耳を澄ませて
「月森くんも小さい頃から色んな音を意識して聴いたりしてたの?」
練習室の予約が取れなかったある日の放課後。
仕方なくやってきた屋上にいた先客である日野は、何の脈絡もなくそんなことを
俺に訊ねてきた。
「いったい何の話だ?」
話の筋がまるで見えず、俺はつい眉間に皺を寄せて彼女に聞き返した。
こうすると、そんなつもりはなくても不機嫌に見えるらしいから止めようと思っている
のだが、もう癖になっているようでそう簡単には直ってはくれない。
俺は誤魔化すように眉間に拳を当てると、額を拭うように眉間のあたりを擦った。
「昨日ね。テレビでやってたんだ」
日野は俺の行動にさほど疑問を持たなかったようで、構えていたヴァイオリンを
肩から下ろしながら昨夜見たというテレビの話しをし始めた。
「音楽の天才を育てるにはね、クラシックとかプロの音楽をただ聴かせるだけじゃ
ダメなんだって」
「身の回りにある自然の音や騒音も意識して聞くのが良いって言ってたの」
「だから月森くんも小さい頃からそういうことを意識してたのかな?って思ったんだ」
彼女はそう言ってにっこり微笑む。
俺はそれが眩しくて、太陽に目を向けているかのように目を細めた。
「俺はあまりそういうことを意識したことはない・・・」
「だいたい日野、俺は天才じゃない」
「そこからして質問を間違えているんじゃないか?」
「こうして毎日練習を欠かさないのは俺にそれだけの努力が必要だからだ」
「あはは、月森くんなら絶対そういうと思ったよ」
俺の返答は彼女にとって予想の範疇だったらしく、肩をすくめてくすくすと楽しげに
笑っていた。
それが何となく面白く無くて、自然に顔がムスッとなってしまった。
そんな俺に気づいて日野が慌てたように手を横に振る。
「月森くんはそう言うけどね」
「私から見れば十分天才だよ」
「それでも努力を惜しまないんだもん」
「いつまで経ってもおいつけないはずだよね・・・・・」
彼女の言葉はなぜかだんだんと語尾が小さくなっていった。
相変わらず口元に笑みは浮かんでいるのに、彼女の瞳は不安気に揺れていた。
(いったいどうしたというんだ・・?)
彼女の些細なことでも見逃さないように、俺は息を呑んで彼女を見つめ続ける。
そしてそんな自分に気づいてあることを思い出した。
「そういえば、最近はある音に集中して聴き入っているかもしれない・・・」
俺の言葉に、日野が意外そうに顔を上げた。
「それってどんな音?」
興味深そうに俺を見返す瞳に、先ほどの不安そうな色は見られない。
まったく、俺は君の事をどんなことでも知りたいのに、君はこうしてあっという間に
違う表情をして上手く感情を隠してしまうから・・・いつだって目が離せないんだ。
だから今日はそんな君に俺からささやかな仕返しをしよう。
「知りたいか?」
俺が訊ねると、彼女は目を輝かせて大きく頷いた。
俺がつい聴き入ってしまう音。
それは彼女が奏でる音色。
彼女の瞼を閉じる音さえも聞き逃さないように、俺は心を澄ませてその音に耳を傾ける。
だけどそれはまだ教えないでおこう。
俺は人差し指を口元に当てた。
「内緒の秘密・・だ」
リリの口癖を真似て言うと、屋上に彼女の不満気な声が大きく響いた。
もしも彼女にこの事を教える日がやって来るとしたら、それはきっと俺たちの
心が今よりもぐっと近づいた時に違いない。
両思い前の二人です。
好きだから月森に追いつきたいのに追いつけなくて悩む香穂ちゃんと、
そうとは知らず、香穂ちゃんを知りたくて目が離せないでいる月森です。
(でもちょっとこの月森はヤバイ感じになってしまいました(汗))
2人のもどかしさが伝わる表現力が欲しいです。