天使領域 |
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空を埋め尽くすほどの敵機。 蜘蛛の巣状に割れた風防。 いくら呼びかけても応答しない前席のパイロット。 オレンジ色に光るシャワーのような銃砲撃の火線。 やかましく鳴り響く警告音。 迫り来るミサイル。 何かが弾ける音と、下から突き上げられるような衝撃。 爆音と閃光を放って四散する愛機。 開いたパラシュートは一つだけ。 頬を伝う血と、汗と、涙。 信じられない。彼女が墜とされるなんて。 目眩がする。ひどく気分が悪い。 出撃前の滑走路で見せた彼女の笑顔が鮮明に思い出され、 それが炎に飲み込まれて苦悶の表情に変わる。 絶叫。
First Mission +天使の胎動+ 三日連続で同じ夢を見た。 お世辞にも綺麗とは言い難い病室のベッドで目を覚した。 撃墜されてから一週間。深い森を彷徨い歩いていた時は見なかったが、友軍に救助され落ち葉ではなくベッドの上で眠るようになってから毎日見る。 自分だけが助かってしまったことがこれほどにまで辛いとは思わなかった。ましてや自分のパートナーは十一機撃墜のダブルエース。また、その均整の取れた容姿と相俟って〈戦空の天使〉と呼ばれる国民的英雄だった。 助かるのは自分ではなく彼女であるべきだった。 陰に陽に周囲から言われ、自分自身もそう思う。 自殺でもしたかったが衰弱した体は思うように動かず、さらに先の戦闘での生存者が自分しかいないため、自分が戦果報告をしなければならない。難儀なことだ。 戦う意味も、果たすべき義務も、守るべき誓いも、生きる気力も、自分にはもう無い。 再び目を閉じて全身の力を抜くとすぐに睡魔が襲ってくる。 疲弊した身体は回復のために眠りを欲する。 この身体は自分にまだ生きろと言うのか…… まどろみの中で彼女のお気に入りだった金木犀の香水の香りを嗅いだ気がした。
私は自分が特別な人間だとは思っていない。ただ、私の姉さんは違った。自信に満ち溢れていて、ちゃんとその自信を裏付けるだけの能力と成果があった。 そして、私は姉さんに劣等感を感じたことはなかった。それは私と姉さんとでは次元が違ったから比べようがなかったためだ。 誰も私に姉さんのようになることを要求しなかったし、私も姉さんのようにはなれないだろうと達観していた。 私は姉さんを信奉している。私の中で姉さんは神とイコールだから。姉妹であるというだけで神である姉さんから無条件で愛してもらえる私は、そういった意味では特別な人間かもしれない。 姉さんは優しかった。 「嘘よ!」 姉さんは温かかった。 「姉さんは今も助けを待ってる!」 姉さんのことが好きだった。 「救出部隊を組織して下さい!」 姉さんのことが、大好きだった。 涙が止まらない。身体の力が涙と一緒にこぼれていくようで。 いつの間にかその場に泣き崩れていた。 誰も、何も言わない。 わかっている。英雄とはいえただのパイロットに過ぎない姉を探すために回せる部隊なんてどこにもないこと。救出部隊が負うリスクと損害は、生死不明の姉の価値とは比べるべくもない。それでも、叫ばずにはいられなかった。 私の泣き声と嗚咽だけが手狭な待機所に響く。 隊長が黒板に書かれた搭乗割りの二番機の欄を消し「待機」の文字を書く。 「アンディ少尉、アスタール曹長は待機だ」 何も言えず、了解したと伝えるために小さくうなずく。 自室に戻ることもできずに待機所の床にしゃがみ込んで泣きじゃくる私を、アンディ少尉が「失礼」と言いながら抱き上げ椅子に座らせる。 巨漢の少尉が小柄な私を抱き上げる様は父が幼子を抱き上げるのと大差なく、私が少しばかり身を捩ったところでぐらつきはしなかった。 アンディ少尉が淹れてくれたココアミルクをちびちびと舐めながら動揺していた心を落ち着かせる。 すぐにとはいかないまでもしばらくすると冷静になれた。そんなに冷たい人間だったっけ? と自問するがこれでも軍人の端くれ、戦闘機のパイロットなのだから当然だと自己弁護をしてとりあえず保留にしておく。 仲間を失ったことは何度かある。その時と変わらない。ただ、その仲間がたまたま姉だっただけのこと。しかも目の前ではなく遠い空での出来事。 私には果たすべき任務があり、生死を共にする仲間がいて、戦うための命がまだある。 よし、調子が出てきた。これなら哨戒任務に出撃した仲間たちを、顔を上げて迎えられそうだ。 けたたましい電話のベルが待機所に鳴り響く。アンディ少尉が素早く受話器を取り上げた。 「はい、そうです。二十分前に……」 アンディ少尉がこちらを向き「出られるか?」と声に出さず口だけ動かして問いかけてきた。電話はまだ続いている。 私は拳を握り親指を立てた。 「……了解しました。では」 アンディ少尉が受話器を置く。 待機所にかかってくる電話は出撃、待機、緊急の三種類の命令しかない。 「クアランポートが攻撃を受けた。スクランブル」 「了解」 カーキ色のヘルメットを小脇に抱えてハンガーへ走り出す。ブリーフィングや細かな説明は空の上で行われるだろう。話を聞く限り攻撃を終えて帰投する敵機を追撃するのが主任務になりそうだ。 二十五分後、クアランポートを攻撃した十六の敵機で構成される編隊をレーダーに捕らえた。AWACSが導き出した最適攻撃位置に機体を素早く滑らせ、翼に吊り下げられたミサイルを続けざまに六発リリース。一八〇度反転して一目散に離脱した。 敵機は最新鋭の戦闘攻撃機十六機。対してこちらは一世代前の戦闘機が一機。エンジン出力、機動性、レーダー性能、最高速度、火器管制装置、最大積載量などなど、諸々の能力において敵に軍配が上がる。 地形を利用してこちらの攻撃可能距離まで引き付けての一撃離脱。それが唯一の戦法だった。レーダー上で敵機を示す光点に先ほど発射したミサイルの光点が重なる。 閃光を見ることも爆音も聞くことも無く、全てのミサイルと敵機を示す光点が一つ消えた。 「ナイスショット」 アンディ少尉がやや興奮した声を掛けてきた。 「ナイスじゃなくてラッキーショットよ」 「そうかい。誰も追撃には来ないな」 「そうね。クアランポートで全弾使い切ったか、燃料に余分がないのか、とにかく追撃されたら逃げ切れないから助かったわ」 「ん? 帰投コースの変更だ。ベクトル三‐〇‐五」 「了解。三‐〇‐五? C滑走路ですか?」 「……あぁ、Cに降りろと言ってる」 嫌な胸騒ぎを覚えながらも私は「了解」と答えて機体の進路を変更する。C滑走路は普段使用していない。戦争の初期は使用していたが戦況の変化によって基地の戦略的価値が低くなったため、駐留部隊の縮小が行われた。その結果、最も短く幅の狭いC滑走路は自然に使われなくなっていた。 着陸シーケンスに入る。機速と高度を落としてオートパイロットシステムを起動する。 「おい、あれを見ろ。A滑走路だ」 少尉が叫ぶが既に私はそれを認識していた。A滑走路には黒煙を立ち上らせ炎上する戦闘機が横たわっていた。 「着陸はマニュアルで行います」 宣言と共にオートパイロットを解除する。 オートパイロットなら目を閉じていても着陸できるが炎上している機体は自機と同じタイプ。もしオートパイロットシステムに問題があって着陸に失敗したのならオートパイロットでの着陸は危険だ。 滑走路上に異常無し。微風。進入方位、高度、速度適正。 軽い衝撃。一瞬バウンドするかとヒヤリとしたが問題無く滑走路を滑り機体は停止した。 「ナイスリターンエンジェルU。四号掩体へ移動後そのまま機上待機せよ」 管制塔からの指示に短く了解を伝えると誘導路を通り、巨大な灰色のかまぼこの様な掩体壕へタキシングした。 掩体壕の中に機体を格納するとエンジンを停止して風防を開ける。整備員が機体に駆け寄り彼らの戦闘が開始された。 「ミッションコンプリート。ご苦労さん」 私は後席からの労いの言葉に曖昧に答え、強烈な虚脱感に追われぐったりとしていた。一般的な女性の標準体型より二回りは小さい私の体は、G耐性に優れているものの持久力に関しては劣っていた。 ポケットからドロップを一粒取り出し、戦闘の緊張でカラカラに乾いた口腔に放り込むと嫌いなハッカ飴だった。 ハッカ独特の香りが鼻腔を刺激して鼻水が出てくる。スーっとする刺激で混濁していた意識が少しはっきりしてくると、誰かが私のヘルメットを叩いているのに気づいた。 「アスタール曹長、起きたか? 機上待機命令は撤回、あがりだよ。そこで寝られちゃ俺達の仕事ができん」 髭面のビヤ樽。おとぎ話に出てくるドワーフみたいなおじさんが眉間に皺を寄せてこちらを覗きこんでいる。 一瞬のうちに頭を再起動。泣く子も黙る整備班長殿のお顔である。 「はっ! 了解しました。よろしくお願いします」 もそもそと機体から這い出し、はしごを降りる。整備員の持ってきたチェックリストにチェックとサインを済ませ、指揮所に帰投報告をすると営舎のベッドに倒れこみそのまま意識を失った。
Second Mission +天使の思惑+ 軍病院のベッドで寝起きすること三日。消耗しきっていた体は何割か回復している。そろそろここを追い出される頃かと思いながら昼食を食べていると上級将校と軍医が部屋にノック無しで入ってきた。 軍医が簡単な検査をして上級将校に一言「問題ありません」と言うと上級将校は軍医に席を外すように命じた。軍医が部屋から出ると入れ替わりに大きめのブリーフケースを持った女性の曹長が入ってきた。軍服こそ着ているものの小柄で華奢な雰囲気から判断するに恐らく将校の付き人だろう。 「フェル・ノイマン准尉、本日付で少尉に任命する。また、新設される部隊の隊長を務めてもらう。詳細はそこの曹長に聞きたまえ。おめでとう」 極めて事務的に、そして一方的に告げると、その将校すぐに退室した。曹長が敬礼で見送る。 戦えということか。失った国民的英雄の分まで戦えと。 「フェル・ノイマンだ。曹長、説明を頼む」 「はい」 意外とハスキーな声で答えた曹長はブリーフケースを開け中から百ページほどの紙束を取り出した。それを受け取り表紙に目を移すと「対エース部隊構想」という題が書かれていた。 「簡単に言ってしまいますと敵のエースをこちらのエース部隊で叩くことによって我が軍の被害を減らすという構想です。これは一握りのエースが全体の約半数の戦果を上げている事実に基づき考案されたものです」 なるほど、確かに理屈はわからなくもないがエースに対抗するという性質上この部隊はエースばかりの部隊になりそうだ。強力な装備も優先的に配備されるようだが常にエースを相手にしなければならないとはしんどいことこの上ない。 しかし、本当にそれだけが目的なのだろうか? 「曹長、君はこの戦争どう思う」 資料は詳細に書かれているため曹長の説明がなくとも後で読めば十分だろう。そう判断した自分は我ながらよくわからない問いを発していた。 「どう……と言われましても……戦端を開いたのはステラ皇国で我々は防衛戦に徹しています。我がクロイエン君主国は盟友トモロ連邦と共同戦線を張り、陸軍はドナ川を挟んで睨み合いと小競り合いを続けていますが膠着状態が長く続いているため……」 「あぁ、違う。そうじゃなくて戦う意味とかそういうのが聞きたかったんだが……まぁいい、忘れてくれ」 曹長は狐につままれたような顔をして黙った。少し悪い気もしたので今度は答えやすい質問をしよう。 「ところで、この後の予定はどうなっている?」 「はい、一六〇〇に迎えの車が来ます。空技研の新型機習熟訓練施設で二週間訓練を受けて頂き、その後トモレーズで新型機を受領、デルフィーニで実戦配備となります」 「よくわかった。えーと……」 「アヤ・ポートフィールドです。今後もよろしくおねがいします」 「ありがとう。アヤ・ポートフィールド曹長」 「いえ、それでは退院や復員の手続きを行っておきますのでその間にこちらの制服に着替えておいてください。では」 曹長が敬礼をしてきたのでラフな答礼を返す。小走りで駆けて行くのをぼんやり眺めながら意識は別の方向へ向かっていた。 新型機……もしあの時、彼女との最後のフライトの時にその新型機とやらに乗っていれば結果は違っていたのかもしれない。 いや、「もし」なんてことはありえない。何度思い返しても、何度頭の中でシミュレートしても勝てる方法は無かった。 自然と意識はあの時に飛ぶ。 敵は間違いなく新型、搭乗員もベテラン。鈍重な輸送機を護衛しながら勝てる相手ではなかった。 三機の輸送機に対して護衛は自機を含めて三機。比較的制空権のある空域を飛ぶとはいえもしもの時には対応しきれないのは出撃前にわかっていた。 しかし、戦争中に定数が充たされることなどまれであり、輸送機の護衛につける機体はそれだけしかなかった。もっと戦闘機が必要な任務はいくらでもあったからだ。 敵さえ出てこなければ楽な仕事だ。日を追うごとに減っていく仲間と、それに反比例して増える出撃回数。連日の出撃で疲れきっていたまさにその時、休暇代わりの楽な任務を回してくれた司令官には感謝したものだ。 遊覧飛行の気分で空に上がり、指定ポイントで問題なく輸送部隊と合流、あとはルート通りに飛ぶだけ、目を閉じていたって問題無いはずだった。 ロックオンアラームが鳴ってから二秒もかからずに二機の輸送機と一機の戦闘機がミサイルに喰われた。生き残ったのはロックオンアラームに気づき、すぐさま対抗手段をとった三機だけ。コンピュータが発射位置を逆算して敵機の方向を示す。レーダーに機影は映っていなかった。映っていればもっと別の対応ができたはずだ。 上空の雲海を突き抜けて黒いシルエットが踊り出した。こちらを目指し襲い掛かるその機体はまさに死神だった。 輸送機が高度と速度を上げて逃げようとするが敵機はそれに喰らいつく。ロックオンしようとするがレーダーで捉えることのできない敵機をFCSが認識できず焦る。 自分が彼女にその旨を伝えると彼女は攻撃モードをGUNに変更、アフターバーナーを全開にして敵機に迫る。 敵機はすぐさま攻撃目標を輸送機からこちらに変えた。 何度か攻撃をしたが命中弾は出ず、次第に後方占位がおぼつかなくなりついに振り切られる。こちらのバックアップを行っていたもう一機の戦闘機までも振り切り気がつくと自機の後方、最適の攻撃ポジションに現れていた。 ミラーの中に敵機を捕らえたのとその敵機の腹からミサイルが放たれたのはほぼ同時。雷鳴のような炸裂音と激しい衝撃を受けたと思った次の瞬間。自分の体は宙を舞っていた。眼下には爆散する自機。 自分の体が地面にたどり着く前に、残りの戦闘機と輸送機もあっけないほど簡単にたった一機の死神に喰われた。それをただ眺めるしかない自分の無力さをどれほど呪ったことか。 そして、なぜ彼女は脱出できなかった、あるいはしなかったのか。
Third Mission +天使の邂逅+ 新型機の習熟訓練は問題なく終わった。新型機といってもコクピットや操作に大した違いはなく。むしろ搭載コンピュータが格段に良くなっていたので扱いやすかった。 それより問題だったのは人間関係のほうだ。意図的か偶然かは知る由もないが彼女、〈戦空の天使〉と呼ばれていたヴェセンティ・アスタールの実妹カティーナ・アスタールが部隊員であったため早くも部隊は険悪とまで言わないまでも健全な雰囲気ではなくなっていた。 しかし、部隊の雰囲気がどうであろうと前線では一機でも多くの作戦機を必要としている事実があるため、この対エース部隊という怪しげな部隊も習熟訓練期間が終わるとすぐに命令が下された。 配備先はデルフィーニ。ドナ川に近い最前線基地であり地獄の一丁目と呼ばれる激戦地だ。それを伝えても怯む隊員はいなかった。なぜなら対エース部隊は全員が五機以上の撃墜記録を持つエースだけの部隊であったためだ。 自分はどうせ拾った命だ、祖国のために散らすことができれば及第点だろう。 そんなこんなで首都に近い空技研の宿舎で過ごす最後の夜。明日の搭乗割を考えているとドアがノックされた。 「カティーナ・アスタール曹長です」 当然と言えば当然なのだが彼女の姉、自分のパートナーだったヴェセンティに良く似た声に一瞬どきりとするが平静を保って「入れ」と許可を出す。 「失礼します」と言って入ってきた彼女が後ろ手にドアの鍵をかけた。時計をちらりと見る。二二一〇時、点呼後すぐに来たのか。 「お話があります」 「許可する。ただし二三三〇時までだ。掛けたまえ」 椅子を勧めると無言で頷きやや距離を開けて座った。 「大体予想はつくがどうした?」 「姉のことです。姉の最後を教えてください」 やはりそう来たか。あらかじめ用意しておいた何パターンかの答えのうち比較的当たり障りのないものをチョイスする。 「機密に触れない範囲でなら教えよう。それでいいかな」 「はい、構いません」 敵の新型については機密扱いなのでそれ以外のことについて順を追って話した。彼女は何も言わずただじっと聞き入っていた。 「私は脱出できたが君のお姉さんは脱出できなかった。以上だ」 何度思い返しても己を呪わずにはいられない。なぜ自分だけが助かってしまったのか…… 「隊長は、隊長はどうして自分だけ脱出したんですか」 怒鳴りこそしないまでも怒りを隠そうともせずに挑むような目つきで問われる。そう聞かれても自分には答えようもない。 「気がついたら機体から放り出されていた。正直に言えば興奮していたか恐怖していたかで記憶は曖昧だ。ただ、自分だけが生き残ってしまったことは申し訳なく思っている」 嘘ではない、ただそれが全てではないと自分のどこか冷めた部分が言っている。 「逃げたんですか? 前席が射出レバーを引けば両席が射出されますよね。後席の射出レバーには後席のみと両席との切替え装置があります。射出レバーを引いたのは隊長に間違いありません。隊長は切替え装置を確認せずにレバーを引いたんですか? 姉を見捨てて、いえ、自分だけが助かればいいと思って! 姉さんの婚約者だったのに!」 立場上退室を命じても問題無いのだが彼女の責めから逃げるわけには行かなかった。逃げてしまえばそれを認めたことになってしまう。 「客観的事実から判断すれば確かにそうなるが真実は違う。私は最後まで全力を尽くした。戦いで死ぬことも覚悟していた。君のお姉さんとの約束も誓いも一切嘘偽りは無い。そして私は射出レバーを引いていないはずだ。機長の指示無しでは絶対に引かない。君のお姉さんは私の戦う理由であり、私の生きる理由だった。その彼女を見捨ててまで生きようなどとは思わない」 「本当ですか?」 「神に誓って」 時計をちらりと見ると二三四〇時だった。私の視線に気づき彼女も時計を見る。 「今日はこれで失礼します。ですが明日のフライト、隊長と組ませてください」 「検討する」 ラフな敬礼をして彼女が出て行く。ドアに鍵をかけるとため息を一つ。多分今夜もあの夢を見るだろう。 机の上の書きかけの搭乗割を眺める。一番機、自分の乗る機体のパイロットの欄には既に名前を記入してある。カティーナ・アスタール曹長と…… 「考えることは一緒か、あるいは私は君の妹に君を重ねているのかもしれないな」 既に冷めきったコーヒーを口に運びながらポケットから一枚の写真を取り出して眺める。滑走路で羽を休める戦闘機とその前に座る二人の搭乗員。一人は自分、もう一人は〈戦空の天使〉 「すまない……ベティ……君の妹は守ってみせるよ」 写真の中の彼女が少し笑ったような気がした。
部屋に戻るとルームメイトのアヤ・ポートフィールド曹長が顔に似合わないハスキーな声で問いかけてきた。 「どうしたの? 泣きそうな顔してるけど。隊長に怒られたとか?」 そんな顔をしているのだろうか? 確かに隊長が姉のことを淡々と話す姿にはショックを受けた。感情というものが無いのだろうか? 「ねぇフィー、隊長のことどう思う?」 「ん〜それは人間として? 軍人として? それとも異性として?」 何が楽しいんだかきゃははははといった感じでお気楽に答えてくれる。 「まじめな話。ちゃんと答えて」 「ごめんごめん。でもカティー、それって抽象的過ぎて難しい質問だよ」 「そう?」 「うん。軍人としては問題無いでしょう、あたしらエースを束ねてるぐらいだし能力だって十分。人間としてってのはあたしは隊長とあまり話したこと無いからよくわからないけど……軍病院に迎えに行ったときは魂抜けちゃってるな〜って感じだったけど今はそうでもないし、良いか悪いかの二択なら良いんじゃない? まぁ異性としてはちょっとパスかな、ほら隊長って生真面目じゃない。あたしはもっと楽しい人がいいかな」 「そうかな〜」 確かにフィーの言ってることは正しいと思う。ただ私にはどこか納得できないのだ。姉からの手紙にはいつもあの人のことが書いてあったけどもっと優しい感じに書かれていた。まぁ恋は盲目というから仕方が無いのかもしれない。 「それよか早く寝ようよ。明日は空に上がれるんだし」 「そうね。遅くまでごめんね」 「なんのなんの」 私は少し汗臭いベッドに潜り込み目を閉じた。 彼女は良い子だ、明るくて元気で、隊のムードメーカーというよりはマスコット的な印象が強いけど、それは小柄な人間の集まる戦闘機乗りの中でも一際小柄な体系の成せる技だ。 フィーは何のために戦っているんだろう。空を飛ぶのが好きだとは言ってたけど、それだけで戦えはしないだろう。 じゃあ私は何のために戦っているのだろうか? 答えにたどり着く前に、私の意識は深遠へと落ちていった。
Fourth Mission +天使の領域+ デルフィーニに配備されて三日が過ぎた。通常の哨戒任務以外の出撃は無く、哨戒任務中に戦闘になることもなかった。 午後になって風が出てきた。明日は嵐になる予報が出ているから地上待機だろう。誰かに休暇を与えても良いかもしれない。もっともこの基地周辺にたいした娯楽施設は無いが、それでも待機所でチェスやらポーカーやらに興じているよりかはマシなことがあるだろう。 最前線でいささか緊張感が足りないかもしれないが敵がいなければ仕事のやりようがない。恐らく敵は大規模作戦のための準備をしているのだろう。一週間前まで毎日のように来ていた敵機は我々が着いたころにはすっかり消えてしまっていた。 整備関係の書類に目を通していると電話が鳴った。基地指令がすぐにブリーフィングルームへあがるようにと言っているらしい。駆け足で移動する。 「ノイマン少尉、君の意見が聞きたい」 入室するなり情報部の将校が声をかけてきた。机上には巨大な地図と数枚の写真、それに無数の書き込みがしてある。 「なんでしょうか?」 「明朝〇五〇〇時、シャイセンの郊外にある捕虜収容所から同志達約三百名を救出する。明日の天気予想図はそこにあるとおりだ、作戦計画書はそこのブルーの冊子」 地図と天気予想図、作戦計画書に目を通し情報を整理する。 「ドナ側の向こう側から三百人の将兵をどのように救出するのですか?」 「陸軍の大型輸送ヘリ三機と特殊部隊一中隊を用意する。収容所の襲撃と救出は彼らが行う。君達は対象施設の防空火器の無力化とヘリが撤退するまでの制空権を確保、その後ヘリの護衛をするのが任務だ」 もう一度作戦計画書を読み直す。 「進入ルートを変えましょう。うちの隊員ならこの谷を飛べる」 何箇所か作戦に修正を加えて図上シミュレーションを三回行った。気がつけばすでに日は暮れていた。 退室間際に情報部の将校が言う。 「この施設に〈戦空の天使〉が囚われているという未確認情報がある」 「彼女は死にました」 間違いなく、自分の目の前で。 「死体は発見されていない。それに君が座席射出レバーを引いていないなら彼女が引いたんだ。それなら生きている可能性はある」 「そんなハッタリを言われなくとも全力でやりますよ」 不愉快だ。背中を向けて歩き出したがその背中で情報部の将校が肩をすくめて苦笑いしている姿が鮮明に浮かんだ。 翌朝、予報通りの嵐となった。 激しい雨と風が窓を叩く中、部下を集めブリーフィングを行ったのが十分前、今は機体のチェックをハンガーで行っている。 「システムオールグリーン。エンジェルTノイ、スタンバイ」 「エンジェルUカーク、スタンバイ」 「エンジェルVグスタフ、スタンバイ」 「エンジェルWフィー、スタンバイ」 「エンジェル隊、A滑走路へ移動せよ。」 「了解、エンジェル隊はA滑走路へ移動する」 誘導路をタキシングして進み、滑走路の中心へ機体を運ぶ。一度停止して管制塔の指示を待つ。横殴りの雨がキャノピーを叩く。 「エンジェル隊、離陸を許可する。武運を祈る」 「了解、エンジェル隊は離陸を開始する」 ブレーキを踏んだままエンジンの出力を上げていく、機首が沈み込み、獲物に飛び掛る寸前の猛獣のような、前かがみに似た姿勢になる。 「行きます」 前席のパイロット、カティーナ・アスタールの掛け声とともにブレーキが放され、体が座席に押さえつけられる。 有り余るパワーが解き放たれ、翼が大気と雨を切り裂き、ボディが白い飛沫とオレンジのバックファイアの尾を引いて、天使が空へと舞い上がる。 後続の三機を上空で待ち、ダイヤモンドフォーメーションをとる。 双発複座の大型戦闘機の編隊が敵地を目指し飛行する。 「こちらAWACSモンスーン、聞こえるか? 貴隊はこちらの管制下に入った。エンジェル隊進路そのまま、高度を上げ雲中を飛行せよ。囚われのお姫様を救い出すナイツの出陣だしっかり頼む」 「こちらエンジェルT、了解した、感度良好。この天気じゃモンスーンの目だけが頼りだ。よろしく頼む」 AWACSからの指示に従い高度を上げる。視界はほとんど無く、計器飛行を続ける。 部隊内通信音が鳴り、僚機からの通信が入る。 「おい、ノイ。〈戦空の天使〉が生きていて、捕まっているかもしれないって本当か?」 「カーク、本当か? それなら我々は英雄を助け出す英雄だな」 またその話か、どこからそんな情報を拾ってきたんだか。噂好きのカークは隊の貴重な情報収集システムだが隊の内外を問わないのは問題だな。 「未確認情報だが今回襲撃する収容所にいるかもしれないという話だ。しかし、彼女は私の目の前で死んでいる。誤情報だろう」 「カティーはどう思うよ? 姉さんは生きてると思うか?」 「グスタフ!」 「あぁ、悪い悪い。どうにも軽い口でな」 「まったく、唐変木なんだから」 「軽いのはグスタフの口じゃなくて頭だろう」 こんな調子で部隊内通信を行っているが、スモールトークと呼ばれる機上の雑談はご法度なのだ。 しかし、それは公然の秘密と化し黙認されている。さらに盗聴防止のため翼端に付いている赤と緑のナビゲイションランプを高速で点滅させることにより有視界内での通信を可能にするという通信機能は、仕様書に書かれなくてもメーカーが独自に装備するほど、その利用は常習化している。 「そろそろドナ川を越える。スモールトークは終わりだ」 「「了解」」 敵のレーダー網を回避するため地を這うように飛び続け、五つ目のチェックポイントを通過するとAWACSからの指示が届く。 「エンジェル隊、侵入ルート適正。さすがに優秀だな。ピクチャークリア。進路そのまま」 「こちら陸軍特殊作戦群二〇三任務部隊ロムスク・クリーガ中尉だ。コールサインはコブラ。先発隊が目標施設への侵入に成功、敵の無線施設を占拠している。彼らが敵に発見されてしまうと全滅は必至だ、予定を早めてくれ」 「モンスーン了解。まだ目標周辺の掃除が終わっていない。コブラ隊はポイント二六〇‐二二五‐三〇〇に移動し待機せよ。エンジェル隊はカウントマイナス三〇」 「コブラリーダー了解」 「エンジェルT了解」 僚機からも了解の通信が入る。ここから先のミスは生死に関わるため真剣だ。 フォーメーションランプの出力を最低レベルに絞り、雲の中へと上昇して最終アプローチをかける。ここからは発見されないことよりどれだけ早く動けるかが勝負だ。 最後のチェックポイントをマッハ一・四で駆け抜けた。 「作戦空域への侵入を確認。エンジェル隊、交戦を開始せよ」 「了解、エンジェル隊エンゲージ」
「マスターアームオープン。オールウエポンモーニングコール。レーダーモードストライク」 攻撃の準備を終えたことをパイロットに伝えると機体は一八〇度ローリングしてパワーダイブに突入した。高度計が見る間に数値を減らし、速度計がその半分以下の速度で数値を増やす。 「ブレイクナウ」 編隊を解くよう命じる。それぞれが攻撃目標に対してアプローチを開始。四機の翼から空対地ミサイルが白煙の尾を引きながら母機がレーザーで指し示す目標へと飛んでいく。 高度三〇〇で機体を引き起こし対空砲の射程外へ上昇を開始、レーザーホーミングを解除し次の目標へと機を進める。使用した空対地ミサイルは終端誘導装置の無いものだが、ほぼ真上からリリースされたミサイルは対空陣地を無力化するには十分過ぎるほどの威力を持っているので多少ずれても問題は無い。 かつては学校だったが今は捕虜収容所となっている目標施設を視認すると蜂の巣をつついたような大騒ぎになっている。 先制の一撃を運よく免れた対空陣地が攻撃を開始してきた。曵光弾が幾筋もオレンジの尾を引いて空へと吸い込まれていく。この天気では対空陣地の視認は困難なため自分から場所を教えてくれるとはありがたい。 三回目の攻撃を終え上昇している最中、レーダーに目を移すと四番機が不用意に目標施設の近くを低高度で飛んでいた。 「エンジェルW、高度が低い。機体不調か? 狙い撃ちにされるぞ」 「こちらウッド、コンプレッサーの調子が悪い、エンジン出力が上がらない」 「無理はするな、離脱を許可する」 「……了解。くそ! ロックオンされた。ミサイルアラート!」 「フィー!」 五キロ前方。相対高度マイナス八百メートル。方位〇‐一‐〇。自小隊機の四番機が敵の携行地対空ミサイルに喰われ爆散した。 パイロットはケッツァーナ・フィル一等空曹、フライトオフィサーはアヤ・ポートフィールド曹長。 「こちらエンジェルT、エンジェルWの脱出を確認できた者はいるか?」 「エンジェルUネガティブ」 「……エンジェルVネガティブ」 脱出は確認できなかった。 「作戦を継続する。残りの対空陣地を殲滅しろ。携行SAMに注意」 地上での戦闘が始まったようだ。目標施設内での銃撃戦の音は聞こえないが、時折自動小銃や手榴弾の閃光が見える。 五回目の攻撃で事前に確認されていた全ての対空陣地を破壊した。 「こちらエンジェルT、ゴミ掃除は完了した」 「了解した。コブラ隊は前進せよ」 「コブラリーダー了解。前進する。ステラの野郎共を騎兵隊が蹴散らしてくれる」 「なんて天気だ。風に振られて地面にキスするなよ」 「くそ! 視界がねえ……」 「友軍機、C棟南側の通路を掃射してくれ。こっちはもう弾丸が無い。やつらの銃座がグランドを向いてる。建物から出たらヘリに着く前に蜂の巣だ」 「俺たちが着くまで三分掛かる。エンジェル隊、変わりにC棟南側の通路を攻撃してくれ」 「了解した。エンジェルU、C棟南側通路を攻撃しろ。エンジェルVは周辺警戒」 「「了解」」 戦況は一分一秒、いや、一秒一瞬ごとに変化している。判断を間違えれば自分か味方の命が簡単に持っていかれてしまう。 天候がさらに悪化し、まるで洗濯機の中を飛んでいるような状態だ。 ヘリを目視で確認。三機の輸送ヘリと予定には無かった攻撃ヘリが一機いる。 「タクシーの到着だ。早く乗れ」 ヘリがグランドに降りると、土砂降りの雨の中、ぼろを纏った捕虜たちと完全武装の先発部隊がヘリへ向かう。つまずいたのか撃たれたのか分からないが、途中で倒れた者を別の者が引きずって行く。 「コブラ、状況は?」 「今積み残しが無いか確認中だ……よし、終わった、帰るぞ」 定員より二割ほど多く詰め込んだヘリがグランドから飛び立つ。 「待って、姉さんは? ヴェセンティ・アスタールの確認を」 「ちょっと待て……その名前の人はいない。コブラUはどうだ?」 「……いたぞ! おいおい〈戦空の天使〉じゃないか!! 大丈夫だ、あんたの姉さんは元気だよ」 「…………良かった。本当に良かった」 前席が涙声で答える。 「パン! パン! パン! 方位二‐七‐三より敵戦闘機接近、機数二。二分で到達する。直ちに迎撃せよ」 和やかなムードを一瞬で戦場に引き戻すモンスーンからの緊急通信。戦闘機やミサイルからすればヘリコプターは静止目標と大差無く、もしヘリが撃墜されれば元も子もない。 「俺たちじゃあいつの相手はできん。エンジェル隊頼むぞ」 戦闘機からすればハエが止まるほど遅い全速でヘリが東へと退避する。 「レーダーに敵影を確認、方位二−七−〇。敵機接近」 さぁ、戦闘機乗りの本領発揮だ。
Final Mission +天使の還魂+ レーダーから敵機の位置を確認してパイロットに伝える。戦闘機動中のパイロットは計器類を見る余裕はほとんど無い。そのためフライトオフィサーの自分が情報読み上げパイロットを誘導し勝利する。 「ミサイルアラート。ブレイク、スターボード」 右に八G旋回。高度が若干下がる。レーダーを再確認。敵機とすれ違う。 「まだいけますか?」 パイロットの意図を理解し、拳を握り親指を立てるサインを送る。 旋回半径が狭まり頭から足に向かってスッと血液が落ちていく。対Gスーツが作動し下半身を締め上げ、血液が下半身に溜まり難いようにする。 エアブレーキが作動。前席に吹っ飛ばされそうになった体にハーネスベルトが食い込む。今まで下向きだったGが上向きに変わる。視界が赤み帯びてレッドアウトしそうになるがその前にアフターバーナーが点火。座席から飛び出しそうだった自分の体は背もたれに押し付けられる。 無茶な機動。機体の強度限界ギリギリの、下手をすれば空中分解しかねない機動の中で、前席のパイロットはいつの間にかミサイルを二発も発射していた。 レーダー上のミサイルを示すマーカーは敵機をそれた。 「ミサイル命中せず」 雲海を突き抜けて雲の上に出る。嵐から開放されて視界が良くなると、そこで目にしたのは漆黒の敵機。あの死神だった。 「全機気をつけろ、あいつは強い。〈戦空の天使〉を墜としたやつだ」 恐怖で一瞬思考が止まる。だが、やるしかない。 「必要以上に臆病になるな、向こうは二機、こっちは最新鋭機が三機だ。それに無理に撃墜する必要は無い。ヘリが離脱すれば我々の勝ちだ」 「エンジェルU了解」 「エンジェルV了解、さっさと帰ってサインもらわないとな」 ミサイルの応酬はすぐに終わりGUNによるドッグファイトに縺れ込んだ。機体性能はほぼ互角だがダッシュ力ではこちらに分があるようだ。互いに後ろをとろうとして複雑な曲線が空に描かれる。 「エンジェルVスプラッシュワン! スプラッシュワン! 一機喰ってやったぞ」 エンジェルVのフライトオフィサー、グスタフが雄叫びを上げる。 「カティー、グスタフにスコアを抜かれるぞ。そいつを墜とせ」 「わかってます」 僚機が敵機を撃墜した。これで三対一。 「こちらモンスーン、コブラ隊はドナ川を越えた。我々の勝ちだが離脱できるか?」 「後ろを見せたらやられそうだ。いや、訂正する。敵機が離脱を開始した。我々も帰投する」 惜しいチャンスだが残余燃料が少ないため引き上げるしかない。 「エンジェル隊ミッションコンプリート」 「こちらコブラリーダーだ、エンジェルT、作戦中撃墜された機体の乗員の名前を教えてくれ」 「ケッツァーナ・フィル一等空曹とアヤ・ポートフィールド曹長だ」 「了解した。神よ、今我が任務を全うし私の友、ケッツァーナ・フィル、アヤ・ポートフィールドがあなたのもとへ召されました。神よ、彼らは勇敢に戦い、敵に捕らわれた多くの同胞を救い出しました。どうか、彼らの魂に永久の安らぎと祝福を与えたまえ。神よ、我らの敵を退け、戦友を救う力を与えたまえ。そして神よ、あなたの意志で我が命を召し上げられるときは、祝福と共に我が家族をその御手で守りたまえ」 彼らが撃墜された方向に見当をつけて敬礼する。機体不調にもっと早く気づいていれば、ヘリがすぐ来るのだから脱出を命じていれば二人の命は助かった。彼らの死の全て、少なくともその何分の一かは隊長である自分の責任だ。 滑走路に近づき高度を下げると幾分か弱くなった雨が機体を叩く。それは悲しみの涙であり、返り血を拭うシャワーでもある。 戦闘は終わったが戦争は終わっていない。今この瞬間も続いている。 戦死者二名、重傷者八名を出した嵐の中の救出作戦は、捕虜三二七名の救出に成功した。
〈戦空の天使〉の奇跡の生還は戦意高揚のために大々的に報道された。 だが、結局我々は彼女の顔を見ることも声を聞くことも無かった。 戦死した二人の部屋はすぐに片付けられ。二人の親への戦死報告を書くほうが遅くなってしまった。彼らの親からすれば三百人以上の捕虜の命が救われたことよりも、自分の子の命が失われたことの方が大きなことだろう。こういったものを書くのも隊長の仕事かと思うと気が滅入る。「勇敢に戦い」「使命を全うし」「多くの命を救い」そういった言葉が慰めにならないことを承知の上で書くというのは、自分の無力さをまざまざと見せ付けられるようで辛い。 救出作戦から二ヶ月が経ち、彼女から手紙が届いた。今は訓練学校で教官をやっているらしい。もう一緒に飛ぶことはできないだろうけどその分妹のことをよろしく頼むとも書かれていた。軍の簡素な便箋からは彼女の好きな金木犀の香水の香りがした。 返事を書こう。どちらが射出レバーを引いたかも確認しておきたい。できればまた会いたい。そのためには生き残らなければならない。 彼女はやはり、自分に生きる意味を与えてくれる。
人が人である限り、争いはなくならない。 幾度も繰り返されてきた血の輪廻は終わりを知らない。 神は我らを助けることも罰することもしない。 それでも、人は人の中に希望を見出す。 憎しみ、妬み、悪行の限りを尽くすのも人だが、 人は人を愛し、慈しみ、思いやることもできるのだから。 正義を信じて掲げた剣も、愛するものを守るため傷ついた体も、己の無力に流す涙も、志半ばで散った命も、流された多くの血も、天使の名を冠する戦闘機を駆る者達も、いつの日か訪れる本当の平和の礎となる。
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