雨音



                      窓を叩くように吹き付ける雨。
                      昨日の夜半から降り続ける雨は放課後になっても
                     止む気配をみせない。

                      きっと海上にあるという季節外れの台風の影響なのだろう。
                      
                      こんな天気のせいか、いつもは森の広場や屋上で練習している
                     生徒が音楽科のあちらこちらで練習場所を探してうろついている。
                      うっかりと練習室の予約を入れ忘れた俺は仕方なく音楽室で練習
                     していたが、いつもにもまして人が多いことと、チラチラと視界に入って
                     くる不快な視線に気が散ってつい力んでしまい、演奏中に弦を切って
                    手の甲を負傷した。

                     赤く血が滲み出る手を眺めて深い溜息が出た。

                     何となく・・今日は練習する気になれない。

                     今まではどんなにイヤな気分になってもヴァイオリンを弾けば溢れ出る音の
                    世界に浸ることが出来たのに・・・。
                     今日は何度構えても集中出来なくてすぐに下ろしてしまう。

                    
                     (最近の俺はどうかしている)

                     曇る思考を振り払おうと頭を横に振る。

                     それでもすっきりとしない、ギクシャクとしたココロ。

                     まるで、自分にも見えない糸に絡まれて動きを制限されてるみたいだ。


                    「失礼します」

                     手を手当てするために保健室にやってきたが、声をかけても中からの返事は
                    返ってこなかった。
                     どうやら保健医は不在らしい。

                     仕方なく自分で手当てするために薬品棚から消毒液や絆創膏を取り出し、
                    処置し始める。
                     傍にあった椅子に腰を下ろすと、ふいに机の上にあった利用者名簿が目に入った。

                    (そういえばこれを書かなければならないんだったな・・・)

                     同じく机の上にあったペンたてからボールペンを選ぶと、名簿の一番下に自分の
                    名前を書こうとして手を止めた。

                     俺の名前の上の欄。

                     そこには良く見知った彼女の名前。

                     2年2組 日野香穂子

                     時間を見ればここにやってきたのは一時間ほど前のようだ。
                     どうしたのだろう?
                     どこか抜けている彼女の事だ。
                     もしかしたら体育の授業か何かでまた怪我でもしたのかもしれない。

                     そんなことを考えている裏で、心は気づかないうちに静かに波を立て始めた。

                     振り返り保健室を見回すと、ベッドの一つがカーテンで閉じられている事に
                    気づいた。

                     ドクンと心臓が高鳴る。

                     静かにベッドに近寄り、カーテンを捲ると、そこには静かに寝息を立てる
                    彼女がいた。

                     はっと息を飲む。

                     「・・・・・顔色が悪いな・・」

                     貧血だろうか?
                     白く血の気の引いた彼女はまるで作られた人形のように美しく見えた。
                     無意識に彼女の頬に掛かった髪を指で払う。

                     よほど具合が悪いのか・・深く寝入っているのか、頬に触れても彼女は
                    身じろぎもしない。

                     こんなに傍にいるのに眠り続ける彼女への怒りなのか、それとも悪戯心なのか?

                     彼女を見つめながら、俺はおかしなことを考え始めた。

                     彼女はどうしたら目を覚ますだろう?
                     どうしたら目を覚ましてその瞳に俺を映してくれるだろう?


                     眠り姫を見つけた王子もこんな気持ちだったのだろうか?
                     とても遠い記憶の中で昔、耳にした事のある童話を思い出した。

                     (あぁ、そうだ。キスをすればいいんだ・・)

                     ぼんやりとそんなことを思いながらベッドに手をつく。
                     互いの前髪が触れ合うのを感じながらそっと唇を重ねる。

                     それでも、目の前の眠り姫は目を覚まさない。

                     その代わり、どこかでザーッと激しい音がし始めた。

                     これは外でいつまでも降り続く雨音だろうか?
                     それとも荒れ狂い始めた心の音?

                     いや、いつにも増して俺の中を急激に流れ始めた血液の音だ。
                     心臓が早鐘を打つ。
                     胸が苦しい。

                     どうやら彼女のキスは毒りんごだったらしい。
                     俺には絶対に辿りつく筈の無い、エデンにあったもの。
                     なのに・・いつの間にか惹きつけられ、手を伸ばしていた。


                     それは・・・恋という名の禁断の果実。