心の音色


                     「また音が変わったね」

                     共演するオーケストラとのリハーサルを終え、それぞれが帰宅する    
                    準備をする中、蓮の楽屋を音楽ホールの所有者が訪ねてきた。
                      いくつもの会社を経営し、ホールも運営する大塚氏とは両親の友人と
                     いうこともあって幼い頃からの既知の仲である。

                     「それは・・・?」
 
                     訝しげな顔を浮かべる蓮に、彼は人の良さそうな笑顔を浮かべ首を横に振る。
               
                     「悪い意味じゃないよ。もちろん褒めているんだ。君がデビューした時、その音色の
                    表情の豊かさに驚いたよ。君の子供の頃の音色を知っていたからね。良くぞここまで
                    成長したと思った。」

                      大塚氏は昔を思い出しているのか、遠い目で窓の外を見た。

                     「プロとしては国内外共に成功し、華々しく活躍する中で、今度は君はあっさりと
                    結婚した。家族が出来れば支えが増える一方で、生活の流れは家族に
                    合わせなければならない面が出て来る。
                    音楽活動にそれが返って負にならないか心配したよ」

                     「俺にとってはあっさりというわけではありません。彼女と出会い、ここまで来るのに
                    かなりの時間を要した。彼女ではなく俺が限界だったんです。香穂子に
                    傍にいて欲しかった。彼女でなければならなかった」

                     大塚氏は頷く。

                     「ああ、余計な心配だったよ。結婚後の君の演奏を聴いたとき、以前より
                    鮮やかになった
                    その音色に目を瞠ったよ。そして理解した。君は人生の最も幸福を得られた時に
                    音が成長するのだと・・・。そしてそんな君の音色がまた変わった。ということは
                    君にまた幸福が訪れたんだね」

                     その言葉に蓮はあまり見せない穏やかな笑みを浮かべた。
                     それは聞かなくてもすべての答えにも思えた。

                     「香穂子さんと恋に落ちた時、結婚した時、だとすると次は・・・」

                     大塚氏はいたずらっ子のような眼差しを蓮に向けた。

                     「お察しの通りです。香穂子が妊娠しました。今、3ヶ月だそうです」
                     「おめでとう、これからは子守唄の練習も必要だな」

                     大塚氏に背中を叩かれ、蓮は苦笑しながらも幸福を感じていた。

                     月森蓮の音色が鮮やかに変わる時、それは人生の中で最も幸福を感じた
                    時だということ。そしてそれを与えることが出来るのはたった一人しかいないこと
                    を知っているのはごく少数のみである。

                     

                       結婚後のエピソードです。
                       大塚氏はアンソロにも出てきました。
                       拍手御礼の出て来る二人の子供が生まれる前の話ですね。
                       久しぶりにリハビリがてら書いてみました。