中古車物語                もどる

宮田誠一は、しがない小説家である.
彼は、医学部出で、以前は、内科医だった。
しかし、彼は、教授を殿様とする、日本の、封建的な、医療界に、嫌気がさして、医者をやめてしまったのである。
元々、彼は、医者になりたいと、熱烈に、思っていたわけではない。
彼は、子供の頃から、体か弱く、自分の体なのに、自分では、薬を手に入れられず、一生、医者に、ペコペコ頭を下げ続ける、屈辱が耐えきれなかったのである。
それで、自分が医者になってやろうと思ったのである。
そういう動機で、医学部に入ったので、将来に対しても、医者として、バリバリ働こう、という夢も思いもなかった。
医師なんて、誰がやったって同じだし、八百屋と、全く変わりない、十年一日の、同じ事の繰り返しじゃないか。
そんな仕事を一生の仕事にするのは、バカバカしい。
大学三年で、基礎医学が始まってから、彼は、そう思うようになっていった。
医学部三年のある時。
(小説家になろう)
そんな、インスピレーションが、突然、起こったのである。
その想念は、みるみるうちに、彼の心を、とらえてしまった。
その日の内に、もう彼は、医者ではなく、小説家として、生きて行こうと思うようになった。
その日から、彼は、小説を書き始めた。
しかし、せっかく、入った医学部でもあるので、医学部は、ちゃんと、卒業して、国家試験にも、通っておこうと、学問を疎かにしなかった。
そして、六年間の、医学部は、ちゃんと、勉強し、そして、卒業して、医師国家試験にも、通った。
それと同時に、彼は、文壇に、小説を発表するようになった。
しかし、作家として、生きていくのは、並大抵のことではなく、生活は、苦しかった。
俗に言われる、筆一本は修羅の道、であった。
なので、二年、研修した後、内科医として、数年、勤務した後は、健康診断などの、医師のアルバイトをしながら、小説を書き続けた。

平成27年も、師走になった。
平成27年は、四月の頃は、体調が良く、小説創作が、はかどった。
しかし、6月頃から、体調が、悪くなり、6月、7月、8月、9月、と、全く何も出来ない状態になった。頭が冴えず、書きたいことは、あっても、書く意欲が起こらないのである。
意欲が、起こらない状態で、無理に書いても、いい作品は、書けない。
というか、文章が、頭から出で来ないので、「あらすじ」、程度の、雑な文にしかならないのである。
そもそも、彼には、精神の波があって、意欲が出る時は、観念奔放で、次々と、アイデアが、湧き上がるのだが、意欲が出ない時は、何をしても、意欲は、出ない。
彼は、小説が、書けなくなると、うつ病になった。
うつ病になると、ますます、意欲が出なくなるから、それが、悪循環になった。
なので、平成27年の、夏は、暗い夏だった。
小説が、書けないのなら、生きていても仕方がない、とまで、彼は思っているので、死のうかとも、思った。
しかし、奇跡的に、10月から、体調が、よくなり出した。
それで、小説を書き出した。
いったん、書き出すと、一作品、書き上げても、次々に、書かずには、おれなくなった。
彼は、小説を書いている時だけが、生きている時だから、無理もない。
逆に、書いていない時は、生きていても、彼の精神は死んでいるのも、同様だった。
「書ける時に、書いておかなけば」
そういう、あせり、から、彼は書いた。
一分、一秒、が、惜しくなった。
それで、おかげて、10月から、5作品、書くことが出来た。
それと、健康、体調、管理のために、冬でも、彼は、週に、二回は、温水プールで、二時間、泳ぎ、週に、二回は、市の体育館の、トレーニング室で、筋トレ、や、トレッドミルで、ランニングした。
平成27年も、12月になり、大晦日になった。
一般の人なら、年末年始の週は、休養できる、ほっとする、週なのだろうが、彼にとっては、年末年始は、不便きわまりない週だった。
市の体育館も閉まってしまうし、図書館も、閉まってしまう。
体を鍛えていないと、覿面、体調が悪くなる。
物書きにとっては、年末年始など、関係ない。
気分が乗っていれば、年末年始、だの、お盆、だのは、関係ない。
ただ、がむしゃらに、書くだけである。
しかし、体育館や図書館などの公共施設が、使えなくなるので、仕方なく、年末年始の週は、書くのを中止した。
テレビを見ても、つまらない、番組ばかり、である。

年が明けて、平成28年になった。
年明けの、4日から、彼は、書きかけの、小説の続きを書き出した。
正月休みが明けて、ほっとしているのだから、世間の人間と、感覚が逆である。
しかし、彼は、あることが、気にかかっていた。
それは、彼の乗っている、車の車検が、平成28年の、2月11日で、切れることである。
こういう些事さえ、彼には、気分が乗って、小説が、書ける時には、うっとうしかった。
だいたい、車検は、10万円くらいだろう、と思っていた。
いつも、そうだったからだ。
しかし、去年は、ある時、バックした時に、電信柱に、車をぶつけてしまい、車の後ろが、少し凹んでしまった。その時から、電気系統が故障したのか、ドライブにギアチェンジすると、「D」の、ランプが点かなくなった。
しかし、運転には、問題ないので、そのまま、乗っていた。
彼の車は、旧型マーチだった。
彼は、面倒なことは、つい、後回しにしてしまう。
しかし、車を運転していて、ふと、今回の車検は、いくら、かかるのだろうか、と、試しに、日産のディーラー店に、入ってみた。
平成28年の、1月11日である。
乗っている車は、平成24年に、アパートの、近くの、日産のディーラー系の中古車店で、買った。
ディーラー系の中古車店は、自社工場を持っていて、アフターサービスが良かった。
彼は、車の車種とかは、全然、興味が無く、知らなかった。
その時には、すでに、新型マーチも、出ていたが、新型マーチは、車幅が、広くなってしまって、まるで、カボチャのようで、彼には、不恰好にしか、見えなかった。
よく、あんな、不恰好な車を買う気がするものだと、彼は世間の人間の感覚が、全く、わからなかった。
それに、車幅が広いと、車庫入れ、とか、駐車場に、車を駐車する時、両隣りの車に接触しないよう、気をつけないと、ならない。
駐車場では、どこでも、出来るだけ、小さなスペースで、出来るだけ、多くの、車を止められるようにしようとするから、駐車のスペースの幅が小さくなってしまう。
さらに、公道を走っていても、バイクは、車の横をスイスイ抜いていくし、自転車が走っていたら、追い越さねばならない。その時にも、車幅が狭い方が、接触しにくい、し、気も使わない。
一時停止で、路上駐車する時でも、車幅が、狭い方が、他車の迷惑にならない。
そういう、実用上の理由でも、彼は、車幅の狭い車にしたかったのである。
それで、日産の、ディーラー系の中古車店で、買う時には、あえて、新型マーチの中古車もあるのに、旧型マーチを、探してもらったのである。
それで、表示価格25万、走行距離、4万kmの旧型マーチが、あったので、即、それに決めた。保証は、一年つきで、車検は、2年だった。
諸経費は、10万円だった。ので、合計は、35万円だった。
安い方である。
しかし、買った、平成24年の夏に、エンジンのトラブルが起こってしまった。
さらには、電気系統のトラブルも起こった。
しかし、1年、保証の約束は、誠実に守ってくれて、修理してくれた。
車検は、2年だったので、平成26年の時に、車検を、受けたが、あらかじめ、かかる費用を見積もってもらったが、10万円だった。
10万なら、買い替える必要もないと思い、10万で、車検を通して、乗りつづけた。
しかし、今回の車検は、いくら、かかるだろうかと、彼は、急に気になり出したのである。
それで、急いで、修理をやってくれる、日産のディーラー店に、行ってみた。
平成28年の、1月11日である。
車検は、2月11日で、切れるから、あと、1ヶ月である。
「車検にかかる費用、見積もってもらえませんか?」
と彼は聞いた。
「はい。わかりました」
と、店の人が言った。
店では、新車を売っているが、店の裏に、修理場があって、修理工が、働いている。
彼は、自動車の、修理工を立派だと思っていた。
毎日、油にまみれ、汚れた服で働いて。
働く、とは、ああいうことを、言うものだ、と彼は思っていた。
一時間、くらいして、店の人が、やって来た。
それで、見積もりの明細を見せてくれた。
部品交換と、工賃が、バーと、並んでいて、合計で、18万円だった。
彼は、あせった。
彼は、車検にかかる費用が、10万、程度なら、買い替えることなく、乗り継ごうと思っていた。
彼は、車の事情については、素人だか、それでも。
しかし、18万ともなれば、もう少し、金を出せば、中古車が買える。
ボロボロになった、車を、18万も出して、乗り続けるよりは、あらたに中古車を買い替えようと、思った。
彼は、カーマニアでは、さらさらなく、車は、移動する手段という目的でしかなかった。
なので、彼は、軽自動車を、欲しがってもいた。
軽自動車は、660ccで、燃費が、普通自動車より、いい。
最近、ガソリン価格が、どんどん、下がってきて、1リットル、100円を切るほどにまでなったとはいえ、旧型マーチは、彼が、オイル交換などしないことも、あるだろうが、あきらかに燃費が悪く、レギュラー満タンにしても、300km、も走らないで、ガソリンスタンドに入らねばならなかった。
レギュラー満タンにする時、だいたい、30リットル、入れるので、1リットルで、10km、ということになる。
これは、明らかに燃費が悪い。
それに比べると、軽自動車は、最新の性能の良いのだと、1リットルで、35km、とか、テレビで宣伝している。最新の軽自動車でなくても、軽自動車の方が、燃費がいいのは、明らかである。彼は、以前、ネットで検索したら、軽自動車の燃費は、最新のでなくても、1リットルで、20kmとか、書かれてあるのを見ていた。
それで、軽自動車をうらやましく思っていた。
そこで、彼は、ボロボロになった、車を、車検のために、18万も出して、乗り続けるよりは、あらたに軽自動車、の中古車、を買い替えようと、思った。
ともかく、車検まで時間がない。
それで、彼は、急いで、平成24年に、旧型マーチを、買った、日産の、ディーラー系の中古車店に行った。
売った時の人は、居て、彼を覚えていた。
「車検が、あと、一ヶ月で、切れるので、日産に行って、車検にかかる費用を見積もってもらったら、18万円と言われました。買い替えたいと思います。中古車で、軽自動車で、良いの、ないですか?」
と、彼は聞いた。
「わかりました」
そう言って、店長は、ネットで検索してくれた。そして、
「店にも、軽自動車、置いてありますけれど、見てみますか?」
と、言ってくれた。
「はい。ぜひ、見たいです」
と、彼は言った。
軽自動車は、4台ほど、置いてあった。
それは。
ピノ(平成21年式。69.8万円)
デイズ(平成25年式。68.0万円)
オッティ(平成23年式。48.6万円)
モコ(平成21年式。64.8万円)
の、4台であった。
彼は、軽自動車でも、車幅が狭い、小さな車が、欲しかった。
ピノとオッティは、比較的、車幅が狭かった。
しかし、何か、しっくりしなかった。
車幅や、車体の大きさから見ると、軽自動車といっても、旧型マーチと、ほとんど、変わりない。
車は、一度、決めて買ったら、最低、4年は、使うことになる。だろう。
ディーラー系の中古車店の車は、値段は、高目だが、値段が高い、ということは、故障しにくい、ということでもある。
しかも、年式も、結構、新しい。
保証は、一年ついているが、一年以上、経ったら、もう保証なしである。
しかし、一年以上、経った後で、故障が、出てきても、修理の値段は、事故でも、起こさない限り、5万を超すことは、まずない。
中古車は、安いのだと、表示価格15万とかのもある。それに、諸費用10万を入れると、25万になる。修理したら、その箇所は、壊れず、そのうちに、別の部位が、故障してくることになる。それも、修理代に、5万を超すことは、まずない。
だから、いったん、中古車を買ったら、4年は、最低、買った車に乗ることになる。
だから、中古車、選びは、慎重にしなければ、と彼は思った。
それで、彼は、日産のディーラー系の中古車店を出た。
小田急線の左に沿って走る、国道467号線は、両側に、やたらと、中古車屋が多い。
中古車通り、と言われているくらいである。
ともかく、書きかけの小説を、早く、書き続けたい、ため、車選びに、時間をかけている暇は、なかった。
彼の気は焦った。
個人でやっている中古車店は、信用できない。
国道467号線を、少し北に行った所に、ガルバーが見えてきた。
ガルバーは、中古車買い取りの大手だが、中古車販売とも、看板に書いてあった。
それで、彼は、ガルバーに入った。
「いらっしゃいませ」
店員が出てきた。
「あのー。この車、売れないでしょうか?」
ガルバーは、買い取りも、やっているので、一応、今、彼の、乗っている、旧型マーチを査定してもらった。
旧型マーチは、外観は、傷があるが、まだまだ、実感として、走れるのである。
走行距離も、6万5千80kmと、少ない。
それに、買った、購入時から、二回、車検を通していて、車検では、大体、10万円くらいかかる、が、車検を通す時に、古くなった、部品は、交換している。
だから、実感として、まだ走れるような気がするのである。
それに、車体に、大きな傷はあるが、オーディオとか、バッテリーとか、あらゆる部品を、ばらして、その部品に、価値は無いのか、とも思った。
実際、車検の時は、こまごました、部品を交換するが、その部品は、必ずしも、新品ではなく、中古ということもあり、ともかく、規格にあったもの、を、修理の時、修理工場でも、探すから、車ごと、売れなくても、車をバラして、部品を、とっておく、ということは、しないのか、とも、思った。
実際、街を走っていても、旧型マーチは、まだ結構、見かける。
ああいう車が、車検を通す時に、部品交換が、必要になることも、あるだろう。
古い型の車の部品は、見つかりにくい。だから、部品にも、価値はあるんではないだろうかと、彼は、思っていた。
しかし、値段は、つかなかった。
中古車の価値は、性能とか、まだ走れる、とかいう点で決められるのではなく、車市場で人気のある車種、年式の新しさ、で決まる、ということは、彼も知っていた。
なので、廃車しかない、と、あきらめた。
「あの。中古車、探しているんですけど・・・」
彼は、中古車の購入に、気持ちを切り替えた。
「では、どうぞ。お入り下さい」
店員が言った。
言われて、彼は、店の中に入った。
ガルバーなら、日産のディーラー系の中古車店と違って、全ての、メーカーの中古車があるはずである。
「どういう、お車をお探しでしょうか?」
店員が聞いた。
「軽自動車を探しているんです。軽自動車の方が、燃費がいいですよね。僕は、軽自動車について、全く、知らないので。燃費が良いのが欲しいんです。どういうのが、いいでしょうか?あと、一ヶ月で、今、乗っている、マーチの、車検が切れますので」
と彼は、聞いた。
「ご予算的には、いくらくらいを考えておられるのでしょうか?」
店員が聞いた。
「そうですね。車体価格は、30万から、40万、くらいですね」
と彼は言った。
「わかりました。では、検索してみます」
そう言って、店員は、ネット検索し始めた。
しばしして。
「そうですね。ラバンで、40万円の車が、見つかりました。これは、どうでしょうか?」
そう言って、店員は、プリントした紙を、彼に渡した。
軽自動車だから、当然、排気量は、660ccである。
年式は、平成17年式。走行距離は、5万3千km。だった。
「ラバンとは、どういう車でしょうか?」
彼は、軽自動車に関する知識が、無いので、単純な質問をした。
「そうですね。大体、アルトと、構造は、同じですよ。アルト、を、女性向けに、デザインした、車で、女性に人気の車です。乗ってる人も女性が多いですね」
と、店員は、言った。
アルト、と言われても、彼は、アルトも、良く知らなかった。アルトの名前だけは、テレビのコマーシャルで、何回か、聞いたことがあるので、知っていたが。
「実際、見てみたいですね」
と、彼は言った。
車幅とか、全長とか、車高とか、車体の大きさ、とかは、写真だけでは、わからなかった。
「ちょっと、待っていて下さい」
と店員は言った。
店員は、店から見える、国道467号線に視線を向けた。
そして、しばし、待った。
店の、すぐ前には、信号機のある交差点があった。
国道467号線の、進行方向の信号機が赤になった。
たくさん、流れていた車が、赤信号で、止まった。
「あっ。お客さん。見て下さい。今、信号待ちで、停車している車の、三番目が、ラバンです」
そう言って、店員は、窓の外を、指さした。
彼は、言われて、その方を見た。
車体は、軽自動車にしては、まあ、普通な方だった。
日産のディーラー系中古車店で、見た、軽自動車より、は、明らかに、コンパクトに見えた。
車体の格好も悪くない。
(これなら、いいや)
と、彼は、一瞬で、思った。
「じゃあ、そのラバンにします」
と彼は言った。
「じゃあ、これに、署名して、サインして下さい」
店員は、そう言って、売買契約書を出した。
売買契約書といっても、車の写真に、彼の住所、年齢、性別、携帯番号、が、記載されてあって、諸経費の、大まかな内訳が、書いてある、簡単なものだった。
諸経費は、普通、10万円くらいなのに、なぜか、30万、と高かった。
「諸経費が高いですね。どうしてですか?」
彼は、疑問に思って聞いた。
「これは、特選車ですので。車検も2年ついてますし、半年のフルサポートが、ついていますので・・・。それに、我が社では、色々なサービスがついていますので・・・」
と店員は、言った。
諸経費が、30万と、高いのが、疑問だった。
しかし、彼は、車のことなど、はやく片づけて、小説を書きたいと、思っていたので、気が急いていた。
ディーラー系の中古車店とか、個人の中古車店なら、大体、諸経費は、10万円である。
しかし、ガルバーでは、そういう、やり方なのだろう、と、わからないままに、決めることにした。
車両本体価格40万で、諸経費30万円、なら、合計70万である。
そして、実際、合計、きっちり70万円だった。
個人とか、ディーラー系の中古車店なら、合計70万といえば、車両本体価格60万で、諸経費10万円である。
車両本体価格60万円、なら、しっかりした車だろう、と、彼は思った。
ただ、ガルバーは、他の中古車店とは、やり方が、違うのだろう、思った。
ともかく、信用することにした。
なんせ、ガルバーは、車買い取りの、大手なのだから。
しかし、彼は、印鑑は、持っていなかった。
「印鑑は、持ってきていません」
彼がそう言うと、
「では、母印でも構いません」
と、店員は言った。
彼は、名前の後ろに、二ヵ所、母印を押した。
「納車は、一月の下旬頃になると思います」
店員は、そう言って、いくつかの書類を彼に渡した。
「では、出来るだけ、早く、印鑑証明と住民票を持ってきて下さい」
店員が言った。
「では、明日、持ってきます」
と彼は言った。
もう、外は真っ暗だった。
彼は、書類を入れた、ガルバーの封筒を持って、アパートに帰った。
(はあ。やっと、これで、面倒な、車の買い替えが終わった)
と彼は、ほっとした。
そして、ニュースを見て寝た。

翌日になった。
手続きは、できるだけ早く、すませたいと思っていたので、彼は、午前中に、市役所に、住民票と、印鑑証明を、とりに行った。
そして、取った。
そして、銀行で、ガルバーの指定口座に、70万円、入金した。
そして、その領収書と、印鑑を持って、ガルバーに行った。
「こんにちはー」
と、彼は声を出して、店に入った。
店には、昨日の店員がいた。
「住民票、印鑑証明、それと、印鑑、それと、70万円、入金した、領収書を持ってきました」
そう言って、彼は、それらを差し出した。
「これは、これは。早く手続きして下さって、ありがとうごさいます」
と店員は、言った。
彼は、ガルバーを出た。
そして、図書館に行って、小説の続きを書き始めた。

一週間、経ち、二週間、経った。
しかし、ガルバーからは、何の連絡も来なかった。
二週間、して、ちょっと、納車の連絡が、遅いな、と彼は、疑問を持ち出した。
それで、ガルバーから、受けとった、書類の入った封筒を、見てみた。
普通、中古車の買い替え、なんて、簡単で、そんな、様々な、手続きなど、無いものである。
そして、あらためて読んでみた。
そして、驚いた。
封筒の中の書類は、5枚、あった。
それは。
売買契約書。
計算書。
使用済自動車の取引契約に関するご案内。
使用済自動車引取契約書。
ご契約に関する重要事項案内書。
の、5枚だった。
使用済自動車の取引契約に関するご案内、と、使用済自動車引取契約書、とは、要するに、あと、数日で車検切れとなる、今、乗っている、旧型マーチを、ガルバーで、廃車にする、という手続き、だった。
計算書とは、諸経費の内訳が、おおまかに書かれていた。
彼が、まず驚いたのは、A4サイズの、売買契約書である。
彼が、ガルバーの担当と、話した時は、売買契約書を担当の店員が、出して、二ヵ所に、
「はい。ここと、ここの二ヵ所に、サインして下さい。印鑑が無いなら、母印で結構です」
の一言だけ、だった。
売買契約書は、彼の、名前と、住所、生年月日が、書かれていて、車の写真が載っていて、単に、その車を、買う、という、契約だけだと思っていた。
売買契約書には、裏に何も書いてないと思っていた。
表だけだと思っていた。
しかし、裏面もあったのである。
購入する時、店員は、裏面もあるなどとは、一言も言わなかった。
実際、売買契約書の表面には、「裏面もあります」とか、「裏面もあわせて、内容を十分、お読みください」とかの、記載は、全く無い。
しかし、売買契約書をひっくり返してみると、「契約条項」、と書いてあって、第1条から、第22条まで、びっしりと、契約事項が、書かれてあった。
しかも、極めて、小さな字で、しかも、字の濃さが、極めて薄くて、極めて、読みにくい。
しかも、裏面には、赤字で、「表面もあわせて、内容を十分お読みください」、と書いてある。
これは、明らかに、おかしい。
売買契約書の表は、購入する車の、写真と、値段の簡単な、内訳が、書いてあるだけである。
こんな表面は、「内容を十分お読みください」などと、書かなくても、一目で、時間にすれば、2分もかからず、読めてしまう。
しかし、裏面の、「契約条項」、は、見落としてしまうかと思われるほどの、極めて小さな、字で、しかも、字の濃さが、極めて薄い。
読みにくいこと、限りない。
こんな、読みにくい、文章は、普通の人は、読みにくいから、読み始めたとしても、途中で、まず、投げたしてしまうだろう。
それで、彼は、急いで、コンビニに行って、コピー機で、売買契約書の裏面を、「文字の濃さ」、を、「自動」ではなく、「一番、濃い」、設定にして、コピーした。そうしたら、文字は、濃くなって、読みやすくなった。彼は、さらに、そのコピーを、「一番、濃い」、設定にして、コピーした。そうしたら、読める、普通の濃さの文字になった。
そうやって、二度、コピーしても、文字化けすることは、全くなかった。
さらに、文字も、極めて小さく、行間も、ほとんど無いくらい、で、読みにくいので、濃くコピーした、のを、A3サイズに、二倍に、拡大コピーした。
それで、やっと、読みやすい、文章に出来た。
彼は、急いで、それを持って、アパートに帰って、読んだ。
甲(彼)、と乙(ガルバー)の、契約内容が、びっしりと書かれてあった。
一言で、いって、「契約条項」の、内容は、全て、乙(ガルバー)に有利な内容だった。
まあ、契約とは、ほとんどが、そういうものだか。
そして、裏面には、しっかりと、「表面もあわせて、内容を十分お読みください」、と、赤字で書いてあった。
これは、明らかに、おかしい。
表面の、説明は、個条書きで、読む、というより、見れは、わかるだけである。
しかし、裏面の、「契約条項」、は、甲(彼)と、乙(ガルバー)の、さまざまな、事柄に関した約束で、その文章は、抽象的で、まるで、法律の条文のようであり、専門用語も、まじえていて、極めて理解しにくい、意味のわかりにくい、文章である。
実際、彼は、「契約条項」、を何度も、読んだが、理解できない,内容が、いくつもあった。
ここに、至って、彼は、ガルバーに不審を抱き出した。
本来なら、22項目もある、しかも、びっしりと書かれた、抽象的な、専門用語もまじえた、分かりにくい、裏面の、「契約条項」、の、方をこそ、しっかりと、読むよう、注意喚起すべきなのだから、表面に、赤字で、「裏面もあわせて、内容を十分お読みください」、と書くべきはずだ。しかし、ガルバーの売買契約書は、まるで、その逆である。しかも、店員は、裏面もあることを、知っているのに、そのことは、一言も言わなかったのである。
ここに、至って、彼は、ガルバーに不審を抱き出した。
さらに、「ご契約に関する重要事項案内書」も、読んでみた。
「重要」という言葉は、入っているが、何の説明も無く、サインや、印鑑を押すこともなかった。
なので、どうでもいいパンフレットのようなものだと、彼は思っていた。
8項目あったが、5番目に、キャンセルについて、という項目があった。
それによると、契約した、翌日までは、キャンセル出来るが、翌々日、以降になると、実費を支払うことで、キャンセル可能、と書いてあった。
これは、納得できる。
契約したら、自動車を整備したり、手続きを始めるから、途中で、キャンセルしたい、と思ったら、それらにかかる費用は、契約した人が払う、というのは、筋が通っている。
しかし、無償のキャンセルは、翌日まで、で、翌々日からは、車の整備や法的手続きのため、実費を支払わなければ、ならない、というのは、重要なことである。
こういう、重要なことを、パンフレットのように、添えて、何も言わず、渡す、というのは、不誠実である。
重要なことなのに、一言も説明しないのだから。
さらに。「ご契約に関する重要事項案内書」にも、裏面があった。
裏面には、「返品についてのご案内」と、書かれてあった。
それによると。
ガルバーで、車を買うと、納車した後でも、返品できる、サービスがある、というのだ。
その返品条件は、納車後、100日、以内。走行距離1万キロ以内、ということだった。
100日と言えば、3ヶ月と、10日で、100日で、1万キロ走れる人は、まず、いないだろう。
その他にも、合計9項目、返品の条件、が書いてあったが、要するに、ぶつけたりしていなく、購入時の、状態であれば、100日、以内なら、返品できる、というのだ。
これを読んだ時、もちろん、彼は、素晴らしいサービスがあるもんだ、とは、思わなかった。
そんな、バカな、という思いだった。
返品サービスといっても、購入時の全額が返品されるわけではない。
車両表示価格の、5%、支払う、義務がある、という条件だった。
諸経費も、返す、ということだった。
車を購入する総費用は、車体表示価格と、諸経費である。
ガルバーでは、(ガルバーに限らず)、中古車販売では、車の値段が安いように、見せかけるために、表示価格は、出来るだけ、低く、表示してある。
それで、諸経費が、大体、10万円、くらい、というのが、多い。
ガルバーの場合、特に、表示価格を低くしている。
彼の、契約したラバンは、車体表示価格40万円である。
そして、諸経費が、30万だった。
この諸経費が、高すぎる、と、彼は、最初、疑問に思った。
では、ガルバーの、返品サービスを利用すると、納車して、彼の車になって、自由に乗っても、100日以内なら、車体価格40万の5%だから、2万円、支払えば、68万円、返して貰える、ということになる。
素晴らしいサービスである。
しかし、これは、おかしい。
世の中に、うまい話など、あるはずが無い。
こんな、サービスをしたら、レンタカーや、カーリース業が、やっていけなくなる。
ガルバーで、中古車を買えば、2万円で、100日、車を借りられるのである。
そんな、バカな話は無い、と彼は、思った。
世の中に、うまい話など、あるはずが無い。
それで、彼は、ネットで、ガルバーの評判を、検索して、調べてみた。
すると、ガルバーは、「詐欺」とか、「悪質」とか、「ガルバーで、絶対、車を買っては、いけません」とか、無限とも、いえる、悪評が、出てきた。
ネットの情報は、いい加減なのも、あるが、こういう悪評は、実際に、購入して、体験した人が、書いているので、かなり、信頼できる面もある。
それで、彼は、急いで、ガルバーに行った。
店には、彼の担当者がいた。
「いらっしやいませ」
店員は、笑顔で、対応した。
彼は、店員と、向かい合わせに、テーブルに座った。
「整備も進んで、もうすぐ納車できますよ」
店員は、ニコニコ、笑って言った。
「いえ。今日は、そういう要件ではなくて、聞きたいことがあって、やって来ました」
と、彼は言った。
「何でしょうか?」
店員が聞いた。
「返品サービスのことです」
彼は言った。
「納車した後でも、100日、以内なら、返品できるんですか?」
彼は聞いた。
すると、途端に、営業マンの顔が曇った。
「返品サービスをする人は、ほとんど、いませんよ」
営業マンは、不愛想に言った。
「どうしてですか?」
彼は聞いた。
「返品サービスは、仕事で海外出張になったり、病気や怪我で、病院に入院することになったり、した人だけにしか認めていません。買ったけれど、やっぱり気が変わった、という理由での、返品は、受けつけていません」
と、営業マンは言った。
ここに至って、彼は、完全に、ガルバーに、だまされた、と確信した。
返品条件の、9項目には、そんなことは、書かれていない。
売買契約書の、裏面の、「契約条項」にも、そんなことは、書かれていない。
彼はアパートに帰った。
だまされた、と、彼は思った。
それで、その日は寝た。

翌日になった。
もっと、最初にガルバーの評判をネットで、検索しておけば良かった、と後悔した。
しかし、彼は、こうも、考えた。
ネットで、ガルバーの悪評は、多すぎる。
しかし、そういう人達は、ガルバーで、中古車を買って、後悔している人達だけだ。
ガルバーで、中古車を買って、問題がなかった人だって、いるはずだ。
しかし、問題がなかった人は、多くの場合、ネットに、書き込みなどしない、ものだ。
好事門を出でず、悪事千里を走る、である。
確かに、営業マンは、どんな分野でも、客との契約をとった、多さが、営業マンの能力、成績、と評価される。
だから、仕事熱心な営業マンは、丁寧な説明など、わざと、しないで、良いことばかり言って、契約を早くとろうとする。
そして、契約を多くとった社員が、優秀と会社で評価される。
それが、営業マンの仕事というものだ。
それに、ネットで、悪評が多いとはいえ、たかが、中古車販売、である。
金額も、70万、払っている。
そうそう、簡単には、故障など、しない、だろうとも、彼は考えた。
それに、ラバンに決めてから、彼は、街を運転する時、軽自動車に関心が出て、運転する時は、つい軽自動車を見るようになっていた。
ラバンは、軽自動車でも、いい車だと、彼は思っていた。
もう、乗りかかった船、というか車で、引き返すことが出来ないのだから、仕方がないとも思った。
それで、その日は寝た。
しかし、何か、しっくりしない、不快な気持があった。
一度、決めて買ったら、最低、4年は、使うことになる。
しかも、70万円も、払っているのである。
故障しても、修理代は、高くても、10万など、いかない。
10万かかる修理など、まずない。
故障した年式の古い中古車など、中古車買い取り店へ持って行っても、値段がつかないか、極めて、安い値段で、買い取られるのが、オチである。
だから、一度、買った中古車は、故障しても、修理して、乗り続けるしか、ないのである。
そして、修理すると、修理した個所は、大丈夫になるから、乗り続けられることになる。
そうして、また、何か月か、一年近く、乗っていると、別の部位が故障してくる。
そして、その時も、やはり、修理である。
だから、中古車を一度、買ったら、最低、4〜5年は、乗り続けることになる。
だから、中古車、選びは、慎重にするべきなのだ。
不快な思いで、運転していると、精神的にも良くない。
事故も、起こりかねない、かもしれない。
そう考えると、やっぱり、彼は、契約した中古車のことが気になりだした。
それで、ガルバーの、お客様相談センターに電話した。
彼は、まず、一般論を聞いてみようと思ったので、発信者番号非通知でかけた。
すると、女の対応者が出た。
「はい。ガルバーです」
「ガルバーの返品サービスについて、聞きたいのですが?」
彼は言った。
「はい。どんなことでしょうか?」
「ガルバーで、車を買うと、納車後でも、返品サービスは、ありますね?」
「ええ」
「その返品の条件とは、納車後、100日以内で、走行距離が1万キロ以内で、返品条件は、9項目ありますが、それを満たしていれば、返品できる、と、書いてありますが、本当ですか?」
「はい。本当です」
担当は、書面通りのことを答えた。
「私は、今、ガルバーで、中古車を買う契約を、すでにしました。もうすぐ納車です。しかし、気が変わって、返品したいと、思うようになったんです。しかし、そのことを、店の人に、言ったら、ダメだと、言われたんです。店員は、こう言ったんです。『返品サービスは、仕事で海外出張になったり、病気や怪我で、病院に入院することになったり、と、よほどの事情のある人だけにしか認めていません。買ったけれど、やっぱり気が変わった、という理由での、返品は、受けつけていません』と。しかし、こんなことは、9項目ある、返品サービスの条件に書いてありませんが、おかしいんじゃないですか?」
「お客様のお名前と電話番号を教えて頂けませんか?それと、お客様が、買った、ガルバーの店を教えて頂けませんか?」
「はい。私の名前は、宮田誠一です。電話番号は、090-1234-5678です。中古車を買ったガルバーの店は、××です」
「わかりました。店長に連絡して、事情を聞いてみます。連絡が取れ次第、折り返し、連絡致します」
そう言って、ガルバーの本部の対応者は、電話を切った。
彼は、ネットで、中古車を買った、ガルバーの店を検索してみた。
彼は、店長には、あったことがなかった。
店舗のホームページも、あった。
担当の顔写真も、店長の顔写真も載っていて、月並みな、宣伝が書いてあった。
営業マンは、若く、笑顔だが、店長は、ちょっと、こわそうな顔つきだった。
しばしして、携帯が、トルルルルッとなった。
急いで、彼は、携帯に出た。
「宮田誠一さまで、いらっしゃいますか?」
「はい。そうです。先ほど、返品サービスのことで、お聞きしました」
「店は、今日は休みだそうです。店長の携帯に電話したところ、返品サービスの件については、明日、店長が説明する、とのことです。それでよろしいでしょうか?」
「はい」
「午後2時で、よろしいでしょうか?」
「はい」
彼は、ついでに、一言、加えた。
「あなた。ネットでのガルバーの評判、調べたこと、ありますか?」
「いえ。ありません」
「あなた。自分の会社の、評判も、調べようともしなんですか?「ガルバー」、「評判」、で検索してご覧なさい。悪評がバーと出てきますよ」
そう言って、彼は、電話を切った。
明日、店長は、どう出るか。
そのことを思いながら、彼は、その晩、寝た。

翌日になった。
その日、ちょうど、納車の日だった。
つまり、店に車が届いて、その日から、契約したラバンが、彼の所有物になる日だった。
午後1時30分に、彼はアパートを出た。
ガルバーは、近く、5分で着いた。
車検切れ間近の彼の、旧型マーチを、ガルバーの店に入れようとすると、店長が出てきた。
ひきつった笑顔だった。
「やあ。宮田さんですね。私は、店長の、××です」
と、彼は、言った。
店に入るや、直ぐに、彼は、店長と、テーブルに、向かい合わせに、座った。
若い、営業マンは、いなかった。
「話は、本部から聞きました。解約したいということですね」
「はい。そうです」
「それは、どういう理由で、でしょうか?」
「あなた。ネットで、ガルバーの評判を、検索したこと、ありますか?」
「え、ええ。まあ」
「ネットで悪評が多過ぎます。それで、ガルバーが信用できなくなってしまったんです」
「そうですか」
「渡された、返品についてのご案内、によると、納車後、100日以内で、走行距離が1万キロ以内であれば、返品できる、と、渡されたパンフレットには、書いてあります。返品条件が、九つ、ありますが、要するに、買った時の状態であれば、返品できる、となっています。全額、返金ではなく、車両本体価格の5%、つまり、私の場合は、車両本体価格は、40万円ですから、2万、支払えば、返品できる、ということになります。しかし、ここの店営業の人は、『返品サービスは、仕事で海外出張になったり、病気や怪我で、病院に入院することになったり、した人だけにしか認めていません。買ったけれど、やっぱり気が変わった、という理由での、返品は、受けつけていません』、と、言いました。9つの、返品条件には、そんな事は、どこにも書いてありません。それで、本部、つまり、ガルバーの、お客様相談センターに、聞いてみたところ、そんな条件があるとは、言いませんでした。つまり、渡された書類に書いてあることと、営業マンの言うことと、ガルバーの本部が、言うことが、全く、食い違っているじゃ、ありませんか。それで、信用できなくなったんです」
店員は、黙って聞いていた。
彼は、A4サイズの、売買契約書を取り出して、テーブルに置いた。
そして、売買契約書の裏面を見せた。
そして、裏面の、「契約条項」を、濃くコピーした、A4サイズのコピー紙と、さらに、A4サイズを、2倍に拡大した、A3サイズの、コピー紙を、置いた。
彼は、店で渡された、「契約条項」と、それを、濃くコピーした、同じ、A4サイズの、コピー紙を並べた。
ガルバーで、渡された、「契約条項」は、極めて、小さな字で、しかも、極めて、薄い。
「これは、コンビニのコピー機で、濃度を、自動、ではなく、手動で、一番濃い、設定にして、コピーしたものです。原本と、コピーした物と、どっちが、読みやすいと思いますか?」
彼は聞いた。
「それは、コピーした方ですね」
と、店長は、ひきつった笑い顔で言った。
「そうですよ。私が言うと、私の主観になってしまいます。しかし、これを、第三者、100人に、見せて、どっちの方が、読みやすいか、と、聞いたら、間違いなく、100人中、100人、が、コピーした方が、読みやすいと、言うと思いますよ。そうは思いませんか?」
「そうですね」
と、店長は、ひきつった笑い顔で言った。
「この、契約条項は、ガルバーの会社の方針で、全国450店舗で、こうやっているのでしょう。このコピーのように、読みやすく出来るのに、ガルバーでは、わざと、文字を薄くして、読みにくくしているとしか、思えません。そして、A4サイズの大きさに、22条もの、文章が、びっしり書かれています。その内容は、甲(彼)と、乙(ガルバー)の、さまざまな、事柄に関した約束で、その文章は、抽象的で、まるで、法律の条文のようであり、専門用語も、まじえていて、極めて理解しにくい、意味のわかりにくい、文章です。そして、ともかく文章が多い。A4サイズの大きさでは、字が小さくて、行間も、ほとんど、ありません。これでは、読みにくいので、僕は、A4を、2倍のA3に拡大コピーしました」
そう言って、彼は、A3サイズの「契約条項」を差し出した。
「これなら、読みやすいですよね。読めますよね」
「え、ええ」
「僕は、この、契約条項、を、何度も、繰り返し、読みました。内容は、甲(彼)と、乙(ガルバー)の、さまざまな、事柄に関した約束です。そして、契約の内容は、全て、乙(ガルバー)、に、有利な条件になっています。しかも、文章は、抽象的で、専門用語も、使っていて、意味が、極めて、わかりにくいです。僕は、何度も、読みましたが、いまだに、意味がわからない、ところが、いくつもあります。しかも、同じようなことが、二度も書かれていたりされています。これも、おかしい。丁寧に読んでも、理解できにくいです」
店長は、黙って聞いていた。
「これは、僕の推測ですが、ガルバーは、わざと、字を薄くして、読みにくい契約条項にしているのでは、ないでしょうか。そして、同じような、内容の文章を、二回も繰り返して、書いている。これは、わざと、字数を増やして、わざと、A4の用紙に、びっしり、書くことで、字を、わざと、小さくして、読みにくくしているのではないでしょうか。多くの人は、原本だけ読むだけでしょう。手間をかけて、コピーして、読みやすく、することなど、しないでしょう。きわめて薄い字でも、コピー機で、手動で、濃い設定にして、コピーすれば、濃い、普通の濃さの字に出来る、ということを、知らない人もいるでしょう。これでは、22条の、契約条項、のうち、第3条、あたりで、読みにくい、と、投げ出してしまって、読まない人の方が、圧倒的に多いと思います」
と、彼は、強い口調で言った。
そして、彼は、契約条項の原本をひっくり返した。
契約条項の裏が、表面で、売買契約書、と書いてある。
そこには、車の写真と、車の年式、走行距離などの、車のことと、諸経費の内訳や、サービスなどが、簡潔に個条書きで、書かれていた。
彼は、売買契約書、を指差した。
「この表面の、売買契約書、と書かれた、表面には、どこにも、裏面もあります、とか、裏面も、よく読んで下さい、とかの注意書きが、一言も書かれていません。裏面もあって、裏面には、重要な、契約条項、が、びっしり、書かれているのですから、裏面も、よく読んで下さい、と、書く方が、常識的では、ないでしょうか?しかも、担当者は、購入時に、裏面もあります、とか、裏面も、読んでおいて下さい、とも、一言もいいませんでしたよ。ただ単に、表面の、二ヵ所に、『サインして下さい、印鑑がなければ、母印で結構です』、の一言しか、言いませんでしたよ。営業マンは、当然、裏面があって、重要な、契約条項が、びっしり、書かれていることは、知っています。なら、裏面も、ありますから、よく読んでおいて下さい、と口頭で、一言、いっても、いいじゃないですか。というより、言うべきなんじゃないですか。あるいは、紙をひっくり返して見せるだけでも、いいじゃないですか。裏面の、契約条項の、第22条では、クーリングオフできない、という極めて重要なことも、書いてあります。それで、『サインして下さい』のたった一言ですよ。僕は、売買契約書には、裏面があるとは、全く思っていませんでした。多くの人も、表面だけで、裏面は無い、と、思ってしまう人や、裏面に気づかない人は多いと思いますよ。しかも、裏面の、契約条項は、すべて、ガルバーに有利なことです。これは、都合の悪いことは、説明しないで、騙して、契約を急がせている、詐欺的なやり方と、言っても、何ら、言い過ぎてはないと、思います。このことに関して、どう思いますか?」
と、彼は、強い口調で言った。
店長は、答えられず、ひきつった顔で、ニヤニヤしている。
彼は、続けて言った。
「しかも、裏面の、契約条項の上には、赤字で、囲って、表面もあわせて、内容を十分お読みください、と書いてあります」
そう言って、彼は、表面を裏返して、裏面にして、その部分を指差した。
「これは、ヘタな漫才より、おかしい。表面の、売買契約書は、車の写真と、購入者の氏名、住所、そして、走行距離などの、車のおおまかな説明と、そして、売買に関することが、個条書きの、短い文で、書いてあります。こんなのは、読む必要も無く、一目、見れば、一分以内で確認できます。内容を十分、読むべきなのは、裏面の、契約条項です。内容も重要なことが、書かれていて、しかも、甲(買い手)、乙(ガルバー)、が、どうこう、という契約内容が、22条も、びっしりと、紙面、いっぱいに書かれてあります。しかも、文章は、六法全書の文章のように、抽象的で、わかりにくい。僕は、これを、濃くコピーして、それを2倍に拡大して、そして、何度も、読みました。しかし、何度、読んでも、内容が、わからない個所が、いくつもあります。これは、常識的に考えても、全く、おかしい。普通なら、表面に、裏面もあわせて、内容を十分お読みください、と書くのが、普通の感覚ではないでしょうか。この売買契約書、自体が、おかしい。そして、契約の仕方もおかしい。これは、私の主観ですから、私が、おかしい、と思っているだけです。では、客観的に見て、おかしいか、まとも、か、警察署に行って、警察官に聞いて、警察官の判断を求めてみましょうか?」
と、彼は、一気に捲し立てた。
店長は、グウの根も出なかった。
「わかりました。では、納車後、返品サービスを行わせて、いただきます。それで、よろしいでしょうか?」
「ええ。そう、お願いします」
店長は、納車の合意書の用紙をテーブルの上に、差し出した。
彼は、それに、サインして、印を押した。
これで、70万のラバンは、彼の物になった。
「では、一応、ラバンが、届いていますので。ご覧になりますか?」
「ええ」
彼は店長と、ともに、立ち上がった。
そして、店を出た。
店の前には、グレーの、写真通りの、ラバンが、置いてあった。
店長は、ドアを開けて、車の内部を見せた。
フットブレーキまで、きれいに拭いて、ピカピカだった。
しかし、そのことは、ネットに書いてあって、知っていたので、驚かなかった。
ボンネットも、開けた。
きれいに、拭かれていて、しかも、見た目でも、エンジンだの、バッテリーだの、見える部品は、新しそうに見えた。
彼は、一瞬、このまま、買ってしまいたい、欲求が、起こった。
しかし、彼は、その気持ちを自制した。
そして、再び、店に入った。
店長も、それを、察してか、また、販売を促すような、態度になった。
そして説明しだした。
「保証期間は、半年です。フルサポートですので、六ヶ月までに、故障が起こったら、上限、20万円までは、無料で、修理いたします」
と、店長は、言った。
彼は、また、驚いた。
フルサポート、というのなら、上限など無いものだと思っていた。
「上限20万、という制約があるのですか?」
「ええ」
「それも、購入する時、聞きませんでした。し、書類のどこにも、書いてないじゃないですか」
「でも、エンジンの故障とか、高い修理でも、20万を越す修理というのは、まず、ありませんので・・・」
これで、彼のガルバーに対する、信頼は、完全に無くなった。
ディーラー系の中古車店で、保証といったら、普通、上限などなく、買い手の責任でなく、車が故障したのなら、修理費は、無制限である。
ともかく、ガルバーは、都合の悪いことは、説明しないで、契約が、成立した後、買い手が、質問すると、情報を小出しにしてくる。
「では、納車後、返品サービスをお願いします」
と、彼は言った。
「わかりました」
店長は、解約合意書をテーブルの上に置いた。
彼は、それに署名し、印鑑を押した。
「では、車両本体価格40万円の5%の手数料、2万円を引いた、68万円を、今週中に、振り込みさせていただきます」
と、店長が言った。
彼は、解約合意書を含めた、書類を、まとめて、袋に入れて、店を出た。
ガルバーは、中古車買い取り店として、始まって、今は、全国、450店舗もある。
テレビでCMもしている。
そして、買い取りだけでなく、中古車販売もするようになった。
しかし、大手だから、といって、信用できない、ということは、以前、協力出版という形で小説集を、出版した、文芸社の、悪質さ、から、知っていた。
大手新聞のほとんどに、デカデカと、広告を載せているから、信用できるように思いやすい。
しかし、莫大な、広告料を新聞社に払ってくれる、ありがたい広告主には、新聞は、その広告主の、悪口など、書かないものなのだ。
というか、書けないものだ。
つまり、新聞も、インチキである。
ガルバーの場合、コンビニや、マクドナルドなと、と同じ、フランチャイズ形式の会社であり、全国に450店舗あるが、本部(フランチャイザー)は、何も知らなく、全国の店舗では、大都市に近い所では、直営店と、地方では、ガルバーの、名前を借りた、加盟店(フランチャイジー)がある。
しかし、本部では、何も知らなく、加盟店が(直営店もだが)、勝手なことをしている、のである。
そして、売買の、売り上げの成績がいい所を本部は、喜んでいる。
しかし、本部は、個々の店舗の実態は知らない。
なので、販売方法が、おかしいと思ったら、本部に連絡すれば、本部は、客の苦情から、個々の店舗の事情を知る。
そして、本部は、その店舗に注意する。
本部からの、注意を、個々の店舗は、おそれているので、本部に、連絡すれば、まず、問題は、解決する、という、のが、実態なのだ。
要は、直営店であろうが、加盟店(フランチャイジー)であろうが、店長の性格が誠実であるか、どうか、にかかっているのだ。
彼は、「はあ。疲れた」と、呟いて、アパートに帰った。
そして寝た。
翌日になった。
二月に入って、車検切れ、まで、あと、10日となった。
また、ゼロから、中古車を探さなくてはならない。
面倒くさいな、と、彼は思った。
しかし、仕方がない。
しかし、ラバンを見たことで、彼は、ラバンを気に入ってしまった。
ラバンは、スズキ自動車なので、スズキのディーラー系の中古車店を彼は、ネットで、探した。
わりと、近くに、スズキの、ディーラー系の中古車店があった。
それで、行こうと出かけた。
しかし、国道467号線は、中古車通り、と、言われるくらい、道路の左右に、無数の中古車店があった。
中古車は、よく探せば、安くて、長持ちのする、いい車を見つけられることが出来る。
しかし、彼は、小説を書く毎日だったので、時間が惜しく、車探しに、時間をかけたくなかった。
国道467号線は、いくつもの、中古車屋が、たくさんすぎるほど、並んでいた。
なので、必然、運転しながら、左右の、中古車店を見ながら、走行した。
左右を、見ながら、走行するので、前を、見たら、赤信号で、前の車が止まっていた。
彼は、「あっ」と、言って、思わず、急ブレーキをかけた。
その日は、雨で、路面が濡れていた。
その上、彼の、車検切れまで、あと、10日の、日産マーチは、タイヤが、すり減って、ブレーキをかけても、スリップした。
あわや、というところで、彼の車は、前の車のギリギリ手前で、止まってくれた。
ほっと、安心した。
もう少しで、前の車に、ぶつかる、ところだった。
それで、彼は、その後は、注意しながら、走行した。
実は、彼は、以前から、小さくて、明らかに、軽自動車と思える、車が置いてある、ある個人の中古車店を、うらやましそうに、見て知っていた。
表示価格19万とある。
しかし、個人経営の中古車屋は、信用できない、と思いこんでいたので、個人経営の中古車屋で、買う気は、毛頭なかった。
とりあえず、気に入った、スズキのラバンが欲しいので、スズキのディーラーを探して、買うしかない、と思っていた。
ディーラー系の中古車店は、アフターサービスがいいからである。
そのぶん、値段が、高目だが、表示価格10万とかの、激安車は、諸経費が10万円、くらい、かかって、合計20万円くらいになり、1年、以内に、色々と、故障個所が出てきて、結局は、修理に次ぐ、修理となってまう。
なので、多少、高目でも、信頼できる、ディーラー系の中古車店の中古車を買った方が、いいと信じ込んでいた。
表示価格19万の軽自動車が、置いてある、中古車店は、売り場面積も小さく、店も小さい上、古く、汚く、とても信頼できそうもない、と思っていた。
しかし、彼は、買う気はないが、一応、聞くだけ、聞いてみようと思った。
なので、彼は、その中古車販売店に、入った。
表示価格19万の軽自動車を、見てみると、それは、驚いたことに、年式の古い、ラバンだった。
普通、中古車店に、車を入れると、お客さん、が来たことを知って、店の方から、人が出てくる、ものだが、誰も出てこない。
人が、いないのか、と思って、戸を開いた。
「こんにちはー」
と言って。
店の中も、汚く、車を修理する場のように、タイヤや、自動車の部品が、散らかっていた。
しかし、店の中には、小さなデスクがあり、不愛想な親爺が一人、座っていた。
「こんにちはー」
と、彼は、再度、挨拶した。
「はい」
親爺は、不愛想に、一言、返事した。
親爺は、彼を、訝しそうに、眺めた。
その店は、中古車の販売と、一緒に、買い取りもやっていた。
それは、店の看板に、「自動車、買い取り。販売」と、あったからだ。
彼は、他店で、査定0円、と評価された、車検切れ直前の、マーチを、売れるかどうか、試しに聞いてみた。
外観は、傷があるが、まだまだ、実感として、走れるのである。
走行距離も、6万5千080kmと、少ない。
それに、買った、購入時から、二回、車検を通していて、車検では、大体、10万円くらいかかる、が、車検を通す時に、古くなった、部品は、交換している。
だから、実感として、まだ走れるような気がするのである。
それに、車体に、大きな傷はあるが、オーディオとか、バッテリーとか、あらゆる部品を、ばらして、その部品に、価値は無いのか、とも思った。
実際、車検の時は、こまごました、部品を交換するが、その部品は、必ずしも、新品ではなく、中古ということもあり、ともかく、規格にあったもの、を、修理の時、修理工でも、探すから、車ごと、売れなくても、車をバラして、部品を、とっておく、ということは、しないのか、とも、思った。
実際、街を走っていても、旧型マーチは、まだ結構、見かける。
ああいう車は、車検を通す時に、部品交換が、必要になることも、あるだろう。
古い型の車の部品は、見つかりにくい、から、部品にも、価値はあるんではないだろうかと、彼は、思っていた。
それで、彼は、店の親爺に、
「あのマーチ、売りたいんですけど・・・」
と、聞いてみた。だが、
「ああ。うちは旧型マーチは、買わないよ」
の一言で、かたずけられてしまった。
しかし、それは、なかば、予想していたことであった。
以前、車買い取り店で、旧型マーチを、売ろうとしたら、即、断られてしまった、経験があるからだ。
彼は、車や、中古車業界、の事情には、全く、知識が無い。
少し、調べたところ、ただ、走れるから、という理由では、中古車買い取り店では、買わない。市場で、人気のある車、要するに、市場で売れている車、ということが、車の価値を決めている、ということなのだ。
彼の感覚からすると、新型マーチは、車幅が広くなってしまって、どう見ても、不恰好になってしまった、としか、見えなかった。
よく、あんな、不恰好な車に乗る気になるな、と新型マーチを買う人の気持ちが、彼には、全く、分からなかった。
新型マーチも、出で、かなりになるので、新型マーチの、中古車も、あって、そこそこの値段で売られているのだが、彼は、新型マーチの、あの外見の格好悪さ、から、あえて、旧型マーチを買ったのである。
なぜ、日産自動車は、バランスのとれた旧型マーチを、太らせて、不恰好に、モデルチェンジしてしまったのか、が、どう考えても、わからなかった。
ともかく、店の親爺に、買い取れない、と、言われ、中古車買い取り屋で、以前、査定してもらっても、値段がつかず、0円、だったので、もう、廃車とするしか、他に方法は、ない。
彼にしても、もともと、そう言われることは、覚悟してた。
試しに、聞いてみただけである。
彼は、気持ちを切り替えて、店頭に、置いてある、表示価格19万円の、ラバンについて、一応、聞いてみた。
「あの、店頭に置いてある、表示価格19万円の、ラバンについて、教えて下さい」
と彼は、聞いた。
「あれは、平成14年式。走行距離は、6万8千km。車検は2年つき」
と、親爺は言った。
「諸経費は、いくら、かかるんですか?」
彼は聞いた。
「諸経費は、10万円だよ」
と言って、親爺は、明細をコピーして、渡してくれた。
その内訳には、こう書かれてあった。
車両本体価格・・190000円
消費税・・15200円
登録料・・32400円
持ち込み料・・0円
車庫証明・・0円
行政書士料・・3780円
ナンバー代・・4140円
自動車税・・0円
自動車重量税・・8800円
自賠責保険・・27240円
リサイクル料金・・8980円
支払い総額・・290540円
「アフターサービスの保証は、つかないんですか?」
と、彼は聞いた。親爺は、すぐに、
「アフターサービスの保証はないよ。でも、最近の車は、しっかり出来ているから、まず、故障しないよ」
と言った。
彼は、アフターサービスの保証が、つかないことが、気にかかった。
しかし、中古車の保証は、半年か、長くても、一年くらいである。
保障をつければ、安心して乗れるが、考えてみれば、彼は、年間の走行距離が、5千km、と少ない。
保証を、つけると、聞くと、安心できるような、感覚になるが、半年の、保証期間に、故障が、起こらなければ、保証を、つけても、意味がない。
保証期間の半年を、過ぎてしまえば、中古車販売店は、あとは、もう天下御免で、ある。
半年の、保障期間を過ぎて、故障が、起こったら、後は、自腹で修理しなくてはならない。その場合は、半年の保証付き、で買っても、保証なし、で買っても、同じなのだ。
そして、彼は、年間の走行距離が、5千km、と少ない。
半年で、故障が、出でくる可能性は、少ない。
ならば、保証は、つけても、つけなくても、同じようなもの、とも言える。
むしろ、かえって、保障期間が、たった半年では、半年程度は、ギリギリ、もつような、適当な中古の、部品で、済ましている、ということだって、考えられる。
半年の、保証付き、というと、感覚的に、安心、という感覚になるが、よく考えてみれば、何とか、半年は、故障しない、安い部品で、出来ている、とも、考えられる。
しかし、車検2年つき、は、魅力だった。
親爺の、木訥な言い方、は、何か、誠実そうに見えた。
何より、押し売りしようと、しない、し、契約を、急かそうともしない点が信用できそうに見えた。
それで彼は、思わず、
「あなたは、何だか、誠実そうな感じがします」
と、言った。
その言葉に嬉しくなったのだろう。
親爺は、話し出した。
「私はね、ずっと。車の営業畑で、やってきたんだ。営業になると、どうしても、売り上げが、営業の人間の成績になってしまうんだ。だから、営業では、急かしたり、悪い点は言わないで、良いこと、ばかり言って、早く契約を、とりたがる傾向になってしまうんだ。しかし、そうすると、後で、お客さんと、トラブルに、なることも起こることも、あるからね。私は、良い点も、悪い点も、事実を述べる方針にしているんだ」
と、親爺は言った。
「そうですか。わかりました。では、ちょっと、考えてみます」
と、彼は言った。
「そう。じゃあ、買う気になったら、住民票と、印鑑証明を持ってきて下さい」
親爺が言った。
彼は、店を出た。

翌日になった。
彼は、昨日の、表示価格19万のラバンの置いてある、中古車店に、行ってみた。
買ってみようかという気持ちが少し、起こっていた。
「こんにちはー」
そう言って、彼は、店の戸を、ガラリと開けた。
昨日の、親爺は、いなかった。
代わりに、机に、きれいな女性が座っていた。
「いらっしゃいませー」
女は、満面の笑顔で、挨拶した。
「お車を、お探しでしょうか?」
女が聞いた。
「あの。昨日、来たんです。表に出ている、表示価格19万の、ラバンを買おうか、どうしようかと、迷っていて・・・。もう少し、話を聞きたいと思って・・・。昨日の、おやじさんは、いないんですか?あなたは、店員さんですか?」
彼は聞いた。
「あっ。そうでしたか。父は、今日、腰痛で、整形外科の治療の日でいません」
と、女が言った。
「では、あなたは、昨日の、おやじさんの、娘さんなんですね?」
彼が聞いた。
「え、ええ。そうです」
女が答えた。
「お父さんは、腰痛なんですか?」
彼が聞いた。
「え、ええ。父は、気丈夫なので、弱音は、決して、口にしない性格なんです。でも、父も歳ですし、坐骨神経痛で椎間板ヘルニアの手術も、したんです。幸い、坐骨神経痛の痛みは、無くなりましたが、今度は腰痛が出てきて、整形外科に通院しているんです」
と、女が言った。
「そうだったんですか。それは、大変ですね」
と、彼は、慰めた。
「あ、あの。お客様」
彼女は、おそるおそるの口調で口を開いた。
「はい。何でしょうか?」
「差し出がましいことを言って、恐縮ですが・・・。お車。どうか、買っていただけないでしょうか。お願いです」
そう言って、彼女は、深く頭を下げた。
なぜ、彼女が、そう懇願するのか、彼には、分からなかった。
「そうですね・・・。僕も、迷っているんです。ディーラー系の中古車店で、買えば、多少、高くても、一年間の、保証のアフターサービスがつきますが・・・。ここは、保証がつかないですから・・・」
と、彼は言った。
「あ、あの。お客様」
「はい。何ですか?」
「あ、あの・・・。一年間の・・・アフターサービスは・・・つけさせて頂きます」
彼女は、そうは言ったものの、なにか自信なさそうで、彼女の顔は、不安そうだった。
本当に、一年間の、アフターサービスが、つくのか、彼も不安になった。
しかし、彼女も、誠実そうで、ウソをつく人間には見えなかった。
なので、彼は決断した。
「そうですか。では、決めました。買います」
彼は、彼女を信じて、そう言った。
「ありがとうございます」
彼女は、嬉しそうな顔で、ペコリと頭を下げた。
彼女は、彼に名刺を渡した。
「松本中古車店。松本美奈子」、と書いてあり、固定電話と、携帯電話の、電話番号が、書かれてあった。
「では、住民票と、印鑑証明を持ってきます。それと、これから、すぐに指定口座に29万円、振り込みます」
そう言って、彼は、店を出た。
そして、彼は、そのまま、銀行に行って、店の指定口座に、29万円、振り込んだ。
そして、市役所に行って、住民票と、印鑑証明をとって、店に行った。
「住民票と、印鑑証明をもってきました。それと、29万円も、振り込みました」
そう言って、彼は、住民票と、印鑑証明と、29万円の、振り込み領収書を渡した。
「ありがとうございます。では、さっそく、手続きさせていただきます」
彼女は、嬉しそうに言った。
マーチの車検切れまで、あと、10日である。
大丈夫かな、間に合うかな、と、彼は心配になった。
しかし、もう決めてしまったのだから、仕方がない。
彼は、気持ちを切り替えて、中断していた、小説創作に取り組んだ。

一週間後、店から、彼の携帯に電話がかかってきた。
「お客様。お車の整備と、手続きが、完了して、車が届きました」
彼女の声だった。
「わかりました。では、すぐに、とりに行きます」
車検切れ前に、納車できて、彼はほっとした。
彼は、急いで、店に行った。
ラバンには、軽自動車の、黄色のナンバープレートがつけられてあった。
女が笑顔で店から出てきた。
「いやー。車検切れまで、あと、三日ですので、間に合うか心配だったんですよ。早く手続きしてくれて、どうもありがとうございます」
「いえ」
と、彼女は、照れくさそうな顔をした。
「では、このマーチは、廃車にして下さい」
「はい。わかりました」
「これが、車検証と、自賠責保険です」
と、彼女は言って、車検証と、自賠責保険を彼に渡した。
「色々と、ありがとうございました」
そう言って、彼は、ラバンに乗り込んだ。
彼は、エンジンを駆け、ギアをD(ドライブ)に入れた。
そして、左のウィンカーを点滅させた。
彼女は、急いで、店の前の、歩道に出た。
そして、右を見て、右からの、車が無いことを確かめると、「どうぞ」、と手で合図した。
彼は、店から出て、左折して、大通りの国道467号線に出た。
「お気をつけて」
彼女は、嬉しそうに言って、いつまでも、深く頭を下げていた。
彼は、軽自動車を買うのは、初めてだった。
しかし、彼は、ずっと、以前に、レンタカーで、軽自動車を借りて、運転したことがあったので、軽自動車も、1200ccの自動車と、たいして変わりない、ことは、知っていた。
もちろん、やはり、軽自動車になると、エンジンの排気量が、660ccになるから、加速は、少し遅めになる。
しかし、軽自動車は、小回りが効くので、ハンドル操作が楽になった。
彼は、車の運転は、せっかちな所があり、旧型マーチでは、どうしても、スピードを出してしまいやすかった。
しかし、軽自動車は、あまり、スピードが出ないので、安全運転のためにも、良かった。
車幅も、狭いので、車庫入れ、や、駐車も、隣りの車に、気を使わないで、出来るようになった。
そもそも、彼は、自動車は、買い物や、市の体育館など、ほとんど市内での、日用の雑用でしか、乗らない。高速道路を走ることも、ほとんどない。
年間の、走行距離は、5千km、くらいしかなかった。
なので、彼は、あらゆる点で、軽自動車にして良かった、と、感じた。
そんなことで、快適な毎日が過ぎて行った。
しかしである。
中古車を購入して、三週間した、ある日のことである。
彼は、週に、二回は、二時間くらい、市の体育館のトレーニング・ルームで、筋トレや、ランニングをしていたのだが、その日、二時間のトレーニングが、終わって、アパートに帰ろうと車に乗ったら、エンジンは、かかるが、ギアが入らなくなってしまった、のである。
彼は、焦った。
何回か、入れようとしてみたが、どうしても、ギアが入らない。
仕方がないので、彼は、あきらめて、JAFに電話した。
「もしもし。神奈川JAFですか?」
「はい。そうです。どうなされました?」
「ギアが入らないんです」
「そうですか。今、どちらに、いらっしゃいますか?」
「××体育館の駐車場です」
「お車は、何ですか?それと、車のナンバーは?」
「車は青いラバンです。車のナンバーは、湘南あ、の、1234です」
「わかりました。すぐに、行きます」
中古車店の親爺は、誠実な人だが、営業畑で整備には、詳しくないのだから、仕方ないな、と彼は思った。
20分くらいして、JAFの、車が来た。
JAFの人は、車の、メンテナンスの知識がある。
「ちょっと、拝見させて下さい」
そう言って、JAFの人は、ラバンに乗って、エンジンを駆け、ギアを、色々と、調べた。
そして、車から、出た。
「そうですね。応急処置として、一応、今は、ギアが入れられるようにしました。しかし、このまま、乗り続けることは、出来ません。これは、ミッション全部、交換しか、ないですね」
そう、JAFの人は言った。
「ミッション交換だと、いくらくらい、かかりますか?」
「そうですね。ミッション、交換となると、かなりの額、かかりますね」
「どのくらい、かかりますか?」
「まあ。一概には、言えませんが、結構かかりますね」
JAFの人は、発言することによって生じる説明責任を避けるためか、大まかな金額も、具体的には、言わなかった。
「そうですか。わかりました。どうもありがとうございました」
彼は、ラバンに乗って、アパートに向かった。
JAFの車も、途中で、故障が、起こらないように、彼のアパートまで、ついて来てくれた。
無事に、アパートに、辿り着いた。
「ありがとうごさいました」
「いえ。お気をつけて下さい。出来るだけ早く修理した方がいいですよ」
そう言って、JAFの人は、去って行った。
翌日になった。
彼は、中古車店に、車で行こうと、思ったが、ギアを入れようとしてみたら、入らなかった。
これはもう、ミッション交換しか、方法が無いのだろうと、彼は、素人ながら思った。
それで、彼は、自転車で、中古車店に、行った。
「こんにちはー」
店に着くと、彼は、店の戸を開けた。
「あっ。宮田さん。いらっしゃいませー。ラバンの調子は、どうですか?」
彼女は、嬉しそうな顔つきで聞いた。
どうですか、と、質問の形で聞いたが、彼女は、ラバンの調子は、良いと思っているのだろう。
それを思うと、そして、彼女の笑顔を見ていると、宮田は、言いづらい気持ちになった。
彼女が、困る顔を彼は、見たくなかったからである。
しかし、やはり、言わないでいるわけには、いかない。
彼は、ちょっと、ためらったが、口を開いた。
「実は。ちょっと、あまり、言いたくないことなんですが、言います。昨日、ミッションが故障してしまったんです。それで、JAFの人に、来てもらったんです。そしたら、ミッションを交換しなければ、ならない、と言ったんです。昨日は、JAFの人の、応急手当で、戻って来れましたが、今日も、ギアが入らないんです。ミッション交換は、いくらくらいするのかと、ネットで検索してみましたが、かなりの値段です。言いにくいんですが、一年の、アフターサービスつき、ということで、買ったので、修理していただけないでしょうか?」
と、彼は、聞いた。
すると、彼女の顔が、一気に、青ざめた。
「そうでしたか。まことに申し訳ありません。何と、謝ったら、いいか・・・。申し訳ありませんでした」
彼女は、ペコペコと何度も、頭を下げた。
「いえ。そんなに、謝る必要はありませんよ。これは、事務的なことですから。買って、まだ、三週間ですから、アフターサービスを、していただければ、私としては、何も言う気は、ありません」
と、彼は、言った。
「わかりました。では。アフターサービスについて、ちょっと、おりいった、お話を、したいので、家に上がっていただけないでしょうか?」
と、彼女は、言った。
彼は、首を傾げた。
アフターサービスは、単に、事務的なことなのに、なんで、おりいった話をしたり、家に入らなくてはならないのだろうか、と彼は疑問に思った。
しかし、ともかく、彼女の言うことを、聞いて、彼は、店に、つながっている、家に入った。
通された部屋は、六畳の畳の部屋だった。
「ちょっと、お待ち下さい」
そう言って、彼女は、奥に行った。
彼は、立ったまま、彼女を待った。
すぐに、彼女は、お茶を持ってきた。
「どうぞ、お座り下さい」
彼女に言われて、彼は、畳の上に、座った。
「粗茶ですが、よろしかったら、どうぞ、お飲み下さい」
そう言って、彼女は、お茶の入った湯呑みを差し出した。
彼は、湯呑みを、受けとって、ズズズーと飲んだ。
「この度は、まことに申し訳ありませんでした」
彼女は、そう言って、両手をついて、土下座のように、頭を、畳に擦りつけるように、して、謝った。
「いえ。そんなに、謝る必要は、ありませんよ。中古車ですから、故障することは、結構、あることです。これは、単なる事務的な質問です。私は、アフターサービスについて、聞きたいだけです」
と、彼は淡々と言った。
「アフターサービスに、ついて、ですね。は、はい。わかりました」
単なる事務的なことなのに、彼女は、深刻な顔つきだった。

彼には、どういうことなのか、さっぱり、わからなかった。
彼女は、ついと、立ち上がった。
そして、彼女は、いきなり、着ていた、ブラウスを脱ぎ、そして、スカートも、脱いだ。
彼は、びっくりした。
驚きのあまり、声が出なかった。
彼女は、ブラジャーと、パンティーだけになった。
そして、腰を降ろして、畳の上に、仰向けに寝た。
「あ、あの。お客様。アフターサービスについて、ですが。たいへん、申し訳ないのですが、お金が無いのです。許して下さい。ですから、私を、なんなりと、お客様が、満足いくまで、何でも、好きになさって下さい。これが、私の、アフターサービスです」
彼女は、目をつぶって、そう言った。
彼女の体は、プルプル震えていた。
彼は、途方に暮れて、しばし、目の前で、ブラジャーと、パンティーだけで、脚をピッチリ閉じて、体を震わせている、彼女を、首を傾げて見ていた。
「あ、あの。お客様。こんな、アフターサービスでは、駄目でしょうか?」
彼女は、声を震わせながら、聞いた。
「美奈子さん。そういうことでは、ないのです。ともかく、起きて、服を着て下さい」
そう言って、彼は、彼女を起こした。
「さあ。ともかく、服を着て下さい」
彼は、催促するように言った。
だが、そう彼が、言っても、彼女は、ためらっている。
なので、彼は、彼女を起こし、彼女に、スカートを履かせ、ブラウスも着せた。
彼女は、それには、抵抗しようと、しなかった。
彼女が、服を着ているので、彼は、ほっと、一安心した。
「あなたは、真面目そうな人間に見えます。何か、事情がありそうですね。よろしかったら、話してもらえませんか?」
彼が聞いた。
情にほだされたのか、彼女は、話し出した。
「あ、あの。実は。父には、ガンがあるのです。半年前に、頭痛と、吐き気、を訴えるようになったのです。父は、医者には、かかりたくない、と言ったのですが、私が、強引に、近くの市立病院に連れて行きました。病院では、脳のMRIを、撮ってくれました。その結果。お医者さまの、話では、脳幹という、極めて手術しにくい所にあるガンなのだそうです。私は多くの、脳外科医の先生に、手術を頼みました。しかし、成功する確率は、極めて低く、成功率は、良くて10%らしいんです。むしろ、手術をすれば、死ぬ確率の方が、圧倒的に高い、と言うのです。それで、どの先生も、手術を引き受けてくれません。私は、全国の病院を探し回りました。そうしたら、かろうじて、福島孝徳先生という、自称、天才脳外科医の先生が、引き受けてくださいました。しかし、福島孝徳先生は、ブラックジャックのように、手術料として、一億円、払って欲しい、と言ったのです。私の母は、私が、幼い頃、死んで、父は、男手一つで、私を育てて、くれたんです。私にとっては、かけがえのない父です。ですから、何としても、一億円、貯めたいんです」
彼女は、切々と語った。
「なるほど。そうだったんですか。そんな事情があったんですか」
彼は、納得した。
「それで、お父さんは、今、どうしているんですか?」
彼は聞いた。
「父は、脳幹部海綿状血管腫、というガン、だそうで、一週間前から、呼吸が困難になり、手足も、思うように動かなくなってきたので、一週間前から、福島孝記念病院に、緊急入院したんです」
「そうだったんですか」
彼は、しばし、腕組みして、考え込んだ。
そして、決断した。
「美奈子さん。一億円など、このような、規模の小さい、中古車店では、貯めるのに、十年以上、かかってしまいます。その間に、お父さんは、死んでしまうかも、しれない。それに、あなたの、健気な心は、立派ですが、そんなことをしていることを、お父さんが知ったら、悲しみますよ」
と、彼は言った。
「でも、他に、方法が無いんです」
と、彼女は、目に涙を浮かべながら言った。
彼は、しばし、腕組みしながら考えて込んだが、よし、と、決断した。
「美奈子さん。僕は、一介の小説家です。収入も、微々たるものです。しかし、僕は、5年前まで、医者をやっていました。内科医でした。しかし、僕は、凝り性な性格で、卒後の、二年間の、研修の時には、脳外科の手術も、手伝ったことがあります。医師免許を持っていれば、法的には、経験が無くても、何科をやっても、どんな医療行為をやっても、いいのです。僕が、今から、必死で、脳外科の医局に入って、脳手術の技術を身につけます。そして、どんな腕のいい脳外科医でも、手術をためらって、やらない、というのなら、僕が執刀します。それでも、いいですか?」
と、彼は聞いた。
「本当ですか。そんなことを、して下さるのなら、感謝しきれません」
と、彼女は、言った。
「しかし、腕のいい、ベテランの脳外科医でも、成功率は、10%以下、というのなら、脳外科の素人の僕では、成功率は、もっと低くなり、1%以下になってしまうかも、しれません。それでも、いいですか?」
彼は聞いた。
「先生に、お任せします。先生が手術して下さるのなら、手術が、失敗しても、感謝こそすれ、恨んだり、不服を言ったりは、決してしません」
彼女は、強い口調で言った。
その時、美奈子の携帯電話がピピピッとなった。
「はい。松本美奈子です」
「もしもし。松本美奈子さんですか。こちらは、福島孝徳記念病院です。たった今、お父さんの容態が急変しました。MRIをとったところ、脳幹に出来ている海綿状血管腫が、出血を起こして、突然、脳浮腫を起こしました。今、ステロイドと、グリセロールという薬で、処置していますが、脳圧が、下がりません。危篤状態です。どうしても、やらなければならない重要な用事が、ないのなら、いや、あっても、ぜひとも、病院に来て下さい」
「わかりました。すぐ行きます」
そう言って、美奈子は、携帯を切った。
「宮田さん。父が危篤なので、今から、福島孝徳記念病院に行きます」
「僕も行きます。いいでしょうか?」
「助かります。お願いします」
そう言って、美奈子は、日産キューブに乗った。
宮田も、助手席に乗った。
美奈子は、急いで、キューブのエンジンを駆けた。
そして、国道に出た。
焦っているため、つい、スピードが、速くなってしまう。
しかし、運の悪いことに、ちょうど、渋滞の時間だった。
これでは、彼女は、もしかすると、親の死に目に会えないかもしれない。
「美奈子さん」
「はい。何でしょうか?」
「次の信号を右に曲がって下さい。僕のアパートがあります」
「どうして、宮田さんの、アパートに行くのですか?」
「この渋滞では、いつ、病院につくか、わかりません。僕は、オートバイが好きで、ホンダのCB750を持っています。ナナハンなら、車より、加速がいいですし、オートバイなら車の脇をすり抜けて行けます」
「そうだったんですか。では、お願いします」
こうして、次の信号で、美奈子は、右折した。
彼のアパートは、右折して、直ぐにあった。
「あれが、僕のアパートです」
と、宮田が指差した。
美奈子は、アパートの前で、車を止めた。
駐車場には、大きな、ホンダCB750が置いてあった。
彼は、車を出た。
そして、フルフェイスのヘルメットを被った。
そして、オートバイに跨った。
「さあ。美奈子さん。ヘルメットを被って下さい」
そう言って、彼は、彼女に、フルフェイスのヘルメットを渡した。
彼女は、フルフェイスのヘルメットを被った。
「さあ。後ろに乗って下さい」
宮田が言った。
言われて、彼女は、宮田の後ろに乗った。
「しっかり、つかまっていて下さい。飛ばしますから」
「ええ」
彼女は、宮田の後ろに、跨り、体を彼にピッタリくっつけ、両手を、前に回して、両手をギュッと、握り締めた。
「僕は、病院までの、道は、わかりません。ですから、右折とか、左折とか、美奈子さんが、カーナビになって、僕に、教えて下さい」
「はい」
と、美奈子は、答えた。
宮田は、スターターを始動させた。
バルルルルッと、750ccのエンジンが、重厚な、唸り声を上げた。
「では、行きます」
そう言って、彼のオートバイは、走り出した。
国道467号線は、渋滞だったが、彼は、歩道と車の間の路肩を、スイスイ抜いていった。
オートバイは、こういう時、有利だった。
渋滞が、抜けると、彼は、思いっきり、スロットルを全開にした。
美奈子は、彼に、言われたように、交差点や、信号機のある交差点に、近づくと、「次は右」、とか、「次は左」、とか、彼に言った。
黄色信号から、赤信号に変わりかけ、の時には、止まらなかった。
止まっているひまは、無かった。
ようやく、福島孝徳記念病院に着いた。
彼は、オートバイを止めた。
二人は、急いで、病院に入った。
受け付けは、美奈子の、顔パスで、通った。
「松本美奈子さん。早く行ってあげて下さい。お父さんが重態です」
と、受け付けの事務員が言った。
病室には、「面会謝絶」と書かれた札が、かかっていた。
「松本美奈子さん。ずいぶん早かったですね。待っていました。すぐに、お父さんに会って下さい」
看護師が、待っていて、言った。
「はい」
宮田も、病室に入ろうとした。
「あなたは、誰ですか?」
看護師が聞いた。
「彼女と、親しい者です」
と、宮田は言った。
「お願いです。彼も、父との面会を許可して下さい。彼も、お医者さんなんです」
と、美奈子が、言った。
「そうですか。わかりまた」
と、看護師は言った。

病室では、白衣を着た、三人の医師が、患者を取り囲んでいた。
患者は、気管切開して、酸素ボンベのチューブで酸素を送っている状態だった。
「美奈子さん。言いにくいですが、お父さんの容態は、悪いです。脳圧は、少し、下がりました。しかし、今度、出血したら、命が無いかもしれません」
と、医師の一人が言った。
「おとうさん」
と、美奈子は、泣きながら、父親に飛びついた。
「あなたは誰ですか?」
と、別の医師が宮田に聞いた。
「私の友人です。お医者さんです」
と、美奈子が答えた。
「どうして手術しないのですか。ここは、福島孝徳先生の病院でしょう?」
宮田が聞いた。
「この患者は、脳幹の、ど真ん中に出来た、巨大海綿状血管腫です。福島先生でも、この患者は、手術したら、失敗する可能性90%だから、しない方針にしているのです。今、福島先生は、アメリカのデューク大学に居ます」
と、医師は言った。
「これが、MRI画像です」
と言って、脳のMRI画像を、見せた。
脳幹の、ど真ん中に、直径5cmほどの、大きな腫瘍があった。
「福島孝徳先生だって、神様じゃないんだ。You-Tubeとか、テレビでは、成功例だけを、華々しく放送しているけれど、失敗した例だって、かなりあるんです」
と、別の医師が言った。
「そんなことは、大方、予想していましたよ。しかし、90%、不可能、というのなら、10%、は、成功する確率があるって、ことじゃないですか。何で、あなた方は手術しないんですか?」
彼は、医師たちに、向かって、訴えた。
「我々の技術は、残念ながら、福島先生より、はるかに劣ります。我々が、手術したら、まず脳幹を傷つけてしまいます。そうしたら今より、もっと、症状が、悪化して、様々な麻痺が出るか、あるいは、下手をすれば、死にます。そんなことは、患者にとって、可哀想じゃないですか。しかし、手術しないで、懸命に、ターミナルケアに徹すれば、あと、一ヶ月は、生きられるでしょう。ならば、その方を選ぶのが、患者のためなのは、当然じゃないですか?」
と、一人の医師が言った。
「そうですか。では。あなた方に聞きたい。もし、あなた方が、この患者の立ち場だったとしたら、どうしますか。たった一ヶ月間、こんな何も出来ない状態で、生き延びて、そして、むざむざ、死んでいく方を選ぶのですか。その方が、嬉しいんですか。手術すれば、成功する可能性が、ゼロではないというのに」
そう言っても、どの医師も、黙っていた。
彼は、さらに続けて言った。
「あなた方は、さかんに患者のため、と言っているが・・・。本当の理由は・・・。自分の、脳外科医としての、経歴に、失敗して、患者を死なせた、手術症例を、一症例でも、増やしたくない、というのが、本音なんじゃないですか?」
うぐっ、と、医師たちは、黙ってしまった。
その時、彼に、とんでもない、考えが、起こった。
彼は、それを、堂々と言った。
「では、僕が手術します。それなら、いいですか?」
途端に、医師たちが、一斉に、目を大きく見開いて彼を見た。
医師たちは、途端に態度を変えた。
「あなたは、医者というが、脳外科も出来るのですか?」
「脳外科の経験は、何年ですか?」
「脳腫瘍の摘出手術は、何症例したことがありますか?」
次々と質問が飛んできた。
「僕は、五年前まで、内科医でした。脳外科の手術は、研修医の時に、三回だけ、ベテランの執刀医の横で、手伝いをしただけです」
「バカげたことだ。そんなのは、キチガイ沙汰だ。そんな程度の経験では、やる前から、完全に、失敗するとわかりきった手術じゃないか」
医師が、怒鳴りつけた。
「そうでしょうね。脳外科の素人の僕が手術したら、まず、間違いなく、失敗するでしょう。成功する確率なんて、1%、以下でしょう。福島先生が、やっても、成功する確率は、10%だ。ド素人の僕がやれば、成功する確率は、もっと低くなり、1%以下でしょう。しかし、1%以下でも、可能性が0でないのなら、僕は挑戦する。僕は、何事でも、今まで、そういう信念で生きてきました」
その時である。
美奈子の父親が、近くにいた、美奈子のスカートを、引っ張った。
美奈子は、振り返って、ベッドに寝ている父親を見た。
美奈子の父親が、苦しそうな表情で、さかんに口をパクパク、動かしていた。
呼吸が出来ず、気管切開していて、気管切開した、咽喉から、酸素を送っている状態だった。
「お父さん。何か言いたいの?」
美奈子が、五十音図の、ひらがなの文字盤を、父親の前に立てた。
「父は、四肢不全麻痺で、言葉も出ませんが、かろうじて、右手だけは、動かせるので、五十音図の、ひらがなの文字盤で、意志を伝えているのです」
と、美奈子が宮田に説明した。
患者は、手を震わせながら、ゆっくりと、右手を持ち上げた。
そして、五十音図の、ひらがなの文字盤を、ゆっくりと、指を震わせながら、一文字、一文字、指さし出した。
ちょうど、ワープロのように、ある文字を指差すと、次は、別の文字を指差していった。
それが、つながって短い文章になった。
美奈子は、患者が、指差した、文字を、確認するように、大きな声で言った。

「み」「や」「た」「せ」「ん」「せ」「い」「し」「ゅ」「じ」「ゅ」「つ」「し」「て」「く」「だ」「さ」「い」
美奈子は、そう言うと、振り返って、宮田や、医師たちを見た。
「先生。お願いです。手術して下さい。父は、手術を望んでいます」
美奈子は、三人の、脳外科医たちに、訴えた。
「し、しかし・・・みすみす失敗して、患者を死なせる手術というは・・・」
医師たちは、ためらっていた。
すると、また、患者は、美奈子のスカートを、引っ張った。
「お父さん。何か言いたいの?」
美奈子が、また、五十音図の、ひらがなの文字盤を、父親の前に立てた。
患者は、また、ゆっくりと、右手を持ち上げた。
そして、また、五十音図の、ひらがなの文字盤を、ゆっくりと、指を震わせながら、一文字、一文字、指さし出した。
美奈子は、また、同じように、患者が、指差した、文字を、確認するように、大きな声で言った。
「ど」「う」「せ」「し」「ぬ」「の」「な」「ら」「や」「さ」「し」「い」「み」「や」「た」「せ」「ん」「せ」「い」「に」「し」「ゅ」「じ」「ゅ」「つ」「し」「て」「ほ」「し」「い」
そう、大きな声で美奈子は、言った。
美奈子は、振り返った。
「患者は、脳外科の素人の僕の手術を、望んでいます。その意思表示が確認されました。私が、執刀しても、いいですね?」
彼は、三人の、脳外科医に聞いた。
「わかりました。患者の希望です。先生が手術して下さい」
医師の一人が言った。
すぐに、患者は、二人の看護婦によって、手術室に送られた。
彼は、手術室に向かった。
「僕は、脳外科の素人です。どうか、先生たちも、協力して下さい」
そう、彼は、三人の脳外科医に訴えた。
了解したのか、三人の医師たちは、手術室について行った。
青い手術服に着替え、手を消毒した。
頭は、紙のキャップで、覆い、そしてマスクをした。
そして、看護婦に手術用の手袋をはめてもらった。
人間の皮膚は、目に見えない、無数の好気性の在住菌が付着しているので、その侵入を出来る限り、防ぐためである。
三人の脳外科のドクターも、手術服に着替えていた。
「では、脳幹部海綿状血管腫の摘出手術を行います」
そう宮田は、言った。
「バカげたことだ」
「わざわざ、患者を殺す手術だ」
「医師といっても、脳外科の素人が、こともあろうに、脳幹の巨大腫瘍の摘出手術をするなんて・・・」
医師たちが、ボソッと、そう呟いた。
彼は、福島孝徳先生の手術方法は、福島孝徳先生の、You-Tubeや、ホームページ、書籍などを、ほとんど、読んでいたので、知識としては、頭では、知っていた。
彼は、顕微鏡を見ながら、耳の後ろに、福島式鍵穴手術の、小さな穴を開けた。
そして、硬膜を切開した。
脳の内部が見えてきた。
(少しでも、神経や血管を傷つけたら、患者は死ぬぞ)
彼は、そう自分に言い聞かせた。
彼は、バイポーラ―を使って、脳幹に迫って行った。
何か、神経のようなものが見えてきた。
脳12神経の一つであることには、間違いはない。
(これは、一体、何神経だろう?)
医者とはいえ、脳外科の素人の彼には、さっぱり、わからなかった。
「先生。これは、何の神経ですか?」
彼は、モニター画像を見ている、脳外科医たちに、聞いた。
だが、教えてくれなかった。
その神経の上にも、また、別の神経が出てきた。
(あっ。さっきのは、副神経で、これは、迷走神経だ)
この時、信じられないことが、起こった。
大学三年の時の、解剖学実習の脳の解剖の時の光景が、彼の脳裡に、ありありと明瞭に、思い出されてきたのである。そして、分厚い解剖学の教科書の、脳の1ページ1ページも、すべて明瞭に。
(これが橋で、ここが、中脳水道だ)
解剖学実習の時は、解剖学の単位を取るために、しっかり勉強して、脳の構造や、神経、血管を、必死で覚えた。
しかし、人間の記憶力というものは、使わないでいると、大まかなことは、覚えていても、細かいことは、忘れていくものである。
しかし、その時の、光景が、なぜか、明瞭に蘇ってきたのである。
これは、彼にとって、非常に、不思議なことだった。
さらに、バイポーラ―で、脳の中を、進めて行くと、茶色く変色した、汚い塊が、出てきた。
「これだ。これが、腫瘍だ」
彼は、大声で言った。
「そうですよね。先生」
彼は、モニター画像を見ていた、三人の、脳外科医に聞いた。
「ああ。そうだね」
医師たちが言った。
彼は、You-Tubeで、見た、福島孝徳先生の、やり方、のように、巨大腫瘍を、少しずつ、慎重に、切っては、とっていった。
彼は、一年に、数回は、ビーフステーキを食べることがあったが、肉でない、脂身は、きれいに、ナイフで、切り取っていた。
その脂身の、剥し方は、ほとんど、数ミクロンという単位で、ほとんど神業だった。
しかしである。
腫瘍の一部が、脳の太い血管に、べったりと、癒着していた。
(これは、剥して大丈夫だろうか、出血しないだろうか)
彼は、迷った。
手術を開始して、かなりの時間が経っていた。
彼の額は、汗でダラダラだった。
看護婦が、彼の額の汗を拭いてくれた。
「先生たち。教えて下さい。これは、剥さない方がいいのですか?」
彼は大声で聞いた。
「その判断は、我々にも出来ない」
一人の脳外科医が言った。
(困ったな)
彼は、立ち往生してしまった。
彼は、剥すべきか、剥さないべきか、考え込んでしまった。
その時である。
(剥しなさい)
そういう声が、どこから、ともなく、聞こえてきた。
彼は、三人の、脳外科医を見た。
「今、先生方のうち、誰か、剥しなさい、と、言いましたか?」
彼は、モニター画像を見ている三人の脳外科医に聞いた。
「いや。そんなこと、誰も言っていないよ」
と、医師たちは、言った。
(剥しなさい。大丈夫です)
再び、声が聞こえてきた。
幻聴だろうか、と、彼は思った。
(剥しなさい。大丈夫です)
幻聴は、何度も聞こえて、止まらない。
これは、神の声だろうか、などと、彼は、疑ったが、彼は、いかなる宗教も信じていない無神論者だった。
なので、こんなのは、神の声なんかでは、なく、神経が疲れたための、錯覚だろうと思った。
(剥しなさい。大丈夫です)
しかし幻聴は、何度も聞こえて、止まらない。
ちょうど、統合失調患者が幻聴には、打ち勝てない、で行動してしまうように、彼の手は、その幻聴に負けて、剥しにかかっていた。
すると、血管に、べったりと、こびりついていた、腫瘍が、スーと、剥がれていった。
彼の手は、彼の意志とは関係なく、勝手に動いている、といった感じだった。
彼は、まるで、奇跡を見ている思いだった。
彼は、ほっとしたが、まだまだ、腫瘍は、残っている。
彼は、また、慎重に、腫瘍を、小さく、切っては、とっていった。
些細な、一本の神経、一本の血管でも、傷つけることは、出来ない。
それは、死に直結する。
脳は、外側の大脳皮質は、代償機能があるので、一部、傷ついても、左脳の傷なら、右脳が、代償し、リハビリによって訓練すると、かなり、傷ついた直後の麻痺や、体の機能障害は、回復する、ことがある。
しかし、脳幹は、脳の、ど真ん中にあり、その外側の、大脳皮質と、神経で、連絡をとっていて、さらに、脳12神経が、入り込んでいて、呼吸など、生命維持の、ほとんどの、中枢が集まっている部位なのである。
脳幹は、下方へは、太い脊髄神経へと、そのまま、移行する。
そして、脳幹の機能不全が、脳死、であり、もはや、死んだ状態となる。
彼が、さらに、慎重に腫瘍をとっていった時である。
信じられないことが起こり出した。
ある腫瘍の塊を、そっと、引っ張った時である。
すーっと、腫瘍の大きな塊が、きれいに、剥がれていったのである。
それは、まるで、幼稚園の時やった、いも掘りで、さつまいも、の見えている、小さな頭の部分を、軽く引っ張ったら、さつまいも全部が、するっと、とれたのと同じような感覚だった。
「おおっ」
手術野の、モニター画像を見ていた、三人のドクターは、思わず、感嘆の声を出した。
しかも、幸い、どこの血管も傷つけてないらしく、出血は、全く起こらなかった。
彼は、バイポーラ―で、とれた腫瘍の奥を探ってみた。
もう、腫瘍は、無かった。
彼は、もう、クタクタに疲れていた。
「腫瘍は、とれました。あとの処置は、お願いします」
そう言って、彼は、椅子から立ち上がった。
「わかりました。後の処置は、やります」
モニター画像を見ていた、脳外科の医師たちが、彼に代わって、手術椅子に座った。
あとは、硬膜の処置と、手術の初めに、くり抜いた、小さな、頭蓋骨を、元通りに、はめて、縫合するだけである。
彼は、手術室から出た。
「先生。どうでしたか。父は。手術は?」
美奈子が、駆け寄ってきて聞いた。
「腫瘍はとれました。出血もありませんでした。しかし、結果は、どうなるか、僕には、わかりません」
「ありがとうございます。先生」
そう言って、美奈子は、彼の手を握って、ドドドドーと涙を流した。
「待って下さい。成功したか、どうかは、まだ、わかりませんので」
彼は、手術の結果が、まだ、わからないので、美奈子の先走りの、感謝を制した。
もう、夜の12時を過ぎて、午前2時になっていた。
7時間の手術だった。
その時、手術室に点灯していた、「手術中」の赤ランプが、消えた。
看護師、二人によって、患者が、点滴されたまま、ストレッチャーに乗せられて、出てきた。
「お父さん」
そう言って、美奈子は、父親に駆け寄った。
しかし、全身麻酔をしているので、意識はない。
患者は、元通り、個室のベッドに、点滴と、気管切開の管をつけた、状態で、戻された。
「先生。どうですか。患者は?」
宮田が三人の脳外科医に聞いた。
「対光反射、その他の、生命反射は、あります。しかし、成功したかどうか、麻痺や、機能不全が回復するかどうかは、麻酔が切れてからでないと、何とも、言えません」
脳外科医が言った。
「では、僕は、家に帰ります。美奈子さんは、このまま病院に残りますか。どうしますか?」
宮田が聞いた。
「先生。オートバイで、ですか?」
「ええ」
「精神的にも肉体的にも、疲れ切った状態で、大きなオートバイを運転するのは、危険です。タクシーを呼びます」
そう言って、美奈子は、スマートフォンで、タクシーを呼んだ。
すぐに、タクシーが来た。
「では、僕は、家に帰ります。美奈子さんは、どうますか?」
彼が聞いた。
「一人で乗っても、二人で乗っても、タクシーの料金は、同じです。私としては、もう少し、父に着いていたいのですが。麻酔が切れて、結果を待つだけなら、病院に居ても仕方ありません。私も、眠いので、一緒に乗せて下さい」
そう言って、美奈子もタクシーに乗り込んだ。
タクシーは、夜中の高速を飛ばした。

数日後。
美奈子は、病院に言った。
彼も、オートバイをとりに、病院に行った。
手術の経過は順調だった。
MRI画像でも、きれいに、腫瘍が無くなっていた。
脳幹を圧迫していた、巨大腫瘍がとれたので、脳幹の呼吸などの生命中枢が、回復して、自発呼吸が出来るようになり、咽喉に開けられていた気管切開は、閉じられていた。
手足も動かせるようになっていた。
「先生。手術は、奇跡的な成功です。しかし、脳外科医でない、元内科医の医師に、手術をさせた、ということが、マスコミに知られたら、病院の責任問題になります。病院の評判にも影響が出てしまいます。ここは、どうか、我々が手術した、ということに、していただけないでしょうか?」
そう、脳外科医たちは、彼に頼んだ。
「ええ。構いません。手術が成功したのは、僕の実力なんかではなく、単なる、まぐれ、ですから」
こうして、福島孝徳記念病院、および、そこの脳外科医たちは、マスコミの注目の的になった。
美奈子の父親は、リハビリの後、退院した。
「四肢不全麻痺、の、寝たきり、気管切開からの、通常の生活への、奇跡的生還」
と、マスコミは、大々的に報道した。
脳外科医たちは、得意げに、手術のことを語った。
しかし、新聞記者が、美奈子に、「お父さんが、奇跡的な生還をした、今の心境を語ってくれませんか」、と質問した時、美奈子は、つい、「手術したのは、実は、宮田先生という、無名の、元内科医の先生です」、と、口を滑らしてしまった。
それが、また、マスコミで、大々的に、スクープとして、報道された。
しかし、教授を殿様とした、ピラミッド型の、旧弊的な、日本の医学界は、
「たまたまの、まぐれだ」
と、全く相手にしなかった。
しかし、実力主義のアメリカでは、違った。
「奇跡の手をもつ男」
と、宮田誠一の名が、アメリカの、ニューヨーク・タイムズに、報道された。
アメリカの、デューク大学、ハーバード大学、そして、フランスの、マルセイユ大学、ドイツのフランクフルト大学、スウェーデンのカロリンスカ大学、などから、「ぜひ、我が大学の脳外科の、主任教授になって下さい」、という手紙が、宮田誠一の元に殺到した。
しかし、宮田は、「小説創作が忙しい。あの手術は、まぐれだった」、という理由で、全部、断った。
マスコミに、「先生の信念は、何ですか?」、と聞かれたので、彼は、
「1に努力。2に努力。3も努力。土曜、日曜、祭日は、いっさい、休まない。冬休み、夏休み、春休み、は、いっさい、とらない。一週間で、8日、働く」、と、答えた。
幸い、小説創作は、はかどった。
ラバンも、修理工場で、安く修理して、もらったら、ミッションの修理も、3万円で、すんだ。
軽自動車は、速度が出ないので、それが、かえって、良かった。
今までの、1200ccの、旧型マーチでは、スピードが出るし、加速もいいので、つい、黄信号でも、止まらなかいことが多かったが、軽自動車は、慣れてしまうと、時速40km/hで、走るのが、普通、という感覚になるので、信号を、ちゃんと、守るようになった。




平成28年2月22日(月)擱筆