先週の説教要旨

「信仰を生きる」 ヨハネによる福音書14章1-14節

         牧野邦久牧師 2010年8月15日

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 「信仰を生きる」という当然の言葉であるが、信仰を処世術、教養として生きている人も少なくない。信仰は日々生きることである。信仰は洗礼を受けたときから始まるのではなく、ある日始まる出来事である。キリスト教だけでもその信仰の実態、形態など表面釣には異なるものがあるが、民族的な生活形態が違うので、その表現も異なり、外面的なことで判断することは注意すべき事である。

 キリスト教を始め、仏教においてもその信仰の背後には権力者との関係がある。キリストが国家権力と共に、戦争、植民地主義を支えて来た。仏教の僧侶たちは律令制のもと、国家公務員であった。神道のように、戦争を援助し戦争を促進してきた歴史は現代に続いている。このような歴史の過ちを悔い改めて本来の信仰を生きる原点に還る必要が急務である。

 キリスト教信仰の特徴は、神を愛し、隣人を愛することにある。イエスは律法の義務、責任の世界から、「愛する」という関係、交わりへと導かれた。律法は権力者のものであった。仏教も法然によって「権力者側の信仰から、民衆の信仰」へと変えられていった。イエスは初めから民衆の側の信仰である。その大きな特徴は神と人を愛することにある。しかも、イエスは隣人と自分を重ねている。「いと小さき者にしたことは私にしたのである」という。隣人への関係こそがイエスヘの関係であることが告げられている。この信仰の特徴はキリスト教を社会的なフィールドヘと導いている。

 イエスは自らを「道、真理、生命」として自らを人々に与えている。イエスという存在は教祖的な存在としての礼拝の対象というより、生きる道程として提供されている。「イエスのように生きる」ことである。信仰のマニュアルである。「真理」は交わりの中に働く、生きた真理である。固定化した、硬直した真理ではない。それ律法との対比でよくわかる。

 「生命」としてのイエスの存在は、信仰による生命の転換が示唆されている。「新しく生まれる」という生命による変革により、神の生命、永遠の生命へ再び復帰することである。この生命をイエスは生きることを告げている。イエスとの距離を感じるのは当然である。しかし、イエスは我々の生きる模範として、手本として我々を招いている。

 

先々週以前の説教要旨

平和の行進に参加する  マルコによる福音書11章1−11節

連帯の鎖 マルコによる福音書9章38−41節

「聖霊って何 ルカによる福音書12章8−12節

神の国の侵入 ルカによる福音書11章14-23節

神の恵みはもっと大きい 使徒言行録15章1-21節

歴史を創る神 ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節

イエスとの関わり ルカによる福音書5章1-11節

人生の指針を求めて 詩篇119篇105-112節

「見える教会・見えない教会」 マタイによる福音書7章15-20節

先週の奨励信仰と祈り 櫻林憲昭兄

唯一の神 出エジプト記20章1-7節

「目標を目指して フィリピの信徒への手紙3章12ー16節

愛、喜び、平和 ガラテヤの信徒への手紙5章22-25節

勝利の道を生きる  コリントの信徒への手紙U 2章12-17節

心燃やされて」 ルカによる福音書24章13-35節

復活に達したい フィリピの信徒への手紙3章1-11節

愛の実践を伴う信仰」  ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節

                

「平和がない」 エレミヤ書8章1−13節

        牧野邦久牧師 2010年8月8日

8:1 そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。

8:2 それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。

8:3 わたしが他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる。

8:4 彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。

8:5 どうして、この民エルサレムは背く者となり/いつまでも背いているのか。偽りに固執して/立ち帰ることを拒む。

8:6 耳を傾けて聞いてみたが/正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなく/わたしは何ということをしたのかと/言う者もない。馬が戦場に突進するように/それぞれ自分の道を去って行く。

8:7 空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。

8:8 どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で/主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き/それを偽りとした。

8:9 賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら/どんな知恵を持っているというのか。

8:10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に渡し/彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。

8:11 彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに「平和、平和」と言う。

8:12 彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと/主は言われる。

8:13 わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた

  人の世は常に虚偽に満ちている。虚栄とも思える平和に関する事柄を取り上げて、平和への前進と讃えている。南ユダで活動したエレミヤはヨシュア王の時代、支配国アッスリアが衰退し、バビロニアがその支配を行使していない暫定的な期間、表面的には平和を得ていると誤信していた。北イスラエルが滅亡したが、南ユダがアッスリアの攻撃から生き残ったことを過剰に誤信して、エルサレム神殿の不滅、ダビデ王朝の永続を過信していた。エホヤキム王になると、一変してエジプトの傀儡政権となる。新興の官僚たちは親エジプト派、反バビロン派となり、親バビロン派、反エジプト派と分裂していた。新興の官僚たちからエレミヤは迫害を受け、命を狙われていた。何よりもエレミヤは「エルサレムの滅亡」を語るのであるから当然迫害は厳しく、生命の危機に常に立たされていた。

  エレミヤの生き方は、神への真実であり、人への真実である。虚偽の世にあって「真実」を語ることは至難の業である。ユダの国威の高揚している中で、エルサレムの不滅に酔っている人々に「エルサレムの滅亡」を語ることは、非国民として迫害と殺意、怒りの中を生きることになる。神はユダの滅亡を語ることをエレミヤに命じた。エレミヤが信頼を受けたのは「エルサレムの滅亡」が成就した時である。

  神はエレミヤを通して、ユダの虚偽を指摘する。何よりも官僚の働きが虚偽に満ちており、市民は利益の追求にうつつを抜かしている。宗教家たちも全く同じである。このように神に対して、人に対して虚偽を働き、虚偽をもって裏切っている支配者、管理者、一般市民の存在は、平和どころか滅亡へ向かっていることは明白である。エレミヤは平和をこのように人の生活の状況の中に見つめているのである。人の生活の実態の中に平和という「神、人との正しい関係」がある。真の平和を求めることは、神と人との正しい関係を創ることから始まる。巨大な帝国に身を寄せることではない。自立して、正しい関係を持続することにある。私たちが自ら神と他者との正しい関係を創り続けることにある。この関係のあり様を自らに問い続けることが不可欠なのである。

 

平和の行進に参加する  マルコによる福音書11章1−11節

             牧野邦久牧師 2010年8月1日

11:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。

11:3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

11:4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。

11:5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。

11:6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。

11:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

11:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

11:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。

11:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

11:11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

  第二次大戦の犠牲者は6000万人、アジアでは2000万人、日本では兵士は230万人、一般市民は80万人と言われている。沖縄、広島、長崎の犠牲者を思うとき、被害者として犠牲者の痛みを思う。しかし、それ以上に多くの犠牲者を殺戮した加害者である日本を考えていなければならない。沖縄の人々は戦争の犠牲者であるが、朝鮮、ベトナム、湾岸、イラクへの米軍の攻撃の基地として提供していることを、加害者として苦しんでいる。

  帝国主義をはじめ、現代に至るまで軍事力による制圧が繰り返されてきた。戦争の歴史そのものである。イエスの時代においてはローマ帝国による占領下であり、ヘロデ王の軍事的に制圧されていた。ユダヤの内政についてはローマが直接管理していた。その中心地エルサレムには、周辺より戦争に勝利し、凱旋する将軍たちの行進が繰り返されていた。鳴り物入りの派手な行進である。インドまで軍事力による支配を広げる力はその限りを知らないものであった。

  そのエルサレムでイエスはロバの子に乗って弟子たちと行進を行った。正に平和のデモであった。軍馬に乗るのではなく子ろばに乗るという、軍事力を鼓舞する人々を批判し、抗議するものであった。「ローマの平和」は軍事力によりもたらされるものであった。現代においても躊躇なく用意する平和への手段である。しかし、それは膨大な犠牲を伴うものである。そして繰り返されるものである。イエスのは陳腐な、心許ない、有効とも思えない平和への取り組みである。ここに平和への全てがある。効力のある手段が正しいのではない。無能と思える、極めて少数者による平和への取り組みこそ真に平和を創る道なのである。上からの大きな力では真の平和は生まれない。個人、市民レベルでの平和への取り組みが生まれない限り平和への道は開かれない。

  また、イエスの子ろばに乗る入場は、予言者ゼカリヤが救い主の有り様を予言したことを実現させている。全人類の救いに関わる出来事が展開されたことでもある。人類の救いはこの平和の行進にある。イエスの言葉により解放された人々が、足下から、個人から、少数者から自主的な、主体的な行動が平和を創り出していくのである。ここからしか平和への道は造れない。小さな平和へのデモに参加しよう。

 

連帯の鎖 マルコによる福音書9章38−41節

        牧野邦久牧師 2010725

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

9::39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。

9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 連帯という言葉は良くその内容を示している言葉である。貧困な人々が多いフィリピンのミンダナオではよく見かける。イエスは愛を初め、和解、仲介、謝罪、悔い改め等関係の不可欠さ、関係の修復、回復などについて語っている。その極限においては、「敵を愛する」こと、「赦す」事については七度を七十倍ゆすことと無限の赦しの必要を語っている。これだけ関係の重要さを指摘する一方、厳しいイエスのファリサイ人への叱責がある。単なる悪意ではなく、構造的で、計画的で、慣習的な悪意に対しての怒りである。特に、「自らを絶対的に正しい」とする彼らへの怒りは厳しい。この世においての悪しき潮流はどこまでもその過ちを継続する。この怒りの中にイエスの愛がある。

  ここでは、「イエスの名によって、悪霊を追い出している人々」へのイエスの言葉がある。イエスは彼らへの怒りと制裁について、「してはならない」と言う。イエスの寛大さなのであろうか。それ以上にイエスは「彼らは味方である」と言う。彼らを放置する、相手にしない、差し障りがないので無視する、と言うこととは異なる。その行為の方向が「悪霊を追い出す」事であれば、明らかに「味方」であり、ある種の功績があり、敵どころか味方なのである。

  弟子たちの怒りは、自己の取得している権利が乱用されたことにある。利害を保持するためには、この世界では加害者を排除し、刑罰さえ与える。この世の常識である。この世界では所得した利益が犯された時は排除できることが最良なことである。現代の膨大な社会において、競争が日常化しており、排除が日常化している。通常の流れの中ではこの競い、争い、排除する社会が現存している。共生、共同意識は非日常的な時でないと生まれない。阪神・淡路大震災の時、避難生活の中で共生の生活が生まれたと言われている。通常の生活に回復すると元に戻った。これは如何に日常生活が競争、分断された生活を過ごしているかを知る。

  神の無限の赦しと、恵みの世界をこのような傷付け合う世界としている。この世界にて和解をし、交わりの回復を求める一方、行為以前の動機の段階においても鋭敏な感性をもって悪意の動向に対処することが求められている。仲の良いことは良いことである。同時にその連帯の広がりの中で、鋭敏に悪意を嗅ぎ分ける必要もある。

 

聖霊って何 ルカによる福音書12章8−12節

           牧野邦久牧師 2010年7月18日

12:8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。

12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。

12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。

12:11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。

12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

  聖霊は日本人の霊魂、霊の理解とは大きく異なる。怨霊、もののけという霊の理解ではなく、極めてその働きは明解である。旧約聖書においては神の意志は神の声、霊、幻、夢などによって伝えられた。神の霊は神の言葉と切り離せない。新約聖書においては、「霊」プネウマは定冠詞がつけられ、絶対的な表現になっている。聖霊は「水と霊」、「霊と真理」と言うように用いられている。「真理の霊」は「迷いの霊」に対置されている。イエスの告別説教においては、「霊」はパラクレイトス「助け手」と特別に表現されている。

  聖霊は力動的に働くもので、「生ける者とするのは霊である」と、イエスが「人を生かす」働きをしたことに対応している。聖霊は神とイエスが行う「人を生きるものとする」働きを行う。また、イエスによって授けられた聖霊は、「新しく生まれること」、「再び生まれること」を引き起こす。その聖霊は「あなた方と共におり」、「あなた方の許に」、「あなた方の内に」と三重の言葉で、聖霊がいかに我々に親しく、密接な方であり、いと近くから働き掛ける方であることが解る。

  イエスは決別説教において、「わたしはあなたがたを孤児として置き去りにはせず、あなた方の許に来る」と弟子たちを放置することなく、聖霊によって共なることを語っている。また、イエスの死によりこの世はイエスを見えなくなくなるが、あなた方は見るであろう」というのは、「私は生きており、あなた方も生きることになるだろうから」とイエスは生きている方で、聖霊によって弟子たちも神の世界に生きる者とされ、共に生きる者としての交わりが継続する事を語りかけている。この世におけるイエスとの離反があっても、聖霊に導かれ、生命の世界において生きる世界を共有することが指摘されている。

  ニコデモとの対話に中で、老人に「再び生まれること」を求めている。霊によって生まれる者は霊であって、肉によって生まれる者は肉である。」ここでも聖霊によって「新しく生まれる」、「再び生まれる」ことを教えている。聖霊は正に人を革新する方である。聖霊はイエスへと導き、生きたイエスとの世界を共にする者として下さる。

 

神の国の侵入 ルカによる福音書11章14-23節

         牧野邦久牧師 2010年7月11日

11:14 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。

11:15 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、

11:16 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。

11:17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。

11:18 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。

11:19 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。

11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

11:21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。

11:22 しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。

11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

 神の国の支配はローマ帝国支配のユダヤの地で起こった。へロデ王はローマ元首に直属しておりユダヤの内政については自主的な処理は出来なかった。軍事的には要請があれば、ローマヘの援軍を送る義務があった。ローマによる内政はイエスの裁判、処刑がロ一マの立ち会いのもとに行われたことでも解る。ローマ帝国の巨大な支配、統治の力は膨大であり、不滅とさえ思われた。

 イエスの語る神の国の到来、自ら王と認める出来事はこのような巨大な帝国の支配の許で起こった。比較もできない小さなガリラヤで、少数の人々によるものであった。神の国の到来は、このロ一マ帝国、ユダヤヘの侵入と受け取られたのであろう。「神の国が来た、来ている、すでに来ている」と言う言葉は神の国がすでに存在している事を指摘している。少なくとも、彼岸的な存在としての神の国ではない。また、死後に展開される永遠でもない。この世の現実と共に存在している神の国である。

 ここでイエスは神の国の現実を指摘している。「私が神の指で悪霊を追放している」そしてそこにはまぎれもない神の国の現実が生まれている。神の国の力は、悪しきこの世の現実の中で、神の恵み、愛、正義、公平を実現していることを語っている。ロ一マの巨大な支配力を前にして、その力に屈しない、支配されない、それ以上に無限力のある神の支配を述べている。

 一方では「神も仏もない」世界に絶望する人々もいる。そうだろうなあと同情することも多い。これらの苦悩する人々の前で「神の国である」ことを告白することは勇気を要する。イエスにとってそれは通常のことであった。この神の国を生きることしか出来なかった。

 この世の力によりイエスは自己の苦難、死へと追いやられた。しかし、そのことはイエスを神の国の現実から引き離す力にはならなかった。比較にならない神の国の力の内を生きていたからである。神の国の現実がイエスによってもたらされた。それは支配者、権力者から見れば、神の国が侵入してきたことと感じたのであろう。キリスト者はこの神の国に所属する者として生きている。

 

神の恵みはもっと大きい 使徒言行録15章1-21節

              牧野邦久牧師2010年7月4日

15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

15:2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

15:3 さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。

15:4 エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。

15:5 ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。

15:6 そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

15:7 議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。

15:8 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。

15:9 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。

15:10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。

15:11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

15:12 すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。

15:13 二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。

15:14 神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。

15:15 預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。

15:16 『「その後、わたしは戻って来て、/倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、/元どおりにする。

15:17 -18 それは、人々のうちの残った者や、/わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、/主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、/こう言われる。』

15:18 [前節に合節]

15:19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。

15:20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。

15:21 モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

人は目先のことに捕らわれてしまうことがある。社会での問題、世界での問題が自分の問題にならないことがある。個人の生活と世界との関係は極めて密接なことである。それにもかかわらず自己の生活環境に固執する事さえある。信仰はこの自己本位の生活から救い出してくれる。「神を愛し、隣人を愛する」世界へと引き出してくれる。神が愛してやまない世界と人に関心を持つようになる。

 自己中心の世界から神と共なる広大な世界へと引き出されていく。神、隣人との世界を共有することが信仰生活である。聖書の中にも様々な枠をもうけて、他の民族や集団を引き離してきた。イスラエル民族をアブラハムの子孫と言うのと、ダビデの子孫と呼ぶことでは大きな違いがある。異邦人と呼ぶこと自身が問題である。このように選別、区別ということで差別が生まれる。ここではアンテオケ教会において割礼を受けていないキリスト者に割礼の必要を要求する激しい論争が生まれた。

 それはユダヤ人としての伝統を身に着けてきたことによる。慣習、伝統というものから自由になれない人々からの抗議であった。イエスによって展開された神の世界は、差別された人々の場から生まれた。差別されれることには最も敏感な世界である。異邦人教会(ヘレニスタイ)の教説は「割礼も律法の縛りも要求しない」としていた。割礼の要、不要は激論となった。ガラテヤ書の方が真意を伝えている。実際はユダヤ人教会と異邦人教会は分業を認め合ったように思える。信仰という広大な神の世界と隣人の世界を共有することは、離反、遊離、隔離などとは関係がない。そこに働く愛という関係を求める生命は教会を広い世界へと導いてきた。

 現状の日本基督教団は合同教会としての広がりを失っている。異なる点を共有する豊かさを奪われている。固執、閉鎖的な動きは暴力的でさえある。「神は人を分け隔てなさいません」という言葉は全ての人々へと展開される生命である。キリスト者の相互関係だけではなく、顕在的な教会があり、潜在的な教会が存在することを自覚していなければならない。教会は神の恵みを独占出来る共同体ではない。神の恵みはもっと大きい。神の恵は誰も占有することは出来ない。

 

歴史を創る神 ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節

         牧野邦久牧師 2010年6月27日

1:18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、

1:19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。

1:20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。

1:21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。

1:22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。

1:23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、

1:24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

 歴史とは「日々の出来事」である。それは日常生活そのものである。神の創造の出来事は言葉により全てのものが創造された事に始まる。言葉の失われた現代にあっては言葉は創造力を失っている。しかし、現在においても真実な言葉の持つ創造力は失われてはいない。

 目に見える歴史の流れ、目に見えない歴史の流れもある。巨大な歴史的な事件もその起点においては小さいことから始められている。聖書においてもバビロン、アッスリアそしてローマなど巨大な帝国も破滅している。歴史は人の想像を超える。あの宗教改革においても、ルター、カルヴァンはその活動の起点においては小さな出来事の積み重ねである。宗教改革の全てを喜ぶことは出来ない。背後の政治状況、国の状況がある。 

 日本基督教団の歴史においては、二度にわたる「合同の問題」がある。30余派の教派の教会が合同して合同教会となった。国家の宗教団体法による合同である。戦後、沖縄キリスト教団との再度の合同は合同とはいえないものであった。歴史の流れの中で協議し、決断してのことであるが、過ちを犯してきた。見える歴史においての過ちを訂正することに言い訳があってはならない。

 本日のテキストにおいては、見えない、知らない歴史の流れを知らされる。パウロが改心三年後にペテロ、ヤコブには会ったが、エルサレムにおいて使徒たちと一堂に会したこともなく、個人的にペテロとヤコブにのみ会っただけである。パウロの宣教はエルサレムの認可したものではない。パウロはそれを激しく主張している。 エルサレム教会に何か問題があったのであろうか。異邦人よりユダヤ人を優位に立て、異邦人への差別はいまだ一掃されてはいなかったのであろう。

 パウロがイエス自身から委託された宣教へ専念されたのは画期的な出来事である。神とイエスとはかり、直接実行したことによって、新しい異邦人宣教の歴史が切り開かれていったのである。パウロの単独の行為が新しい異邦人宣教を生み出していったのである。神が与えられる日常生活において歴史が創られる、平凡な、小さな日常生活の重さを自覚したい。

 

イエスとの関わり ルカによる福音書5章1-11節

           牧野邦久牧師 2010年6月20日

5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。

5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。

5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 イエスと私たちの関わりには多くの接点があり、その全てを語ることは不可能である。この聖書の箇所に関して、イエスとの関わりの一つを考えたい。この記事はイエスの弟子となった出来事を記している。ガリラヤ湖で漁師をしていた二組の兄弟が充分生活できる職業を放棄して弟子となった。マタイとマルコはこの出来事を淡々と記している。しかし、ルカはこの出来事の後に「大漁の奇跡」をつなげて記している。

 おそらくイエスと二組の兄弟たちとは以前からの関係があり、この時に弟子となる出来事になったのであろう。しかし、一般的にこの記事を読むならば、ルカの記事の方が理解しやすい。ルカが付与した事は弟子としての召命の出来事を難解にしないで特別な意味を与えている。それはイエスの出来事から当然理解できるものである。

 「大漁の奇跡」はイエスの真実の言葉との出会いである。「疲労と虚無」が不漁で終わつた人々を苛む。詩人が「人生で得るところは労苦と災いであつて、瞬く間に時は過ぎる」と語るように、人生らしい人生を生きようとすれば困難に遭遇し、実りも決して充分ではなく、敗退することはよくある。骨身にまで虚しさを感じて、人の言葉も虚しく聞こえてくる。そのような中で、イエスの言葉に従って漁を再開する。そこで大漁という奇跡を体験するのである。

 ここでは「お言葉ですので」との不信の中での漁である。そこでイエスの言葉通りの大漁を体験する。真実な方と不信な人間との出会いを体験し、自己の罪深さを実感する。イエスの言葉は常に人の不真実を明らかにする。イエスの言葉はこの不真実な我々の中に語られている。確かに、不真実な自己を明らかにされて落胆する。

 しかし、イエスの言葉は同時にそこから人に新たな力を与え、人を虚偽な力から解放してくれる。シモン・ペテロの裏切りを預言したイエスは、神の言葉に従い、その従順を貫くペテロヘと導いたのもイエスの言葉である。言葉の真実さを失っているこの世に、重く響くイエスの真実な言葉に耳を傾けたい。

 

人生の指針を求めて 詩篇119篇105-112節

            牧野邦久牧師 2010年6月13日

119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

119:106 わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。

119:107 わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。

119:108 わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。

119:109 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。

119:110 主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。

119:111 あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。

119:112 あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。

 長い詩篇の中から、「若者への勧め」に関する内容から律法に従う生き方に学びたい。人生の暗闇を照らす光が神の言葉であると詩人は感謝している。人の人生には多くの暗闇と呼ぶものがある。特に青年時代において不安定で、危険の伴う問題も起こりやすい。そのため若いときに人生を考えることは貴重なこととなる。

 人生の指針を考える事と、人間とは何か、人間であることを考えることとは基盤において同じ内容をもつ。深淵で広大な課題でもある。初めに「偽りの道を遠ざける」ことが記されている。虚偽な人生を遠ざけることは、虚偽な自己形成から解放されることである。虚偽の自己からの解放を求めるためには、虚偽の自己をそのまま受け止めることである。聖書の言う「罪」による内面的な問題だげではなく、人は国家、社会、企業、風潮、流行、自然、風土など多くの影響のもとにあり、具体的な管理、支配、干渉、圧力などを受けて生きている。その中を生きる人間としてゆがめられ、支配され、妥協し、それ以上にそれらの力に乗ってしまうことさえある。人間を取り巻く周囲の力に無関心、無自覚で生きていることもある。

 「傲慢な者たちの落とし穴」とは意識的に企画化され、人を虚偽の道に誘い、あるいは陥れる策に出会うことである。ここには人間として生きることに重圧があることを示唆している。人の人生を大きくゆがめるものである。同時に自己が自己に対して正当な評価をもつことは困難である。過大評価したり、落ち込んだりと大きく評価はゆれる。

 ここで若者に勧められている神の律法、すなわち神の言葉は、実に、生きた言葉、真理、生命として受け止められている。律法は掟、規則、法とされ、それに従う責務、義務があると思われて、その真実な光、生命、真理、力として受け止められていない感がある。しかし、ここでは神の言葉は喜びを与え、甘美なものとして受け止められている。神の言葉は人を生かし、喜びを与え、実に魅了されるものであるとの指摘がある。我々は生きた言葉であるイエスとの出会いを与えられている。

 

見える教会・見えない教会」 マタイによる福音書7章15-20節

               牧野邦久牧師 2010年6月6日

7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。

7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。

7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。

7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 「見える教会」と「見えない教会」という、歴史的、経験的な教会と理想的、理念的な教会が考えられてきた。現実の教会に失望するあまり、別の教会像について考え、弁解してきた過去がある。プラトン、アウグスチヌスの二元的分離は批判されている。確かに、教会は召され、呼ばれている。教会の主から問われ、求められている。K.バルトも見える教会と見えない教会との一致を強調している。一つの教会の二つの形態として用いられている言葉としている。

 ボンフェファーはとりわけ見える教会を強調している。「みえない教会」であろうとするイエスの教会は、最早何ら「イエス」に服従する教会ではない。なぜなら、服従はこの世界において起こることだからである。イエス・キリストの体なる教会とは「からだ」であり、「場所」をとる。からだはただ見えるからだでのみ存在するのである。J.M.ロッホマンは二つの教会を区別することに強い疑念を抱き、「見えるもの、対象的なもの、地上的なもの、物質的なもの」は「価値が低く」、「見えないもの、天的なもの、霊的なもの」を「価値が高い」とする古代、中世の影響であるとしている。経験的な教会への失望から、この世をこえて、ただユートピアに逃れる伝統的な逃避によると指摘している。

 また、現代においては見える教会のみではなく、潜在的な教会について考える必要がある。神の霊はただキリスト教会の中のみにあるのではなく、全ての歴史の中に臨在している。キリスト教会はイエス以後に存在したが、「潜在的な教会」は常に存在してきた。「教会の外に救い無し」ということは教会の独善である。「匿名のキリスト教」というか、教会を越えた神の恵みを確認する必要がある。

 D.ゼレはエマオ途上においてキリストが知られずに臨在したことに触れている。ゼレは「潜在的教会」はキリスト以後であるとする。これはまだ問題を残している。イエスが「良い木は良い実を結ぶ」と言われたように、生命と行為の一致、言葉と行為の一致は必然的なこととして語られている。教会はその過ち、失敗、罪にかかわらず、その現実に立ち尽くさねばならない。本音と建前という二元的な方便から解放されて、その現実に立ち続けよう。

 

先週の奨励信仰と祈り 櫻林憲昭兄

この教会との関わりですが、すでにお話していることでありますが、妻が神に召される前日に牧野牧師から病床洗礼を授けて下さったからです。宗教についての話ですが、私は、受洗後は毎日聖書を読んでいます。しかし、未だに聖書の中身を良く理解してはいません。矛盾や間違いではないかと思われる文面が所々にあるように感じられます。また、キリストについても処女マリアからの出生や死人を甦らせることについても良く理解出来ていません。しかし、理屈抜きで、神の存在を信じています。

 それは、このような豊かな自然、空気、大地、海、私たちの食べ物、飲み物、太陽、月、数多くの宇宙の星、水中の生き物、鳥、地上の動物、そして私たち人間が、現実に存在するからです。このように見事に調和している宇宙は、何かの意志でないととても創造することが出来ないと思われるからです。この何かが神であると信じているのです。私たち人間は、神の創造したこの見事な調和を乱すような愚かな行為を繰り返していますが残念な事です。

 受洗後の2年半で旧約聖書、新約聖書について、3回以上通読し、今4回目に入っています。2回目くらいまでは、単に2000年ほど前の歴史小説程度のものとして読みまして、内容について深く理解せず聖書の全体像をつかもうとしました。3回目、4回目と読んでいく内に記述に矛盾を感じ、文字通りの意味を理解するのが困難と思われる箇所が多くあることに気が付きました。

 私は、読者自らの判断によって理解することであるには賛同できますが、独りよがりの勝手な判断や時々のご都合主義的な判断がなされないかとの心配もあります。やはり聖書の意味するところを正しく理解し、判断するには、主日礼拝を守り、教会で牧師の説教を通して、御言葉を聴き、確認することが大切であると思います。可能な限り主日礼拝を守る様に努めたいものです。

(櫻林さんの奨励のほんの一部を牧師が選択、記載しました。)

 

唯一の神 出エジプト記20章1-7節

       牧野邦久牧師 2010年5月16日

1 出エジプト 20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。

2 出エジプト 20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

3 出エジプト 20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

4 出エジプト 20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

5 出エジプト 20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

6 出エジプト 20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

7 出エジプト 20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 神が唯一であるという聖書の主張は教会の歴史、旧約時代においてもその絶対性をもって他を否定、拒絶する力を発揮してきた。その主張は明らかに間違った宗教に対しては理解できるが、それ以上に単なる争いに、戦争に利用されてきたことは事実である。

 聖書の神は旧約時代において、特にバール、アシタロテという男神、女神の生殖、欲望へと展開されている神々との対立が長く、後を断たない。自然神として、豊作、子孫繁栄においては抵抗のないものであるが、その領域からの展開に問題がある。

 理神論のように神を超越的な神として真理の所在として思考する人々もいる。聖書の神が唯一であることを主張する主意はその絶対的な支配、管理、統率にあるのであろうか。神の創造物語において、神は人を神に反逆出来る者として創造された。それはどこまでも人の自由なる存在であることを求めたのである。支配による服従ではなく、自由意志による従順を求めたのである。

 また、契約関係を人と結ぶ行為は神と人との相互の主体的な関係を求められたのである。相互の合意なしには成立できない関係を生きることを求めたのである。そして、聖書の神は自然の神でもなく、超越的な神でもない。歴史の神である。契約の背景にも出エジプトという歴史の出来事がある。奴隷として自由を許されないところから解放した神の出来事である。モーセの十戒という契約の前文に、この神の歴史に関わった出来事が神の愛として提示されている。

 この神の愛への応答が求められている。単なる、正義、公平への服従を求めるものではない。選民においても、資格ある人々、能力のある人々を選ぶことをしないで、無資格な人々を神の愛の故に選んでいる。実に、無駄のある、時間の要することであり、効果、効率などは計算されていない。ここでも神の愛が主張されている。

 また、神は自らを限定しない。生きた方として、固定的な評価、理解の中に身を置かない。ある形にて神が表現されることを禁じている。神は唯一であると言う主張は全ての存在に責任を負うという愛である。故に、聖書の神は悩み、嫉妬し、愛し、待つ方である。いと小さき者こそを。

 

目標を目指して フィリピの信徒への手紙3章12ー16節

          牧野邦久牧師 2010年5月9日

3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 信仰者の人生における目標は深遠なものがある。しかし、その目標は日常生活そのものである。生活の状況の向上を求めるのは信仰生活の直接的な目的でも目標でもない。信仰生活の生き方に添えて与えられるものである。深い人生は必ずしも人が求めるものではない。その深さ、真実さ、豊かな愛などは慕われ、求められるものではあるが、一方、拒否され、避けられるものでもある。

 使徒パウロは生きることにおいて自覚的な人であり、目的意識も、計画性も充分ある人である。イエスに出会う以前においても、イエスヘの敵対関係も自覚的なものである。その伝道旅行でも、意図的な生き方が明確である。特に、その宣教の目的として「あなた方の内にキリストの形が出来るまでは産みの苦しみをする」と述べている。 信仰者の目標とは何か。信仰者の生活の実質をしっかりと把握して、未完成、未熟であるところに立っている。それは尽きない前進、求道への熱意を示している。確かに、信仰には完成、達成はない。常に求道者でしかない。信仰は神の国の現実を生きることであり、永遠の生命を生きることである。「キリストに似る」という表現は極めて直線的である。

 この求道の生活は人の努力では限界がある。信仰生活は交わりであり、生命に生かされる道である。信仰者の能力を越えて主イエスの力、愛、真理に支えられる道でもある。「捕らえようとしている以上に」、「捕らえられている」のである。懸命に生きるとき、それを越える力を明確に知るのである。人として懸命に、誠実に、真実に生きようとすることによって、与えられている他からの恵みの力を知るのである。

 到達点は「上に召されて、賞を得ること」と記している。この世の暗黒を嘆くことは容易い。しかし、この世の現実として神の生命を生きることへの道が開かれている。人生の目標はその未完の状況にあるが、無限の愛、正義、公平を求める思いも果てしない。目標を目指して、未熟な信仰者として尽きない求道の生活に励みましょう。

 

愛、喜び、平和 ガラテヤの信徒への手紙5章22-25節

          牧野邦久牧師 2010年4月25日

5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 聖霊による賜物についての記事である。信仰者の徳というものが善悪一覧表という形で記されている。従来は悪について、その筆頭に性行動が揚げられているが、ここでは善である賜物が冒頭に来ている。信仰者の徳というものが表現される時、柔和、優しさ、親切、勤勉さ、温厚さ、忍耐深さなどがある。ここで挙げられている「愛、喜び、平和」は常に他者との関係の中で存在している。独りよがりの人徳の完成度などは問題ではない。

 律法主義における人格の完成が個人的であり、他者の不完全さが冷たく批判される。しかし、聖霊による賜物は他者と共なるものであり、愛も喜びも平和も他者との関係が問われている。愛の領域が、喜びの領域が、平和の領域が狭く、独りよがりでは許されない。勿論、個人的な努力によって到達できるような世界ではない。到達どころか果てしない広がりの中での賜物である。

 聖霊による賜物の基盤は愛である。パウロは律法は感情と情念を誘発すると言う。そして理性は人間に働く法則に対抗するには無力であると。聖霊は人の内に働き、強烈な感情を引き起こし、その情念に対抗する。その基礎は愛である。情念の独走ではなく、関係を、交わりを生きる者となる。愛による広がりは常に足らなさを覚える。自已に於ける狭さや独善さを恥じる。

 パウロには総体的に言うならぱ、二つの生きる道がある。一つはキリストと共に十宇架につけられて、古い自分と決別することである。強烈な倫理が、自発的な極限的な宗教的倫理を述べている。ラディカルな自己統御と禁欲的な道である。一方、ローマ書においては理性的な倫理が勧められている。12章2節において「何が善なのか吟味しなければならない」と理性的な醒めた倫理を語る。その双方が必要であろう。

 聖霊は別に「真理の御霊」とも言われている。真実さへと導くものである。いずれにしても他者性のある、問われて生きる生き方である。倫理的な問われ方だけではなく、愛によって親しく、深く問われることによって変えられていくのである。愛が我々の主体性を生み出してくれるのである。

 

勝利の道を生きる  コリントの信徒への手紙U 2章12-17節

               牧野邦久牧師 2010年4月18日

2:12 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、

2:13 兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。

2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

2:17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

 宣教活動には常時困難が伴う。宣教活動に門戸が開かれた時でさえ、テトスに出会えないことに不安を感じたと記されている。現代では想像できない内容があったことであろう。現代における宣教の困難さには、当時とは大きく変化している課題と、普遍の課題とがある。

 最も強大な問題として、平和の問題がある。大きな国家的な暴力が民衆を襲う。自衛という正当性を背景に巨大な力が民衆を呑み込む。人の生命をはじめ、必要とされる破壊力の利用が肯定される。人権などという人間の基本的な権利さえ軽視される。戦争を阻止することは平和の主であるイエスヘの信仰に生きる教会の宣教活動の基本である。日米安保条約の下で日本の平和への道は進行している。力による平和の欺瞞を知る。沖縄をはじめ神奈川の地にある米軍基地の問題にこそ手近な現実的な平和の課題がある。

 また、世界的な経済不況に曝され、生活の基盤が失われる不安の中にある人々が数多くいる。共生の課題として、底辺の人々の生活に関わる活動は欠かせない。このような人々へのイエスの指針を把握し、語る姿勢を教会が整えている必要がある。

 各個教会においては、現在、教団との関係に問題が生じている。聖餐論、宣教論、教会論においての相互理解に相違がある。直接問題となっている点は、異なる立場の教職、教会の排斥が進められていることである。合同教会として、その違いを共有してきた歴史は顧みられない。このような教会を取り囲む状況を自覚して、教会形成に励みたい。

 教会においての具体的な問題点は、教会員が毎週の礼拝に出席出来ない状況にあることである。また、高齢者を初め礼拝出席が困難である方々と共に教会の実質的な交わりをもてないことである。牧師による牧会、教会員による相互牧会が必要かつ大きな課題である。教会員相互の交わりの内実を維持するためには教会内の手軽な文書の発行が必要である。このような教会の現状の中でイエスを知る香りの発散が求められている。これは信仰の実践の他にはない。

 

心燃やされて」 ルカによる福音書24章13-35節

         牧野邦久牧師 2010年4月11日

24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

24:14 この一切の出来事について話し合っていた。

24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

22:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した

 イエスの復活の記事は歴史の伝承としては記されてはいない。ルカが記した復活の出来事は目に見えることとして、また、特に言葉の問題として記されている。人生における絶望、失望は致命的な衝撃を与える。特に、自己を越えて他者への信頼と期待によってつくられた関係は致命的である。イエスの死の出来事は彼らにとって人生を転落させるものでもあった。

 その彼らが見知らぬ人との出会いにおいて不思議に思ったのは、エルサレムにおけるイエスの処刑について無知のようであることであった。それは彼らの人生においての決定的な出来事への無知であり、我慢できないことであった。この事件への関連について彼らの話は失望でしかないことであったが、対話の内容は大きく展開されて「心を燃やす」ものとなった。絶望から一転して「心が燃える」ような対話へと展開した。驚くべき展開である。イエスの死と復活は徹底的な転回である。話された言葉はこの世における知恵においては虚しいものであったが、イエスの言葉においては神の力の敗北ではなく勝利であった。

 宿におけるパンを裂いたイエスの行為はイエスを確認するものとなった。イエスの行為の特徴によるのであろうか、その時、目覚めた弟子たちの心情であったのか。可視的な出来事として復活が記されている。正に出来事として伝えるものである。パンも同時に神の言葉でもある。故に、イエスの言葉に固執する傾向を感じるが、イエスの死が大きな転回を意味している。悲しみが喜びに、敗北が勝利に、それは徹底的な出来事の告知である。

 この世における真実はこの世の力の前には敗北としてしか映らない。当然のように、真理、神の真実の愛は敗北としてしから映らない。イエスを取り巻いたこの世の権力は全てを支配し、ほしいままにする。二人の旅人の失望はこの世の成り行きである。当然の結果である。この世の力が全ての人の真実さを奪っている。そして、それは日常的な事実となっている。イエスの死と復活はそれを全く転回する絶大な出来事である。これがこの世における神の現実である。

 

復活に達したい フィリピの信徒への手紙3章1-11節

          牧野邦久牧師 2010年4月4日

3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。

3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、

3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 主イエスの復活についての言葉には二通りの用い方がある。一つはイエスの死と復活を信仰生活の行程として語る場面である。それは我々がもつ古い体質の自我から死んで新しいイエスの生命に結ばれて生きる行程を死んで復活すると表現していることである。他の一つはイエスの死と復活そのものを信じる信仰である。勿論、イエスの生き還りではなく、神の生命の不滅、神の力の勝利を信じる信仰である。

 パウロはその信仰生活においてイエスの苦しみに預かることを信仰生活の課題としていた。使徒職についての主張においても、自分は他の弟子たちよりも多くの苦難を経てきていることを語る。獄中にあってもなおイエスの生命と働きに連なることを努めている。もとよりそれは信仰者の行為において達成されるものではないが。この信仰と行為の一貫性はイエスのものと同じである。

 復活への希望は信仰者の課題である。それは確かに行為によらない。神の賜物である。罪の赦しについてはイエスは無条件である。イエスは罪びと、遊女さえ受け入れている。赦しを語りかける前に受け入れているイエスを発見する。しかし、赦しが慣習化して、イエスの贖罪の死が安易な恵みとされている。そこにパウロの求道の生活を知る必要がある。信仰義認という教理が一人歩きをして、信じることにおいて救いの達成があることが先取りされる。信仰義認が行為義認と対比されて語られたことがあった。双方が対象化されるところに問題がある。

 信仰義認が行為を無視したり、軽視したりするならば本来の信仰生活をすることは困難である。二元論化しやすいところに危機を感じて信仰義認を見つめたい。復活に達したいことは我々の課題である。神の生命に関わって生きること、永遠の生命を生きることがなんであるかを考える時、それは自ずと生まれてくる。一筋の信仰は過ちや失敗はあるが神への生きた応答を繰り返していくであろう。神の憐れみの中で赦され、新しい生命に生きる道は生きた信仰の中に働き、神の生命へと導くのである。

 

愛の実践を伴う信仰」  ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節

                 牧野邦久牧師 2010年5月2日

1 ガラテヤ 5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。

2 ガラテヤ 5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。

3 ガラテヤ 5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。

4 ガラテヤ 5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、““霊””により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。

5 ガラテヤ 5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

 イエスもパウロも当時のユダヤ教の律法主義と対立している。しかも、それは大変厳しいものがある。イエスの対立点は安息日問題、断食問題、癒し、神殿問題と多くの局面がある。安息日問題を見るならば、農耕生活での安息のために設けられた休息日が本来の目標のために用いられていないことが指摘されている。宗教的な規則、管理として人の生活を規定し、支配している現状の中で、「人が安息日の主である」と直言されている。これは社会的に権力のある人々への決定的な対立であった。更に、犠牲の捧げ物を求める神殿礼拝の在り方について、神が求めているのは「犠牲」ではなく、「憐れみ」であるとの主張、礼拝妨害は致命的な対立となった。

 一方、パウロにおいては特にユダヤ人キリスト者を誘惑する「割礼」において、決定的な批判を下している。掟の一部を守ることに於いて、律法の全てを守るとしている欺瞞を批判している。この虚偽的な生き方は全てを根源から欺くものであること。この割礼を必要とすることは、キリストと無縁な者となることとして批判している。神との関係は神の「憐れみ」によって成立しているのであって、それ以外のものを神の前には持ち出すことは出来ない。失礼である以上に有害なものとなる。神とイエスとの隣れみの中で生きる者には、憐れみと赦しが全てなのである。

 そして、この関係、交わり、愛の中で生まれる人の応答としての行為が語られている。それは何処までもイエスの愛への応答である。愛の交わり、人格的な交わりから生まれるものである。そしてそれが全てである。キリスト者の行為は何処までもイエスヘの応答であり、それ以外ではない。信仰とは内面生活と同時に行為が含められている。信仰という内面だけが語られることも間違いであり、行為だけが語られることも間違いである。

 マザー・テレサは「私の働き、事業を見るのではなく、その働きの全てはイエスとの交わりの結果である。事業はイエスとの関係を深めるための方法、手段でしかない。」と語り、イエスとの愛の交わりに目を向けることを求めている。ここにこそ、信仰者の実践の源泉がある。「行ないのない信仰は死にたるもの」と、実践のないことは信仰の問題なのである。