告白小説 もどる
ある女が僕の家にやって来た。
彼女は、この世の者とは思えないほど美しかった。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
「はーい」
僕は、小説を書いていたが、その手を休め、玄関に向かった。
そして、玄関を開けた。
そこには、この世の者とは思えないほど美しい女性が佇んでいた。
「何のご用でしょうか?」
僕は聞いた。
「あ、あの。浅野浩二さん、ですね?」
彼女は、顔を赤らめて、聞いた。
「はい。そうですけど」
僕は、彼女が、何の用で、来たのか、わからなかった。
僕は、ネットでは、ペンネームで、浅野浩二、という、名前を使っているが、本名は、違う。
親がつけた、本名がある。
時々、キリスト教の勧誘に、女の人が来ることはある。
僕は、キリスト教を知っているので、「主の祈り」や「詩編23編」を諳んじることによって、(バカにするなよ。僕は、キリスト教を知っているぞ)、と意思表示する。
そうすると、スゴスゴと、帰っていく。
しかし、彼女は、キリスト教、勧誘では、なさそうである。
僕は、彼女が何の用で来たのか、疑問に思った。
「どうして、僕のことを、浅野浩二、と、知っているのですか?」
「それは。藤沢総合市民図書館の、パソコン使用席、で、一心に、パソコンを打っていましたから、きっと、浅野浩二さん、だろう、と思ったのです。駐車場に止めてある、車も、ラパンですし。小説やブログで、図書館で小説を書いていることや、車が、ラパンである、ことなどを書いていることから、浅野浩二さん、だと、確信しました」
と、彼女は、顔を赤らめて言った。
「あ、あの。よろしければ、お上がり下さい」
僕は言った。
「すみません。突然、来てしまって」
お邪魔します、と言って、彼女は、靴を脱いで、僕の家に上がってきた。
僕は、彼女が何の用で来たのか、そのことばかり、疑問に思っていた。
「どうぞ」
僕は、彼女を、6畳のタタミの部屋に入れた。
そして、座布団を彼女の前に置いた。
「失礼します」
彼女は、慎ましそうに、座布団の上に正座した。
礼儀正しそうな人だな、と思った。
僕は、冷蔵庫にあった麦茶を、コップに注いで彼女に差し出した。
「ありがとうございます。私は吉田祥子と申します」
そう言って、彼女は麦茶を飲んだ。
「あ、あの。何の用でしょうか?」
もうちょっと、気の利いた聞き方、もあっただろうが、僕は、単刀直入に聞いた。
「あ、あの。私。浅野さん、の小説、好きなんです」
彼女は、顔を赤くして言った。
僕は驚いた。
プロ作家なら、こういうことも、あるだろうが、僕はアマチュアである。
しかし、小説は結構、たくさん書いている。
なので、こういうことが、あっても、おかしくはない。
彼女は、僕のホームページ、や、ブログ、を読んでいるので、僕のことは、かなり知っている、ことになる。
僕は、かなり、小説にしても、ブログにしても、ズバズバ、本心を書いている。
小説では、エロチックな、SМ小説も書いている。
彼女は、それを、知ったうえで、ここに来たのだ。
「それは光栄です。しかし、あなたのような、奇麗な人が僕の小説を好きなんて、ちょっと意外です」
もうちょっと、気の利いた言い方、もあっただろうが、僕は、単刀直入に言った。
どの小説を気に入ってくれたのか、ということは、恥ずかしくて聞けなかった。
それを、察してか、彼女の方から、口火を切った。
「あ、あの。私。浅野さんの書く、SМ小説が好きなんです」
と彼女は顔を赤くして言った。
「そ、それは。どうも有難うございます」
今度は僕が赤面した。
僕は、エロチックな、SМ小説は、性欲の旺盛な、男が、読むことはあっても、女が読むことは、ないだろうと、思っていたからだ。
そして、SМ小説は、SМのエロス、の感性を持った人でなければ、読まない。
ということは、彼女は、SМのエロスの感性を持っているのだろうか、と僕は思った。
「あ。あの。浅野浩二さん」
「はい。何でしょうか?」
「あ、あの。私。浅野さんの書く、SМ小説、が好きなんです」
彼女は、同じ言葉を繰り返して言った。
「そう言ってもらえると嬉しいです。だけど、SМ小説は、たくさん、ありますよ。亡くなられた、団鬼六先生のSМ小説などは、僕より、ずっと上手いと思いますが・・・」
「それは、そうですけど。団鬼六先生のSМ小説は、女を辱しめる行為ばかりで、それは、団鬼六先生以外の、SМ小説作家でも、言えることなのですが。浅野さんは、男が女に虐められるSМ小説も、書いています。なので、きっと、浅野さんは、Мの感性も持っておられるのではないかと思うんです」
と彼女は顔を赤くして言った。
「え、ええ。僕は、Мの願望の方が強いですよ」
僕は正直に答えた。
「やっぱり、そうだったのですね」
彼女は、安心した表情で、ニッコリと笑った。
彼女の笑顔に促されて、僕は、自分の心情を言う気になった。
「僕は、男が女を虐める、SМ小説を書く時でも、虐められる女になって、書いています」
「やっぱり、そうだったのですね」
彼女は、それを予想していたのだろう。
予想が当たったことに、彼女は、嬉しそうな顔で、ニッコリと笑って言った。
清楚で奇麗な女性と、SМ談義をすることに、ちょっと、可笑しくなりながらも、彼女の笑顔を見ているうちに、僕は、もっと、自分の心情を、言いたい衝動が起こった。
「では、僕のSМ観を言いましょう」
そう言って、僕は、話し出した。
「まず、僕は、SМは、映画、や、ビデオ、よりも、SМ写真集の方が好きです。映画、や、ビデオ、では、男が女を責める、という行為をしなくてはなりません。それは、(動)です。しかし、写真の、中の緊縛された女は、動きません。つまり、(静)です。しかし、女が緊縛された写真に、僕は、物語を、自然と、想像してしまうのです。女を責めている男が一緒に写っている写真も、ありますが、裸にされて、縛られている女だけの、写真もあります。しかし、自分で自分を縛ることは、出来ませんから、そこには、見えざる、責め手の男の存在がいます。SМ写真は、いわば劇です。責めている、というか、女を縛った男は、観客です。一方、裸にされ、縛られている女は、劇の主役です。SМ愛好家にも、色々なタイプがあるでしょうが、僕は、観客(S)にも、なりたいし、主役(М)にも、なりたいのです。観客になったり、主役になったりと、行ったり来たり、です。また、縛られている女を助けてあげたい、と思ったり、いや、みじめな姿の女を鑑賞し続けたい、と思ったり、と、これもまた、アンビバレントな感情に悩まされます。この、自分を、どこか、定まった所に置けない、もどかしさ、が、興奮を激しくするのです。ボードレールの言う、(死刑囚にして死刑執行人)になりたい、という、不可能な願望です。しかし、世のSの男は、自分が、観客である、ということだけに、満足できる人もいます。その点、マゾの女は、悲劇のヒロインになりきれます。だから、僕は、マゾの女の人を、羨ましく思います。SМビデオでは、やたら、男が女に、汚い言葉をかけたり、鞭打ったりしますが、僕は、あれが嫌いです。SМは、何もしなくても、止まった時の中で、劇は行われているのです。しかし、写真なら、それでいいですが、小説では、何らかの、ストーリーが、なければ、小説には、なりません。だから、小説では、男が女を責める、ストーリーを書いているのです」
僕は、思っていることを、全部、話した。
「思った通りだわ」
彼女は、ニコッと、笑った。
「何が思った通りなのですか?」
「浅野さんの、SМ小説を、読んでいると、きっと、浅野さんは、そういう人だろうと、思っていたんです」
彼女は、ニコッと、笑って言った。
「浅野さん。お願いがあるんです」
彼女は、背筋をシャンと伸ばし、改まった口調で言った。
「はい。何でしょうか?」
僕は聞き返した。
「浅野さん。私を縛ってくれないでしょうか?」
彼女は、大胆なことを、平然とした口調で言った。
「ど、どうしてですか?」
「私は、マゾです。それで、私も、SМ写真を見て、自分も、SМ女優のように、縛られたい、と思っていたんです。でも、浅野さんが、今、言ったように、Sだけの男の人には、縛られたくなかったんです。そういう人は、私を利用して、自分が楽しむだけで、それが、嫌だったんです。でも、浅野さん、のような、優しい人になら、嫌な思いをすることなく、マゾの快感、つまり、浅野さんの言う所の、悲劇のヒロインの、快感に、安心して、浸れると思うのです。ですから、どうか、私を縛って下さい」
彼女は、大胆なことを、平然とした口調で言った。
「・・・・・」
僕は返答に窮した。
僕は、現実の女と、SМプレイをする気はないからだ。
僕が、生きている、唯一の目的は、小説を書くことで、それは、何も、SМ小説でなくても、小説なら、何でも、よかったのである。
僕は、現実の、SМパートナーなど、持ちたくない。
そんな、SМプレイなんかに、人生の大切な時間を割きたくなかったからだ。
しかし、小説創作に、差し障りのない、程度なら、してもいい、いや、してみたい、とも思っていた。
そして、SМ小説は、ボクサー同様、ハングリーだから書ける面もあるのである。
欲望に飢えているから書けるのであって、欲望を現実に満たしてしまったブタには、SМ小説は書けない、とも思っていた。
「浅野さん。決して、何度も、お願いしたりしません。浅野さんが、許容できる時間で構いません。どうか、私を縛って下さい」
彼女の哀願は切実なものだった。
「・・・・・・」
僕は答えられなかった。
「お願いです」
彼女は、礼儀正しく、両手をついて、僕に頼んだ。
「わかりました」
僕は厳かに言った。
「嬉しい。お願い致します」
彼女は、ニッコリと笑って言った。
僕は彼女の頼みを引き受けたが、彼女がどのように、縛って欲しいのかは、わからない。
なので。
「祥子さん。どのように、縛ったらいいのですか?」
と聞いた。
彼女は、ふふふ、と笑い、
「では、服を着たままで、後ろ手に縛って頂けないでしょうか?」
そう言って、彼女は、カバンの中から、麻縄を取り出した。
彼女は、両手を背中に回して、手首を重ね合わせた。
僕は、縄を持って、彼女の背後に回り、手首を縛った。
きつくし過ぎもせず、かといって、抜けようとしても、抜けられない程度に。
彼女は、拘束されたいのだから、縄から抜けられるような緩い縛りでは、マゾの快感を得られないだろう、と、思ったからだ。
「祥子さん。縛りました。どうですか?」
彼女は、少し、手首を動かして、縄から、抜けられないことを、確かめているようだった。
「有難うございます。浅野さん。男の人に縛られたのは、生まれて初めてです。嬉しいです」
彼女は、ニッコリと笑顔で言った。
僕は、後ろ手に縛られた、彼女を、まじまじと見た。
僕にとって、女は、性欲の対象ではなかった。
女は、見ているだけで、厭きない、美しい芸術品だった。
普通の、十把一絡げの、その他大勢、の、世間の、ガラクタ男どもにとっては、女を見ると、セックスすることしか、考えていないのだが、僕にとっては、違った。
女は、美しい芸術品なのだ。
全ての芸術作品が、そうであるように、芸術品は、触るものではない。
絵画にしろ、彫刻にしろ。
黙って、その美しさを鑑賞するものである。
僕は、生きた、芸術品である、祥子さんを、時の経つのも忘れて、鑑賞した。
それで、十分、満足だった。
美しい黒髪、ふくらんだ胸、しなやかな体、全てが美しかった。
しかし、僕には、わからないことが、あった。
それは、感覚的には、誰でも、わかることであるが、厳密に理論的に考えると、わからないことだった。
それは、どうして、女の顔は、美しいのだろうか、という疑問である。
男も女も、顔の構造は同じである。
目が二つあって、鼻が一つあって、口が一つあって、耳が二つあって、顎があって、頬があって、と、男の顔と、女の顔の構造は同じである。
なのに、どうして、女の顔は、美しいのだろうか?
僕は、前から、そのことに、疑問を持っていた。
一つ、はっきりと、わかることがある。
それは、出家した尼のように、髪を剃った、髪の無い女の顔は、美しくない、ということである。
あるいは、あまりにも短いショートヘアの女も、あまり美しく感じない。
なので、女の顔が美しいのは、髪の存在による所が大きい、と思う。
実際、「髪は女の命」なのである。
しかし、男が、いくら、女のように、肩まで、届く長髪にしても、美しくはならない。
だから、女の顔が美しい理由は、髪の存在だけではない。
顔の個々の部分だけを見ても、男のそれと、女のそれとは、違うことは、わかる。
目、鼻、口、だけ、の写真を見せられても、それが、男のか、女のか、は、わかる。
僕は、絵、は描けないが、マンガの模写はしたことがある。
それで、女を描くことの難しさ、を感じたことはある。
ハンサムな男の顔を描くことは、容易である。
しかし、女の顔を描くことは、結構、難しい。
美しい女の顔を、描こうとしても、ハンサムな男の顔を描いている時と、同じような感覚になるのだ。
長い髪を描けば、女の顔に見える、という単純なものではない。
目と、鼻と、口、と、顔の輪郭を、美しい女に見えるように、描くことは、結構、難しいのだ。
目を大きめに描き、鼻と口を小さめに、描けば、女の顔になるというものではない。
苦労して、全体のバランスをとりながら、目や、鼻や、口や、顔の輪郭を、女らしく見えるように、微妙に修正して、やっと、女の顔が、描けるのである。
なので、世の、現実の女の顔が、美しいのも、顔の各部分、や、髪、や、顔の輪郭、などが、微妙に、上手く配置されているおかげで、全体的な、バランスの上に、成立しているのだろう。
僕は、そんなことを、思いながら、縛られた祥子さんを、時の経つのも、忘れ、眺めていた。
「あ、浅野さん。そんなに、見つめないで下さい。恥ずかしいです」
僕が、彼女を、まじまじと、見つめているために、彼女は、恥ずかしくなったのだろう。
彼女は、顔を火照らせて、言った。
「ごめんなさい。祥子さんの顔が、あまりにも美しいので、つい、見とれていました」
僕は言った。
「いえ。いいんです。僕も、生まれて初めて、縛られた女の人の姿を、じっと、見つめられることに、ほの甘い快感を感じていましたから」
「そうですか。あなた様のことですから、きっと、そうではないか、と思っていました」
「浅野さん。それより、今度は、私を裸にして、縛って私を見て下さい。私が、ここに来たのも、それが、目的だったのですから」
彼女は言った。
「わかりました」
そう言って、僕は、彼女の後ろ手に縛られた手首の縄を解いた。
裸で縛るには、一度、縄を解かねばならない。
SМの緊縛では、全裸にしないで、上着だけ着させたまま、スカートとパンティーを脱がしたりすることもある。
あるいは、全裸にして、足袋だけ、履かせておいたり、パンティーを、全部、脱がせないで、膝の辺りまで、降ろして、そのままの、降ろしかけの状態にしておく、ということもする。
あるいは、パンティーは脱がすが、ブラジャーは、残しておく、ということもする。
その方が、全裸で縛られるより、恥ずかしい効果を出せることがあるからだ。
一番、女にとって、恥ずかしくて、隠しておきたい、股間は、丸出しになっているのに、隠す必要のない、足に足袋だけ、履かせておく、ことによって、女に、どうにも、やりきれない、もどかしさ、を、感じさせるためである。
頭隠して尻隠さず、の恥ずかしさ、である。
しかし、彼女は、「裸にして縛って下さい」といったので、僕は、彼女の縄を解いた。
「浅野さん。私を脱がしたいですか、それとも、私が、自分で脱ぎましょうか?」
彼女が聞いた。
「僕は、あなたの望んでいることを、優先させたいです。祥子さんは、どうしたいですか?」
僕は聞いた。
と言っても、僕としては、出来るだけ、「美」には、触れたくなかったので、彼女の服を僕の手では、脱がしたくはなかった。
「じゃあ、自分で脱ぎます」
彼女は、ニッコリ、笑って言った。
「そうですか。実は、僕も、そうして欲しいと思っていたのです」
僕は言った。
彼女は、かなり、僕の心を読んでいるようだった。
「浅野さん。すみませんが、ちょっと、後ろを向いてくれませんか?」
彼女が言った。
「はい。わかりました」
僕は、クルリと体の向きを変え、彼女に背を向けた。
カサコソと、衣擦れの音がした。
彼女が、服を脱いでいるのだろう。
「浅野さん。もういいですよ」
彼女が、そう言ったので、私は、彼女の方に振り返った。
彼女は一糸まとわぬ全裸になっていた。
脱がれた、ブラウス、や、スカート、や、ブラジャー、や、パンティー、が、彼女の傍らに置かれていた。
彼女は、胸を手で隠して、横座りしていた。
太腿をピッチリ閉じているので、女の性器は見えない。
両手で、大きな乳房を隠している姿は、あたかも、乙女が、収穫した二つの大きな桃の果実を、こぼれ落ちないように、大切に胸の前で抱えている様にも見えた。
僕は、思わず、ゴクリと唾を呑んだ。
「う、美しい」
哲也は思わず言った。
「あ、有難うございます。私、ずっと、男の人に捕まって、裸にされたいと、思っていたんです。その夢が叶って嬉しいです。私、今、被虐の快感に恍惚としています」
彼女が、顔を火照らせて言った。
「SМプレイには、縄もムチも、何も必要ないと、僕は思っています。ならば、それは、SМプレイ、とは、言えなくなるとも思えます。SМには、色々な要素がありますが、SМ的感性のない女の人にとっては、男に裸を見られる時に起こる羞恥心は、嫌な感情でしかありませんが、Мの感性を持った女性にとっては、その羞恥心が、快感になります。祥子さんは、羞恥心が快感になる、タイプで、それを一番、求めているのでは、ないでしょうか?」
僕は、胸を両手で隠している彼女を、まじまじと、見ながら言った。
「え、ええ。その通りです」
「そうだと思いましたよ」
「浅野さん。私は、今、恥ずかしい、快感に酩酊しています。少しの間、このままの格好で、いてもいいですか?」
「ええ。いいですとも」
「SМといっても、僕は、最近のSМ動画には、ほとんど、美しいエロチックさ、を感じません。女を裸にして縛っても、その後、本番をするのであれば、それは、セックスと変わりありません。セックスの前に、セックスの興奮を高める、前戯に過ぎません。SМとは、マゾの気質を生まれつき持った女が、久遠の被虐の恍惚感に浸るものだと思っています。僕はSМとは、セックスとは、全く関係のないものだと思っています」
「やっぱり、浅野さん、って、私の思っていた通りの人ですわ」
と言って彼女は、ニコリと笑った。
僕は続けて言った。
「それと、僕は、世間で行われている、調教、ということが、大嫌いです。僕は、幸か不幸か、先天的に、SМ的感性に生まれつきました。この性癖は、変わることがありません。治ることもありません。しかし働いている時とか、勉強している時とか、スポーツをしている時とか、何か、一心に、打ち込んでいる時には、性欲は起こりません。それは、一般の人と同じです。しかし、先天的に、SМ感性を持って生まれついた人は、SМ的夢想によってしか、性欲が亢進しません。だから、性欲が興奮した時には、それを、なだめるために、SМ的な夢想に浸るしかないのです。あるいは、息の合った男と女が、お互いに満足できる形のプレイをする、ことによって、サドだの、マゾだの、内面の悪魔をなだめている治療に過ぎません。SМプレイなどというものは、好事家の発作を鎮めるための治療に過ぎません。だから、生まれつき、SМ的な感性を持っていない人、は、SМなんかに関わらない方がいいと僕は、思っています。調教とは、正常な人間を、ことさら、SだのМだのの、病人、しかも下手をすると、中毒患者にしているのと同じです。健全な人間に、ことさら、麻薬を飲ませて、麻薬の快感を覚えさせ、麻薬中毒患者にしているようなものです。そんなことをしている、世間の人間を僕は、気が狂っていると思いっています」
「浅野さん、って、すごく健全な人なんですね」
と言って、彼女はニコッと笑った。
「・・・・・・・・・」
僕は、誉められて、照れくさくて黙っていた。
「浅野さん、は、セックスしたことありますか?」
「え、ええ。ありますよ。僕は、垢ぬけてなくて、シャイで、女の人と付き合うことなんて、出来ませんから。すべて風俗店です。女と二人きりになると、嬉しいです。僕には彼女が、作れないので。夏の海水浴場、や、レジャープール、では、みな、カップルで、来ています。だから、(僕にだって、彼女はいるんだ)、という、劣等感が、一時的になくなる喜びが非常に大きいですね。もちろん、ペッティングも、楽しいです。しかし、何回か、ペッティングしてて、だんだん気づいたことなんですが、僕は、女を喜ばせることだけが、僕の喜びだ、と気づいたんです。何のために、金を払って、女を喜ばせているんだろう、と、ペッティングしている時に、疑問に思ったことがあります。女の胸を揉んでいても、すぐ厭きます。フェラチオなんて、男の汚いモノを女に、しゃぶられるなんて、女が可哀想だし、そもそも、フェラチオなんて、気持ちよくも何ともありません。そして、ペッティングしていても、どうしても、その快感は、刹那的なものに感じられてしまうのです。小説を1作、書き上げた時の喜びに比べると、女を抱く喜びなんて、刹那的な喜びとしか、僕には感じられません。だから、風俗店なんて、1年に、2回か、3回ていど、行けば、それで、僕はもう、満足なのです。安上りですね。ははは。それに、僕のような、先天性の倒錯者は、本番行為を嫌悪していますから、その点も、いいですよね。ノーマルな人間は、男と女の性器を結合させて、粘膜を擦れ合わせることが、気持ちいいらしい、のですから。僕には、その方が、変態にしか思えないのですが。僕は、本番行為は罰金100万円、なんて、貼り紙を見ると、世間の人間は、そんなことをしたいのか?と不思議に思います」
僕は、思っていることを、早口に喋った。
心の中で思っているけど、言わないことなので、スッキリした。
「浅野浩二さん」
「はい」
彼女が大きな声を出したので、僕はびっくりした。
「浅野さんの言う事を聞いていると、何だか、浅野さん、が、可哀想になってきてしまいました。初めは、浅野さん、が、どんな人か、わからなかったので、予想と違う人だったら、こわいな、って、思っていました。でも、こうして、浅野さんの、話を聞いているうちに、考えが変わってきました。彼女が一人もいなくて、それでいいや、と、開き直っている、浅野さん、が可哀想すぎます。もうちょっと、現実に触れるべきだと思います」
と、彼女は言った。
「じゃあ、どうすれば、いいのですか?」
僕は聞いた。
「私を虐めて下さい」
彼女は言った。
「な、何をすれば、いいのでしょうか?」
僕は彼女の勢いに圧倒されて、おずおずと聞いた。
「何をしても構いません。浅野さんの、好きなようにして下さい。煮て食うなり焼いて食うなり、好きにして下さい」
彼女は言った。
彼女がそう言っても、僕は、彼女を虐める気には、なれなかった。
なぜなら、そんなことをしたら、僕は、その他大勢、の、ガラクタ男になってしまうからだ。
僕には、そういう変な、意地っ張りな所があるのである。
「浅野さん」
「はい」
彼女の声には、怒気がこもっていた。
彼女は、急いで立ち上がり、パンティーを履き、ブラジャーを着けた。
そして、部屋の中の押入れ、を、ガラリと開けた。
ああっ、と僕は焦った。
なぜなら、僕は、押入れに、オールカラーの、濃厚な、SM写真集を、300冊、以上、保管していたからだ。
それは、僕が、今までに、買い集めてきた、僕の宝物だった。
つらい時、苦しい時、写真集の中の、裸で緊縛された女性たちは、僕をなぐさめてくれた。
それを、彼女に見られてしまったことが、かなり、恥ずかしかった。
「思った通りだわ」
と、彼女は、鼻息を荒くして、怒っている様子だった。
それは、子供がエッチな本を、隠しているのを、見つけた時の、母親の怒った顔に似ていた。
「浅野さん。何なんですか。これは。この写真集の山は。こんな物を、こんなに、ためこんで。こんな、写真の女とだけ、空想で付き合って。カノジョも、友達も、一人も作ろうとしないで。あなたは、現実の女と付き合って、傷つくのが、こわいから、現実から逃避しているだけなのよ。もっと現実の人間と、付き合わなきゃだめよ。人間は、生きた人間と関係を持つことで、成長するんです」
そう言って、次に、彼女は、部屋の壁際に置いてある、大きな本棚の所に行った。
本棚の二段目には、ソクラテス、プラトン、サルトル、ヤスパース、ハイデカー、ニーチェ、キルケゴール、カント、などの、ありとあらゆる、西洋哲学書が、ズラリと、所狭しと並んでいて、そして、三段目には、ドフトエフスキー、トルストイ、ヘルマン・ヘッセ、アルベール・カミュ、ゲーテ、トーマス・マン、モーパッサン、ボードレール、グリルパルツァー、ノヴァーリス、ヘルダーリン、などの、西洋文学全集が、ズラリと並んでいた。
「何なんですか。こんな、くだらない哲学書だの、文学書だの、を、読みふけったりして。どうせ、あなたは、人は何のために生きるのか、なんて、くだらない、バカげたことを、真剣に考え込んでいるんでしょう。こういう、哲学だの、文学だの、というものは、頭のおかしな人たちが、単に、意味もない難しい言葉を並べたてて、カッコつけているだけなんです。人間は、生きた人間と触れ合うことによってだけ、成長するんです」
そう言うや、彼女は、部屋を出た。
僕は、あっけにとられて、茫然としていた。
彼女は、台所に行って、大きな、バケツを流しに置き、水道の蛇口をひねった。
ジャー、と、水道水が、バケツに一杯に溜まっていった。
彼女が、一体、何をする気なのか、僕には、さっぱり、わからなかった。
バケツに水が、一杯、溜まると、彼女は、そのバケツを、持って、戻ってきた。
そして、押入れの中の、SM写真集、に、ザバッ、と、ぶっかけ、そして、次には、本棚の、哲学書、文学書、に、ザバッ、と、バケツの水をぶっかけた。
「ああっ」
SM写真集にせよ、哲学書、文学書、にせよ、僕にとって、かけがえのない大切な宝物だった。
濡れてしまっては、もう見たり、読んだり、出来ない。
僕は悲しくなって、目からポタリと、涙がこぼれた。
「浅野さん。大事な本が使い物にならなくなってしまって、私を怒っているでしょ。そして、悲しんでいるでしょ?」
彼女は、僕の前に仁王立ちして、問い詰めた。
「い、いえ。怒っていません、し、悲しんでもいません」
と、僕は、泣きたいほどの気持ちを、ぐっと、我慢して言った。
「ウソ、おっしゃい。なら、何で、涙を流しているの?」
彼女は、厳しく問い詰めた。
「・・・・・・・」
僕は、何も言えなかった。
何を言われても、何をされても、きれいな、優しい女性を叱ることなんて、僕には出来なかった。
「浅野さん」
「はい」
「浅野さんにとって、命より大切な物を、使い物にならなくした私、を、虐めて下さい」
なるほどな、彼女は、僕を怒らせて、それで、僕に、彼女を虐めさせようと、したのだ、と、わかった。
でも、僕は、何をされても、彼女を虐めることなんて、出来なかった。
僕は、黙っていた。
「どうしても、私を虐めてくれないんですね」
彼女が念を押すように言った。
僕は、何も言えなかった。
「じゃあ、私、濡木痴夢男、か、雪村春樹、の所に行って、縛ってもらいます」
彼女は無理難題を僕につきつけた。
濡木痴夢男、や、雪村春樹、は、日本で有名な緊縛師である。
しかし、二人は、女を緊縛することに、趣味と実益を兼ねている緊縛師なのである。
女を緊縛して、それを写真集にすることを、仕事としているのだが、二人には、Sしかなく、女を緊縛しながら、女を虐めることを、楽しんでいるのである。
僕は、前から、彼ら二人を嫌っていた。
女を虐めることを、楽しむ彼らが。
緊縛師は、あくまで、黒子に徹するべきだ、と、僕は思っていた。
(彼らの、いいようにされてしまうくらいなら、いっそのこと、僕が・・・)
という気持ちが心の中に芽生えた。
しかし、僕には、どうしても、「女の好意を甘んじて受ける」という、ことは、出来なかった。
プライドの高い僕には。
それをした時、僕は、十把一絡げの、その他大勢の、中森明菜の「少女A」、の歌詞じゃないけど、どこにでもいる、誰でもしてる、ガラクタ男Aに成り下がる。
そんなことを、僕は、考え込んで、悩んでいた。
「浅野さん。私は本気ですよ。こうなったら、私、裸のまま、外に飛び出します。私の切ない頼みを聞いてくれない、というのは、私に対する、虐めになりますからね」
煮え切らない僕に彼女は、怒鳴りつけた。
しかし、僕は、彼女が、そんな事できないだろうと、あまく見ていた。
「浅野さん。私が本気で、そんな事できない、と、思っているんでしょう。それなら、私が本気であることを、証明してみせます」
彼女は強気の口調で言った。
僕は、彼女の口調に、あたかも、これから一揆を起こす百姓の命がけ、の気迫を感じて、たじろいだ。
「な、何をするんですか?」
僕は不安になってきた。
「私、髪を切ります」
そう言うや、否や、彼女は、カバンから、ハサミを取り出し、自慢の美しい、黒髪の一部を、バッサリ、切ってしまった。
髪は女の命である。
彼女は、さらに、髪を切ろうと、髪を、ハサミで挟んだ。
ここに至って、僕は、彼女が本気であることを悟った。
「わ、わかりました。祥子さん。あなた様を虐めます」
僕は、あわてて、彼女の、ハサミを取り上げた。
「わー。嬉しい。浅野さんに、虐めてもらえるなんて」
彼女は、掌を返したように、笑顔になった。
彼女は、履いていた、パンティーを脱ぎ、ブラジャーを外して、元のように、一糸まとわぬ、丸裸になった。
僕も、もう、男のプライドを捨てて、彼女を、虐めようと決意した。
「あ、あの。祥子さん。どのように責めたらいいのでしょうか?」
僕は、おそるおそる聞いた。
「後ろ手に縛って下さい」
「は、はい」
僕は、一糸まとわぬ丸裸の姿の彼女の両手首を背中に回して、手首を縛った。
そのため彼女の隠していた、豊満な乳房が露わになった。
乳房の山頂にある、可愛らしい、大きな乳首が見えた。
「あっ。恥ずかしいわ。でも、嬉しいわ。憧れの、浅野さんに、縛ってもらえるなんて」
彼女は、頬を火照らせながら、言った。
「あ、あの。あんまり見ないで下さいね。私の胸、形が良くないので」
「そんなことないです。大きいのに、張りがあって、下部がせり上がっていますよ。理想的な胸だと思います」
形が良くない、というのは、明らかな、ウソである。
彼女は理想的な胸である。
見られたくないものを、見られることが、恥ずかしさ、なので、その効果を出すための、ウソの発言であることは、明らかである。
「浅野さん」
「はい」
「では、私を蹴飛ばして、床に寝転がして下さい」
僕は、彼女の言う通り、彼女を床に、そっと横にした。
しかし、それから、どうしていいか、わからなかった。
それを察したかのように彼女は。
「浅野さん」
「はい」
「私のカバンの中に、ノートがあります。そこに、私にして欲しいことが、書いてありますから、どうか、それをして下さい」
言われて、僕は、彼女の、ルイヴィトンの赤い、大きい、カバンを開けた。
すると、確かに、ノートがあった。
僕は、ノートを開いた。
それには、こう書かれてあった。
「1、私の体に足を乗せる。2、足を揺すって私の体を揺する。3、女なんて下等な生き物はこうやって責めるものよと言う。4、ページをめくる」
などと、書かれていた。
僕は、「やられた」と思った。
彼女は、僕が、彼女を、責められない、性格であることを、見こしていたのだ。
ともかく、彼女を責める、彼女の要求を聞く、と、約束してしまった以上、そうするしかなかった。
僕は、手順1に従って、彼女の、柔らかい体に足を乗せた。
女の体って、柔らかいんだな、と、僕は、あらためて思い知らされた。
「ああっ。みじめだわ。でも、嬉しい。優しい浅野さんに、虐められるんだもの」
僕は、彼女の、手順2に従って、足を揺すった。
いつも静止した裸の女の緊縛写真ばかり、時の経つのも忘れて、見て、夢想に耽っていたので、僕にとって、女の体とは、美しい彫刻のように、硬いもの、という、現実とは異なった錯覚に僕はおちいっていた。
彼女の体を足で揺することによって、女の体、って、こんなに柔らかいものなんだな、という現実に、僕は、ただただ驚いていた。
「ああっ。いいわ。みじめで。この、みじめさ、が、たまらないわ」
と、彼女は被虐の喜びに陶酔しているようだった。
「さあ。浅野さん。次の3に進んで下さい」
彼女が要求した。
それは、僕にとって、とても、つらい事だった。
しかし、しないわけにはいかない。
僕は、彼女の、手順3に従って、
「お、女なんて下等な生き物はこうやって責めるものよ」
と、声を震わせながら言った。
言いたくないセリフだったので、感情を全く入れず、事務的な文章を読んでいるように棒読みした。
形としては、僕が彼女を虐めていることになっていても、僕は、彼女の命令に、嫌々、従っているだけで、何だか僕が彼女に虐められているように僕は感じた。
「ああっ。いいわ。優しい浅野さんに、虐められるのって、最高だわ。だって、私が安心して、身を任せられる男の人、って、この世で、浅野さん、だけだもの」
たとえ、心はこもっていなくても、セリフは、女の被虐心を、動かすものだと、僕は知った。
僕は、彼女の、要求に従って、手順4に従って、ページをめくった。
次のページには、こう書かれてあった。
「カバンの中の蝋燭を私の体に垂らす」
僕は、彼女の、カバンの中を見た。
蝋燭が、一本、入っていた。
僕は、蝋燭に火をつけた。
ポッ、と蝋燭に炎が灯った。
蝋燭の芯は、ユラユラ揺れている。
僕は、「ごめんなさい」、と言って、火の灯った蝋燭を、彼女の体の上で、傾けた。
蝋涙が、ポタリ、ポタリ、と、彼女の体に垂れた。
「ああっ。熱い。熱い。許して。浅野さま」
と、彼女は、叫んだ。
彼女の体に、ポタリポタリと蝋涙が垂れた。
彼女は、もっと、もっと、垂らして、と僕に、要求した。
仕方なく、僕は、蝋燭を、垂らし続けた。
蝋涙は彼女の体に、くっつくと、ひしゃげて小さな斑点になった。
その斑点の数がどんどん、増えていった。
彼女の体には無数の蝋涙が、斑点状に、印されていった。
彼女の体は、蝋涙の斑点まみれになった。
すると、だんだん、僕の心も、変化が起こってきた。
彼女が、悶える姿を見ているうちに、彼女を虐めたい、という、サディズム、が、起こってきたのである。
僕は、彼女に、蝋燭を垂らし続けた。
「ああっ。熱い。熱い」
と、言いながら、彼女は、身をくねらせた。
僕は、生まれて初めて、体験する、加虐心、に興奮していた。
蝋燭が、持てなくなるまで、僕は、彼女に、蝋燭を垂らし続けた。
彼女の体は、蝋まみれになっていた。
僕は、ふっと、息を吹きかけて、蝋燭の火を消した。
「ごめんなさい。祥子さん。嫌な思いをしませんでしたか?」
そう言って、僕は、彼女の体に、こわばりついている、蝋涙を、一つ一つ剥がしていった。
そして、彼女の後ろ手縛りの縄も、解いた。
自由になった彼女は、ニコッと、笑って僕を見た。
「有難うございました。浅野さん。夢が叶って、スッキリしました。とても、気持ちがよかったです」
と、彼女は、微笑みながら言った。
「祥子さん。ごめんなさい。祥子さんに、蝋燭を垂らしているうちに、僕に、サディズム、が、起こって、しまいました」
僕は、彼女の前に土下座して謝った。
「いいんですよ。浅野さん。そういうふうに、自責の念が起こるような、優しい、浅野さん、に、虐めてもらえたんですもの。私、長年の想いが叶って、嬉しいです」
「祥子さん。今日は、もうこれくらいにして、終わりにしませんか?」
僕は聞いた。
「ええ。浅野さんに責めてもらって、長年の想いが、叶って、満足しました」
彼女は、ニコッと、笑って言った。
「浅野さん。目をつぶってくれませんか?」
「はい」
僕は彼女の言う通り、目をつぶった。
ガサゴソ音がする。
彼女が服を着ている音だろう。
「もういいですよ」
彼女の声が聞こえた。
僕は目を開いた。
彼女は、元の通り、服を着ていた。
「浅野さん。浅野さん、の大切な、SM写真集、や、哲学書、文学書、を、水浸しにしてしまって、本当に、ごめんなさい。この、償いは、必ずします。濡らした哲学書、文学書、は、書店で、全部、買いそろえます。濡らしたSM写真集は、ネットで、その在庫がある古書店を探して、全部、買いそろえます」
彼女は、僕の前で土下座して謝った。
「いいんです。祥子さんが、あなた様が僕を思ってしてくれたことなのですから。気にしていません。どうか、祥子さんも、気にしないで下さい」
僕は言った。
彼女は、無言で、カバンの中から、何かを取り出した。
「浅野さん」
「はい」
「あの。お弁当を作って、持ってきました。浅野さんに、食べて欲しくて。浅野さんの、ブログを見ていると、コンビニ弁当ばかり、食べているようなので、可哀想に思って。それと、浅野さんに、私の作った、お弁当を食べて欲しくて・・・」
そう言って、彼女は、アルミニウムの弁当箱を、差し出した。
「有難うございます」
僕は、弁当箱の蓋を開けた。
ハンバーグ、エビフライ、コロッケ、焼き魚、卵焼き、おしんこ、などが、入っていた。
これ、作るの大変だったろうなー、と僕は思った。
というのは、僕が、弁当を作ったことがない、からで、弁当を作り慣れている、彼女にとっては、そんなに、手間のかかることでは、ないだろう。
「祥子さん。有難うございます。わざわざ、僕のために、作ってきて下さって」
僕は、彼女に頭を下げた。
そして、いただきます、と言って、僕は、弁当を食べた。
「祥子さん。美味しいです」
実際、彼女の作った、弁当は、美味しかった。
「嬉しい。浅野さんに、私の作った、お弁当を食べて欲しかったんです。美味しい、と、言って下さって、有難うございます」
彼女は、僕が弁当を食べるのを、嬉しそうに見ていた。
こんなに、僕のことを、思っている彼女を、たとえ本意でないとはいえ、僕は、裸にして、虐めてしまったことに、心から、申し訳なさ、を感じていた。
女は、可哀想だな、と、つくづく思った。
女は、月、一度、生理という、つらいことがある。
聖書では、人間は男で、男がさびしくないように、男の肋骨の一本から、女を作った、と、書いてある。
女性の権利を全面的に認める今の時代では、女性蔑視的な考えだが、何とロマンチックな思想なのだろう。
そして、女は、奇麗に見られたい、ということが、全ての女にとって、宿命で、そのため、女は、外出する時は、時間をかけて、化粧をしなくてはならない。
「弱き者汝の名は女なり」という、シェークスピアのハムレットの言葉を僕は、つくづく感じた。
人間は、男の精子と、女の卵子、の両方がなくては、産まれない、というのは、事実だが、子供の出産において、男は、何も苦しみはないが、実際は、女が、つらい思いをして、産んでいるのだ。
そして、大変な子育ても、しているのだ。
女は、生きていく過程で、出産、子育て、ということを、考えながら、生きなくては、ならないのだ。
男の、人生には、そういう煩わしさ、は、ない。
しかし、女は、腹を痛めて、自分の体の中から、子供を産んだのだから、子供に対する、愛情も、男より、ひとしお、の思いがあるだろう。
ポタリ。
そんなことを考えながら、弁当を食べていると、僕の目から、涙がこぼれた。
「あっ。浅野さん。どうしたの?」
彼女が聞いた。
僕は、わっ、と、子供が母親に抱きつくように彼女の腰に抱きついた。
「あっ。浅野さん。どうしたの?」
彼女が聞いた。
「おかあさーん」
僕は、そう言いながら泣いた。
涙がとまらなかった。
僕は、男は、どんなに、辛くても、人に甘えては、ならない、と、自分に言い聞かせてきた。
男は地獄で笑うもの、と、強がってきた。
しかし、僕は、彼女に抱きつかずには、いられなかった。
虚勢をはっていても、僕は、愛に飢えていた。
僕は、彼女の子宮に入るくらいの、小さな、小さな、小人になって、この世の全ての煩わしいことに悩まされないで済む、彼女の子宮の中に、胎児のように入ってしまって、そこで、いつまでも、眠りつづけたいと思った。
しかし、僕のそんな思いは、誰にも知られたくなかった。
「祥子さん。お願いです。このことは、誰にも言わないで下さいね。祥子さんの、ブログで書いたりしないで下さいね」
彼女は、ニコッと、笑って、至極、当たり前のように、「言いませんよ。浅野さん」と言った。
そして、「よしよし」、と、子供を可愛がるように、僕の頭を撫でた。
彼女は、きっと何もかも、僕の心を知っているのだろうと思った。
いつまでもこうしていたかった。
涙がポロポロと流れた。
僕は何も考えていなかった。
ただ清々しい満足の中に静かに眠っているかのようだった。
令和3年8月30日(月)擱筆