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| 田代三喜(たしろ さんき) 1465〜1537(寛正六年〜天文六年) 川越(埼玉県)に生まれる。三喜は通称で、名は導道、字(あざな)を祖範といった。範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道の多くの号がある。祖先田代信綱は伊豆に住み、寿永年間源氏の臣となって軍功をたてた。その八世の孫兼綱が川越に移り医を営んだ。三喜は兼綱の子で、十五の年父業をつぐため医術に志し、医家は同時に僧職をかねた当時の習俗に習って、彼も妙心寺派の僧籍に入った。 1487年(長享元年)、医術研究生として明に渡り、李東垣、朱丹渓、月湖の講師について学ぶこと12年間、医方の源流を修めて明応七年帰国した。三十四歳である。初め鎌倉に住み、居所を江春庵としたは雅号の一つにそのゆかりが知られる。後下総の古河に移ったが、これは足利成氏が古川公方として関東を管領中、その招請によるものであった。古河に門戸をはった三喜はうん蓄した医術の声価日に高まり、古河の三喜と呼ばれて足利公方の名は知らなくとも、三喜の名医を知らないものがないといわれたほどである。医療を慕うもの、関東各地の武家、豪族から広く民間にまで、三喜は馬に乗り、牛馬に運ばれて、文字通り済生の労をいとわず、東奔西走した。それだけに彼に寄せた感謝尊敬の念は深く、時の人たちは彼の像を建立して感恩の真を表たというが、その遺像は古河の近郷長谷村一向寺に現存する。前時代の医家にして、建像により業績を伝えられるは鑑真についで三喜あるのみとか。 三喜の医は、李宗医学の源流を師の月湖に先立ち日本に唱導した点で、その功労は日本医学史に刻まれている。曲直瀬道三は三喜の門人である。 |
![]() 田代三喜 |