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祖母と旅するアフリカ

(二)一日目

香港のりかえで旅をする年の差55歳の2人連れ。

ビクトリアフォールズにおける諍いと、ザンベジ川の和解

飛行機に乗るとわくわくする。キャセイパシフィックに乗るのは初めてだ。祖母と、これから先の予定などを話す。トリ肉が中心の機内食はおいしくはないが、不満もない。こういう風に食べ物が四角くきっちり一カ所に詰まっているのがスキなのだ。香港には、ジャッキー・チェンの映画を見ているうちに着いてしまう。この時点ではまだ元気がある。

母がフルタイムで働いていたので、私は母方の祖父母にたくさん育ててもらった。家はそれほど離れていないし、成人にしてからも頻繁に行き来している。祖母は料理を作るのがうまいから、ご飯を食べさせてもらいに行く。また、正月には、母と母の姉弟の家族は祖母のうちに集まってパーティをするのが長年の習慣だ。しかし、祖母もトシだし、アフリカ旅行もあるし、来年はその慣習を崩して伯母の家で新年会をやろう、ということになっていた。

年末クリスマス前の香港国際空港はとても混んでいて、しかも広い。祖母をかばいながら乗り換え電車に乗ったら、前の客のバックパックにストレートを決められる。「リュックって迷惑なんだねえ。初めて分かったわ」と祖母はコメントした。かなり道に迷って、出発時間ぎりぎりでヨハネスブルグ行きの飛行機にたどり着いた。

ヨハネスブルグ行きの飛行機も混んでいるが、東洋人はきわめて少ない。この飛行機では眠ると決めていた。だが香港で歩き回ったせいもあって、興奮していてなかなか寝付けない。睡眠薬を飲んでも、1時間ほどしか眠れなかった。「フォークとナイフ、金属だね・・・。テロの心配してないのかなあ」と祖母と話し合ったりもした。

このツアーの参加者は3人であることが、この飛行機に乗るころにようやく分かった。放任主義のツアーなのだった。アフリカへ行くのは、私と祖母と、コヤマさんという、私より少し年上の女性だ。コヤマさんは平和な顔をしており、休みを取って旅行に出た会社員だ。ツアーも2人だけだと不安だし、説教好きの中年男性や、旅なれていることを自慢するバックパッカーなんかと一緒になったりしたらイヤだな、と思っていたので、とてもうれしい。

ヨハネスブルク行きの飛行機の中、朝食は牛肉あんかけ焼きそば。本当はスクランブルエッグも選べたはずだったのに、手違いでだめになった、ようだ。機長はひたすら謝っている。大変な商売だ。眼下に、本当に赤いアフリカの土が見える。円形の農園や、豪邸や、スラムも見えた。アフリカに着くということで、大変どきどきしていたが、祖母にも誰にもそのことは言わない。

疲れは確かに蓄積していた。ようやく着いたヨハネスブルクの空港では、私の勘違いのためにトラブルになってしまった。われわれの荷物は、ビクトリアフォールズ空港まで自動的に送られるはずなのに、自分で運ばなければならないようにその時は思い込んでいたのだ。飛行機で睡眠が足りず、疲れていることを自覚していたが、祖母を疲れさせてはいけないとも思っていて、それでさらにくたびれていた。大騒ぎしたあげく、何とかビクトリアフォールズ行きの飛行機に乗り換えた。

現地時間の12時30分、ビクトリアフォールズ空港に我々は到着した。ダンサーが歓迎の踊りを踊ってくれる。祖母はその写真を撮りに行った。写真を撮ったらチップをあげなきゃだめなんだ、と思うけど、疲労のせいで気配りができない。入国の書類を2人分書いて、ジンバブエに入る。ガイドのフェイさんが迎えに来てくれていた。ショートカットの美人で、9歳の子供がいるんだって。きっと子供もかわいいだろうと思う。

ロッジに寄って荷物を置き、少し休む。ロッジは2階建てで、全ての部屋から庭と、その向こうのザンベジ川が見える。午後はビクトリアの滝の観光だ。私は旅行の前に、図書館でリビングストンの伝記を借りて読んでいた。胸は高鳴るけど、疲れていて不機嫌になっているのが自分でも分かる。その上、フェイさんの英語のガイダンスを、翻訳して祖母に伝える業務もある。

「キンツリは、何でもやってくれてとても楽なんだよ・・・」

祖母は大手の旅行会社の手配旅行をよく使うので、いちいちそのツアーと比較する。私はそれがとても気に障る。すると態度もぞんざいになる。そんなつまらない理由でぞんざいな態度になる自分が恥ずかしい。

私は1970年代も後半になってからの生まれ、祖母との年齢差は55歳だ。祖母は、私をよくハイキングに連れて行ってくれた。5歳のとき、いっしょに高尾山に登ったのを覚えている。高尾山は東京近郊の低山で、低いけどさまざまな景色が見られるので人気の山、山岳信仰の対象でもある。その5歳のハイキングのとき、祖母は山道で尼さんに会って、「この子を連れて行くなら、全てのお地蔵さんにお参りをしたほうがいい」と言われたらしい。これは後で母から聞いた。祖母は「縁起の悪いこと」と怒っていたそうだ。つまり私はろくでもない孫なのだろうか。

しばしあって、ロッジまでフェイさんが迎えに来てくれ、ビクトリアフォールズのジンバブエ側にある公園に入る。ビクトリアフォールズは、ジンバブエとザンビアの国境にある。この滝をリビングストンが見つけたのは1855年のこと。最大落差110m、幅1.7kmにおよぶ。なお、日光華厳の滝の落差は97mで、1903年に藤村操が投身自殺を図った。華厳の滝も高低差ではがんばっている。

われわれはジンバブエ側からこの巨大な滝を見物に行くのだ。途中、フェイさんに頼んで、ドルをジンバブエ・ドルに両替してもらう。ジンバブエはインフレの真っ最中で、40米ドルが16万ジンバブエ・ドルに化ける。ミネラルウォーターは1本4000ジンバブエ・ドルである。日本はデフレなので、私は長いことインフレがイメージできなかった。でも、この国に来てそれが分かった。

ビクトリアフォールズの公園内は高低差もあるし、歩く距離も分からないので、祖母の体調が心配だった。私は睡眠不足だが、祖母も睡眠不足だろう。祖母は見栄っ張りなので、滝のそばに下りる階段もクリアし、最後まできっちり歩きとおした。ここでも「キンツリ」との比較があり、しかもそのことを同行のオヤマさんに声高に話す。私は不機嫌さを増してしまう。祖母も嬉しくてハイになっていることは分かっているのだが、不機嫌はそんなことでは直らない。

滝に近づくと、水の落ちる重低音が聞こえる。われわれは念のため、がさがさする合羽をかぶった。しかし水量の少ない時期にあたったことと、旱魃の影響で、合羽を着なくてもしぶきでびしょびしょになることはなかった。

ビクトリアの滝には鉄橋がかかっている。フェイさんは、「この鉄橋ができるまで、ワニに食べられる危険を冒しながら人々は川を渡っていました」と説明してくれる。滝の水量は少ないが、その分景色をじっくり見られる。滝の真上で水遊びをしている人たちがいて、落っこちやしないかと心配しながら手を振ったら、手を振り返してくれた。滝の上にプールがあるのだという。

フェイさんとコヤマさんがおしゃべりしながら歩いている。それを聞きながら、私と祖母は沈黙しながら進む。公園の林の中で、ホロホロ鳥がのんびりしている。それを見ながら、機嫌よくすごさなければならないと私は考える。せっかくアフリカに来たのだ。

ビクトリアの滝を見終わると、ザンベジ川飲み放題クルーズが待っている。腰ミノ・仮面など、アフリカ度120%な衣装をつけたダンサー兼ウェイター・ウェイトレスたちが出迎えてくれる。祖母が喜んで写真を撮るので、私は安心する。

コヤマさんを含めたわれわれ3人は、同じテーブルに着き、ザンベジ・ビールを飲む。祖母が私に預けていたミネラルウォーターのペットボトルのふたが開いていて、リュックの中がびしょぬれになってしまった。でもそんなのは小さな問題だ。われわれは、リビングストンがカヌーで這いずり回った河の上、ビールと白ワインと赤ワインを飲みまくった。なお、白ワインは昆布出汁の味がし、赤ワインは何の味もしなかった。ザンベジビールはおいしかった。

ザンベジ川は、全長2736km、流域面積約133万平方km、流域はアフリカ南部9カ国にまたがっている。なお、利根川の全長は322km、流域面積は1万6840平方km。ザンベジ川は、長さだけだと母なる利根川の8.5倍、流域面積は何と79倍だ。

船からは、われわれはカバとキリンさえ見ることができた。祖母は、アントニー君という黒人の幼児をナンパしていっしょに写真を撮った。アントニー君のお父さんは、米国で化学の研究者をやっているのだが、休みを利用して故郷に一家で里帰りしたのだ。もちろん、アントニー君にふるさとを見せるためである。私は酔っ払ったついでに、台湾人の旅行者グループと中国語で少ししゃべった。お酒を飲んだせいで不機嫌な気分は消え、ロッジでのビュッフェスタイルの夕食もおいしく食べられた。

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