我妻榮先生の文書・記念館のことなど


唄(ばい)孝一

文化功労者

東京都立大学名誉教授

北里大学客員教授

「尾中哲夫 社長就任15年と古稀祝賀記念随想集」(目本加除出版株式会社2003)からの抜刷である。

本稿自体は、19971025日、米沢市での我妻榮生誕百年記念行事の1つである「我妻先生を偲ぶリレー講演会」における講演をもととしている(本文脚注(4)参照)。

(注)本稿は、2004626日米沢有為会文化講演会での唄先生の講演の際に配付された資料を復元・編集したものです。縦書き原本を「スキャナー読み取り・文字認識」により再現しましたので、誤認識による誤字を含む場合があります。漢数字による表記の多くは算用数字に変換しました。また、読みやすさのため、サブタイトルを付与しました。

(米沢有為会ホームページ運営委員会)

〔内容〕

.  我妻資料と私の因縁の始まり

2.書籍整理のほうの進展

3.文書整理の難しさとその進展

4.山形県立図書館 県人文書室開設の動き

5.我妻榮記念館の創設と御子息の想い

    追記

    脚注


〔本文〕

1.我妻資料と私の因縁の始まり

1)「私が死んだ後に、誰かその方面に興味をもつ後進の学者が、これを整理して、『我妻文書』などと呼び、公にする日があるかもしれない、などと考えたこともあった。しかし、翻って考えると、何も私の死を待つ必要はあるまい。生きている間に、公表するかどうかは別としても、整理しておくだけの意味はありそうだと考えるようになった」(1)

  周知のとおり、先生はその膨大な研究業績のほかに、学会や研究会の指導者として、また、民法改正をはじめ数多くの立法に参画され、さらに行政的・社会的な各種団体にも参加し活躍されています。そしていかなる会合にも手を抜くことなく熱心に参加された先生は、その御活躍に関連する資料・文書などを丁寧に保存されていました。それらは、学術研究上はもとより、立法作業や各種社会的活動にとっても有益な資料となるでありましょう。

  ことのことは誰にも十分推察されたことですが、先の引用文は、かなり古くに先生自身がそのことを自覚的に認識され、それに対処するしかたを示唆されたものです。しかも、このことは単にお気持ちにとどまらずに、先生は1つ実行に着手されました。70年代の初めでありましたが、戦前の人事法案(2)の関係の資料を整理することを私に指示されて、御自分が持っておられた関連資料を託されました。利谷信義君(当時、東大社会科学研究所教授)と共同して、ということでした。「人事法案」とは、これは、明治民法から、戦後の新しい民法にいたる間に、民法の改正に着手したことがあり、ほとんど法案ができていたのですが、戦時中のため日の目を見ないで終わったものであります。それの立法過程において委員として重要な役割を果たされていた先生は、これに関する資料を相当に持っておられ

ました。

  先に引用した文章はその人事法案立法資料の整理に関連して先生が書かれたものです。しかし、私たちは、御生前に具体的成果を挙げることはできないで、御逝去後、先生の追悼論文集が編まれましたときに、二人の連名で、「人事法案の起草過程とその概要」(3)という論文を捧げるのが精いっぱいでありました。こうして、第一弾の仕事が遅かったことが、生前の整理を志された先生のご計画のせっかくの出鼻をくじいたとしたら、まことに私たちの責任は重いと言わねぱなりません。

2)御生前のこの話を知ってか知らずでか、御逝去直後のある晩(昭和481025日か)に、御長男の洋君(在米中、急遽一時帰国)から、私のところに電話がありまして、「これから、我妻榮に関するいろいろの文章や資料を整理するが、我妻のほうでは自分が当たることになった。ついては、君も一緒にやってくれないか、二人で共同でやろう」ということでした。これが、先生の御逝去後、我妻資料と私との因縁の始まりでございます。

  その重要性は私も十分わかっていました。そしてそれは前に申し上げたように、何よりも先生の御遺志におくればせながら応えるものです。もとより私個人にとって、先生のなまのお仕事に接しつづけられることは誠に有り難いお仕事と思いました。しかし、いろいろの意味で私より適任者がおられると思われるし、その任の重さも思い、しばらくためら,わざるを得ませんでした。しかし、その後、四宮和夫教授(当時、東大の民法主任教授)から力強いお勧めがあり、さんざん迷ったあげく私はお引き受けさせていただきました。この仕事が決して容易なものでないことは、仕事に入れば入るほど分かってくるのでしたが。

  このようにして始まった我妻資料と私との因縁を、きょうは話の前半(4)としてお話させていただきます。これは先生の文書などが、現在どこでどうなっているかということの、いわば報告であります。きょうここで皆様にお話することをもって、広く世の中に報告することに代えさせていただきます。なお、実は先生の7回忌のときに、そのときまでのことを既に報告いたしております(5)ので、きょうの話はいわばその続編であります。

2.書籍整理のほうの進展

3)ところで、文書について以上のようなやりとりがあったころ、膨大な先生の書籍についての整理は、文書よりさきに始まっておりました。蔵書は東京大学法学部に寄贈したいというふうに、かねて先生は言われていたということを、御遺族をはじめ何人かの人が聞いておられました。その趣旨の文書は特にはなかったのですが、その御意思は確認できるということで、その実現に向かって整理が始められていました。その仕事には日本評論社のもとの社長の岩里元彦さんという方が当たられました。岩田さんは、先生とは編集者=執筆者として親密な関係が長くあったのですが、晩年には、その関係を超えて判例コンメンタール刊行会という組合組織をつくって、組合同人として苦労をともにされた方であります。ここで明確にしておかねばなりませんが、書籍の整理と文書の整理とは、岩田と唄とにその任務は完全に分かれていたわけです。したがって、本来、書籍のことは、私の任務外のことであり、文書についての私の報告と別に、岩田さんにより報告されるべきであります。しかし、岩田さんは昭和581115日に亡くなられていますので、私が見聞した限りで、そして必要に応じて東大法学部研究室事務室の関係者の方からうかがった説明などをもとにして、以下に記述することにしました。

  昭和48年の寒い冬の日、岩田さんは週に3~4日、石神井の先生のお宅に通われて整理に努めておられました。その御苦労がみのって、御逝去から半年後の昭和49年の329日には、和書・洋書・雑誌等を含めまして、1万9,959(逐次刊行物・雑誌・新聞・パンフレツトを除いた一般図書は7,350)が東京大学法学部に搬入されました。ただ当時、東京大学は紛争から問もないころで、この書物の置き場所に困られたらしく、元安田講堂の一階が総合図書館の保存書庫として仮の書庫になっておりましたので、そこにしばらく置かれました。同時にそのマイナスを補う対策として、一時「我妻蔵書コーナー」(6)が法学部研究室の書庫六階(エレベーター裏)に設けられ、そこには注記の選出基準にのっとって選ばれた776冊が別置されました。しかし、現在はすべて法学部書庫に帰っておりまして、それとともに「我妻蔵書コーナー」は廃止されたとのことです。

  なお、もう1つの補正策として「我妻蔵書(1975)」目録が作成されています。前記の7,350冊を収録したもので2分冊に分かれ、第1分冊には和書、第2分冊には洋書を収めています。その「編成は、我妻先生の定められた分類・整理の方法をそのまま踏襲した」もので、「目録作成については、『我妻蔵書』に添付されてきた目録カードを使用し、蔵書の書架配列の順序にならべて印刷した」ものです。すなわち、先生は独自の図書分類表に基づいて分類し、番号をつけ、ラベルを貼るとともに、カードを作ってカードボックスに整理されておりました。そのカードを16枚ずつB4一枚として綴じあわせたのがこの目録であります。(7)


3.文書整理の難しさとその進展

4)ここで話を文書にもどしましょう。文書は本当にいろいろなものがあって、整理は大変難しうございました。

(1)その主たる保存場所が、石神井のお宅にあるコンクリート4階建ての書庫で、そこにびっしりと詰まっておりました。先生のことですから、決して乱雑でなく、新聞紙その他に包まれておるのではありますが、何しろたくさんあって種類もさまざまでした。昭和49年の夏休みを中心として、4人の学生が通ってくれまして、書庫内でおおざっぱな整理と分類をいたしました。これが東大に運びこまれたのは、昭和50106日でした(書庫が最後に閉じられるのは、同年1028)

(2)文書のもう1つの所在地は、法務省の特別顧問室でした。ここには法制審議会を中心とする役所関係の会議の資料がおさめられていました。これにつきましても別の学生が延42人ほど手伝つてくれたのでありますが、お亡くなりになった年の12月から始めて、約1年かかりまして整理をいたしました。そのカード数は2,475枚に達しました(搬入は51710)

(3)さらに、先生は軽井沢にも相当の資料を置いておられました。したがいまして、軽井沢の整理も始めなければなりませんでした。たまたま洋君の帰国も本決まりになり、先生が亡くなられてから2~3年たつた夏休みに2人ないし3人の学生を連れて軽井沢に整理に参りました。多分、その作業の最後が昭和53年でしたが、8月26日にトラックに満載して軽井沢から東大まで搬送するお供をしたことを覚えております。

(4)こうして、石神井の御自宅、法務省特別顧問室、軽井沢などの資料の大半は東大への搬入が終わりました。東大のそのときの受け皿は、いわゆる明治文庫の中にあった近代立法過程研究会という研究会組織でした。それでその資料を坂井雄吉(当時・東大助教授)さんが中心になり、松崎里美さんの「長年にわたる尽力」により3年ほどかかって整理されました。「東京大学法学部所蔵、我妻榮関係文書仮目録」(28頁)にはその成果を一瞥せしめるものであります。その目録では、その間の自らの御苦労は傍らに措いて、冒頭に「本資料は量的に厖大であり、整理カードは1万数千枚に達する。また、その内容も広範囲にわたっており、その精密な分類はきわめて困難と判断された。それら種々の事情により、その完全な整理目録を公刊することは当面断念し、閲覧可能の程度にまで整理が進んだ段階で、とりあえずこの仮目録を作成することとした」とことわっておられます。そして、「整理カードは、明治文庫内(現在は、近代日本法政資料センター原資料部)に保管されている。閲覧に当っては、本仮目録を参照の上必要な資料を整理カードにより検索して頂きたい」と呼びかけておられます。〔ちなみにその後、一昨年(2000年)から、第2次整理として細目に立ち入った整理が再開され、陳肇斌(東大助教授)さん・桑田喜美子さんのコンビにより一段と厳しい作業が約2年近く続けられたようです。これに基づく第2次目録の完成も遠くないと聞いております〕。

(5)それから、同じく東大の中でもう1つ東洋文化研究所について述べねばなりません。そこに先生の大変親しい弟子でもあった福島正夫教授などもおられたので、先生所蔵資料のうちアジア関係の資料----それは旧溝州国・中国・東南アジアなどを含んでおりますが---は東洋文化研究所の図書室に送られました。それは632種、932冊と聞いておりますが、そこには、満鉄上海事務所作成の都市不動産関係、地籍整理関係のものが多いというのが特徴だそうです。(7)


4.山形県立図書館 県人文庫室開設の動き

5)ここで、もう1つ、とび入りとして山形県立図書館について申し上げます。山形県立図書館は、平成2年に新館を移築するに際しまして、「文化勲章受賞の方々や文化功労者を中心に、県出身の偉材を県民に紹介する県人文庫室の開設を企画」し、そのために「関係資料の収集に着手」されました。展示対象者は、展示面積の関係で22名となり、選定懇談会で選定されました。我妻先生がその筆頭に入るべき人の一人であることはいうまでもありません。そこでその資料を収集したいという申し込みが同図書館から我妻家にはもとより、私どものところへもまいりました。ちょうどほとんどの資料が東大その他におさまった後であり、今さらもう見るべきものがないのではないかと、少々困りました。それでも御次男の堯君のところでも、また洋君の御遺族(きわめて残念なことに、既に洋君は他界されていました)も、できるだけ発掘して提出するようにされましたし、私などもいろいろ努力させていただきました。それについては、当時の同図書館長の森一さんが非常に熱心で、東京と山形との間を何度も往復されました。

6)ところがこの県人文庫の完成が近づいているころに、米沢に先生の記念館ができるという話が伝わってきたわけであります。たまたま時期が重なったために、乏しい遺品や遺稿の残余がさらに二分されざるを得なくなりました。ちょっと困ったなあ、せめて山形と米沢の分散だけでも防げなかったかなというふうに、その後もときどき思いました。生誕百年を前にして久しぶりに私は山形に行って図書館の陳列も舞台裏の保管状況も見せていただきました。我妻先生もこの中では単独ではなく、20数名のなかの1人ではありますけれども、図書館自体あのような近代的な設備でありますし、あれはあれとして丁寧に、またしっかりと保管していただいているというふうに感じました。同館はまた我妻先生の生誕百年展も催して「民法学界の最高峰我妻榮生誕百年展」というパンフレット(20)を用意して、同館の保有している先生の著書や資料をリストアップしています。それを見ると、同館が、新企画のための一夜漬けだけではなく、ずーっと以前から郷土の大先輩の著書を収蔵することに努めておられたことがよくわかります。著書以外のものについては無理して集めたという感じは否定しきれませんが、その限度内での丁寧な作業ぶりが随所に感ぜられ、それには敬意を表したいと思います。こうしてみると一点集中でなく、いろいろのところに分かれているというのも、またよからずや、と思いなおしたりもいたしました。


5.我妻榮記念館の創設と御子息の想い

7)こういう状況の中に、我妻榮記念館が登場してまいりました。

  山形県米沢市中央3丁目(旧鉄砲屋町)に、先生の生家で、先生が少年時代までを両親と過ごされた家であります。一高入学まで先生の書斎とされていた六畳の部屋をふくむ木造2階建て、床面積25.5坪で、裏には土蔵21坪が接続されています。

  大正6年の大火の折、榮先生の父・又次郎さんの教え子たちが駆けつけて必死の防火に当たり、からくも類焼を免れたと語り継がれています。

  先生一家が上京されたあと人手にわたって約70年、老朽のため危うく解体の命運にさしかかっていました。しかし幸いなるかな、先生の偉業を顕彰するために、その生家を維持保存するという郷土の気運が高まる中で、平成4年、社団法人米沢有為会が浄財を募集して買い取り、記念館として再生してくださったのであります。(8)

  しかし、この記念館の設立の吉報は、実は文書整理の上で、新たな難題を課するものでもあったわけです。といってもうれしい悲鳴に類するものではありますが。

  第1に、この館の性格という観点からです。御生家そのものが非常に記念的なものでありますし、それだけに「あの家は、あれとしてあるだけでいい」と、あの家に感懐をもつ人ほどそのように思われるかもしれないからです。「あの二階の書斎は、訪ねてしばし足をとどめるだけで、意義深い時を持ち得るんだ。だからあの家さえあればいいので、陳列品やその他余計なものはない方がいい」という意見も私に聞こえてきました。しかし、「記念館という以上、先生にゆかりの文書や遺品を陳列して、先生の御声や御姿が具体的ににじみ出てくるような場所にしたい」というのもごく自然な声でした。

  第2に、それよりももっと具体的な心配がありました。上に述べたように、記念館が確定したときは、御逝去後20年経っており、文書の大部分が既に移管されていることは、これまでしばしば述べたとおりです。一歩先んじた山形図書館でさえへ既に十分には収集できなかったという感があるのに、さらにおくれた記念館に並べるべきものがあるだろうか、という現実的な心配がひしひしと感ぜられたからです。もし、御逝去の直後にこの館ができていたら、もっと異なる構想のもとに、より大きな計画ができたろう、と思うと、もはや中途半端なことしかできないことが、いかにも残念に思われました。

  ただ、先生の場合、軽井沢や真鶴に別荘があり、そのどれもが先生にとってのかけがえのない資料庫ないしミニ図書館になっていたという事情もあり、その後もひょっとして資料や直筆の草稿の束などが発見されることもあるかもしれません。ことに先生の御逝去後

23年独りで余生を過された緑さまは、電話口でよく「今忙しいの、写真を整理しているの」というような言葉を繰り返されていました。(9)実際その居室には、写真のほかお得意のコレクションの小物がいっぱい散らかっていたことを思うと、緑さまのおてもとには、プライベートなものを含めて、なお文書なども見出される可能性はないわけではなかろうとも思えました。御家族との写真や旅の記録は既にかなりありましたが、また折にふれての御手紙のほか、魚拓や茶の免状など、研究を離れた先生を偲ばせるものも少々あるかもしれない。それらは先生のあの「一所懸命の生涯」を支えた活力として、あるいはいろどりとして、みる人を励まし、またうるおわせるもの----話は「文書」をはなれてゆきますが----

かもしれない。

  このようにして、同じ資料といっても、より研究の方にかたむいた、そして、私生活面にかかわるであろうことを覚悟して、記念館のために作業が続けられました。前に述べた第1の課題は、あらかじめ黒白の決定をするのでなく、資料の発見具合(その質と量)によっておのずから答が出るのを待つことにしました。ただし、このように私生活とくに御家庭のことなどに及んでくる可能性が多いとすると、どうしても御遺族の方々との御相談、そのチェックを受けることが今までより以上に不可欠になってきました。(10)この資料整理がもともと御長男の洋君のかけ声ではじまつたことは前に申し上げましたが、その後お亡くなりになるまで洋君とはきわめて緊密な共同作業を行っていました。

  整理に当たって、洋君との間にこんな問答もありました。「君みたいに何でも残しておく、何でも残しておくと言ったって、法律家の生原稿など、そんなものは三文の価値もなくなるんだよ、我妻榮と谷崎潤一郎は違うんだ」というふうなことをよく言われました。「文学者の遺筆はいつまでも大事にされるが、法学者はそうはゆかない」と言うのです。彼のこのような見方が当たっているか否かはともかくとして、この彼の書い方を丸のみにはできません。彼一流の照れやら皮肉やらいろいろありまして、こういう逆説的な言い方の中に、彼の先生への思いがこめられているとも思われます。こんな問答を繰り返しながら、先生の原稿はなるべく捨てないで取っておくという方針が守られました。そのとき取っておいたものが今資料館の陳列に役立っているのを見るにつけても、洋君の複雑な思いが熱く思い出されます。洋君が1985年、つまり、榮先生の没後21年に痛死されるまで、榮先生のために没頭された多くの仕事を書く紙面がないので、これは別稿に譲り、当時の彼の気持ちを総括した彼自身の美しい文章をそのまま引用しておきます。

 「昨夏まで父が仕事をしていた軽井択の書斎で、今まで余り熱心に読んだこともない父の文章を、何回となく読みかえしては分類し、紙とハサミとのりを使って原稿を作る----いわぱ、父にどっぷりと漬っているような日夜を過ごすことは、十ヶ月足らず前におきた父の死による打撃からまだ立ちなおっていない私にとって、少なからず苦痛な作業であった。しかし、こうして父に「漬りきる」ことで、父を「卒業」できるのだと、私は自分にいいきかせた。これが私なりの「告別式」なのだとも考えた。そして、高原に秋風が立ち始める頃、たしかに、私の内部では何かがふっきれたように思われた、父の墓石の丹念な掃除をすませ、その垣の扉を閉めて立去る時のような、どこか諦めに似た小さな溝足感が、今、私の胸の悲しみの底に生まれている……」と。

8)なお、こうして洋君までお亡くなりになったあとは、先ほども御本人からも話がありましたように、堯君がひきついでくださいました。堯君については、今日も御講演をうかがったことですし、みなさんはよく御存じでなじみも深いと思います。記念館の名誉館長であり展示品収集についてはいわばキーマンでありました。また、堯君と私は、医療と法律の関係の学会でときどきお会いする間柄でもありまして、よく存じておりましたので、好都合でした。

  さて、そろそろこの報告も終らねばなりません。陳列品のリストなどを具体的に示すことなどここでは留保しつつ、敢えて御子息のことにややくわしく言及させていただきました。というのも、これら父子2代御三方の御心の伝承(11)を感じとる----細やかで微妙なひだなど私の推察を超えるものでしょうが----ことも、記念館が果たすべきものとの思いを深くしているからであります。

  最後に、あのとき(19857)、洋君が私を誘って設定された一週問の軽井沢合宿が、もし実現していたら、彼は何を言い遺したのでしょうか。あるいはどんな作業を私に託したのでしょうか。悲しいかな、天はその計画の実現を待ってはくれませんでした。(12)それは、覚悟していたよりもはるかに早い終焉でした。


〔付記〕

  本文中に登場していただいた多くの皆様のどの御一人のお力添えも、それがなければ、ここに述べた仕事はできませんでした。あらためてそのことを想起して、すべての皆様に心から感謝申し上げます。

  なお、わけても、記念館に関していうならば、私ののろのろぺースを寛恕して、その創設と運営とに献身されてきた市当局や有為会の関係者の皆様、ことに松野良寅様(初代館長)、小関薫様(事務局長)、神田倉一様(初代管理人)、そして、数次にわたり、米沢・軽井沢まで私と行を共にし心身のつとめを分かちあってくれた東京都立大学OBOG生の方々に、感謝の念を捧げ、あつく御礼を申し上げます。

  榮先生の経歴・作品については、

「我妻榮先生の人と足跡----年齢別業績経歴一覧表----(我妻洋・唄孝一著/信山社1993)を参照されたい。


〔脚注〕

(1)我妻榮「人事法案」ジュリスト186(1959915)

(2)明治民法の第四編・第五編を形作るいわゆる「家族法」は、昭和22年の民法応急措置法による廃止までその効力を有してきた。しかし、実はその間、全面的な改正が企てられた。大正8年に設置された臨時法制審議会による「民法改正要綱」と、昭和3年に設置された民法改正調査委員会が要綱に基づいて編集した「人事法案」がそれである。その編纂の作業は少なくとも敗戦直前の昭和195月まで続けられていた。    もっとも「人事法案」は、初めから、「人事法」として起草されたわけではなく、民法第四編第五改正案が昭和14年の第三草案の段階でこの名称を付せられることになった。     我妻先生は委員として終始参加され、重要な役割を果された(くわしくは唄・利谷別稿をみよ)

(3)加藤一郎・星野英一編『私法学の新たな展開』(有斐閣、1974)

(4)本稿は19971025日、米沢市で我妻榮生誕記念百年の記念行事の1つである「我妻先生を偲ぶリレー講演会」における私の講演をもととしている。堯君が「血縁」、遠藤浩君が「地縁」の代表として話されるので、私は「資料縁」を話させていただくことにした。いや、私がその任務の遂行状況を報告する好機と思ったからである。同講演の後半はそのことと関係なく、私なりの「我妻先生への思い」を述べたものであったが、本稿ではその部分を全く割愛した。そして若干の添削を加えたほか、我妻榮記念館のことにつき、ややくわしい紹介を加えてある。

(5)「我妻先生を偲ぶ会」書斎の窓2912頁〜25(1980)

(6)そのコーナーに別置する図書は次の基準で選ばれた。@我妻先生の御著書を網羅的に A概説書----新版ものを中心に B洋書----概説書・コンメンタール類 C我妻先生が頻繁に引用されたもの D鳩山氏等著名な民法学者のもの。

(7)その聞の事情につき当時の図書主任の次のような説明がある。「法学部研究室の諸事情により、正規の受入手続きはまだ済んでいない。したがって、この蔵書が公開されるまでには、今後なお数年の年月を必要としよう。しかし、「我妻蔵書」の早期公開を希望する研究者の声は多い。そこで、その間、さしあたっての利用のための必要最少限度の措置として作成されたのがこの蔵書目録である。作成にあたってはいろいろの制約があって、内容的にきわめて不完全なものとなった。しかし、現段階で「我妻蔵書」の概略を知り、利用するための最少の手がかりにはなり得るであろう。その意味で役立ち得るならば幸いである。」と(昭和5051)

(8)その経緯については、生誕百周年記念誌(松野良寅編『我妻榮----人と時代』ぎようせい、1997)に、苦労された方々による簡潔な記録がある。また、この家のすじ向いで幼い日を過ごされた遠藤浩教授の感懐をこめた文章(ジュリスト1102号から転載)も寄せられている。

(9)緑夫人については、唄「我妻緑さまを偲んで」(前注所掲の文献)

(10)7回忌の報告の際、苦渋打開の問題点として、私は次の4点を指摘していた((5)所掲文献2021)。@先生の御意向をもう少し細かくうかがっておくべきであった。Aなるべく捨てず網羅主義をとり、小さい関心による選り好みをせず、ある意味で玉石混淆を辞さない。B資料における私的人格権的性質と公共的学問的共通財産性とをわきまえる。その両方に所を得せしめ、なるべく大項目主義とする。後者を伸長しつつも前者をゆるがせにしない。C4我妻記念館が将来の「近代法律資料館」開設のワン・ステッブにならないだろうか。

(11) 洋君は、「不肖の子」をジュリスト臨時増刊563号「我妻法学の足跡」(1974421日号)に、「不肖の子・続編」を『追想の我妻榮』(一粒社、1974)に書かれたほか、栄先生の逝去後に自ら編集された『我妻榮「民法と五十年」』(その二、随想拾遺())の「あとがき」に、その心情を吐露されて感動的である。本文は、それからの引用である。堯君は、「父・我妻榮」を「足跡」(前掲)に、「父と健康」を「追想」(前掲)に書かれて、医師として客観視することを重点として父を描こうとつとめられたほか、「講演、米沢と我妻榮----父を語る」(『米沢有為会雑誌』復刊421993三年)において、くわしく思い出などを語られて風趣に富む。なお、最近数年はたびたび米沢に招かれて講演をされている(『記念館だより』創刊号4頁の「ふるさと」欄その他を参照されたい)

  (12)そのいきさつは、唄「洋の風景」書斎の窓359(1986)3637頁。