地球最後の日
 

 祇園精舎の鐘の声、

 諸行無常の響きあり。

 娑羅双樹の花の色、

 盛者必衰の理をあらはす。

 そう、結局は永遠なんてありはしない。授業で習った三千年も昔の物語の冒頭文にもそう書かれていた。

 ぼくは今日もいつもと同じように、鉛色の空を見上げながら鼻歌を歌う。曲目は二千四百年前の作曲家が作った曲、ベートーベンの交響曲第九番。

 西暦四二一一年五月六日、明日は地球最後の日。

 そう、地球の歴史はあと数時間で終わってしまう。誰が決めたわけでもない、この世の唯一絶対にして不変の法則「始まりがあれば終わりがある」ということ。

 地球からすればウィルス程度の大きさにも満たない人間という種が、地球の寿命を劇的に縮めたのは驚異的だけど、人間だってウィルスで命を落とすことがあるんだから極めて異常というわけでもない。少なくともぼくはそう思う。

 歴史は苦手だったからよく覚えて無いけど、人類はしょっちゅう戦争していた。資金や資源、人命を湯水のごとく浪費して、誰も勝者になれない戦いを続けた。戦争するための理由は色々あるみたいだけど、結局、平和な日常という状態が永遠に続かないから、あるいは戦争という混乱状態が永遠に続かないから、宣戦布告してみたり終戦協定を結んでみたりするんだろう。

 鉛色の空を巨大な鳥が爆音と閃光を撒き散らしながら飛んで行く。成層圏ギリギリまであのシャトルで昇り、超高高度を飛行する「フッケバイン」と呼ばれる宇宙船の船着場に乗り移る。このフッケバインは揚力で飛行するのではなく、地球の重力と遠心力を釣り合わせて高度を維持しているため速度を落とせば高度も落ちるし逆もまたしかり、という物だ。元々は戦争の道具だったけど今は人類脱出のためにフル稼働している。

 人類は地球を捨てて太陽系より四光年離れたアルファケンタウリ星系の第四惑星「ティロン」へと五九年前から移民を開始した。もちろんぼくが生まれる前の話だから詳しくは知らないけど当時は散々もめたらしい。

 まぁしかし、人類が生き残るために出されたいくつかの計画のうち、最も成功確率が高いのがこの移民計画だったのだから、生き残りたければこれを断行するしか方法は無かった。当時も地球の汚染は特定地域で回復不可能な段階まで進んでいたから。

 戦争や経済活動で有用な天然資源をあらかた使い果たしていた当時、移民のための恒星間航行船やその建造に必要な施設、技術開発は困難を極めたが、国連が移民成功後に出資者、協力者には莫大な恩赦を与えるということで採算度外視のこの計画はほとんど奇跡的に進められた。人間、死ぬ気になればどうにでもなるもんだと思う。

 移民計画の最大の問題点は移民先が存在するのかという点。人類がたどり着けるのはせいぜい数光年の範囲内だから、世界中の天文学者が血眼になって探せば地球と同じような星が見つかるだろうという強引な力技でアルファケンタウリ星系のティロンが見つけられた。

 あとはなけなしの資源を湯水のごとく消費して、移民のための道具を揃えた人類は第一陣を送り出した。片道一二年の宇宙の旅、ほとんど博打みたいな航海は多少のトラブルはあったものの成功した。第一陣はティロンの衛星軌道上に宇宙ステーションを設置し橋頭堡を確保した。

 そのころ地球はエネルギー不足が深刻になり始めた。大気の汚染が原因で慢性的な日照不足に陥り太陽光発電の効率が落ちてしまったためだ。核物質は移民のためにどうしても必要なため無駄に使うことはできなく、水力、風力、波力といった自然エネルギーではとても賄いきれなかった。しかし、人間は生きるためならどこまでも醜くなれるらしく、どうせ地球は捨てるのだからという発想から、科学者は地球の自転エネルギーを使うことを考えた。南極と北極に急増された自転エネルギー発電所は必要なエネルギーの確保に成功する。地球最後の日を早めることを引き換えに……

 ぼくは鼻歌をやめた。そろそろ空港に着くから。

 移民船に運賃は無い。所定の手続きを踏めば誰でも乗ることができる。地球を捨てて生き残るか、地球に留まり運命を共にするかは各自の判断に任された結果だ。

 ぼくは前者を選んだ。理由はわからないが……そう、生命としての根源たる欲求、つまり「生きたい」と思ったからだろう。ぼくもこの地球をダメにしてしまった人間の一人なのに、人間が何をしてきたか知っているのに、それでも生きたいと思ってしまうのは愚かだろうか……

 昨日の時点で全人口の六八・三二パーセントが宇宙へ昇ったと今朝のテレビで報道された。最終の移民船が出るまであと二九時間と少し、ぼくはその最後の移民船に乗り込むためのチケットを二枚持っている。一つはぼくの分、もう一つは彼女の分だった。

 彼女は昨日の夜唐突に搭乗手続きをキャンセルした。だから、彼女の分のチケットはもう無効になっている。ぼくが持ってるチケットはチケットの形をしているがすでにチケットではないのだ。なぜキャンセルしたのかぼくには分からない。ただ、残ることに彼女なりの意味を見出したのは確かだろう。それが何か知った所で何も変わらない。

 空港のゲートをくぐると広いロビーに出た。中央にある大きな時計が大きな秒針を小さく、確実に進めている。

 そして、その下に淡青色のブラウスを着た彼女が笑いながら、小さく胸の前で手を振っていた。

 彼女を認識した瞬間にぼくは駆け出していた。何度も人にぶつかりその度に謝りながら、意味の無い問いを繰り返した。

 何故、何故彼女はここにいる?

 どうして彼女は荷物を持っていない?

 いつから彼女はここにいた?

 搭乗手続きはやり直せたのか?

 焦る思考は体のバランスを崩すには十分なほどに空回りをしていた。ぼくは、立ち話をしていた男の人の鞄に躓き、受身も取れずに激しく体を床に打ちつけた。口の中に鉄の味が広がる。

 慌てて顔を上げると時計の下にいた彼女がぼくのすぐそばまで来て、色白で肌理細かい小さな手を、ぼくの大好きな手を、そっと差し出していてくれた。

 言葉が出ない、血液が頭に昇って行く、酸素不足の金魚が口をパクパクするように口だけは動くが言葉は紡がれない。

 彼女が笑っている。

 そりゃそうだ、ぼくだって逆の立場なら笑うだろう。でも少し不愉快だ。

 むっとしかめっ面をしてみると、彼女はピコグラムも謝罪の気持ちが伝わってこない口先だけの「ごめん」を二回繰り返した。

 彼女は、ただなんとなくここに残りたいんだと言った。理由を詳しく聞こうにも自分でもよくわからないんだとはぐらかされてしまう。それじゃまるでねずみの集団自殺みたいではないかとぼくが言うと。彼女は「あぁ、それかもね」と気楽に言う。

 ぼくは溢れる感情が抑えられず癇癪を起こしてしまった。頭の中がすっと真っ白になって、何事か叫んで、わめいて、手足を無意味に振り回して……

 パシッ! という音がして意識が戻った。ぼくがでたらめに振り回した手が彼女の頬を叩いてしまった音だった。

 彼女は冷や水をかけられたみたいに目を点にしていた。ぼくは少し赤くなった彼女の頬を見るのが嫌で、下を向いたまま「ごめん」と何度も繰り返した。

 搭乗手続きの開始を知らせる放送が流れた。

 ぼくは彼女に「どうしても残るの?」としつこく聞いたが、最後まで彼女の意思は変わらなかった。

 ぼくには何故彼女が地球を捨てることができないのか理解できなかった。

 彼女がぼくに微笑みかけながら「いってらっしゃい」と言った。ぼくはそれに「いってきます」と答えて搭乗手続きの列に並んだ。

 振り返ると、もう彼女はいなかった。

 無駄とも思えるほど様々な手続きを踏んで衛星軌道上の船着場「フッケバイン」にたどり着いたのは彼女と別れて一三時間後だった。

 もはや重力は無い。ふわふわと漂う感覚に慣れないうちに、係員がぼくたちを待機所へと案内する。

 待機所としてあてがわれた元射爆照準室、現展望室から眺める地球は、灰色に少量の黄色を混ぜたような薄汚いスモッグに覆われていた。

 教科書で見た綺麗な青い地球とはかけ離れたその様に軽いショックを覚えたものの、いつも見上げていた空の色だと思えば納得できてしまった。

 待機所がこの部屋になって良かった。地球の最後の姿をしっかりと目に焼き付けながら、いてもいなくてもどちらでも構わない神様とやらに感謝をした。

 二時間ほどその部屋で待たされたあと現代のノアの箱舟、恒星間航行船アシモフ級四五番艦「神舟」に乗り込んだ。この船とはこの先一二年の付き合いになる予定だ。

 ホールのような建物に案内され、そこで各種施設の利用方法から普段の行動規則など様々なことが係員から説明された。

 この船に何人の人間が乗っているかは分からないが一万や十万といった単位ではないだろう。それだけの人間が限られたスペースで一二年間も過ごすのは非常に困難であるはずだ。残念ながらコールドスリープなどの延命装置の類は人類の想像の中にしかない。それは光の速度を超えることや空間や時空を飛び越えたり捻じ曲げたりするのができないのと同じである。

 人類は四光年の距離を地道に一二年の歳月をかけて、狭い鳥かごのような船内で年を取りながら飛び続けなければならない。

 一二年の間に生まれる者も死ぬ者も出るだろうが、多くの人間は生き残る代償に一二年分の人生を差し出す必要があるのだ。それを考えると地球に残るという考えも自然と出てくるだろう。

 彼女のことが気になったが、もはやどうしようもない所まで来てしまっている自分に気づいて少し後悔した。

「いや、まだ出来ることがある」

 ぼくはあることを思いついたので割り当てられた居住スペースに駆け足で向かい、大量に積まれている六畳ほどのボックスのひとつに入り込んだ。

 ホールでの説明にあった通りの必要十分な備品の中、ぼくは個人用端末を起動してメールを出した。

 出港まで一時間となり、船内の映像配信装置が一斉に放送を開始した。「ようこそ神舟へ」という挨拶文とロゴの表示が終わると「母なる地球」という番組が開始された。

 この番組は地球でも同時刻に放送されている。地球に残る者と旅立つ者の最後のメッセージの中で、感動的なものを紹介する番組だ。もちろん個人名などは伏せられる。

 家族へ、友人へ、愛する人へ、大切な人へと送られた感動的なメッセージが紹介されていく。そして、ぼくの送ったメッセージが紹介された。

 

 母なる地球へ

 

 ありがとう。

 今日この日まで、

 ありがとう。

 ここから巣立つ貴女の子らに、

 その進む道に幸あれ。

 あるいは貴女と共にゆくものに、

 永久に悠久の安らぎよあれ。

 いつの日にか、

 いつの日にか貴女の元へ帰らん。

 我ら星の子、貴女の子。

 

 西暦四二一一年五月七日一八時二三分。

 最後の移民船、恒星間航行船アシモフ級四五番艦「神舟」は移民者二千百六十八万四千三百十二名を乗せて、遥か四光年先のアルファケンタウリ星系へと旅立った。