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祖母と旅するアフリカ

(五)四日目

サルとの戦いに勝利をおさめること、

ケープタウンにおけるホテルのプールについて

出発の朝、このロッジには2泊もしたので、立ち去りがたい気がした。ロッジの2階の軒下に、Red-Winged Starlingが巣をかけている。駐車場の入り口の木には、ハタオリドリのコロニーがある。私がじっくり見たことがある鳥の巣は、ツバメの巣ぐらいだ。それすら最近はあまり見かけない。20年ほど前、中目黒の東横線ガード下に巣を作っていたツバメはどこへ行ったんだろう。

そして朝食のとき、事件は起こった。われわれは3人でテーブルを囲み、朝食をとっていたのだが、私がジュースをとりに立ち上がった拍子にできた死角から、野生のフルーツモンキーがお皿のケーキに襲いかかってきたのである。祖母とコヤマさんは悲鳴を上げた。私は大変腹が立ったので、ナイフを持って食堂の隅へ行った。そしてロッジの庭の藪から様子を伺っているサルをサル語で怒鳴りつけ、追い払った。これを見ていたロッジで働く人々は、「彼女はとても強いよ」とほめてくれた。

朝食後、フェイさんが迎えに来てくれ、ビクトリアフォールズ空港へ送ってもらう。ヨハネスブルクを経てケープタウンへ行くのだ。フェイさんの車にはお子さんも乗っていて、予想通り大変にかわいらしかった。来たばかりでまた去るのは寂しいけど、日程が忙しい旅行のほうが旅をしている気がする。日本人の性に合ってるのは、バカンスじゃなくて常に移動する旅だ。松尾芭蕉も平泉・高館には15分くらいしか居なかったらしいし。つわものどもがゆめのあと。

ビクトリアフォールズ空港では、韓国人のツアー客と一緒になった。太い杖や、でっかい民芸品の置物を抱えているおじさんやおばさんたちだ。これらはどういうところにディスプレイされることになるのだろうか。都市部の高層住宅の居間か、それともどこかの田舎家の中心部か。

出発の時間がやってきて、我々は機体のタラップまで歩いていき、飛行機に乗った。短い飛行だが、サンドイッチとチョコバーの軽食が出た。

そうやって、あわただしく南アフリカに入ってしまったが、この国は少し前までアパルトヘイトをやっていたのだ。私が中学のころなどは、その非人道っぷりが新聞によく出ていた。でも、南アフリカ航空(略称:SARS)のスチュワーデスは色んな人種の人が働いているし、今と昔は違うだろう。

空港に着き、つつがなく荷物を受け取る。ケープタウンを案内してくれるガイドはケディさん。若い男性で、インド系、黒人、アラブ系、どれと言っても通用しそうな顔立ち。お父さんもガイドをやっているのだと言う。ケディさんの運転するワゴンに乗って、ホテルに向かう。もう日暮れだ。

空港から街までの間に、国立公園がある。バラックが並ぶスラムもある。国立公園ではクアッガ・プロジェクトが進行中だ、とケディさんは言う。クアッガはサバンナシマウマの地域変異種で、上半身だけにシマシマがあり、19世紀に絶滅した。サバンナシマウマの中から、クアッガに外見が似ている個体を集めてきて、交配によって再生させようというプロジェクトがあるのだ。スラムは地の果てまで続いている。

ケープタウンでは、コヤマさんとは宿泊先のホテルが違うのが残念だ。ケープタウンの宿は、日本でも普通に見られるタイプのシティホテル。中国人と米国人の団体観光客が宿泊しているようだった。夕食は、ホテルのグリルでステーキを食べる。ボツワナでBBCを見たら、米国で狂牛病が発見されたために、日本では米国産牛肉の輸入を止める、というニュースをやっていた。そのため祖母は牛サーロインステーキ(48ラント)を選び、私はダチョウのステーキ(58ラント)をたのむ。なお祖母の故郷のタンバササヤマでは、すき焼きにマツタケと牛肉しか入れなかった時代があった、という。これらの食材は、現金がなくても手に入るからだ。われわれはビールではなく、巨大なグラスに入ったワイン(20ラント)で乾杯をした。南アフリカでは絶対に食べたいと楽しみにしていたダチョウは、淡白で癖のない赤身肉だった。

ケープタウンの治安は悪い。ホテルから外には出ないほうがいいと言われていた。窓からはテーブル山が見える。雲が降りてきたかと思うと山肌を昇る。寄せては返す波のようだ。ホテルにはプールがあるということを聞いていたため、水着を持ってきていた。以前、スイス・バーゼルのホテルで、勇んで行った室内プールはほとんど池、という経験をしていたので、期待はしていない。

階段で出くわした掃除のおばさんに「プールに行くの!?」と聞かれ、「はい」と答えてドアを開けると、そこには屋外プール?ほとんど池?があった。何もせずに部屋に戻り、祖母と交代で風呂に入って寝た。

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