いってらっしゃいのキス
今の新居に越してきて一週間経つ。
最近出来たばかりのマンションで、結婚前に二人でここに見学にきて
早々に決めた。
近所や外の騒音に悩まされないという売れ込みで壁には防音設備が
施してある。
ヴァイオリニストである蓮は気兼ねなく家で仕事に没頭出来るし、
誰にも邪魔されずに香穂子と甘い時を過ごす事が出来る最高の場所だ。
香穂子にとってもそれは同じで、今や人気のヴァイオリニストとなった蓮の
演奏を独り占め出来るのだから幸せを感じずにはいられない。
そんな新居で、香穂子が淹れた紅茶に口付けながら
蓮はまったりとソファーで寛いでいた。
ベランダでは香穂子が洗濯物を干しているのが見える。
こんな些細なことに結婚したのだと実感させられる。
たとえばエプロン姿の香穂子とか?
それからやっぱり・・夜とか?
自然と顔が笑んでいた事に気づいて慌てて表情をキリリと整える。
そこへタイミング良く、すべての洗濯物を干し終えた香穂子が
籠を抱えて部屋に入ってきた。
蓮は内心ホッとする。
(セ、セーフ・・・)
「ねぇ、蓮」
「ん?」
「ここに来て一週間経つけど、お隣さんに今だに挨拶できてないね」
香穂子の言葉にあぁ、そう言えば・・と頷く。
越してきた日に二人で挨拶しに行ったが留守で会えなかった。
管理人さんの話では若い男性で長期出張中らしい。
しかし・・と蓮の眉間に皺が寄る。
このマンションの家賃は決して安いとは言えない。
そこに若い男性が一人暮らしとは、一体どんな人物なのだろう。
近所でも評判の好青年らしいが・・。
今だ、謎の人物なだけに不安が残る。
自分がいない間に香穂子と出会っていたら。
人の良い香穂子のことだ。
一人暮らしは大変だろうと料理のお裾分けとかしに行きそうだ。
すごくありうる・・・・。
再び自分が百面相をしだした事に気づかず、考え込む。
そんな蓮を香穂子は頬杖をついてキョトンとした顔で眺めていた。
(蓮てば表情豊かになったな〜。結婚してから特に・・)
(出会った時と比べると別人みたい)
突然、家の電話のコールが鳴り始めた。
香穂子は一次蓮の観察をやめ、ソファーから立ち上がった。
「はい、ひ・・月森です」
つい癖で日野と言いそうになってしまう。
今だに月森と名乗るのはなれないし、照れてしまう。
電話の相手は、次のコンサートの関係者からだった。
香穂子は丁寧に挨拶し、蓮に取り次ぐ。
「蓮!電話だよ」
今度はなぜか眉間に皺を寄せ始めた蓮に声を掛ける。
「あ・・・あぁ」
ようやく我に返った蓮に受話器を渡す。
いったい何を考えていたのだろうか?
蓮は二言三言話した後、電話を切った。
「すまない、香穂子」
「なぁに?」
「急にコンサート会場に行くことになった」
「え〜」
香穂子は思い切り不満そうな顔をした。
確か先日もそれで休みが潰れたのだ。
不在な事が多くて全然新婚気分に浸れない。
むっとして顔を背けたものの、申し訳なさそうに目を伏せる
蓮を見ているとこっちが悪い事をした気持ちになる。
(こうなることは結婚する前からわかってたことじゃない)
(それを承知で結婚したいと思ったのは私だった)
香穂子は溜息混じりに自嘲した。
「いいよ・・・」
「そのかわり次の休みは一日中私の我がまま聞いてね?」
「もちろんだ」
蓮はホッとしたような笑みを浮かべ、香穂子を抱きしめた。
「じゃあ、なるべく早く帰ってくるから」
スーツ姿の蓮を玄関まで見送る。
「ん・・・気をつけてね」
「あぁ・・」
ドアを開けて外に出ようとした瞬間、蓮は一つだけ忘れ物が
あることに気づいた。
「あ、そうだ・・」
「なに?忘れ物」
「あぁ」
香穂子の肩にそっと手を置いた。。
「いってらしゃいのキスを・・・」
蓮が顔を近づけると、香穂子は最初驚いた顔をしたが
すぐに照れたように微笑んだ。
「もう、蓮たら・・」
香穂子の腕が蓮の首に回されると、香穂子の方から「いってらっしゃい」と軽く
唇を押し付ける。
唇がすぐに離れていこうとすると、それを許さないとばかりに
蓮の手が香穂子の後頭部と腰に回されて更に深く口付ける。
「ん・・・・ふ・・」
香穂子が思わず声を漏らすと、蓮の唇が離れた。
「もう、誰かに見られたら・・・」
頬を赤らめて拗ねる香穂子が何かに気づいて言葉を途中で詰まらせた。
驚いたように蓮の後方を見ている。
「?」
不思議に思った蓮が振り返ると、ドアのところにスーツ姿の若い男性が
驚いたように突っ立ている。
その手には大きな荷物とマンションのカードキー。
それで蓮はピンときた。
(もしかして・・隣の・・?)
「隣に越してきた月森です。よろしく」
蓮がお辞儀をすると、つられて香穂子もぺこりと頭を下げた。
男性は真赤になってうろたえた後、逃げるように自分の
部屋に入っていった。
どうやらウブな人だったらしい。
その後、香穂子は恥ずかしくてもう顔をあわせられないと騒いでいたが、
蓮にとってはどんな人物か知る事が出来たし、会わないでいてくれるに
越した事はない。
「じゃあ、行って来る」
その日、蓮は安心して仕事に向った。