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2024年10月27日 礼拝メッセージ
『群れの中に生きる』  伝道者の書 4:9~12  小野寺 和俊 伝道師

二人は一人よりもまさっている。
二人の労苦には、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。
倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、二人が一緒に寝ると温かくなる。
一人ではどうして温かくなるだろうか。
一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単に切れない。

伝道者の書 4:9~12

今日のメッセージは先月に引き続き、ソロモン王が書いたと言われているソロモン三部作、箴言、伝道者の書、雅歌、この三つの中の一つ、伝道者の書に書かれている御言葉です。

ソロモン王、言わずと知れた「イケメン中のイケメン」の王様。非常に頭が良く、地位も名誉も富も、全てを持っていたと言えるイスラエルの王様です。一体何人の奥さんがいたのでしょうか。しかし、その女性達からやがて偶像礼拝に陥ってしまいます。お父さんのダビデも女性問題で大きな罪を犯してしまいました。男性は女性に弱いんですね。。しかし、ソロモン王は実に偉大な王様だったのです。イスラエルの歴史において、約BC1010年にダビデ王がイスラエルを約40年間統治しました。その後、息子であるソロモン王が約BC970年から約40年間イスラエルを統治します。そして、約BC930年にイスラエルは北と南に分裂し、王様がコロコロと変わり、やがてアッシリヤ補修、バビロン補修へと繋がっていきます。イスラエルの民が偶像礼拝の罪に陥ってしまった為、国が滅んでいくわけです。イスラエルが恵まれていた時代、簡単にいうと「良かった時」というのは、ダビデ王時代の40年間、ソロモン王時代の40年間、この計80年間だけなのです。(BC142年に誕生したハスモン王朝による短期間の統治は例外とする)今現在のイスラエルはどうでしょうか。言うまでもないと思います。

イエス・キリストがお生まれになってから約70年後、ローマ帝国によってユダヤ人は国を追い出されます。(ディアスポラ/離散)そしてそこから約1900年後の1948年に不思議な形でイスラエルという国が建国されます。

ソロモン王、ダビデ王がいかに、神によって選ばれ、恵まれ、用いられていたかを強く感じます。そのソロモンが書いたのが、伝道者の書なのです。

今日はこの聖書箇所から、集まる事、教会、群れということについて、神様の御心、ソロモンが神から得た「知恵」を味わい、皆さんと共に共有し、それぞれ与えられた場所、人々に流していきたいと思います。

何故、私達はこの教会に集まるのでしょうか。「二人は一人よりもまさっている。」とソロモンは言っています。これは、四人は三人より、三十人は二十人よりと考え、想像、イマジネーションを働かせる時、教会に対して当てはまると事だと考えることができます。

今日の宣教代「群れの中に生きる」としましたが、僕は群れるのが嫌いというか、苦手です。子供の頃から団体行動が不得意です。教会に行きはじめた、20代後半から、だいぶ経つまで、教会に集まって礼拝以外の交わりを持つことが苦手で、いつも避けていました。礼拝終わったらすぐ帰る。速攻でいなくなる。面倒くさいから。駄目なことなんでしょうか。それは後でお話ししたいと思います。

何故集まるのか、簡単です。神様がそうしなさいと言っているからです。伝道者パウロはヘブル人への手紙(10:25)の中で「ある人達の習慣にならって自分達の集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と言っています。できたばかりの教会内で色々な問題が起こり、分裂していったのでしょう。その教会に向けて「集まるのをやめてはいけない」とはっきり言っています。これは、現代においても大きく当てはまるのではないでしょうか。コロナ化、コミュ症、コスパ、タイパ、ポリコレ、パリコレ、、正直言ってついていけないところがあります。

あるクリスチャンがこう言ったとします。「教会行く必要ないよ。だってyoutube見れば幾らでも、牧師の素晴らしいメッセージが聞けるし、聖書の解説動画も沢山あるし。」正に今、このパウロの言葉は突き刺さってくるものだと感じています。

またパウロは当時できたばかりの幾つもの教会に宛てた手紙の中でこう言っています。

「天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示される」
エペソ3:9~10

神様はアブラハム、すなわちイスラエル民族を選んだのです。聖書はイスラエル民族、ユダヤ民族の歴史を中心に書かれている書物です。イエス様はいつも弟子達(12人の他にも沢山居た)と共におられました。ご自身を羊飼いに例え、弟子たち、私達人間を羊に見立てた。羊たちは羊飼いがいないと何処に行っていいのか分からないのです。

この言い方はあまり好きではないのですが、キリスト教というのは、人と人との繋がり、即ち「群れ」の中で育まれ、成長し、恵を得る。理解していく、分かっていく、捉えられていくものなのです。パウロの言う通り「教会」という群れを通して、神様は私達に語りかけるお方なのです。

また、キリスト教は決して個々の修行によって霊性が高められ、神に近づく意識の何たらかんたらみたいな訳のわからないものではなく、ある意味理論的であり、それ故に教理というものがしっかりと成り立つものなのです。言葉にすることができる。形而上理論が成り立つのです。当時の教会、約2000年前の初代教会では何をしていたのでしょうか。

使徒の働き2:41~47
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

聖霊降臨(ペンテコステ)のあと、ペテロが語ったメッセージ(人類史上最初の説教とも言える)を聞いた人々が、なんと三千人がジーザスクライストスーパースター、キングオブキング、イエス・キリストを受け入れ、洗礼を受け、集まり、使徒たちの教えを守り、祈り、賛美、パンを裂いたと書かれています。聖餐式というのは、イエス様が十字架に付けられる前夜、弟子たちと共に食事をした。その事を私達もさせてもらうのです。それは、イエスキリストの十字架を「忘れない為」に行う儀式なのです。イエス様はパンを裂いた、ご自身の身体を裂いて弟子達に、私達に与えて下さったのです。「達」です。すなわち「群れ」の中で行う必要があり、家で一人でyoutubeを観ながらやっても無意味な事なのです。

また、「財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」とあります。この間行ったフリーマーケット、「JESUSマーケット」のことでしょうか。昔から教会がバザーを開催するのは、この聖書箇所からきているのかなと感じます。

全て、群れにおいて行われる事なのです。

また教会というのは神様の名の元に集まった「チーム/TEAMイエス・キリスト」と言えるのではないでしょうか。人は同じ目的を持って集まる時、大きなパワー、知恵を得る事ができます。正に「二人は一人よりもまさっているのです」

この間「オッペンハイマー」という映画を観ました。オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれた、ユダヤ系アメリカ人の理論物理学者です。原爆を作った人です。アメリカ政府からナチス対策に基づいた原爆を作って欲しいと依頼され、原子力爆弾、核兵器の政策に取り組んでいく中、結果的には日本の広島、長崎の原爆投下に繋がっていってしまう、、。オッペンハイマーは原子力を研究、開発するにあたって、まず初めにチームを作ります。水爆を作ったエドワードテラーを始め、何人ものノーベル賞受賞者軍団、物理学者オールスターを集結させて原子力爆弾という人類史上最も恐ろしい兵器を作り上げたのです。

教会もチームです。もちろん原爆を作るのが目的ではありません。イエスキリストを主体としたチーム、群れなのです。ではイエス様を主体とするとはどういうことか。教会の目的は何なのか。

「AA」(アルカフォリック・アノニマス)/アルコール依存症者自主治療教会をご存知でしょうか。創設者はクリスチャンです。 アルコール依存に苦しんでいる方達が集まり、お互いを励まし合い、支え合う事をしています。僕の友人は今もその活動に参加しています。AAは資産を所有せずに、本部も広報センターもないそうです。官僚主義につながりそうなことは一切していないそうです。集まって、自分の事を包み隠さず話、励まし合う。そこには色々な立場の人たちが集まります。社会的に地位のある人や、そうではない人、本当にそれぞれです。でも、そこではみんなが共通している事がある。それは「アルコール依存」です。それだけなのです。そして、AAに繋がっていないと、またお酒を飲んでしまう、誘惑に負けてしまう、そうならない為、皆で集まり励まし合う、そういった場なのです。

これはある意味、教会の形と一緒だと思います。教会には色んな人達が集まります。年齢が違う、趣味が違う、政治観だって違う。ただ一つ、一致しているところは、誤解を恐れずに言うと、私達は「キリストイエスに依存する者」なのです。皆さん一人一人、イエス様に繋がっていなければ、何もする事ができない。罪人の集まりなのです。群れなのです。そこには何の差もない、AAと一緒です。それだけなのです。

だから冒頭でお話しした、礼拝後にすぐ帰りたい、群れるのが苦手、、それでは駄目なのか。そんな事はっきり言って問題ではないのです。私達はキリストにすがり、神を礼拝し賛美する、いや、そうしないといられない群れなのです。

そしてこの教会というイエスキリストの名におけるチームは「一人より二人」とどんどん増えていく恵みがあります。だから人々にイエス様を伝えていく必要があるのです。時が良くても悪くても、全世界に出ていき、福音を伝えなさいと神様はおっしゃっています。

この間行った「JESUSマーケット」は本当に祝福されたと感じました。初めての試みでしたが、多くの方達が教会に来られ、心地良い賑わいを得る事ができました。逗子の教会というと、駅前の逗子教会を皆さん連想されるらしいのですが、「ここに教会(逗子福音教会)があるのを初めて知りました」と言われた方や、「この教会の存在は知っていたのですが、中に入ったのは初めてです。素敵な場所ですね」と言ってくれた方もいました。「今度礼拝にも来てみます。」と言っていた方もいました。まずは教会に一歩踏み入れてもらう。その事をしたかったので、大成功と言えるのではないかと思います。本当に楽しくて、またやろう!とやっている最中に考えていました。あの教会は、地域の人々に向けて、何かを発信をしている教会だというイメージを持ってもらいたいと思っています。そしてこの事はチームでやっている事なのです。教会員、はたまたそうではない僕の友人たちと共に力を合わせて開催されたのです。目的は神様を一人でも多くの人に伝える為に。

では、様々な理由で、当日参加されなかった方はチームの一員ではないのでしょうか。一般社会ではそういった考え方があるかもしれません。
しかし教会は違います。

祈りで支え合う事ができるのです。例えば、フリマやコンサートなどの催し物をきっかけに礼拝に来た人がいたとします。その人に対して神様を伝えたり、礼拝というものを教えてあげるのは、もしかしたら当日、催し者には参加していない信徒かもしれないのです。神様の計画は実に深いものです。教会は一般社会とは真逆と言ってもいい過ぎではないと僕は思っています。ただの寄り合いではない。組織ではない。何処にも行けない、どんな人たちとも集まる事ができない、上手くやれない。 そんな人が来る場所なのです。どんな人でも受け入れる場所なんだと思います。そうじゃないと僕は来ません。そうじゃない教会なんて行かなくていいと思います。みんな一緒、ガチな罪人の集まりなのです。

何度も言いますが、教会はチームです。また神はそれぞれに賜物、役割を与えておられます。教会に集まる理由の一つとして、「賜物を使う場に集う」という意味もあるのです。何故なら賜物は使ってこそ意味があるからです。

例えば、教会にいる8割の人が外に向いている伝道者だったら、初めて教会に来た人はどれだけ居心地が悪いのでしょうか。パウロは誰もが伝道者でしょうか、預言者でしょうか、、と言っています。JESUSマーケットにおいて例える事ができるのですが、当日僕と妻は外にチラシを配りに行きました。会場である教会から外に出ていったわけです。もし、フリマを僕と妻だけでやっていたらどうなるのでしょうか。会場が空になって成り立ちません。僕たちが外にチラシを撒きに行ってる間、ちゃんと仲間が教会にいてくれる、だから成り立っているのです。当たり前の様な事ですが、これがチームというものなんだと思います。

今日の聖書箇所に戻りたいと思います。最後の節にはこうあります。

一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単に切れない。

一人なら打ち負かされても、二人なら、三人なら、教会に集まるなら、、神のチームが形成されるなら。

そして、一番大事なポイント、それは「三つ撚りの糸」三つ目。これはイエス様の事です。この「三つ目の糸」は何にも置き換える事はできません。私達は罪の為十字架にかかり、死んで蘇った、そして聖霊さまを通して今も共におられるイエス様を忘れない為、感謝を捧げるため、喜びの賛美を歌う為、福音をまだ知らない人々に伝える為、今日もこうしてこの教会に集う群れなのです。

イエス様は言っています。
ヨハネの福音書15:5
「わたしはブドウの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることがてきないのです。」

教会はイエス・キリストの体であり、ブドウの木なのです。枝は木から離れては枯れてしまうのです。

今日は交わり会があります。先程お話ししました、僕は教会の交わりが苦手で避けていたと。しかし今は違います。考え方が変わったのか、、大人になって落ち着いたのか、、いや違います。今でも僕は人とのコミュ二ケーションが得意なのか不得意なのか、好きなのか苦手なのか、ハッキリ言ってわかりません。

孤独は大切な事だと思います。イエス様は「群衆を解散させてから、祈る為にひそかに山にのぼられた。」と聖書にあり、 「自分の部屋に入り、戸を閉じて祈りなさい」とおっしゃった。心を鎮め、神様と一対一で向き合う時間が私たちには必要なのです。

それと同時に!神様は教会に集って、互いに励まし合いなさいとおっしゃっている。それをするだけです。集まりなさいと言っているから集まっている。神によって教会に呼び出されている事への感謝、喜び!是非、皆さんと共に分かち合いたいと思います。