私の目の前に、大きな水槽がある。
あたりは寒くて、暗い。
ものすごい刺激臭がして、頭が痛い。
何のにおいだろう。消毒液をもっとずっと強くしたような、薬のにおい。
水槽の厚いガラスの向こうに、何かが見える。
人の手だ。
黄ばんだ液体の中に、白い手が見える。
細くて、白い… 血が通っていないような、真っ白な手。
目をそらそうとしたけど、私の目はその手の根元を追っていた。
女の子だ。私と同じくらいの?
髪も目も真っ白に濁っていて、そのおなかには…
きゃぁあああああああ
自分の悲鳴で目が覚めた。
ここは電車の中だ。
顔を上げると周りには何人か人がいて、驚いたようにこっちを見たが、すぐに目をそらした。
私も恥ずかしくなって、窓へ目をそらす。
電車はちょうど橋を渡るところで、赤い夕日が水面ににじんでいた。
わたしは有沢高校2年、皐月ありす。今は病院に向かっているところ。
ひざのバックに目を落とし、中に茶封筒が入っているのを確かめる。
この茶封筒には、わたしの主治医の先生から、これから向かう病院に宛てた手紙が入っている。
私についた病名は難しくて覚え切れなかったけど、眠ると、とにかく酷い悪夢を見るんだ。
さっきの夢も症状の一つなんだと思う。
現実の体験を、いつか夢で見たような気がすることって、デジャヴっていうんだっけ。
そういう風に感じることも少なくない。
先生に、これは予知夢なんだって言ったけど、笑って相手にしてくれなかった。
これから行く病院には、えらい精神科の先生がいて、きっと詳しいだろうから紹介するよって。
精神科だって。嫌んなっちゃうな。なんでもないよって、すぐに帰してくれるといいな。
がたごとっと音がして、窓を見ると電車はトンネルに入ったところだった。
窓の外は真っ暗になって、何も見えない。
不意に天井のスピーカーが音を出した。
「ご乗車の皆様ー、間もなく、きさらぎ駅に到着しますー。お降りの方はお忘れ物のないよう、ご準備くださいー」
わたしが降りる駅だ。
手鏡で手早く自分の顔をチェックする。
ちょっと元気そうに見せなきゃ、入院でもさせられちゃったらたまんない。
バックのふたを閉めたところで、電車はトンネルを抜けた。
窓の外に、ちょっと閑散とした市街地が見えてきた。
流れる町並みの向こうに、白っぽい建物が見える。あれがきっと病院なんだ。
「きさらぎー、きさらぎですー、右側のドアが開きますー」
わたしがホームに立つと、すぐに後ろで戸が閉まり、電車は行ってしまった。
改札を出ると夕暮れに沈む町を見渡せた。駅前にいるのはわたし一人で、なんだか寂しい気分。
病院への道がわからないので、私はタクシーを拾った。
タクシーは黒い車体で、白で「如月交通」って書いてある。個人タクシーみたいだ。
「阿弥陀病院まで」
と私が言うと、帽子を目深に被ったタクシーの運転手は、黙ってうなずいて、ドアを閉めた。
何もしゃべらないなんて、感じ悪い。
そんな居心地の悪い空気のままでタクシーは10分ほど田舎道を走り、静かに止まった。
白壁の病院の看板を見ると、「阿弥陀総合病院」とある。紹介された病院に間違いない。
ロビーに入ると、時計は夕方の6時を指していた。
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