医学 藪医と名医が混在したライセンス不要の時代

医学略譜

日本中が戦乱に明け暮れた戦国時代。戦(いくさ)のたびにおびただしい戦傷者が出て、戦場でその負傷者をすばやく手当てする外科医が必要であった。「創腫科」とは当時の外科で、腫れ物やとげ抜き程度の医術であった。急きょおおぜい必要なとき、ある限りのとげ抜き医者でも動員するしかなかった。心得あるものは一人残らず従軍させた(槍傷・刀傷が専門だからこれを「金瘡医」という)。しかし、まだまだ足りないので、諸大名は急ぎ金瘡医を養成しようとした。が、武家時代では男なら、戦士として出陣するのが誇りであり、義務であり、また生きがいであった。男で出陣しない奴は、どこか障害ある者、それほどでなくても体が弱いか臆病か、とにかく欠陥男であることは確かだった。残っているものはみな男の屑、それが医者になったのである。速成の金瘡医がいかにお粗末だったか『雑兵物語』のエピソードで知ることが出来る。弥助は金瘡医の薬箱持ちだが、負傷兵に水を飲むな、声を出すな、はいいとして葦毛の馬の糞尿が傷に効くと本気で言っている。『雑兵物語』の戦場描写は定評があり、実際馬の糞尿を飲んだことは『甲陽軍鑑』にも出てる。永禄五年(1562)武田信玄が武州松山城を攻めたとき、米倉丹後の嫡男彦次郎が敵弾を受け、金瘡医のすすめでまだ生温かい奴を「甘露、甘露」といって飲んだとある。ところで戦国の金瘡医は、もちろん従軍に甲冑をつけず、野羽織・たっつけ袴に小刀を差すぐらいであった。すなわち軽装で武装せず、極力、非戦闘員たることを標榜した。が、小心な男の屑、それでも間違って撃たれてはと、髪を剃り坊主頭を光らせて、遠くからでも無抵抗の医者とわかるようにした。髷(まげ)は男の象徴だが、なりふり構っていられず剃ったのである。以来、医者は坊主頭がおきまりである。医者には男の屑がなる。この観念は以後ずっと変わらず、江戸時代になっても医者といえば男性ちゅうの能なしが、やむなく成り下がる下職だった。医者のライセンスは明治八年(1875)からで、それまではまるで野放しであった。名医のもとへ弟子入りして、見よう見まねで施術をおぼえ、師の許しを得て開業するのが普通だったが、医書は難解だし、秘術はなかなか教えてくれない。独立するのにニ、三十年はかかるので、多少の心得があれば勝手に医者の看板をあげた。昨日までは薬種屋の番頭だったなどはごく上等で、香具師(やし)が突然医者に化けて往診に来たりする。「おや、お前、脈もみるのかい?」「頼朝公のご公認さ」と意外な人物の名が飛び出すのは、かって医者に扮して平家の残党狩りをやったという眉唾の由緒による。香具師はまだ薬に縁があるが、まるで無縁の小間物屋や飴屋が、突然医者になりすますのだから危なくてしかたない。〜薬屋に毛のはえた奴あたま剃り〜は、坊主頭になった俄(にわか)医者である。「藪(やぶ)医」というのはろくに薬も持たず、病人が来ると藪へ駆けこんで、いいかげんな草根木皮を取って来て与えるところから生じた称。藪にもなれぬのを「筍(たけのこ)医者」といい、こんなのは簡単に人を殺してしまう。〜殺すもの上手の女郎、下手の医者〜上手な女郎には手練手管があるが、藪や筍には医者の「い」の字もない。ために川柳では三枚目にされ、なんともさんざんな扱われようである。〜八幡(やわた)よりもっと怖(こわ)いは医者の藪〜人の命の惜し気なく藪医盛(も)り〜 すっかり病気が悪化してから、「ほかへも診せたら」というのが藪の決まり文句。〜半殺しにして余人へと藪医言い〜 藪医者の勿体(もったい)ぶりも命とりである。〜ひと思案ござると藪医のこわいこと〜 急患があって駆けつけたが、病人を間違えて女中を診察した。人違いだといわれると、「いや火急の際、誰かれの差別はない」と答えたひどいものもいた。また門弟が不届きをしたので、医者が立腹してこぶしをふりあげたところ、弟子は思わず手を合わせ、「どうぞ足蹴にして下さりませ。あなたの手にかかってはこれまで生きたものがいません」と頼んだという話もある。当時、医者の憧れは何といっても幕府の御典医であった。「奥医師」は将軍の侍医で法印(ほういん)・法眼(ほうげん)に叙し「御番医(ごばんい)」は表御殿に詰めて大名・旗本の急患に備えた。法印・法眼・法橋(ほつきょう)は僧位で、ここでも医者は坊主扱いである。奥医師と御番医のほか、「寄合(よりあい)医師」「小普請(こぶしん)医師」など予備役の医員がおり、「御広敷見廻(おひろしきみまわり)」という見習医師もいる。御広敷は大奥の事務局にあたり、大奥女中の急病に備えるとは表向き、彼女らを稽古台にしたインターンであった。御典医には多くの門弟がいて、御広敷見廻はその中から選ばれる。が、事は人命に関するので、民間に名医がいれば採用の道が開かれていた。勿論、採用テストを受けるが、その腕試しの方法がふるっている。将来、将軍やその家族を診ることになるが、恐れ多くて直接脈どころにふれることができない。そこで貴人の手首に糸を巻きつけ、次の間でその端を握って脈を診る。古来、これを「糸脈」といったが、御典医に絶対不可欠の蝕感として要求されるのだ。テストにはモデルの手首が使われるが、意地の悪い試験官は、猫の足に糸を結わえたり、時には柱に結びつけたりした。しかし、受験生はそれを知る由もなく、柱と気づかず、「ちと血圧が高うござる」と答えたり、猫と知らず大まじめで、「ニャンとも分かりませぬ」といって試験官に抱腹絶倒させた。蘭方(らんぽう)が入るまで、江戸の医者はおよそそんな調子だった。さてこの藪や筍が、当時どれほど診察代を取っていたものか。医は仁術の建前から、もとは患者の意志次第で規定はなかった。〜薬礼の時はこっちで匙加減(さじかげん)〜の川柳がそれ。医者の側からいえば、〜医者の薬礼と深山の躑躅(つつじ)、取りにゃ行かれずさき次第〜であった。ところが江戸初期に医者側の請求方式となり、がっぽり取る上に車代・弁当代まで求めるようになった。まず安政年間(1854〜59)の診察費を見よう。診察料は一回で二分の一両、薬代は三日分で四分の一両、七日分でも二分の一両だからなかなか高い。往診料は初回が三分の一両、その後は四分の一両づつ取る。ほかに一里内外は二分の一両、二里は一両、二里半は二両、三里以上はなんと五両も取り、おまけに二里以上は駕籠に乗るものとして、駕籠代を別に申し受けるというのである。また手術料は、切傷一寸につき四分の一両、出産手術は二分の一両、乳癌の摘出手術はぐっと高く二両半であった。しかし、百人が百人みな算術医者や忍術医者ばかりではなかった。名医永田(長田)徳本は甲州武田の遺臣。病者から一律に十八文の薬代を取ったのみである。往診を乞われると愛用の牛の背にまたがり、「一服十八文じゃ、十八文じゃ」と大声で呼びながらいった。駕籠代も弁当代もいっさい不要である。徳本は将軍家光が病んだとき、招かれて治療に当たり、衆医の反対を押し切って強い薬を盛った。ために日ならずして家光は全快し、その功を賞して厚く報いようとしたが、徳本は例によって一服十八文より多くは受けなかった。当時、日雇人足でも一日の賃銀は六十六文、それに比べて十八文の薬礼はひどく安い。また徳本は豪邸を与えられたが、それも断って相変わらず郊外の草庵に住んだという。
  徳本は頼み甲斐ある名医なり
は、出身地の甲斐に掛けたうまい柳句である。

医学略譜(1535〜1867)名医小伝

1535 異状な瘡病流行。時の人は唐瘡または琉球瘡とよんだが、黴毒(ばいどく)のこと、同病発生最初の記録。 
1543 丹波近康、歯科を開業、口中秘伝を書く。
1548 竹田定祐、傷寒初心抄を著述。傷寒論はシナ張仲景の名著。
1553
阿佐井宗瑞、自著医書大全を版木で印刷、医書の板刻のはじまり。曲直瀬道三、足利学校に聴講。
1562 田代三喜死す。李朱医学派日本の開祖。
1564
吉田宗桂、シナ明国に渡り、明王世宗の病を直す。金持重弘は明国な渡り、世宗王から名医の礼遇をうけ嘉賓集の客となる。
1568 ポルトガルの商船九州に漂着し、乗組員中に医師ルイ・アルメイダがいた。
1570
曲直瀬道三京都に入り、田代三喜の李朱医学を高唱して反響を捲き起こし、李朱派中興の祖と呼ばれる。
1571
南条宗鑑、撰聚婦人方を著作、伯耆(ほうき)の国の生まれ。京都で医術を修め諸国の名医を歴訪して秘方に達し、名医の列に入る。著書はほかに撮要集、短要方など、宗鑑は号、一鴎軒を通称した。
1572 久志本常顕、家伝退誉聚験方を編録。
1581 ポルトガル人医師ルイ・アルメイダは、1568年九州に漂着した船の乗組員だが、彼は上陸滞在中この年、豊後国主大友宗麟が、癩者および貧困者のため救済院を設置した際、同院の療主任となり医療を行なった。これが西洋医術伝来の初めという。
1591
吉田意休、明に渡り鍼術を学んで帰国し、各地に宣伝、その子意安も父業をつぎ吉田流鍼術の起こり。
1593 織田信長が安土時代、ポルトガル生まれの医師グレゴリア・ルイスを教師に、江州伊吹山ふもとに、西洋種の薬草園を開いた。
1599 曲直瀬道三、啓廸集を編修、同書は八巻に別け、李朱医学の方書から医科各部門にわたる治療方法を抜粋採録した李朱医学の虎の巻。時の正親町天皇の推賞で全国の医家に頒布。
1606 外科医鷹取秀次、外科新明集三巻を著わす。鷹取流外科の教本。
1610 吉益半笑斎、換骨秘録を完修。吉益流金創術を述べたもの。
1611 曾谷寿仙は外科の名方で宮中に仕え、法印に叙せられ、ついで外科伝語の一書を著す。曲直瀬玄朔、家塾を開き千余の門生を集む、玄朔は道三の子、この年法印になる。
1614 キリシタン信徒の告須蒙、寿門の両名は変名して、前者は外科医後者は内外科を看板に、泉州堺に住んでいたが、豊臣秀吉の禁圧に際し露見し、刑死をとげた。
1616 秀吉、京都御所南門に施楽院を建て、施楽院使に丹波全宗を任命。
1617 曲直瀬玄朔、坂浄慶の医人ら、秀吉の朝鮮征討に陣医として随行。
1618 曲直瀬玄鑑、典楽助になる。玄鑑は玄朔の子。