医人小伝

  曲直瀬道三(まなせ どうさん) 1507〜1594(永正四年〜文禄三年)
 古医方中興の祖といわれる名医であった。実名は正盛または正慶ともいい、字は一渓、雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁などを号した。
 京都の生まれ、誕生の翌日父を失い、ついで母に死別し、伯母と姉に養われて幼児をすごし、十歳の年、近江国天光寺に引取られ、十三歳相国寺に移り僧門修行の方向につき、髪を落として等皓(とうこう)の僧名に改めたのもこの年である。性来の非凡児はこの年頃に三体詩、東坡(とうば)など漢、唐などの詩集を読解し、幾種かの経巻も暗記し、算数理化博物の学問にまで知見を広めていった。山門を出て関東に下り。下野国足利学校に入学したのは二十二歳の秋である。彼はここで経史、諸子百家の書を心ゆくまで味読し、学業の楽しさに旅の苦労を意としなかった。ある日、足利学校に一人の来訪者があり、導道練師と名のるこの人物が、道三らの学徒に講演を行なった。李、朱の医方を説き、日本旧来の医方の脱皮を迫り、新医療の実行普及を告げる論旨に、誰よりも道三は感動し驚目した。この導道練師と名のる人物こそ実は田代三喜であった。三喜は足利学校の卒業生であり、この日は先輩として一場の演説を試みたのであるが、すでに医書にも親しみ新しい学問への転機を決意し、よき指導者を思いあぐんでいた矢先とて、三喜とのめぐりあいに道三は心おどる思いだった。三喜は明国十二年間の留学を終えて帰国し、京都に医業活動を続け、この頃下総古河に定住して、関東管領古河公方の厚遇をうけ、年六十の老余生活を李朱医学の宣揚に献げていた。道三は、えりを正して古河に三喜を訪ね、師弟の誓いをとげた。時に1531年(享禄四年)二十四歳であった。講究六年の間に医術の秘方奥義の全容を知得した道三は、十年ぶりで京都に帰った。もう僧形ではなかった道三は、帰京と同時に還俗し、医業活動に入った。学んだ師と修業の深さはたちまち京の噂となり、将軍足利義輝に召しだされ、市中の噂にまさる診療の手腕はたたえられ、面目を施したが、当時の世代にあっては、幕府や将軍の知遇を得ることは何といっても、保身栄達の早道だった。道三の博学と実力は世俗に染み権威におもねる必要はなかったが、その超俗の風格に一層信望を加えた。細川勝元、三好修理、松永弾正らの幕府重臣は、神仏以上に道三の医療に心服をはらって、彼が医学生養成のため設立した学舎の経営に巨費を投じての協力であった。道三は学舎での指導のほか、師田代三喜同様に各地を巡遊して李朱医方の効用を力説した。さらに古来の内外医書を閲覧調査に心血を傾け、医方秘典を集成して八巻に及ぶ啓廸集(けいてきしゅう)を脱稿した。1574年(天正二年)道三六十三の春、ついで同年十一月十七日その書稿を正新町天皇に献上し大いに嘉賞され「翠竹院」の名号を拝受した。晩年の道三は天皇御一家、徳川家康以下一族、豊臣秀吉、淀君の将臣一門、毛利元就、蒲生氏郷らの相次ぐ難病治療に、席のあたたまるひまもなかった。政権が徳川に帰してからは、曲直瀬家を世襲の侍医典薬とする内規が定められ、江戸城至近の和田倉門前に広大な邸宅が道三とその子孫のため築造され、その邸宅は明治維新まで存置し、邸前の小流は道三堀と江戸っ子はよび、古記録によっていまに伝えられている。医界の大御所的存在になっても、道三は少しも心ゆるめず、輝かしい世評、天子、関白、名将の信頼におごることなく、市中の医者の日常そのままでおしとおし、読書と研究を最上の楽しみとした。文禄三年(1594年)一月四日八十八歳で永眠、京都十念寺に奥津城がある。

    曲直瀬道三

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