連載小説
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深泥池・導入編
 長雨がようやく止んだある日。彼はいつもの様にやって来た。

「やぁ、雨流。久々だね」

「いらっしゃい、榊。今日は休みかい?」

 一応の社交辞令として、僕は読んでいる文庫本から目を上げる。
 鬱陶しい外の空気とは正反対に、榊は爽やかに微笑みかける。

「今日は有給でね。書き物をする気分でもなかったし、来てみたんだ」

 榊は兼業作家である。
 とあるメガバンクのエリート銀行マンでありながら、百万部以上の売り上げを誇る著作、「髑髏の檻」「八咫烏の眼」を世へ送り出した実績を持つ。
 普段から忙しそうにしている彼が、どうやってそれだけの時間を捻出したのか、それは永遠の謎である。

「締め切りは大丈夫なのかい?」

「百万部を売り上げる作家様にもなれば、編集者は余計な締め付けなんてしてこないさ。別の出版社で書かれた日には、その編集者の首が飛ぶことにもなりかねないしね」

「なるほど。そういうものか」

「そういうものさ」

 何より彼には、銀行員として充分すぎる稼ぎがある。そうなると作家業は榊にとって手慰みに過ぎない訳で、編集者としても下手につついて機嫌を損ねられると困るのだろう。

「ところで、何か面白い話は無いかい?雨流」

「藪から棒だな」

「僕がここへ来る理由の八割は、君が収集している話を聞くことさ。それに」

 榊は含み笑いをして見せる。

「僕の著作『常闇の檻』も『八咫烏の眼』も、そうして生まれた訳だしね」

 そう。彼の著作は元々、私が彼に聞かせた話を原案に作られたものだ。かと言って、私はどうとも思わない。私は確かに「物語にすると面白い話」を知っているのかもしれないが、それを物語にする力は無いからだ。そういう意味では適材適所とも言えるのかも知れない、とさえ思っている。
 何より、滅多に外へ出ない私にとって彼が来店する時間は、数少ない「話す訓練」の時間でもある。その貴重さを理解できないほど、私は愚かではないのだ。

「で?何か無いかな?」

「そうだな…」

 私は記憶を手繰り寄せる。そして、今の状況に適合する話を引き出す。

「榊。君は京都へ行った事があるかい?」

「京都?そうだな、清水や金閣…まぁ、有名な観光名所は回ったかな」

「そうか。では『みどろがいけ』を知っているかい?」

「みどろがいけ?」

 鸚鵡返しに聞く榊に、僕は手元のメモ帳へ書いて見せてやる。

「『深』い『泥』の『池』と書いてみどろがいけ、って読むんだよ」

「ふーん。それで?」

「これは、その深泥池で起こった話なんだ…」
15/04/20 00:38更新 / 鉄扇寺風伯
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まろやか投稿小説 Ver1.50