繊維の歴史
化学繊維や天然繊維(動物性、植物性)、他に鉱物繊維がありますが、天然繊維は布、わた、縄、紙などに加工して、生活必需品として古代より利用してきました。
古くからの繊維には、外来の麻(大麻、苧麻)、繭や在来の楮(コウゾ)、科(シナ)、芭蕉(バショウ)、楡(ニレ)、藤(フジ)、葛(クズ)などの内皮の繊維を利用したものですが、これら在来種の植物繊維で作られた布は、その後の木綿の伝来や更に時代が下がって、明治以降の羊毛の輸入、化学繊維の隆盛で廃れたが、最近各地で復活されており、それらを総称して古代布と呼ばれています。

現在でも利用されている、苧麻(チョマ=カラムシ:イラクサ科)、繭(真綿、絹)、木棉(綿:アオイ科)、羊毛は、何時、何処から日本に伝来しどのように利用されてきたのでしょうか
大麻は中央アジア、カスピ海周辺が原産地で、繊維材料、食用、燃料、建材、薬などの多目的な植物として、苧麻は東アジア・東南アジア・南アジアが原産地で繊維材料の植物として、朝鮮半島経由で縄文時代(紀元前3000年以前)に、人の移住に伴って伝来したと云われております。
この頃の遺跡からは大麻の実も発見されており、そもそも、縄文土器の模様は麻類の縄を押しつけて作られたものと思われています。
こうして、麻類の利用技術を通じて在来種の植物の利用方法も体得していったのではないでしょうか。

繭(蚕)の飼育は、中国で紀元前3000年頃には始まったと云われています。
その後、インドや東南アジアに広まり、シルクロードを経てヨーロッパにも伝えられ、日本へは弥生時代前期(紀元前3世紀)に中国江南地方から朝鮮半島を経由して北九州へ稲作技術とともに養蚕技術が伝えられたうようです。
中国で書かれた“魏志倭人伝”には、日本でも麻類や桑を植え、蚕を飼育し絹を織っていたことを伝えています。

古墳時代の応神天皇(在位期間270〜310年)の代に中国人融通王が127県の秦民をつれて日本に帰化し、また、百済の昭古王から絹吊を織る工人が派遣されるなど、これらの渡来人は朝廷に仕え、より高度な織物技術による絹織物が朝廷に貢納され、支配階級の衣服に使われるようになりました。
その後も、中国や朝鮮からの渡来人や日本からの使者などにより、中国の文字、律令制、仏教や種々の技術などの知識が伝わり、律令国家への土壌が出来つつありました。
5世紀末頃に百済の努理使主の5世の孫の麻利(まり)とその弟禰和(みわ)に絹・あしぎぬや麻類の製品を作らせて、これを地方の工人に手本として織らせて貢納させるなど、積極的に技術向上を図っているが、こうした生産奨励も朝廷や支配階級のためのもので、実際に作る庶民は絹織物をまとうことはなく、全て上納を強制していた。
当時の一般的な庶民は、在来種の植物繊維や麻類で織った布が使われていました。

飛鳥(592〜710年)・奈良(710〜784年)時代になると、律令国家として確立した支配体制下で税制の基本として租傭調(そ・よう・ちょう)が定められ、調として“あしぎぬ(悪し絹の意太糸で織った粗製の絹布)”や麻織物の貢納を命じた。
一方、朝廷には織部司を置いて貴族や僧侶達の高級衣料(かとりと云い:固織の約で 目をこまかく固く織った絹布)として錦や綾など生産した。
織部司の中の文様織りを担当する挑文師(あやのし)を、地方に派遣して指導に当らせ技術の向上と増産を図った。
京都の市には、羅・糸・錦・絹・綾・紗などを扱う業者が興り始めた。
《そ‐よう‐ちょう【租庸調】》
『唐の均田法下の税制。丁男(テイダン:成人男子の意)に対して課した現物税。
租は粟二石、庸はもと年二○日間の力役が一日につき絹三尺に換算されたもの、
調は土産の絹二丈と綿(マワタ)三両、または麻布二・五丈と麻三斤。
のち両税法がこれに代った。わが国でも大化改新に同様のものを制定。』

平安時代(794年〜1191年)になると、地方でも織り方や染色もかなり高度なものが出来るようになり、織部司の織物と遜色のない物が供給され、織部司による独占も薄れてきました。
新猿楽記(藤原明衡1052年頃成立)によると、安波の絹、越前の綿、美濃の八丈、常陸の綾、紀伊国のかとり、石見の紬が書かれている。
しかし、高価で美しい絹の織物を着ることができたのは依然として支配階級の人達であり、織物を作っていた人々は着ることができませんでした。
棉の種子を、平安時代の初期(799年)に三河の幡豆郡天竹村(西尾市天竹町)に漂着したコンロン人(インド人)がもたらしたことが“類聚国史(るいじゅこくし:菅原道真892年)の中の記事を引用した“大日本史(徳川光圀1720年)”に記述されています。
しかし、この棉の種は高温地適種であったため、日本では栽培出来なかったようです。

鎌倉時代(1192年〜1333年)になると政治の中心が京都から鎌倉に移り、貴族政権の衰退とともに織部司も衰退し生産減少をもたらし地方の織物業が勃興して相対的に京都の高級織物生産は停滞し、有職織物など公家や僧侶の装束用のものだけになり、日常衣料は地方の織物業や自給織物に支えられていた。
京都の市には、大舎人織手座・練貫座・小袖座・帯座・絹座・糸座があり、専門化と分業体制が出来つつあった。
1229年には堺に中国の唐綾織の技術者が滞在していたので、京都から多くの織手が堺を訪れ技法を習得し、その後、京都で唐綾織が盛んになります。
日宋貿易・日明貿易を通して中国から染料や織物、ことに明からの生糸・絹織物の輸入や、帰朝した僧達がもたらす法衣などが名物裂として尊重され、織物工芸への関心をたかめた。
平安時代に国策として地方での織物産地の育成が図られたが、鎌倉時代には、このような政策は取られず国内の需要を賄うのに、中国からの輸入に頼るようになった。

室町時代(1334年〜1573年)なると、現在の蚕の絹(これより古い時代は山繭でした)が中国から大量に輸入されるようになり、戦国大名は競って着たと云います。
周防の大内氏のように、自分の領内で絹織物生産を図り京都から職人を山口に招いて(正平年間1346〜1370年の頃)絹布を作らせて新たな産地を興したと伝えているが、例外的な事例で、中国や朝鮮からの輸入した絹や木綿は最も手軽な繊維素材として各地で重宝がられていました。
応仁の乱後、京都西陣辺に集住していた大舎人は天文(1532〜1554年)の頃足利家から保護をうけ、新技術を導入し新製品を織り出すことによって西陣機業の名声を高めた。

この頃になると、朝鮮から日本の気候・土壌に合った棉の種子が日本に渡来し、棉の栽培とともに木綿織物の生産が始まります。
その頃の庶民の一般的な衣服は麻類や在来種の植物繊維でしたが、木綿織物の普及が広がるにつれて、肌触り・保温に優れた木綿を衣服として戦国大名の軍事的需要の増加と相まって使用することが多くなりましたが、木綿の庶民衣料としての本格化は江戸時代の元禄(1688〜1703年)に入ってからで、国内需要を十分賄えるほどの生産量となりました。
このように、良いと分かっている木綿の普及に200年弱必要としたのには、幾つかの訳がありました。
支配階級以外の人々の衣料は、自給自足であることと、棉栽培の特性が大きく関っていて、高温・多雨で、成熟期には多くの日照を必要とし、排水良好な砂壌土を好む性質を持っている。
棉を栽培する農民の側から見ると、五月初旬(八十八夜前後)に畑に種を蒔き肥料を施すのですが、ちょうど、その時期は野良仕事・茶摘み・養蚕などで農家は忙しく、肥料も他の作物のような堆肥や米ぬかなどの自給肥料では駄目で、干鰯や油粕等の金肥(お金で購入する肥料)を与えなければ良質の棉花は取れなかった。
また、日本の気候は、成熟期(九月末頃)に雨天が多く棉花の収穫時期と重なって、良い収穫が得られなかった。
一方、この頃の農業は食糧生産が主体で、支配階級向けの茶・養蚕についても生産余力がなく、自給できる状況ではなかった。
ましてや、庶民向けであった木綿が普及する環境は、整っていなかったのですが、畿内から生産は確実に増加していった。

室町時代の後半になると、中国からの絹輸入で財を成した豪商も出現し、これら豪商による銀山の開発や朝鮮から伝来した灰吹き法(銀の精錬法)の成功などで、銀の生産量が飛躍的に伸び、生糸・絹織物・木綿の輸入は益々増加してゆきました。

安土桃山時代(1574年〜1602年)になると、室町時代にも増して、生糸・絹織物・木綿の輸入は増加し、その支払いに銀の流出が増え銀の生産は増加の一途をたどります。

江戸時代(1603年〜1867年)の初めには、年間20万kgの銀が海外へ流出し、世界の生産量の30〜40%を供給したと云われています。
この膨大な量の銀は、海外からの輸入品の支払いに当てられたわけですが、全輸入量の90%を繊維類が占めました。
その内訳は、生糸と絹織物が92%、毛織物が6%、綿織物が1%、麻布が1%で、武士階級や裕福な商人・町民が絹織物を着用するようになり、絹の需要が劇的に増加したことによります。
このような状況を無視できなくなった、江戸幕府は贅沢禁止令や商人・町民の絹織物の着用禁止令などの法度が出されるが、効果が見られず輸入額の上限の設定や銀での決済の禁止などの強硬手段も取られました。
八代将軍吉宗の時代になって、適地適産政策の導入により絹や木綿の国産化を積極的に進める政策を取るようになって、産地の拡大が始まりました。
元禄年間(1688年〜1703年)に京都の宮崎友禅によって友禅染めが考案され、華麗な染色によって絹織物はますます盛んになったが、江戸時代中ごろから地方機業が勃興して西陣の独占が崩れてきた。
桐生・足利・八王子の絹織物、郡内の甲斐絹、真岡の木綿や結城,信州上田の紬、尾張の知多木綿・尾西縞木綿、久留米・伊予・倉吉・村山などの絣など、多様な特産物が、地域内市場から、江戸・大坂などの全国的中央市場に流通するまでに成長していった。
色の禁制が課せられていた当時の庶民生活のなかで、アイから染められる“紺”は生活の色と位置づけられ藍染めの印半てん、股引や浴衣など、木綿と紺は近世の庶民衣料に革命をもたらしました。
クワやワタの栽培が不向きな、山間部や東北部では依然として麻類や在来種の植物繊維を用いた織物が庶民の衣服であったが、絹や木綿織物の技術が波及して越後上布、薩摩上布、宮古上布、小千谷縮などの上物を作る産地も現れた。
羊毛についても、国産化が試みられたようですが失敗の連続で、その原因は日本の気候が高温多雨多湿なため羊を育成する良い牧草が育たなかったのです。
織機は居座式と云う原始的な手機織機から腰掛けて作業をする高機に変わり、江戸時代末には数台から数十台の織機を一ヶ所に集めて、工場形態を取る産地も出てきた。
横浜港が開港する江戸末期になると生糸と蚕種が、ヨーロパやアメリカに輸出できるまでに育っていました。
この背景には、ヨーロッパの養蚕が蚕の病気のため激減したことから、中国からの供給だけでは需要を賄いきれず、日本からの供給も必要になったようです。
このような状況の下で、明治を迎えます。

明治初期の種出総額の三分の二は生糸と蚕種であったようですが、品質が粗悪で改良が急務の状態でした。
明治政府は、品質向上と増産のための田畑勝手作許可の法令を出して、田にも桑を植えることができるようにし、また、武士階級の失職による職業対策と増産対策として養蚕、製糸、機織が奨励され、各地に授産所を作った。
明治10年頃には、富岡製糸工場に代表される官営の機械製糸工場は全国で87ヶ所になり、明治元年の2倍以上の生糸輸出量になり、輸出品の第1位を占め、これによって日本の経済的支柱として近代化に大きく貢献した。
毛織物の原毛の国産化は成功しないまま輸入品に頼り、官営千住製絨所が設立され、陸海軍の軍人の軍服や毛布などの製織から始まり、民間にも普及し洋装化とともに盛んになっていった。
一方、棉作は江戸末期から外国から安価で、品質の一定した機械製綿糸が輸入されるようになり、国内産の手紡糸は衰退し、棉作農家は打撃を受けた。
明治20年頃には機械紡績の勃興とともに原料綿は、外国からの輸入に依存し、国内の綿作農家は姿を消しました。
昭和になると、化学繊維の発達と衣服の洋風化に伴い、絹織物の衰退が始まり養蚕も減退し、ついに国産の天然繊維の生産は全て行われなくなり、現在に至ります。