かえらえない。たった一つの・・・・
コンサートが終了すると、香穂子は席に座ったままほーっと
感歎の溜息をついた。
「良い演奏だったね」
「君はとても集中して聴き入っていたな」
月森に促されてようやく立ち上がった香穂子は、月森と互いに感想をいいながら
ホールの外へと出た。
「これからどうする?」
このコンサートを今日のメインとして考えていた二人はこの後の予定は
特に考えてはいなかった。
「少しお茶でもして行こうか?」
「わ!良いね。新しく出来たお店気になってたんだvv」
嬉しそうにはしゃぐ香穂子を見て、月森は見守るような温かい視線を送る。
まさか自分にこんな日常を送る日々がやってくるとは思わなかった。
今では香穂子を感じられない日など考えられない。
それだけ月森にとって香穂子が生活の中心に位置づいたということなのだろう。
灰色だった毎日が彩っていくのを感じる。
それは月森にとって心地よいことだった。
香穂子に案内されてやってきたお店は大きな木の傍にテラスのある喫茶店
だった。
天気が良い日は葉の間からの木漏れ日がキラキラとして気持ちが良い。
そこで二人はお茶を飲みながらとり止めの無い話をする。
主に話しているのは香穂子の方で学校で合った事を話しているのだが、
月森は楽しそうに話す香穂子を見ているだけで満足だった。
その後も駅前の通りに面したお店を二人で覗いたりしてゆったりとした時間を
すごした。
夕方になり、日が沈むと二人の歩く早さは俄然遅くなる。
それは今だけでなく、学校の帰り道も同じなのだが、互いに離れたくない
思いが何も言わずとも二人の歩く速度を遅くする。
それでも、どんなに遅くても歩を進めていればいつかは家に辿りついてしまう。
香穂子の家の門の前にやってくると二人は向かい合った。
「じゃあ・・・・」
「うん、今日はありがとう・・・」
「また明日・・・」
「うん、また明日ね」
ゆっくりと背を向けて歩き出す月森の後姿をそこから動けずにじっと見送る。
やがてその姿が見えなくなると、寂しい想いを抱えてようやく家の中にはいった。
「ただいま〜」
玄関で靴を脱ぎながら何気なくそこにあった大鏡を見た。
そして朝とは違う自分の変化に気づいて愕然とした。
「お帰り〜。どうしたの?」
姉がリビングから顔を出したが、焦った表情の香穂子に気づいて訊ねた。
「どうしよう・・無いよ・・・」
「何が?何か失くしたの?」
姉が訊ねても香穂子は顔色を悪くさせるばかりで答えようとしない。
とうとう夜だというのに再び外に出ようとする香穂子を慌てて呼び止めた。
「ちょっと!こんな時間にどこに行くの!?」
「大切なものを探してくる!!」
そう言って姉が止めるのも聞かずに香穂子は家を飛び出した。
月森が家に帰って二時間後。
家の電話がけたたましく鳴った。
家にかかってくる電話はそのほとんどが家族への仕事に関するものなので
今回もその類だろうと思いながら受話器をとった。
「はい・・」
『月森くん!?』
それは予想に反してだいぶ聞き覚えのある声だった。
「天羽さん?何でうちに電話なんか・・・」
『香穂がどこにいるか知らない?』
月森の言葉を遮って天羽は訊ねた。
「香穂子?香穂子なら二時間ほど前に家に送っていったが・・」
『その後にあの子、どっかへ慌てて行ったみたいなの』
『家の人もしばらく待ってたんだけど帰ってこなくて・・心配してうちに
電話してきたのよ』
天羽もかなり心配しているらしく、電話の向こうでも慌てているのがよく解った。
月森は近くにあった置時計を見た。
時計の針はもうすぐ九時を差そうとしている。
「わかった・・俺も心当たりを探してくる」
そう言って電話をきると、上着を掴んで家を飛び出した。
別れたときは普段どおりだったのに何があったのだろう?
心配で胸が痛むのを堪えながら月森は全力で走り出した。
最初はふたりが良く立ち寄る場所を手当たり次第探し歩いた。
だが、どこを見ても香穂子らしい人物は見当たらない。
(もしかして今日行った場所だろうか・・?)
額に浮かんだ汗を拭いながら今日二人で言った場所を思いめぐらす。
(ここから一番近くなのは喫茶店だな・・)
(一つ一つ当たっていくしかないか・・・)
再び喫茶店に向かって走り出したところで見覚えのある後姿が反対側の
歩道の角をふらふらと曲がって行くのが見えた。
「香穂子・・?」
「香穂子!!」
月森も横断歩道を渡り、慌てて追いかけた。
あの喫茶店が見えてきたところで香穂子に追いつき、その細い肩を掴んで
勢い良く振り向かせた。
「月森く・・ん・・」
「いったいこんな時間に何をしてるんだ!」
「みんな心配してるんだぞ!!」
珍しく声を荒げると、香穂子は声を殺しながらポロポロと涙を零した。
「ごめ・・・」
「ごめん・・イヤリングを片方落としちゃったの・・・・」
「まさか・・今までそれを探してたのか?」
香穂子は黙ってこくんと頷く。
「そんな・・必死に探して廻らなければならないほど高額なものじゃないじゃないか」
「それでも私には大切なものだよ!!」
「月森くんが初めてのデートでくれた・・・プレゼントだもん・・」
「何にも変えられない大切な思い出なんだよ・・・」
今までも泣きながら探していたのだろう。
香穂子の目蓋は赤く腫れていた。
その姿が痛々しくて保護欲をかきたてれられる。
月森は自分でも驚くほど自然に香穂子を腕の中に閉じ込めた。
腕の中の香穂子も驚いたらしく、身体を強張らせているのがわかる。
「君の気持ちはよく解った」
「そんなに大事に思っていてくれたなんて俺も嬉しい」
「でも・・・」
そっと身体を離して香穂子を見下ろした。
「大事にするあまり、君にもしもの事があったらそれこそ不本意だ」
「もっと自分を大切にしてほしい」
「蓮くん・・・」
汗で額に張り付いた前髪。
心配そうに見つめる眼差し。
月森自身も心配して必死に探してくれていたのは何も言わなくても香穂子にも
わかった。
「うん・・・、ごめんね」
うっすらと口元に浮かべた笑みはとても儚い。
月森は身を屈めてそっと顔を近づけた。
香穂子も静かに目を閉じるとますます近付く気配。
互いの息を感じ取った所ですぐ傍の扉がガチャリと音を立てて開いた。
二人は慌てて離れる。
喫茶店の裏口から出てきたのは昼間に二人を応対したウエイトレスだった。
「あら・・貴方達昼間のお客さん・・・」
真赤になって背を向けあう二人を不思議そうに眺めている。
「あ!もしかして忘れ物取りに来たの?」
「え・・・?」
「ちょっと待ててね!」
ウエイトレスはもう一度店の中に引き返すと、小さな透明の袋に入った
イヤリングを持ってきた。
「これ・・・私のイヤリング!!」
香穂子は両手でそれを受け取り驚いて彼女を見た。
「貴方達が帰ったあとに片付けに行ったら椅子の下に落ちてたの」
「ずっと探してたんです。もう見つからないかと思った」
「有難うございます」
香穂子は月森にもらったときと同じように大事そうにそれを胸に抱いた。
「ふふ、とっても大事なモノなんだね」
「さしずめ、そっちの彼氏さんからのプレゼントかな?」
冷やかすような眼差しに月森は照れを誤魔化すようにコホンと咳払いした。
「帰ろうか、香穂子。みんな心配してる」
ウエイトレスに丁寧に何度も頭を下げて礼を言った二人は、手を繋いで来た道を
歩き始めた。
「もうこれからは何かあるごとに相談してくれ・・」
「そうでなければいくつ心臓があってももたないからな」
「うん、約束する・・・」
「指きりする?」
香穂子が差し出した小指に月森は少し呆然とした後、笑みを浮かべて自分の
指を絡めた。
その後、月森に連れられて帰宅した香穂子を待っていたのは両親からと天羽からの
お説教だった。
ファーストチューはマスカット味で書いたので今回は寸止め(笑)