●古浄瑠璃東西に繁栄
浄瑠璃を東西に繁栄させた最初の人は、杉山丹後掾(たんごのじょう)と薩摩浄雲(のち薩摩太夫)。ともに京から江戸に下り江戸浄瑠璃を確立したのだが、それぞれの門下から、さまぎまなタイプの名手が現われ、その特性を活かす新しい流派を拓(ひら)くのであった。丹後掾門下からは肥前・河東節などが興った。浄雲系では、まず和泉太夫(桜井丹後掾)が豪快な語り口の金平節(きんぴらぶし)で江戸を風靡(ふうび)した。これが江戸歌舞伎の宗家・市川団十郎家のお家芸となったが、その面影は歌舞伎十八番に残っている。このほか外記・大薩摩・文弥・一中・豊後・常磐津・新内・清元節などが弟子、孫弟子たちにより創造され人気を競うのである。これらの語り手はみな太夫と呼ばれる。現今の邦楽界で最も繁栄している長唄にその呼び名がないのは、うたいものであって語りものではないからである。こうした規格のきびしさは、日本の芸能全般にみられる特性のひとつであろう。さて浄雲門下の虎屋源太夫は一門を率いて京に戻り新しい地盤を築きあげたが、門下の井上播磨掾は大阪道頓堀に進出し剛健な語り口による操り芝居を興行、当時新興都市としての活気溢れる浪花の大衆を感動させ見事に新境地を築き上げた。これに対抗する相孫弟子の宇治加賀掾は京に居つき、加賀節と愛称された古都の風物・歴史・人心にぴったりな、はんなりと哀れで鮮麗な語り口で人気を高めた。かくて京阪で操り芝居の角逐(かくちく)が始まったのである。当時の民衆は先行演劇である”能楽”を権威高きものとして尊敬していた。武家の式楽として支配階級から庇護(ひご)を受けある種の特権に飾られていることへの感服であって、必ずしもその真髄を理解した親近感こもる尊敬ではなかったろうが、階級制度のきびしい世代だけに能楽に接近できる身分への憧憬をからませて眺めていたことは間違いあるまい。古浄瑠璃各派にしても多かれ少なかれ、やはり能楽を目標としていたようである。特に加賀掾は、ずばり「浄瑠璃に師匠なし。ただ謡を親と心得べし」と説いていた。江戸浄瑠璃が武家の権威主義に影響されていたように、京浄瑠璃は、インテリ都市たる土地柄を反映し、知的な高尚化を思惟し能楽の世界を羨望していたのであろう。では大阪は――播磨掾の弟子の清水理兵衛が、大阪天王寺の百姓で天性の大声に独特な魅力を溢れさせる五郎兵衛という少年を発見、弟子とし理太夫を名乗らせた。たいへんな天才で、まず剛健な播磨節をマスターしたのち京に上って加賀掾の芝居に加わりその華やかな芸風を吸収、さらに泣き節と愛称された文弥節(岡本文弥)を加味するなど諸派の長所を摂取、ついに竹本義太夫を名乗り独特な語り口で大阪の人気を煽(あお)った。当時の最高の自由主義都市・大阪は庶民性が強く、実力のない権力に憧れたり頼ったりすることを恥じ、笑いものにもする土地柄だった。大阪で自己を主張した義太夫は、語りもの本来の姿を尊重し、その独自性をこそ自らの芸にすへきだと考えたのであろう。「むかしの名人の浄瑠璃を父母として、謡、舞等はやしない親と定め侍(はべ)る」と言い切ったのである。日本の庶民の底辺から芽ばえ栄えたかたりものの本質を尊重し追究して繁栄を求めるべきであって謡などの亜流に甘んじてはならぬと主張したのである。こうして全く相違ったイデアをもつ加賀掾と義太夫との対決が当然のように始まった。この勝負は、理太夫から義太夫と名をかえ貞享(じょうきょう)元年(1684)大阪道頓堀に、竹本座を開場するに及んで一気に決戦に持ちこまれ、凱歌は義太夫にあがり古浄瑠璃の終焉となっていくのである。
暫しの休憩
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●近代浄瑠璃の興亡と作家たち
竹本座は開場にあたって近松門左衛門の旧作『世継曽我(よつぎそが)』を上演、すばらしい人気を呼び義太夫の名声を一気に昂(たか)めた。それに挑戦した加賀掾は元禄の文豪、井原西鶴の『暦』を携え同三年(1786)下阪したので、義太夫は再び近松の『賢女手習竝新暦』で受けて立ち、新鮮な芸風でみごと先輩を圧倒した。焦慮した加賀掾は演しものを同じく近松の『凱旋八島』に取り換え、劣勢挽回を期したのだが、焦り気味とて気勢があがらぬばかりか興行半ばに、出演小屋失火という災厄が重なり、失望のまま帰洛。こうした新旧勢力の対決を注目していた民衆は、やがて古浄瑠璃を見限って行くのである。上り坂の義太夫のすばらしい舞台を認めた近松は祝福こめて、翌年新作『出世景清(かげきよ)』を書き与えたが、これがまた大成功。ここに近代浄瑠璃(そのころは当流浄瑠璃と呼んだ)の基礎が確立した。竹本義太夫が、どれほど民衆を把握したかは、浄瑠璃を”義太夫”と俗称していることからも充分に窺えよう。近松門左衛門については享保九年(1724)十一月二十二日、七十二歳で歿したとなっているが、生年、出生地などが不詳なほか閲歴も諸説がある。通説としては本名・杉森信盛。元越前藩士を父に持ち、若くして一条公通卿に仕え、主を真似て浄瑠璃創作に興味を持ったとされている。はじめは加賀掾のために書いていたが、やがて新しい芸風の義太夫に興味を抱き、だからこそ『出世景清』を書き与えたのであろう。のち京歌舞伎の名人坂田藤十郎を主に歌舞伎脚本に専念する時期もあったが、歌舞伎役者たちが発生以来の習性として脚本を自ままに書き換え、自分向きにするのに飽き足らなくなり歌舞伎と訣別、浄瑠璃作家に専念し生涯に時代物九十余篇、世話物二十四篇を創作、世界的文豪たるの地位を固めたのである。近松は、生きた言葉で人間社会の矛盾が生む業を掘り下げて、人間の真の姿、弱さを独特な愛情でながめつづけた。生きた役者が自分の持ち味に執着し脚本が追究する人間像から遠のくことが多いのに比べ、人形は実在の人間と同じように泣き、笑い、怒り、悲しむことができ、しかも人間のようなエゴによる虚飾を求めたりせず作者の意図通りのドラマを造成する。近松が操り人形芝居に執着した理由が肯ける。文楽と歌舞伎の本質的な差はこの面で、今日もなお克明に生きている。こうして名作者の献身的協力を得て、義太夫の芸は次第に円熟し名声をたかめ、元禄十四年(1701)には筑後掾を授領した。しかし興行的には好調とはいえず大借財を背負うに到った。この時ー元禄十六年(1703)近松が新しい境地をひらいたともいえる記念すべき世話物の第一作『曽根崎心中』が提供された。庶民生活に題材を求めた芸能には狂言があるが、ユーモアの衣でカムフラージュさせている。近松は大衆が抱懐する生活のきびしい規律が生む矛盾に悲劇のテーマを求め、日本で初めてともいえる現代劇をものしたのである。観客にとっては身近かな自分の世界の出来ごとを見せつけられ大きな感銘をうけたことであった。かくて『曽根崎心中』は空前の大ヒットとなり竹本座十八年間の大借金を一挙に返済、近松の作者としての地位を不動にしたのであった。とともに義太夫浄瑠璃の題材としての二つのジャンルが確立した。ひとつは歴史的人物の名と社会的事件に仮託して、夢幻性豊かなロマンときびしい現実生活を交錯させる時代物。もうひとつは封建社会生活の軸とされたおかしがたい義理と、人間にとって避けがたい人情との相尅(そうこく)をテーマとする当時の現代劇たる世話物である。しかも双方とも町人大衆の眼から追究している点を重視したい。その後、宝永三年(1706)三月以来、義太夫は竹本座の経営を竹田出雲に一任して芸道に専念、いよいよ名声を深めていったが、その出雲が、またすばらしいプロデューサーだった。近松を座付作者に迎え、その居を京都から大阪に移させ、いよよ創作に専念させたほか、人形の作り替え、衣装の新調、道具の刷新などにより座の面目を一新させた。さらに水からくりで有名な父・近江の技術を舞台に応用し観客の目を楽しませたのである。
| 曾根崎心中(近松門左衛門) | |
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しかし、こうした世界は人気があがり世帯がふくれるとともに分派騒ぎが起こり勝ちだ。竹本座もご他聞にもれず『曽根崎心中』上演の直前、一座切っての美声で人気のあった竹本采女(うねめ)が退座し、豊竹若太夫を名乗り”豊竹座”を創設、はげしい芸の競争を開始したが、面白いことに両座の芸風は全く対称的だった。ひいきの大衆は、竹本座の渋く地味だが豊かな内容を堅実に語るのを西風、派手で明るく美声で曲節を快くきかせる豊竹座のを東風と呼んで、声援を競い合ったのだが、きょうの文楽の語りの基本である東・西のふたつの風(ふう)は、浄瑠璃の内容によって、どちらの風が適しているかの大衆の判断があって確定したといえよう。正徳四年(1714)九月、義太夫(当時は筑後掾)が六十四歳で永眠。竹本座の跡目に二十四歳の若き政太夫(のち二代目義太夫)が遺言により選ばれたことから不満を抱く先輩たちの退座騒ぎが起こり興行も極度の不振に陥った。政太夫推進者のひとりと思われる近松門左衛門はその挽回に全力を注ぎつづけたが、出雲の提案により書き下した『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が、みごとヒットし正徳五年(1715)初演、三年越し十七ヵ月続演という大記録を樹立、政太夫を一躍人気者としたのである。もともと政太夫の芸風は、義太夫のような音吐朗々、腹にしみるほどの豪放さはなく、若太夫の玉をころばすような艶声でもなかったため、当初は地味すぎると受けなかったので、そうした声に頼らず腹で語って、人情の機微つく語り口を磨きあげ、いつしか聴き手の心にしみこみ人気をたかめたのであろう。それをまた近松がその作品により巧みに、ひき出したものといえる。『心中天網島』『女殺油地獄』『心中宵庚申』その他の近松晩年の傑作は、近松を敬仕して変らぬ政太夫との名コンビがあって生まれたものである。一方、豊竹座は若太夫が、座主、金主、太夫・作者を兼ねるという三面六臂(ろっぴ)の大活動を続けたが、創業の苦悩から中々抜けられなかった。しかし竹本座の人気高い人形遣いの名手・辰松八郎兵衛を引き抜き、紀海音(きのかいおん)を作者に迎えたころから、ようやく軌道にのり始め、享保十一年(1726)の『北条時頼記』が二年越しの大当りをとるに及んで漸く基礎が固まり、竹本豊竹両座の人気争いに熱が入ってきた。紀海音は、大阪の菓子商の出で町医を開業しつつ有名な国学者・契沖(けいちゅう)に学び、和歌・俳諧・狂歌をよくしたといういわば町の文化人。だが、その作風は近松の情緒豊かなのに対し理智が勝ち、やや固苦しい嫌いがある。梅川忠兵衛の悲恋を措く『傾城三度笠(けいせいさんどがさ)』と同じ題材の近松の『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』を読みくらべるとふたりの作風の差が、はっきりしよう。しかし近松の死、海音の引退後、この世界は田文三郎のすばらしい創案になる三人遣いの登場により、人形の動きは観衆の驚異を呼び、人形への関心が俄然たかまった。そのはじめは享保十九年(1734)十月の『芦屋道満大内鑑(あしやどうがんおおうちかがみ)』の“信太森(しのだのもり)”の差し駕(かご)に登場する二人奴(ふたりやっこ)だったが、活き身の役者のような自在な働きをすると大評判を呼んだ。こうして目・口・眉・指などを動かす工夫はから『夏祭浪花鑑』では裸身の団七まで登場。操り人形芝居の面目に大きな変化が生じてきた。つまり人間のあり方を追及する作風が、人形の彩な動きに人気が集中したため、それを意識せぎるを得なくなった一方、合作という建前が必然的に趣向競争の傾向を呼び、手のこんだ劇的効果を狙うことに重点がかかりはじめたのである。かくて本来の語りものから、見るものとして受けとられるようになる一方、浄瑠璃作品の歌舞伎化が盛んとなったことから終局的には人形浄瑠璃の退潮がはじまった。竹本座が明和四年(1767)暮、創立八十四年の歴史の幕を閉じ、豊竹座にもそれに先立つ明和二年(1765)六十三年の歴史に終末が訪れていたのだった。しかも、現在も最大の人気をもつ『菅原伝授手習鑑』『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』『仮名手本忠臣蔵』などの多数の名作が制作されていたのである。竹本豊竹両座の華々しい角逐(かくちく)は、かくして去ったが、それでも微々ながら明治までの百年間、数々の興亡のくり返しのうちに人形浄瑠璃芝居は、なんとか延命しつづけてきた。この間、江戸浄瑠璃が大いに栄えた一時期もあった。有名な学者、平賀源内が福内鬼外のペンネームで『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』を書いて大当りをとり、松貫四(まつかんし)、容揚黛(ようようくん)らの『恋娘昔八丈』『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』など、ご存知の人気作品を生んでいるが、これもやがて歌舞伎に圧倒されてしまうのであった。
●ついに天下をとった文楽の興亡
群小劇団が不安定な興行のうちに興亡をくり返している人形浄瑠璃の世界に、新しい希望の星が現れた。淡路島仮屋(かりや)から上阪した植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)の登場である。それは明和の末か天明の始めと伝えられ、はじめは南大阪あたりで浄瑠璃の稽古場を経営していたという。やがて文化二年(1805)高津新地(こうづしんち)席を開場、興行の世界に進出した。ついで二代目浄雲翁が文化八年(1811)正月、船場の難波神社にあった宮芝居を手に入れ、”稲荷の芝居”を経営した。つづく三代目の文楽軒(大蔵)が経営にも文才にもすぐれた異彩で、文楽を今日あらしめる基礎を固めたそのころある宗教を背景に、人形浄瑠璃の経営権一切はわれにありと名乗る怪団体が現れた。説教讃語座騒動といわれている。そして危くその威嚇に屈服しそうだった業界を激励し、公訴激論の末、勝利を収め首尾よくピンチを脱し得たのも、この三代目が居たればこそであった。やがて明治維新となり、新政権により文化政策に大きい変動をよんだのである。興行権ともいうべき櫓(やぐら)制度が開放され、はげしい自由競争時代に入った。文楽軒は官命により劇場を新しい遊興地帯である西大阪の松島遊郭地帯に移し始めて『文楽座』の看板をあげた。明治五年(1872)のことである。そして時代、世話、つやもの、チャリなんでもこいの名人、竹本長門太夫。その眼鏡(めがね)にかなって二十八歳の若さで相三味線に抜擢された豊沢団平らを擁して他座を大きくリードした。団平は、のち史上初の三味線櫓下となったほどの名人である。文楽座に対抗して明治十七年(1884)正月、六座が生まれ、その九月、待遇問題から文楽座を脱退した団平も参加、一時、大いに栄えたが明治二十一年(1888)火災にあって以来、再興したものの振わず二十六年(1893)解散してしまった。その後も稲荷座、明楽座、堀江座、近松座などが相ついで看板をあげたものの栄えず次々と瓦解(がかい)、あるいは文楽座に吸収されてしまったため、いつしか人形浄瑠璃即“文楽”と呼ばれるようになった。