夫婦喧嘩 後編



                 「え!?」
                 「日野ちゃん出て行っちゃったの!?」

                  人気アイドルとの”共通の知り合い”が蓮の目の前で目を丸くして驚いている。
                  蓮は恨むのは筋違いと解っていても、その人物に冷ややかな視線を向けた。

                 「恨みますよ、火原先輩!」

                 「お、俺?」
                  火原は変な汗を浮かべて己を指差している。
                 「一度はこの依頼を断ったのに、火原先輩の頼みだから引き受けたんですよ」
                 
                  今回、火原もこのアイドルと仕事をしており、何気ない無駄話から火原が蓮の高校の
                先輩であり、親しい仲だと知ったアイドルが火原を通じて再度依頼をしてきたのだ。
                  一見人間関係に無関心そうな蓮だが、意外と上下関係には律儀な所があり、火原から
                の依頼は断れなかったのだ。
                  それをうっかり話し忘れて今に至る。
                  夕べのうちに香穂子の実家に電話したが、義兄に取次ぎを拒まれ仲直り出来ないまま、
                 一人寂しく広いベッドで寝る事となった。

                「ど、どうしよう・・・俺、日野ちゃんに謝りに行った方が・・・」
                 椅子から立ち上がって香穂子の実家に向かおうとする火原の襟首を掴んで
                それを止めると、火原は小さく「ぐぇ」と声を上げた。
                「やめて下さい。そんなことしたら余計に話がややこしくなる」
                「それに、ダメなんです・・」
                「俺が香穂子に会いに行かないと・・・」
                「何の解決にもならない」

                「月森君・・・」

                 火原は再び蓮の前の席にぺタリと腰を下ろした。
                 その時、スタジオのドアがカチャリと開いた。
                「おはようございまーす」
                 例のアイドルがひょっこりと顔を覗かせた。
                 そこにいたミュージシャン達が挨拶を返す。
                 アイドルは蓮がいるのを見て、まっすぐこっちにやってくる。

                「今日はよろしくお願いします。月森さん」
                「あ、あぁ・・よろしく・・」
                 にっこりと笑うアイドルに蓮は曖昧に返事を返す。
                「嬉しいな、月森さんと一緒に仕事出来るなんて・・」
                「仲介してくれた火原さんに感謝しなくちゃ・・」
                 火原も落ち込む蓮を目の前にしてはしゃぐわけにはいかず、やはり苦笑いを
                浮かべるしか出来ない。

                「音あわせはじめまーす」
                 プロデューサーの声にみんながそれぞれ自分の位置に付く。
                 蓮も調弦をしてヴァイオリンを奏でるが、何度やり直しても納得が
                出来る音が出ない。
                 もちろん、生で蓮の演奏を聴いたことがない人間はそれでも蓮の演奏に
                感嘆し、賛辞を送る。
                 ただ、それが蓮にとって本物でないことを知っている火原だけは、それに
                混じることが出来ない。
                「では、本番でーす」
                 さっきとはうってかわって緊張感と静寂が広まる。
                 蓮は一度はヴァイオリンを構えたものの、再びヴァイオリンを下ろした。
                「月森さん・・?」
                「すみません、今日は帰ります」
                「え!?」
                 ヴァイオリンをケースにしまい始める蓮を周りが呆然と見つめる。
                「我がまま言ってすみません」
                「でも、次は今日以上の演奏をして見せますから・・」
                 蓮はドアの前で深々と頭を下げるとスタジオから出て行った。

                「待って!月森さん!!」
                 我に返って蓮を追いかけようとするアイドルを火原はドアの前に立って止めた。
                「火原さん・・」
                「ごめん、行かせてあげて」
                「でも・・」
                「月森君は太陽を探しに行ったんだ」
                「太陽・・?」
                 不思議そうなアイドルに火原はにっこりと微笑む。
                「そう、周りを優しく照らしてくれる太陽」
                「ヴァイオリニスト、月森蓮を良くも悪くも突き動かすのはその人だけなんだ」
                「大丈夫、次に来る時は本当に今日以上の演奏が聴けるから」
                「彼は有言実行の男だよ」

                 そう、彼は数年前、海外に旅立つ時に誓ったのだ。
                 絶対に世界に通用するプロになって香穂子を迎えに来ると。
                 そして、彼はそれを見事に実現して見せた。

                (月森君、これで喧嘩の件はチャラにしてよね・・・)

                 火原はこの後の二人を想像して一人ほくそ笑んだ。


               「あんたが悪い!!」
                香穂子ははっきり言い切る姉に頬を膨らませた。
               「蓮君だって遊びでヴァイオリンを弾いてるわけじゃないのよ?」
               「有名になれば、それなりの付き合いや苦労だってあるのよ」
               「それを妻のあんたが理解しないでどうするの!?」
                香穂子は黙りこんで俯いた。
                その通りなので反論できない。
               「いつまで子供でいるつもり?」
               「蓮くんは子守するために結婚したんじゃないのよ」

               「・・って・・や・・なんだもん・・」

               「蓮が大きくなっていくのに・・私は何もなくて・・・」
               「不安になるの・・いつか、私の事・・置いて行っちゃう気がして・・」
                やっと腫れがひいた目蓋に再び涙が流れる。
                いつも抱えていた焦り。

               (蓮はずっとこのままの私でいいの?)

                もしかしたら、もっとふさわしい人がいるかもしれない。
                そんな人が現れたら、私はどうしたらいい?
                蓮が有名人と共演するたびに嫉妬と恐怖が襲う。
                共演者という言葉に過剰に反応してしまう。

               (私から蓮を奪わないで・・・)

                姉の暖かい手が香穂子の頭を優しく撫でた。
               「蓮くんだってきっと不安だと思うわ」
               「忙しくて傍にいられなくて・・・その間に香穂子の気持ちが離れたらって・・」
               「私はそんなことしないよ!!」
               「蓮くんだって同じ思いだったのよ」
               「それを否定されたら、あんたならどう?」
                香穂子の目の前で何かが弾けた。
                昨日、怒っていた蓮の表情が浮かび上がってくる。

               (私、最低だ・・・)

                香穂子は黙って椅子から立ち上がった。
               「外、寒いから気をつけて・・」
                姉の見送りの言葉に黙って頷いた。

               「今日のスタジオってどこだっけ?」
                白い息を吐きながら香穂子は走り出した。
                一刻も早く会って謝りたい。

               (許してくれるかな?)
                
                もし、許してくれなかったら?
                そんな考えを打ち消す為に頭を振る。
               「大丈夫!」
                不安を消す為に言葉を声に出してみる。
                気がつけば、空からふわふわと白いものが降りてくる。

               「雪・・」

                空から舞い降りてくる羽のような雪を両手で受け止める。
                雪は香穂子の体温であっというまに溶けて雫となる。
                永遠に同じものなんてない。
                この雪と同じように気持ちも変化していくものなら、今日より明日
               はもっとあなたを好きでいたい。
                私も、今日よりも明日はもっと好きになってもらえるように頑張るから。

               「だから、神様・・・」
               「あの人に逢わせて下さい」

               「香穂子!!」
              
                顔を上げると、少し離れた所に蓮が驚いた表情で立っている。
               「蓮・・・」
               「何をしているんだ?こんな雪の中で」
               「身体が冷え切ってるじゃないか」
                蓮は慌てて自分が着ていたコートを脱いで香穂子の肩にかけた。
               「ごめんね、蓮」
               「私、怖かったの」
               「蓮はどんどん大きくなっていくのに、私は何も変わらなくて・・」
               「こんな私にいつか飽きて離れていくんじゃないかって・・」
               「香穂子、俺は・・」
               「でもね、今、気づいたの・・」
               「ずっと同じものなんてないよね」
               「だって、出会った頃から、どんどんあなたのことを好きになっていくんだもん」
               「きっと、今日より明日、一年後より十年後はもっとあなたを好きになってる」
               「だから・・」
               「私もね、もっともっと蓮に好きになってもらえるように自分を高めていくよ」

                香穂子は蓮の腰に腕を回してギュッと抱きついた。
                それに蓮も抱きしめ返す。
               「今でもどうしようもないほど君のことが好きなのに、さらに好きになっていくのか」
               「そうよ、明日もあさってもね」

               「覚悟してね」

                にっこりと微笑む香穂子の冷え切った手を握る。
               「帰って寝よう」
               「昨日は一人で寂しくて眠れなかったんだ」

                蓮は香穂子の手を引いて静まり返る街を歩き始めた。

                無駄に長くてすみません。
                書きたいこと詰め込んだらめちゃくちゃになっちゃいました。
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