『博物館に一本電話をかけたら長年の疑問が解決して小説ができた話』
以下『美少年興信所 ルツの夢』を書いた時の、調べ物の話をする。
私が住んでいる平塚市に「入部」という町名がある。≪いりぶ≫と読む。今の職場に入るまで、その町名を知らなかった。なにしろ「入部」には誰も住んでいないという。知人が住んでいない場所など、興味がなければ知るわけもない。当時の上司も「覚える必要はない」と言った。
ただ、どうして人が住んでいないのかは誰も教えてくれなかった。山奥ならまだしも、位置的には市のど真ん中あたりだ。「地主さんが手放さないんじゃないの?」という人もいた。もっともらしいが根拠はない。そんなわけで「入部」の謎は、しばらくとけないままだった。
ある日、図書館で『新編相模国風土記稿』を見つけた。相模国、つまり現在の神奈川県あたりについて、江戸時代に幕府によってまとめられた地誌だ。どのような行政区があったか、それぞれ江戸からどれぐらいの距離か、そして住んでいる人の数・世帯の数などが記されている。
平塚地区も含まれているので、パラパラとめくってみた。
当時の村の名前が、現在の町名・地名に残っているのがわかる。
入部もあった。
「ん?」
そこには「民戸なく」と書いてある。つまり家が一軒もなかったということだ。
江戸時代にすでに無人だったなら、現在の地主は関係ないだろう。
人がいないのは、別の理由があるはずだ。
さて、どう調べる?
私は平塚市博物館に電話をかけた。
「平塚市の入部には、昔から人が住んでいないらしいのですが、どうしてなのでしょう。私は一般市民で、学者とかではないので、理由がわかりさえすればいいのですが」
調査は有料です、とか、わかりませんね、という反応を覚悟していた。
だが、電話をとった人はこう答えた。
「わかりそうな者が二名ほどおりますので、調べて折り返しご連絡いたします」
わかるんかい!
分野が違う専門家がそれぞれいるということで、その日に博物館にいた学芸員の方が、本当に折り返し電話をくれた。
「そもそも入部というのは、他の村の人などが入って耕作する耕作地をいいます。他村の耕地を耕作する場合を出作(でさく)といい、耕作地のある村ではこれを入作(いりさく)というのです。平塚の入部は、正式には≪長持(ながもち)入部≫という名前で、それを省略して入部と呼んでいます。出縄(いでなわ)や近辺の村の人が、耕作のために入っていたようです」
「どうして人が住んでいないのでしょう」
「花水川が氾濫するので、人が住むのに適さなかったということでしょう」
「花水川のすぐ脇に、寺田縄(てらだなわ)がありますが、けっこう人が住んでいますが」
「寺田縄あたりは、自然堤防で高くなっているので」
「なるほど。ありがとうございます」
自然堤防というのは、その名の通り、人間がつくったものではなく、川の流れによって堆積した土によってつくられた堤防だ。つまり、川が越えられない高さになっているので人が住める。後で子ども向けの郷土資料でも確認してみたが、昔の花水川は数年に一度は大氾濫し、ひどい時は毎年のように氾濫していたらしい。
戦後、花水川には堅固な堤防が築かれた。おかげで大雨が降っても、堤防を越えることはほぼなくなった。私の半世紀分の記憶でも、その堤防をこえたことは一度しかない。その時は、川から数キロ離れたうちの近くまで水がきた。主要道路は冠水し、近所の家は床上浸水で畳が上がってしまった。あれを頻繁にやられたら、たまったものではない。人が住まないのも当たり前だ。エジプトのナイル川のように、大河でも決まった時期にゆっくり水量が増してゆき、高台に引っ越す猶予が常にあった、というなら話は別だろうが。
ちなみにこの時、現在の地主が誰なのか、ブルーマップで調べられる、と教わった。地元のものなら図書館にも備え付けられているので、地番はそれを見ればわかると言われた。地番を元に問い合わせると、土地の持ち主が誰か、わかることになっている。なお、法務局に電話しても、地番確認は可能らしい。実際に資料室に行ってブルーマップを見せてもらうと、戦後の農地改革のせいか、入部にも細かく地番がふられていた。いくつかピックアップして、本当に持ち主を調べてみるべきだったかもしれない(「ルツの夢」作中の知恵蔵のように、本当に自分が相続する可能性があるなら、有料だが問い合わせただろう)。
それから私は図書館の郷土資料の棚に行き、江戸時代の平塚市の田畑を誰が所有していたかを調べてみた。
多少の変遷はあるが、江戸時代においては、徳川家の旗本が持っている土地が多い。
この時代、平塚は、徳川家と縁が深かった。東海道の宿場町というだけでなく、中原街道の終点でもあり、家康の鷹狩りの御殿もあった。江戸から直接南下できる中原街道は、急ぐ場合は東海道より重宝したようだ。御殿(ごてん)という町名も残っている。中原上宿(かみじゅく)・中原下宿(しもじゅく)というバス停名、町名も残っている。この「宿」は、大名行列についてきた家来たちが泊まる場所で、主君の泊まる御殿を挟む形で残っている。
ちなみに入部は、春日局によって「救い米」をつくる地域に指定されており、近隣地域の飢饉の時は、ここでつくられた米が配られたとあった。それだけ米がとれたのだろう。そんなにしょっちゅう川が氾濫していたのなら、土地は肥えていたはずだ。
イメージが固まってきたところで、私は実際に、入部に足を運んでみることにした。
グーグルマップで見ても、ストリートビューで確認しても、家は一軒もない。
現地にたどり着くと、ほんとうに人家はなかった。広告の看板とゴミの集積場が片隅にあるきりで、あとはぜんぶ田んぼである。夏だったので、田んぼは稲穂がすくすくと育ち、静かに流れる水の音しかしない。涼しい風が吹いてくる。遠くで農作業している人が見え、たまに遠くを車が走っていく。本当に、まわりをぐるりと小高い場所に囲まれた低地だった。花水川が氾濫して堤防を越えたら、ここは今でも泥の底に沈むだろう。
よし、これで一本書ける、と思った。
私はフィールドワークが苦手で、大概は資料にあたって書いてしまうが、現地で風に吹かれた時、洒落のめした金持ちが何人もここに立っていたら違和感がすごい、ということが体感できた。ここにふさわしいのは、ボンネットをかぶり作業着を着たひとたちである。
これを書けばいいのだと。
美少年興信所の三冊目『所長の憂鬱』収録作品は、聖書をベースにしている。何がつらかったかといって、私に聖書の読解力がないことだった。プロテスタントの大学を出ているので聖書を所持しているが、ざっと読んで意味がわかる本ではない。大学では授業もあったし、礼拝で牧師から説教をされるが、むしろ矛盾や腹の立つ話ばかりなので頭に入ってこない。おそらく敬虔なクリスチャンでさえ、通してきちんと読んでいないのではないかと思う。興味を持った人を門前払いしかねない古書だと思う。
たとえば私が、拙作「カインの神様」を伝説の編集者に読んでもらった際、「実は僕も最近、聖書を読んでみたんだけれども、まったく面白くなくて」と告白された。私はうなずいた。「そりゃそうですよ、なんの素養も解説もなしに、いきなり古事記や日本書紀を読んでわかりますか? それと同じです」と。キョトンとされたが、考えてみてほしい。自国の古典でもスラスラ読むのが難しいのに、他の国で成立して、さらに様々な言語に翻訳されたり派生があったりして(その派生が含まれる死海文書が発見された時、世界中に走った衝撃は、クリスチャンでないと理解できなかったかもしれない)、つまり数千年前のオリジナルからかけ離れている伝説の類を読んで、いきなり「ぜんぶわかる!」という人がいるわけがない。面白くないのは当たり前だ。
なので、題材探しもかねて、聖書については様々な解説書を読んだ。『所長の憂鬱』には豆知識コーナーもつくってある。作中のモチーフに補足が必要だと思ったからだ。
その『所長の憂鬱』の四話めにあたる「ルツの夢」は、有名なルツとナオミの話で、ミレーの落ち穂拾いの元ネタにもなっているエピソードを下敷きにしている。その作品舞台を、この「入部」に設定した(他の地名は微妙に変更した)。とにかく入部の謎がとけたのが楽しすぎて、執筆時よりも調べ物をしている時の方が興奮するという、まれな体験をした。ここで学者ならもう一掘り二堀りするのだろうが、私が書きたかったのは時代小説ではなかったので、ここで止めてしまった。
ただ、調べ方がわかったので、機会があったらまた何か書くかもしれない。
平塚市というところは、東海道線が走っているところより南は埋め立て地、つまりほとんど海だったところなので、歴史のないイメージ地名が多い。
また、山の中を切り開いて人が住めるようになったところも(新幹線からマッチ箱のような家が並んでいるのが見える有名なところだ)、販売しやすいようイメージ地名がつけられている。
しかしそれ以外のところはなんらか由来があるはずなので(町名に残らなくてもバス停の名等に残っていたりする)、面白そうなものがあったら、またネタにできないかと思ってみたりもする。
以上、博物館は頼りになるよ、というお話でした。
もちろん図書館も!
(2024.5脱稿、ペーパーウェル13:テーマ「ミュージアム(博物館・美術館等)」参加作品)
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Narihara Akira
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