壊れたラルスが生きている世界

9話

 ダーク・デーモンが青ざめている。言葉もないようだ。ラルスは微笑みながら彼に手を伸ばす。
 あとちょっとだった。ほんの少し。多分、1秒にも満たない時間。たったそれだけの時間が悪魔の命を救った。ザンが現れたのだ。
「ラルス、てめー、勝手なことしてんじゃねーよっ。」
 彼女は、ダーク・デーモンを通り抜けて、ラルスに迫った。仰天したラルスは、足をもつれさせて転んでしまった。
「び・吃驚させないでよー。死ぬかと思った。」
「あー? てめーが勝手に人間界へ来るのがわりぃんだろが。お陰であっちは大騒ぎだわ、あたしは天国へ連れ戻されるわ……。」
 ザンが険悪な表情でラルスを睨んだ。
「あははは……。そういえば、君ってえおの準守護霊だから、えおがいなくなったら妖魔界にいられないんだっけ……。」
「そうだよ!! 気が遠くなったと思ったら天国にいたんだ。吃驚したのはこっちだつーの。それに、ペテルはどうするんだよ? えおが側にいなくなったらあいつ、殺人機械になっちまうんだぞ。今頃、あっちがどんな状況か、考えるだけでぞっとするよ。意識を失う前、シーネラルが血を流してるのが見えたし、人死にが出ているかも……。」
 ザンが青ざめた後、またラルスを睨みつけてきた。「というわけだから、さっさと妖魔界へ行くんだよ。界間移動の呪文を唱えな! 馬鹿兎。」
「馬鹿兎って……酷いこと言うね、君は。……僕、悪魔君を食べようと思ってたのになあ……って、あれ? いない。」
 ラルスは辺りを見回す。ザンも周りを見たが、ダーク・デーモンの姿はない。
「悪魔、になーよ(訳=いないよ)。じゅも、つかーて、いげた(訳=呪文を使って逃げた)。」
 武夫が言った。「あうす、たべう、ゆーかあ(訳=ラルスが食べると言ったから)。」
「そうなの? なーんだ。逃げられちゃったのかあ。つまんないの。……じゃ、妖魔界へ帰って、ペテルによる喜劇でも楽しもうかな。」
 ラルスは界間移動の呪文を唱えた。ぶうん。扉が静かに開く。「さ、行こ行こ。」
 しかし。
「うー……。」
 武夫は俯いてタルートリーの側から離れようとしないし、
「喜劇って何だよ? おめーの言うことは訳が分からん。」
 ザンは顔をしかめて動こうとしない。
 一人、状況が分かっていないタルートリーは、無言で武夫を見ている。
「行かなくていいの? まあ、僕はどっちでもいいんだけどさ。ここで人間を沢山食べてもいいわけだし……あ、駄目なんだった。」
 ラルスは頭をかいた。
「あんたさあ、なんか……。」
 ザンは言いかけたが、顔をしかめて止めた。「そうだね、一刻を争う事態なんだし、細かいことは後でいいや。ほら、武夫ちゃん、行くよ。」
「うー。」
 武夫がいやいやをするように首を振る。それを見たザンが溜息をついた。
「仕方ない。ラルス、タルートリーも妖魔界へ連れて行って。」
「うん、分かった。」
 ラルスは片手で武夫を抱き上げると、空いている手でタルートリーの腕を掴んだ。
「何を……?」
 タルートリーが不安げな顔をしたが、ラルスは無視して扉の中へと飛び込んだ。


「ここは一体……?」
 タルートリーが不安げに辺りを見回す。
「ここは界間移動用の通路だよ。」
「快感……?」
 タルートリーが不可解な表情を浮かべる。
「その快感じゃなくて、界と界の間で界間。簡単に言うと、僕達は人間界を出て、妖魔界へ行こうとしているわけ。今。」
「つまり、わたしと武夫は、お前達、物の怪どもの世界へ行くというのか? 何故、わたしまでもがそこへ行かねばならんのだ。武夫だけが行けばよいであろう?」
 タルートリーが今度は不快そうな顔になった。ラルスは、くるくると変わる彼の表情が面白くなってきた。「返事は……。なっ!?」
 彼は返事をしないラルスに怒りを浮かべかけたが、それが驚愕へと取って代わる。彼は震えながら、息子をさす。
「どうしたの?」
「武夫の後ろに二つの人影が……。」
 ラルスはそちらを見た。「ああ、何だ。ザンと武夫の守護霊じゃない。へー、ここだと君にも見えるんだね。」
「ザン? ザンだと言うのか!?」
 狼狽しているタルートリーへ、ラルスはにっこり微笑んで見せる。
「うん。そうだよ。君の奥さんの幽霊だよ。」
「では……。本当にザンは……。」
 タルートリーが武夫を見ている。「お前の言うことは正しかったというのか……。」


 妖魔界へ着いた。
「さーて、ペテルは何処かなあ? 何人くらい死んだかなあ? 楽しみぃ。」
 ラルスは血の匂いがしないかどうか、鼻をひくひくさせてみた。ザンとタルートリーが彼を気味悪そうに見ている。
 と、その時。
「居たぞ! 帰ってきた! ……兄貴、てめぇ、勝手なことをするなよっ!! こっちがどれだけ大変だったか……。愚痴は後だ。シーネラル、居間だ。行くぞ。」
 天井からトゥーリナの声がしてきて、その場にいた全員が飛び上がった。
「何? 今、天井からトゥーリナの声がしたけど……。」
 ザンが天井を見上げる。「あっ、あれかな? 気づかなかったー。この部屋って監視カメラとスピーカーがついていたんだ……。さすがつーか、気持ち悪いっつーか。……うへ。」
「頭がいいと、一瞬で何でも理解できるんだね。羨ましいかも。」
 ラルスは気味悪がっているザンに感心した。彼女はこちらを見ると、胸を張る。
「羨ましいでしょー。うふふふふ。」
「本当にザンなのだな……。幽霊などというものが実在していたとは……。」
 タルートリーが感慨深げに言う。「再び会うことなどないと思っておったのに……。」
 振り返ったザンはタルートリーを無言で眺めている。
 そこへ、トゥーリナとシーネラルが入ってきた。
「兄貴っ!!」
「ああ、トゥーリナ。ねえ、何人死んだの?」
 ラルスの言葉を聞くと、トゥーリナの眉が吊り上った。そして、彼の右腕があがった所までは見えた。
「すげー、何メートル飛んだ?」
 ザンはぽかんとした。「さっすが、第一者様ー。追うのが精一杯だよー。」
「ザン。お前、見えたのか?」
 トゥーリナが驚いている。
「うん。だって、ゆっくりだったでしょ。もしかしたら、ラルスがかわせるくらいに。」
「まあな……。それにしても、人間に見えるとは思わなかった。」
「そりゃー、あたしは喧嘩が生きがいだったもの。普通の人間とは違いまっせ。」
 ザンはまた胸を張る。
 壁に激突したラルスがよろよろと起き上がった。
「死ぬかと思った……。」
「とかいいつつ、すぐ起き上がれるのが妖怪か……。人間なら即死だよね。」
「顔が壊れるかと思った。トゥーリナったら、酷いなあ。」
 ラルスは能天気なことを言っている。自分が何をしでかしたか、そして、どれだけ無茶苦茶なことを言ったのか、この兎はまるで分かってないなとザンは思った。
「言っておくがな。シーネラルが頑張ったから、死んだ奴なんて居ない。」
 トゥーリナが怒っている。当然だろう。自分の部下やその家族が、傷つけられるところだったのだ。それに、武夫さえいればペテルは安全なのに、下手をすれば、部下達は彼に出て行けと言い出すかもしれない。妖怪のザンの部下達と同じことを考え始める可能性がある。
「えーっ? つまんないの。」
 今度は見えなかった。ラルスも多分見えなかったに違いない。彼は今度は反対側の壁まで飛んでいった。
「あいつの脳みそって、一体どうなっているんだろ……。」
 ザンは溜息をついた。「どうも普通の妖怪より言うことが残酷っていうか、ずれているっていうか……。態度は子供っぽいのに、思考回路がなんか……。」
 この兎、何なの? 壊れていることを知らないザンは、頭が疑問で一杯になるのを感じた。



08年9月23日
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