する習慣はなかったが、 中国の天円地方(天は丸、地は四角)という思想、 天地人というように天と地が交わるところに人ができるという思想に影響され、 また、偉大な人をお祭りしたい、という気運が盛り上がって、 大きな前方後円墳が造営されるようになっていく。 弥生時代後半の大きな古墳が造営された3世紀半ばまでの時期を古墳時代、 その文化を古墳文化というが、 耶馬台国の卑弥呼がいたのも3世紀ごろである。 (「耶」という漢字には「よこしまな」という意味があり、 「台」という漢字には「皇族(こうぞく)」という意味があり、 耶馬台国を読み下すと「よこしまな馬の皇族の国」になるので、 耶馬台国はおそらく、遊牧騎馬民族の本拠地である北九州に あったと思われる。) 奈良を本拠地とする大和朝廷は、4世紀に全国統一をすすめた。 (日本武命(やまとたけるのみこと)は、大和朝廷の全国統一の際に 活躍したひとりの日本国民であると思われる。) (大和朝廷の「大和(やまと)」は、後に「聖徳太子」が、十七条の憲法の第一条で 「和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」と定めているように、 日本は「和」の国であり、その「和」に大きいという意味の「大」をつけた 「大きい和」という意味と思われるが、 矢(や)の的(まと)という意味もかねていると思われる。) 朝鮮半島を介した大陸の遊牧騎馬民族の影響力がやがて衰え、 「応神天皇」のころに朝鮮半島を介した最後の争いがあった。 それ以降は、日本国民は、ふたたびひとつにまとまることができ、 応神天皇の次の天皇の「仁徳天皇」のときに、 延べ面積がエジプトのピラミッドよりも大きい日本最大の前方後円墳を造営し、 それ以後、古墳文化は衰退していく。 大和朝廷が国を統一していた時代を大和時代という。 -------- 大和朝廷は、朝鮮半島にも勢力を広げ、 中国や朝鮮半島から多くの人が日本国に移り住むようになった。 朝廷や豪族たちは、これらの帰化人を保護して、 その結果、「漢字」、「儒教」、「仏教」などの 進んだ大陸の文化が日本国にひろまり、人々の生活は大きく向上した。 ところが、大陸の文化が伝わるにつれて、各豪族たちも力を強め、 豪族同士で勢力争いをして国が不安定になった。 仏教は外来宗教であったが、有力豪族の大伴氏・物部氏は、仏教を排斥し、 蘇我氏は仏教を擁護して争った。 「聖徳太子」はこのような時代背景のときにうまれ育った。 聖徳太子は仏教をよく理解し、また仏法を体得し、 (飛鳥時代の法隆寺の夢殿は、太子が精神修養を行った精神修行場跡と思われる。) 以下のように感じて、それを実現すべく自ら仏法を行った。 豪族の争いを静めて国を平和にするためには、 + 文化的に進んだ大陸に媚びず、中国が認めるような独立国家になること、 + 大陸のすぐれた文化はすべて日本国のものとして吸収してしまうこと、 + 口伝や独自の絵文字や以心伝心ではなく、組織形態も記録も定め事も 中国が納得でき尊重できる形で明文化したものを作成しそれをきちんと実施すること、 + これらのためには、天皇の権威を明らかにし、 天皇を心のより所として、各人がひとつにまとまった政治を行うとよい。 聖徳太子は推古天皇の摂政となり、そのように政治を執り行った。 しかし、聖徳太子は志し半ばで命絶え、また、 その一族も豪族によって滅ぼされてしまったが、 その志しは後世の人に受け継がれ、 聖徳太子の理想は、「大化の改新」としてそれ以後実現する。 -------- (聖徳太子の理想は面々と日本国民に受け継がれ、 明治維新のときにも形こそちがえどこの理想がかかげられる) -------- 以上のように、日本国民の民族性は、太古から、 「他国の文化を尊重し、それを自分のものとして吸収し、 それまで持っていた自国の文化と融合させた文化を開花させ、 理想の人間社会の象徴である天皇を心のより所とし、 和のもとに、とりいれた他国の文化と調和してひとつにまとまった 平和な独立国家を建設する」 というところにある。 この民族性は、高度な技術・文化を持った古代オリエントのシュメールの民が 自分たちの文明の産物を最小限に押さえ、先住民族の狩猟・漁労民の文化を尊重し、 その中でひっそりと控えめに平和に暮らしていたことにより礎が築かれた。 稲作文化が渡来したときには、稲作文化を伝えた弥生人に敬意をはらって、 弥生人の長を初代の天皇として尊重した。 遊牧騎馬民族が渡来したしたときは、稲作文化と遊牧騎馬民族の文化が 融合した古墳文化を開花させた。 漢字、儒教、仏教が伝来したときには、この文化を自国のものとして吸収して、 これをもとに日本独自の文化を開花させていった。 これらができたのは、すべての文化が調和した平和な理想社会があるという信念のもと、 天皇を平和な理想社会の象徴とし、これを心のより所としたからと思われる。 -------- (2002年11月現在、皇位継承順位1位の皇太子殿下である浩宮さまは、 正式なお名前は「徳仁(なるひと)」内親王という。) 私の所感 人間社会には、どの時代にも、その時点の理想がある。 人はそこを目指す。 理想がはっきり見えていれば、誰しもそこに向かって邁進するが、 目的地がよく見えない場合は、心のより所を必要とする。 こころのより所は、何を信じ、何を敬うかである。 不安定で不確実な世の中だと、よけいにその心のより所が必要となる。 心のより所は、目に見えた方が信じやすい。 だが、形あるものにしてしまうと、時代の流れとともに、 だんだん劣化し、いつかは信じられないものになってしまう。 古代の日本人は、そのことをよく知っていた。 物にすると、いつかは壊れる。 組織や団体や国家にしてしまうと、いつかは衰退してしまうし、目に見えにくい。 精神世界はさらに見えにくい。 そこで、稲作文化をたずさえて弥生人が渡来してきたときに、 日本人は、人間の理想社会の象徴である天皇制を確立した。 天皇という形ある人がいれば、目にみえて信じやすいので それを心のより所としていける。 現実の世の中は、常に理想の世の中にはとうていおよばないので、 誰も理想社会の象徴である天皇にはかなわない。 その意味で、天皇の権威は絶対である。 日本の歴史の中で、文化が大きく変わる時代の変わり目を3つ上げるとすると、 私は以下の3つを挙げる。 + 稲作文化をたずさえた弥生人が渡来したころ(神武) + 漢字・儒教・仏教の文化をたずさえた帰化人が渡来したころ(推古) + アルファベット・近代科学テクノロジーをたずだえた米国の黒船がきたころ(明治) 天皇の権威が、多くの人の心に最も強く存在した時期は、この3つと思われる。 5つ挙げるとすると、4つ目、5つ目は、 + 馬に乗ることを特徴とする遊牧騎馬民族が渡来したころ(祟神) + 大陸の遊牧騎馬民族の勢力が衰えたころ(応神) にする。 しかしながら、天皇は権威が絶対という意味で、 時の権力者たちに利用されるという側面をもつ。 神様とは本来目に見えないのに、 日本では東條英機のころに時の権力者によって天皇は現人神とされ、 太平洋戦争に突入していった。 2002年11月 9日 作成 2006年 6月10日 更新