壊れたラルスが生きている世界

18話

「始まったねー。」
 ザンが能天気な声で言った。
「そうだな。」
 シーネラルが顔をしかめながら返事をする。ペテルも少し震えた。
「あれ、とっても気持ち悪いんだよー。」
 3人がいるのは監視室。10日ほど前、ラルスが武夫と人間界へ勝手に行ってしまった後、ザンに怒られて妖魔界へ戻ってきた時、天井からトゥーリナの声がした。あの時のトゥーリナもここにいて、ラルスたちを見つけたのだ。
 武夫が危険な状態だったので、3人はとりあえずここに避難していた。ここから居間までは近いので、何かあったらすぐに駆けつけられると思ったのだ。
「あたしは経験したことないけど、あの千手観音みたいな奴、そんなに気持ち悪いの?」
「脳みそと心臓をわしづかみにされて、ぐりぐり揉まれる感じ。」
「的確だ。」
 シーネラルがうんうんと頷く。
「脳みそなんて触られたことあんの?」
 ザンが気味悪そうな顔になる。
「ない。だが、感覚がそう伝わるんだ。」
「へー。武夫ちゃんてば、怖いことするのねー。」

 頭は見えないが、少なくとも胸には穴なんて開いてない。
「なーんだ。一瞬、トゥーリナやターラン君じゃなくて、君に殺されるのかと思ったよ。」
 ラルスは笑った。「えおってば……。……!?」
 監視室でペテルが言った、“脳みそと心臓をわしづかみにされて、ぐりぐり揉まれる感じ”をラルスも味わった。
「うっ……何これ……。気持ち悪い、気持ち悪い。ちょっとえお、何して……?」
 力を使っているからか、武夫は無表情だ。目の冷たい笑みも消えてしまっている。逃げようともがくが、紐で縛られているかのようにままならない。
 ふっと気味悪い感覚が消えた。と同時に、目の前に突然、映像が浮かんできた。
 真っ暗な場所。周りには白くて大きな綿……いや、雪が沢山浮かんでいる。不思議なことにラルスの感覚はそれが綿だと言っているのに、心がこれは雪だと主張する。その綿に見える雪は様々な大きさをしており、白く発光していた。真っ暗なこの場所ではとても幻想的だ。
 足元はぬかるんでいる。所々に水溜りがある。小さな池といって良いくらいの大きな水溜りもある。この不思議な場所に立っているのは武夫だが、自分でもあるような気がした。
 目の前にどす黒い気を蠢かせている武夫が見えるが、その暗い場所に佇む自分でもあるように感じる武夫も見えていた。
 気持ちの悪い感覚は消えたので、武夫が何をしているのか、ラルスはのんびりと観察することにした。どのみち、動けないままだ。
 武夫が白い雪に手を伸ばしかけた。
「ぶー。」
 彼は顔をしかめてそれに触れるのを止めた。ラルスは触ってみたかった。が、主体は武夫らしく、ラルスの思い通りには動かなかった。ラルスはつまんないなと思った。それから違和感を覚えた。
「……あれ、なんかここ……。」
 雪は発光しているのに、手を近づけた時、手に光が映らなかった。それにここは真っ暗で何処にも光源らしき物はないのに、なぜか足元の泥や水溜りがはっきりと見える。「現実の法則は通用しない……ってことはやっぱり、ここは武夫が作り出した世界なんだ。」

「ラルスの心はどういう風に見えるんだろうね。えーと、シーネラルは衣装ケースだか、箪笥がすり鉢状に積まれた海だったよね?」
「ああ。」
「俺は所々砂漠化した草原。木も沢山生えてた。」
 ペテルが答えた。
「あたしはどんなだったのかなあ?」
 ザンは頭をかしげた。
 武夫は虐待されて育ったからなのか、自分に関わりそうな初対面の人を調べる。そいつが危険人物かどうか探るわけだ。ただの人間なら言動で推測するしかないが、武夫はその溢れる力を有効利用しているのである。ラルスはそれを目にする機会がなかったので、武夫に出来ることは少ないと思っていたが、本当は人間に許されていることなら、何でも出来る。
 ラルスと武夫は出会いが出会いだったので、今までその調査を受けないでいた。たぶん余計なことしなければ、これからも調査を受けないですんだのだ。

 この世界が武夫の作り出したものなら、綿にしか見えない物体が雪だと感じるのも説明がつく。武夫は雪をこういうものだと認識しているのだろう。白くて綿みたいにふわふわしていても本当は氷の結晶だなどと、武夫は知らないらしい。
 その雪だが、よくよく見ると毒々しく、雪の美しさなんて何処にもなかった。ラルスが妖怪で、聖なる雪を気味悪く感じるというのを差し引いても、雪は邪悪な気配で満ちていた。武夫が触れるのを止めた理由が理解できた。しかし、壊れているせいなのか、ラルスにはそれが甘美にも感じられる。
 ラルスが色々考えているうちに、武夫が座り込み、水溜りに手を伸ばした。汚い泥に水溜り。雪よりも触りたくない代物に見えた。しかし、水は澄んでいて、泥も肥沃な土に見えた。村育ちのラルスには、いい野菜が育ちそうな素晴らしい土地に思えてきた。水はけをよくする必要はあるが。
「ここ、価値観……というか見た目というかが逆だなあ……。」
 美しい筈の雪が邪悪で、汚い筈の泥と水が素晴らしいなんて。「えおってば、随分と天邪鬼な世界を作ったもんだね。」
 武夫はずっと無言のままだった。



08年10月3日
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