『それらすべて空の彼方』


 祖父のことを書く。

 大正時代のはじめ、千葉県の佐倉市に生まれた。庄屋の次男坊だ。家は農家とそば屋を兼業していたともきく。街道筋にあったからだろうか。
 幼い頃に小児麻痺にかかった。何度か手術をしたが、左足は伸びきらなかった。一生引きずっていた。
 次男なので家は継げない。足が悪いのも働くには不利だ。初等教育を終えると祖父は、東京物理学校へ進んだ。現在の東京理科大学の前身である。電車で往復四時間かけて通い、そこでたいへん勉強した。数学・物理学のみならず、英語も堪能だったという。
 学校の先輩から「海軍技官の仕事がある、平塚にこないか」と誘われた。神奈川県の平塚市に海軍火薬廠があった。平塚は扇状地で、相模湾に流れ込む大きな川が複数ある。水利があるので、古くから工場が多かった。東海道線から火薬工場への引き込み線がつくられ、物資が運ばれた。
 遠い親戚と婚約中だったが、祖父は単身、平塚へやってきた。官舎に住み、ロケットや原爆の研究をした。呉の工廠を見学したこともあった。軍艦にも乗せてもらったが、燃料がないので湾の中をぐるぐると回って終わった。もし時期がずれていれば、祖父は彼の地で跡形もなく蒸発していたかもしれない。
 独り身でいるとよろしくないことが発生する。婚約者が急いで平塚へやってきた。結婚して子どもも生まれた。その後一家は、海軍が地主から借り上げた別の官舎にうつった。ここが私の生家だ。戦後建て増しされ、さらに建て替えられている。
 太平洋戦争が始まった。空襲は早い時期からあった。火薬工場があるからだけでない、米軍の飛行機がグアムから北上して、東京を目指す一直線上に平塚はある。焼き払ってしまえば上陸が楽だ。子どもたちは一度疎開したが、うまくゆかず戻ってきた。そして昭和二十年七月、平塚大空襲に遭った。海岸の高射砲はすべて炎上、駅舎も燃えた。機関士が、火薬を積んだ貨車を命がけで大磯まで避難させたので、市街地が吹っ飛ばなくてすんだが、その一晩で広島の原爆をこえる爆弾が降り注いだ。モロトフのパン籠と呼ばれたクラスター焼夷弾。親たちは、水のはってある田んぼまで走り、神社の影にしゃがんで隠れた。頭上では松の木がごうごうと燃えさかり、何があったか子どもをおぶった母親がぱっと立ち上がった瞬間、機銃掃射の餌食になった。
 翌朝戻ってみると、庭に大穴が開いていた。幸いにも家は焼けておらず、幼い長女は井戸水をくみ、防火訓練で身体を壊した母親の代わりにさしかけ屋根の下で料理をした。これが私の母だ。
 戦後の祖父は、一時期公職追放となった。米兵が悪さをしようとやってくれば、得意の英語で追い払う。食べるものがないので、庭で野菜をつくり、鳥を飼い、パン焼き機をつくってパンを焼き、仕事を探した。セールスマンをやったり、国鉄に勤めたり(ゼネストでやめた。後の首相とやりあったりもしたそうな)、様々な職を経た後に、知人に乞われて隣町の数学教員になった。隣町には中学がひとつしかなく、そこにずっと勤めた。退職後は私塾もやった。家の廊下に謄写版印刷機があり、祖父は美しい字で教材のガリ版を切っていた。私は高校一年まで、祖父の机の脇で数学を教わった。机上には常に煙草があった。昔の話なので、私がおつかいしたこともある。ハイライト、峰、セブンスター、マイルドセブン、だんだんと軽くなっていったのを覚えている。


 祖父は内孫の私を可愛がった。祖母に似ていたからだろう、と母はいうが、外孫の方がむしろ祖母の面影を残している。ただ、早く亡くなった祖母を私は覚えていない。幼稚園の頃は葬式の様子まで語ったらしいが、今の記憶は仏壇の写真だけだ。
 幼い頃の私は、祖父の部屋で寝ていた。怖い夢を見ると、祖父の布団にもぐりこむ。迷惑がらずにあやしてくれた。家でヒマそうにしていると「本でも買っておいで」と小遣いをくれた。すぐに本屋に行って、ふだん買えない本を買った。
 祖父は週末に妻の墓参りに行った。時々、自転車の後ろに乗って一緒に行った。自分で乗れるようになると、自転車でついていく。「うまい店を見つけた」と、帰りに外食したりもした。祖父は家では一番の美食家で、自分で料理もした。祖父が選ぶのはいつも美味しい、居心地のいい店だった。
 祖父が自転車事故に遭い、歩けなくなった時期がある。
 小さい頃の私は、腰の曲がった年寄りがいるように、年のせいで足をひきずっていると思っていた。なにしろ祖父は、足のことで一度も愚痴をこぼさなかった。退院後、整体師に恵まれ、杖をついて歩けるようになると、私塾を再開した。ただ、自転車で行くことはできないので、家族が車で隣町まで送迎した。そのため私も大学一年で免許を取得した。介護がなければとることはなかったろう。今ではまったく運転できない。


 その日は空が青かった。
 夏休みだったが、部活指導で、校庭を走る子どもたちをぼんやり見ていた。
 吹奏楽部の経験があったので、指導できるのなら、と呼んでくれた中学だった。最初の三年は夢中でやった。百人を越える部員を抱え、市の施設で行う定期演奏会は盛大なもので、音楽教師の同期がいなければ、成功させることはできなかった。
 そのうち体育系の部活も兼任するように言われ、部活への熱意は急速に失われた。
 祖父が、一ヶ月ほど前から入院していた。
 トイレに間に合わないことがなかった祖父が粗相をした。検査のために入院すると、みるみるうちに何もできなくなった。見舞いにいった叔母は「あきらか?」と言われた。孫と娘を間違うなんて、と憤慨していた。惚けてしまったのだ。
 帰宅すると病院から連絡があった。あまりよくないという。男親は泊まりがけの会合があり、家にいなかった。すぐに母がでかけていった。夜に危篤の知らせがあった。もう旅館に連絡するには遅すぎた。残りの家族が病院にかけつけた。
 祖父の顔にチアノーゼが出ていた。「もうだめだ」とわかった。
 翌早朝、元海軍病院であったところで、祖父は亡くなった。


BR  葬式から初七日の間は、夢の中にいるようだった。週末に大学の先輩から飲み会の誘いがあり、家族に言うと「別にいいよ、いっておいで」と言われた。終電がなくなり、初めて無断外泊した。後に幻想文学作家となる津原さんの家に何人かで泊まった。翌朝、彼の当時の彼女がコーヒーをいれてくれた。
 喪中欠礼がわりに残暑見舞いを書いた。「なりはらさんらしいけど、喪中欠礼は挨拶を省くためのものでしょう」と同僚に言われた。つまり私は、まだぼんやりしていた。
 四十九日の頃、とつぜん祖父が亡くなった実感がわいた。私は泣いた。


 図書館に地域資料として、海軍火薬廠の本がある。それを開いて祖父の顔を探す。だが、豆粒のような集合写真の中に、祖父の顔を見つけることができない。なぜだ。
 祖父はロケット屋と呼ばれていたという。火薬廠でロケット開発をしていたことは近年まで知られていなかった。火薬廠跡地の石碑が横浜ゴムの前に残り、引き込み線の一部は博物館の庭のD52と共に今もある。祖父はいずれ千葉に戻るつもりだったともきく。佐倉へ行くのに半日かかる平塚へ来る理由は、火薬廠しかなかったはずだ。
 ただ、祖父は戦争の話をしなかった。
 学校の宿題で、家族に戦争の思い出をきいてくるようにといわれ、祖父にプリントを渡すと、そこには短い謝罪の言葉しか書かれていなかった。
 祖父は足が悪く、赤紙を免れた。内地で兵器をつくっていたこと、他の若者を戦地へ赴かせたことを悔いていたので、せめて人を育てようと教育の道に進んだのだろう。母はそう言った。


 そう。
 私の生まれる前の話は、すべて親からきいたものだ。祖父本人の口からではない。
 祖父がゆるやかな坂の向こうから自転車で帰ってくる時、姿が見える前から猫が飛び出していって、祖父の肩に乗って帰ってきたという話を知っている。目に見えるようだが、自分の目で見たことではない。その道路は今は平坦だが、一本奥へ入ればまだ坂だから想像はつくのだ。


 祖父の日記を読んでしまったことがある。祖母が亡くなった日から何日たったか、日付のすべてに添えてあった。生きている間によくしてやれなかった悔いがあったのだろう、と母は言う。祖父は病弱な祖母のためにフルタイムの付添人をつけ、金銭的に不自由はさせなかった。ただ、最初にいた官舎の管理人が子持ちの未亡人で、なんらかあったらしい。足の悪い自分の将来を悲観して、まともな結婚などできないと思っていたのでは、と母は付け加えた。それは負い目かもしれない。が、結婚前の話なら、お洒落で情の深い彼にそういうことがあったとしても、そう不思議に思わない。
 日記には私を心配する言葉も連なっていた。私が子ども向けの仕事に向いていないことを危惧していた。帰宅の時間まで記されている。私は祖父に守られていた。私立の大学へ行けたのも、祖父が学費を負担してくれたからで、私は高卒のまま、就職もできずにいたかもしれない。
 祖父が亡くなった後、日記は母が管理した。何かあれば参照していたが、私には絶対見せなかった。その後、仏間から火がでたので、燃えてしまったかもしれない。母はそれすら教えてくれない。


 母は老いた。祖父のことも忘れている時がある。いずれきくこともできなくなるだろう。私がこれを書いているのは、聞いた話であっても、書き留めておかなければ消えてしまうからだ。祖父の真実を尋ねられる親戚は、他にいない。次の戦争が始まれば私も死ぬ。いや、始まる前に死ぬかもしれない。今しかないのだ。


 そう、祖父が知っていたこと、経験したこと、それらはすべて、もう空の彼方だ。


(2024.5脱稿、ペーパーウェル12:テーマ「空」参加作品)

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Narihara Akira
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