その本のでどころ
香穂子の懐妊もわかり、蓮の両親や祖父母。
それに香穂子の両親たちにも報告され、両家はおめでたムード
が高まっている。
だが、当の本人である蓮と香穂子は特にはしゃぐわけでもなく
いつも通りの穏やかな日常を送っていた。
香穂子は妊娠4ヶ月目に入ったが、まだお腹は目立ってこないので
実感が湧いてこないと言うのも理由の一つだが、何より過敏
になり過ぎて香穂子が精神的な苦痛を負わない様にというのも蓮は
気にしていたのだ。
それでも、最近は会話の端々に子供が産まれた時の相談が含まれる
ようになってきた。
今日も香穂子は夫婦の部屋にあるベッドからゆっくりと身を起こすと、まだ
布団にうずくまっている蓮に向かって話しかけた。
「蓮は男の子と女の子どっちが欲しい?」
蓮は重たそうに目蓋を開け、前髪をかき上げると、少し考えた後に
「どちらでも・・・」と答えた。
「五体満足で元気でいてくれれば、俺はそれ以上の事は望まない」
「君と俺との間に生まれた命というだけで幸せだ」
香穂子は少し目を瞠った後、眩しいものを見るような眼差しで
再び身体を横たえて蓮に寄り添った。
「うん。そうだよね。私もそう思う・・・」
香穂子の中に蓮との愛をもっと強く結びつける生命が宿っている。
香穂子だってそれを自分の力で育てていける事に何よりも大きな
喜びを感じているのだった。
二人はしばらくののち起き上がって身支度を整えると、それぞれ朝食の
準備をしたり、仕事の準備をするために一階のリビングの前にやってきた。
蓮がガラスのはめ込まれたドアを開けようとドアノブに手をかけたところで
あることに気づいた。
まだ朝もだいぶ早いと言うのに蓮の両親や祖父母がソファーに座って
何か本を見ながら真剣に話し合っている。
四人の持っている本はそれぞれが違う本なのか、厚さも大きさも異なり、
本屋のカバーが掛けられていて一体どういったものなのか知る事が
出来ない。
ただ、何となく思うこと・・・。
月森家はみんな音楽を仕事にしているが、音楽関係のことでないことだけ
は確かだ。
では、あのメンバーがあんなに真剣になることとは何なのか?
(何故か嫌な予感がするな・・・)
蓮は不審そうな目を向けながら、額に冷や汗を浮かべた。
「みんなどうしたのかな?こんな朝早くに・・」
香穂子も蓮の背後から不思議そうに中を覗き込む。
蓮はもう一度ドアノブに手をかけると、静かにドアを開けた。
「この名前なんてどうだろう?」
「字画も良いし、可愛いんじゃないか?」
「あらダメよ、お父さん」
「こっちの本ではその名前はあんまり良くないわ」
「こりゃ蓮の時以上に悩むな・・」
「なぜそんなに悩む必要が・・・?」
「なぜってやっぱり初のひ孫だし可愛い名前にしたいだろ?」
「・・・・・・・・・」
蓮の問いかけに蓮の祖父が答えるとリビングが一瞬で静まり返り、
ソファーに座っていた四人の動きが止まった。
『蓮!?』
四人は自力で解凍すると、慌てて手に持っていた本を隠し始めた。
蓮はそんな姿をジトっとした目で眺めている。
そして、かなり深い溜息をついたあとにゆっくりと口を開いた。
「四人とも・・・今隠した本を見せてください・・・・」
「いや・・これは・・」
「早く!!」
この期に及んでまで背後に本を隠す四人に、蓮は手を伸ばしながら
出すように促すと、みんなしぶしぶ本を蓮に手渡した。
蓮は渡された本を片っ端からめくっていく。
子供の名付け方、赤ちゃんの名前・・・etc
それらはすべて本に書かれていたタイトルだ。
蓮は予感的中とばかりに再び溜息をついた。
「色々と考えてくださるのは有り難いのですが・・・」
「意見をお訊ねするかもしれませんが、子供の名前は親である俺と
香穂子が相談して決めます」
「名前は一生付き合っていくものだし、親として初めて出来る贈り物だから
大切にしたいんです」
「わかっていただけますね?」
蓮が見回すと、四人は無言でショボンと俯いてしまった。
だが、蓮は構わず本のすべてを抱え込む。
「では、この本は今後のために俺が預からせて頂きます」
「で、でも蓮・・・・・」
祖父が尚も諦めきれない様子で本に手を伸ばそうとする。
「まだ何か?」
蓮の問答無用と言わんばかりの眼差しに祖父は手を引いて呟いた。
「いや、なんでもない」
「そうですか?ではとりあえずこれで・・・」
蓮がリビングを出ると、廊下で様子を見ていた香穂子がくすくすと
笑っていた。
「まったく何を考えているやら・・・・」
「みんな楽しみにしてくれてるんだよ。嬉しいね」
「まあ・・・その気持ちは嬉しくはあるな・・・」
「きっとさ、蓮が産まれた時もこんな感じだったのかもね」
香穂子の言葉に蓮は昔、幼い頃に祖父の部屋で見かけた一冊の
本の存在を思い出した。
人名辞典
幼い頃は良くわからずにそのままだったが、あれはもしかしたら蓮が
産まれた時に使われたものかもしれない。
20年以上前。
ここで同じ光景が繰り広げられた様子を想像して蓮の表情は綻んだ。
前にブログに書いた小話の前話になります。
月森が控え室で真剣に読んでいた本はこうして手に入りました(笑)