| 1535 |
異状な瘡病流行。時の人は唐瘡または琉球瘡とよんだが、黴毒(ばいどく)のこと、同病発生最初の記録。 |
| 1543 |
丹波近康、歯科を開業、口中秘伝を書く。 |
| 1548 |
竹田定祐、傷寒初心抄を著述。傷寒論はシナ張仲景の名著。 |
1553
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阿佐井宗瑞、自著医書大全を版木で印刷、医書の板刻のはじまり。曲直瀬道三、足利学校に聴講。 |
| 1562 |
田代三喜死す。李朱医学派日本の開祖。 |
1564
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吉田宗桂、シナ明国に渡り、明王世宗の病を直す。金持重弘は明国な渡り、世宗王から名医の礼遇をうけ嘉賓集の客となる。 |
| 1568 |
ポルトガルの商船九州に漂着し、乗組員中に医師ルイ・アルメイダがいた。 |
1570
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曲直瀬道三京都に入り、田代三喜の李朱医学を高唱して反響を捲き起こし、李朱派中興の祖と呼ばれる。 |
1571
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南条宗鑑、撰聚婦人方を著作、伯耆(ほうき)の国の生まれ。京都で医術を修め諸国の名医を歴訪して秘方に達し、名医の列に入る。著書はほかに撮要集、短要方など、宗鑑は号、一鴎軒を通称した。 |
| 1572 |
久志本常顕、家伝退誉聚験方を編録。 |
| 1581 |
ポルトガル人医師ルイ・アルメイダは、1568年九州に漂着した船の乗組員だが、彼は上陸滞在中この年、豊後国主大友宗麟が、癩者および貧困者のため救済院を設置した際、同院の療主任となり医療を行なった。これが西洋医術伝来の初めという。 |
1591
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吉田意休、明に渡り鍼術を学んで帰国し、各地に宣伝、その子意安も父業をつぎ吉田流鍼術の起こり。 |
| 1593 |
織田信長が安土時代、ポルトガル生まれの医師グレゴリア・ルイスを教師に、江州伊吹山ふもとに、西洋種の薬草園を開いた。 |
| 1599 |
曲直瀬道三、啓廸集を編修、同書は八巻に別け、李朱医学の方書から医科各部門にわたる治療方法を抜粋採録した李朱医学の虎の巻。時の正親町天皇の推賞で全国の医家に頒布。 |
| 1606 |
外科医鷹取秀次、外科新明集三巻を著わす。鷹取流外科の教本。 |
| 1610 |
吉益半笑斎、換骨秘録を完修。吉益流金創術を述べたもの。 |
| 1611 |
曾谷寿仙は外科の名方で宮中に仕え、法印に叙せられ、ついで外科伝語の一書を著す。曲直瀬玄朔、家塾を開き千余の門生を集む、玄朔は道三の子、この年法印になる。 |
| 1614 |
キリシタン信徒の告須蒙、寿門の両名は変名して、前者は外科医後者は内外科を看板に、泉州堺に住んでいたが、豊臣秀吉の禁圧に際し露見し、刑死をとげた。 |
| 1616 |
秀吉、京都御所南門に施楽院を建て、施楽院使に丹波全宗を任命。 |
| 1617 |
曲直瀬玄朔、坂浄慶の医人ら、秀吉の朝鮮征討に陣医として随行。 |
| 1618 |
曲直瀬玄鑑、典楽助になる。玄鑑は玄朔の子。 |
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