高校を無事卒業した私は希望校に全て落ち、たまたま滑り止めで受けたカウンセラーの専門学校に通う事になった、そして、どうやら才能があったらしく成績は良いほうで卒業できた。
だがしかし、就職先は全く見つからなかった。
両親が航空機事故で帰らぬ人となったため、近所のスーパーのお惣菜コーナーと土木工事のアルバイトをして薄給を稼ぎ、消費期限切れの惣菜で食いつなぐこと1年と7ヶ月あまり。
さすがに限界が見え始めたころ高校時代の友人の紹介で今の仕事に半ば強制的に就くことになった。
給料は労力に見合わないが次の3つの理由(主に3)により文句が言えない
1、 住む場所がタダである。
2、
3食のうち少なくとも1食、運がよければ2食をタダでありつける。
3、 友情出演である
3について補則すると高校時代の友人に紹介されたわけだがこの友人には学生時代に多くの借り……というか弱みを握られているので如何様にもし難いのだ……
とまぁ以上の様などうでもいいことを考えながら炎天下の真っ昼間に自転車に乗って汗だくになりながら職場へ向かう。
今年の夏はエルニーニョか地球温暖化か、はたまた恐怖の大王のせいか異様に暑い。
まぁそういう訳で安物のTシャツにジーパン、少々古めかしい麦藁帽子というなりで自転車をこいでいる。
目指す今日の職場は中央駅の南側、どこにでもある閑静な住宅街の中のこれまたどこにでもある一戸建ての白石家である。
平日のお昼時、住宅街はむしむしとした暑さとセミの声に支配されている。
奥様方はお昼ご飯の片づけをしているか何処かへお出かけ、子供達は学校で給食の時間だろう、そして真っ当な父親はお仕事中だ。
さて、そんな時間に民家へ出勤する私の職業は何かというと……
困った事にこれといった名前が無い。
やっている事はカウンセラーと家庭教師の真似事だと思ってくれれば特に問題は無いはずだ。
いわゆる登校拒否児童に対して学力の補填を行う事が主な仕事ではあるが、それと同時に児童を早期に学校へ戻す事も主の仕事になっている。
もっとも私を含めて多くの同僚は後述した仕事には熱心ではない。
カウンセラーはクライアントが学校に行った方が良いと判断すれば行かせようとするが、行かないほうがクライアントのためになると判断すれば無理に学校に行かせようとはしないのである。
やっとこ目的の家に到着したが汗まみれではさすがにマズイので、持参していた着替えに近くの公園のトイレで着替えてからチャイムを押す。
パタパタという軽い足音が近づいてくるのがドア越しにわかる。
「こんにちは」と声をかけるのと同時にドアの鍵がはずされ、中から本日水曜日のクライアント『白石
彩』の頭がひょっこりと現れる。
彼女は私の生徒の中でも古参の方になる。
まぁ古参といっても今年で12歳なのだが……
学力は特別に良い訳ではないが平均より上ぐらいはあるだろう。
両親は中学受験をさせて私立校に入れたいようだが……
まぁ進路についてまでどうこう言える立場ではないので考えるだけ無駄か。
「先生、すごい汗」
白石彩が笑いながらタオルを差し出してくる。
ありがとう、と言いながら真っ白な手からタオルを受け取る。
さすがに2年間も引きこもり生活をしているだけあり、白のワンピースを纏った体に日焼けは一切無い。
艶やかな黒髪とその肌の白さのコントラストが、彼女に人形めいた雰囲気をまとわりつかせているように思える。
「さて、それじゃあ今日は何をしようか?」
勉強をするのか、カウンセリングをするのか、大まかにはこちらで決める事だが基本的にはクライアントのやりたい事を優先させるのが私のワークスタイルだ。
「う〜んと……まずお勉強して、終わったら川に行ってみたい」
「よし、じゃあそうしよう」
白石彩は当初全く私と話そうとはしなかった。
いや、私だけではなく親とですら話そうとはしなかったのだから、ここまでの進歩は素晴らしいと言っても言い過ぎではないだろう。
階段を上がり、淡い期待を胸に抱きながら彼女の部屋のドアを開けると……
……
……
……
そこは、いつもどおりの未知の領域だ。
なんというか「泥棒が入って家捜しした直後に大地震が起きてさらにポルターガイストが起きた」とでも言えばよいのだろうか……
まぁ一言で言ってしまえば「滅茶苦茶散らかっている」のだ。
とりあえずいつもどおりの部屋を眺めていてもしょうがないので散乱している物体を適当にどかして二人が座れるスペースを確保。その後隣の部屋からちゃぶ台と座布団を二枚拝借してようやくお勉強タイムの始まりである。
6年生の国語の教科書を開く。
前回から「やまなし」を勉強しているわけだが。
「やまなし」というのは『クラムボンは かぷかぷ笑ったよ』とかいうアレである。
有名な作品ではあるがはっきり言ってわけわからん内容である。
あ、なるほど、それで川に行きたいと言い出したんだな。
「じゃあ、最初は声に出して読んでごらん」
そう言いながらクライアントの状況を観察する時間を作る。
表情の変化、どこで間違えるか、どのように間違えるか。部屋の状況の変化エトセトラエトセトラ……
「やまなし」は五月と十二月の二部に分かれている。
簡単に言ってしまえば五月は悲しい・暗いといったイメージ。十二月は明るい・楽しいといったイメージである。
そして、白石彩の表情もそれに合わせて如実に変化する。
感受性が高すぎるがゆえに集団の中にいられない。
それが登校拒否になった原因だろう、人は多かれ少なかれ無意識に他人を傷つけるような発言をしてしまう。
そして彼女は普通の人なら聞き流せるような些細な事にでも過敏に反応してしまうようだ。
だが、その事がわかっている家族は気を使いすぎている。
彼女の心は居心地の良い温室育ちのままではいつまでたっても強くならない。
読み終わったので次に色々と質問する。
読んでどういう気持ちになるか?クラムボンとはなにか?……
YesやNoで答えられない質問なら何だっていい。
そしてその答えにさらに質問を重ねる。
その後は普通の家庭教師がやるように問題集の問題を解かせて、採点をして解説をする。
もちろんこの間も観察は続く。
だから割に合わない仕事なのだ……
「先生、そろそろ行こう」
白石彩がアンティークの壁時計を指差す。
時間は15時30分、まだ少し暑いがあまり遅い時間に川原に行くと蚊の大群に餌をやりに行くようなものである。
「じゃあ準備をして行こうか」
「うん」
彼女が準備している間に母親に今日の状況やら今後の方針などをザッと話し、ここから自転車で10分ぐらいの小川に行ってくる事を伝える。
「先生行こう」
中に何が入っているのかわからないが、背負った小さなリュックが奇妙な形に歪んでいる。
てっきり着替えると思っていたワンピースのままだという事はリュックの中身を今までかかって集めたのだろうか?
「それでは行ってきます。何かありましたら私の携帯にご連絡下さい」
「行ってきます」
母親への挨拶を済ませ玄関前に止めていた自転車の鍵をはずす。
後ろの荷台に彼女を乗せて出発した。
セミの鳴き声は種類が変わったようだ。
二人とも無言。
自転車は長い坂に差し掛かり急激にその速度を落とし、半分も登らずに止まった。
「先生修行が足りない」
そう言いながら荷台の上でかぷかぷと笑う。
どうせ私はインドア派ですよ。と心の中で毒づいてから笑って誤魔化す。
坂の上まで自転車を押し上げ再びまたがると小川はもうすぐそこである。
ま、正確には親水公園だが。
この時間親水公園の整備された遊具のある場所は多くの子供が遊んでいるが小川の流れる林は人が少ない。
林は下草がそれなりに生えていて足元が危ういので、白石彩の手を引きながら小川にたどり着くのには日ごろの運動不足もあり想像していたより大変だった。
適当な倒木の上に腰掛ける。
ヒグラシが哀愁のメロディーを奏で始めた。
近頃の都心では聞く事の出来ない大自然の音楽にしばらく耳を傾ける。
その間、白石彩は小川を覗き込んでいた。
幾分涼しい風が林を駆け抜ける。
「先生、クラムボンが何かわかったよ」
「へぇ、何だと思うんだい?」
「クラムボンは『命』 皆の、一人一人の『命』 違う……かな?」
「さぁ、どうだろう?でも確かに、なるほど、そう言われてみればそうかもしれないね」
クラムボンが何か?か……文系大学の卒業論文に使えるのかな?
「先生?」
「あぁ、なんでもないよ。さて、そろそろ帰ろうか?」
「うん」
来たときと同じように手を引いて林を抜け自転車に乗る。
長い坂道を下っていると後ろから声をかけられる。
「先生、夏休みが終わったら学校に行ってみる。またダメかもしれないけれど行ってみようと思うの。先生は反対?」
私はスピードが出ているため振り返らずに答える。
「先生は賛成も反対もしないよ。ただ旗を振って応援するだけ、それしか出来ないからね」
「ありがとう」
夕焼け空の赤の下
男と少女はかぷかぷと笑った
クラムボンは最初に笑い
クラムボンは死に、殺され
クラムボンは最後に笑う
その意味を、二人は知ったのかもしれない
この仕事は給料が労力に見合っていない。
だが、私は……
私はこの仕事が少し好きだ。
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