やまのはな 日本語だけ  

更新:2006年7月9日 10:00  このページの最後へ 2013年11月16日一部改変

     

神戸物語

はじめに

胸の奥にしまい込み
  二度と出すまいと誓った
  

  Nに住んで三十年が過ぎ一区切り
  胸のつかえを取り除くために
  熱き思いを
  消えてしまわないために
  ここに記そう


 第一章 (都合で第一章のみ)

羽ばたく青春時代、20代前半



歌作り

 いくつか、歌を作ったが、神戸物語とわかるものはない。
 SとNだけであり、空白の数年間。
 この隙間を埋めるべく、この夏(平成10年)、
 聞き取り開始。母の激動の人生。
 いままで誰にも決して語ろうとしなかった胸の奥。

何故にあなたは神戸に行くの

 昭和19年、
 新聞の広告で
 神戸市郡中で郵便局の見習いを募集しているのを見て応募。
 50名中19位で、合格。
 早速神戸に行く。
 小学校しか出ていない自分がよく通ったものだ。
 必死に勉強した。
 女学校を出た人に負けられない、との気持ちがあった。
 女学校には行きたかったが、経済的理由が許すはずもない。
 ずば抜けて優秀だった。
 今から考えると、誇りに思って良い。
 勤労動員で神戸に行ったのではないと自分に言い聞かせた。

戦争

 見習いの学校に入った。
 郵便関係の勉強を無料でさせてくれた。
 その代わり、御礼奉公のようなもので、
 神戸市郡中郵便局の助手をすることが半ば義務づけされていた。
 しばらく郵便局で働いていたが、折りもおり。
 B29の空襲で焼けてしまって、
 郵便局があった辺りに行ってみても
 みんな焼けてなんにもなかった。
 することもないのでSに帰る。
 USの実家で家事手伝い(農業)をしていた。

出合い

 終戦後しばらくして、昭和23年頃か、
 郵便局の再建の話があり、
 もう一度戻って手伝ってくれないか、
 との連絡が入る。
 直ちに神戸に戻る。
 なぜすぐに神戸に行ったのだろうか。
 山里ではなんにもならないと感じていた娘時代。
 そこに、同僚として働いていたのがYさん。
 同じく郵便関係の仕事をしていた。
 4歳年上だった。
 自然な恋愛関係が生まれた。
 毎日が青春時代そのもの。
 青い山脈。
 仕事は生き生きと進む。
 しばらくつき合って、結婚した。
 3年あまりの
 悪夢のような生活が始まるとは
 その時知る由もなかった。

礼儀作法

 Y家は礼儀作法の正しい、
 お客さんのよく来る社交的なお家柄。
 大正末期に生まれ、
 昭和初期を山の中で育った自分は
 田舎娘そのもの。
 朝起きれば、
 それこそ山に芝刈りに、川へ洗濯に。
 朝から晩まで農作業だけ。
 礼儀作法なんて一度も教えてもらわなかった。
 おそらく親も知らなかったし、
 それでも村では何ひとつ不自由しなかった。
 煩わしい付き合いなんかなかった。
 箸の上げ下げ、襖の開け閉め。
 やってないことはできるはずがない。



 姑は、和裁の先生。
 弟子を20人以上抱える忙しいキャリアウーマン。
 天候を見て、
 寒そうなら、浴衣の裏地を縫いつけ、
 暖かい日なら、裏地をはずす。
 そうして夕方には自分の夫に間に合わせている。
 私は、3日掛けても1枚できない。
 まどろっこしいと思っていたはず。
 弟子にはもっと良い娘さんがいっぱいいるのに。
 何で、こんな田舎娘に息子を。
 あなたのような世間知らずを
 Y家の籍に入れることはできません。
 Y家が汚れてしまいます。



 やがて、娘が誕生。
 礼儀作法を全く知らない嫁に、
 大切な孫の世話をさせるのは
 耐えられません。私が見ます。
 お乳をあげるとき以外は、
 姑がその赤ん坊を
 母の手から取り上げて別室に連れていく。
 実の母になつくと、
 機嫌が悪くなり、無理矢理引き離す。
 鬼に思えた姑の姿。

散歩と食事

 嫁さんには、
 赤ちゃんに母乳をあげてもらいますので、
 家族の中で
 一番にご飯を食べてもらってますのよ。
 近所の人との姑の会話。
 確かに一番に食べていた。ただ、・・・
 炊きたてのべちゃべちゃしたごはん。
 おかずもほとんどない。
 夫婦そろってではなく、たった一人、台所の片隅で。
 夫は自分の母や他の家族と一緒に食べていた。
 毎日三度三度の寂しい食事が済んで
 しばらくすると、
 犬の散歩に2時間ぐらい行って来て下さいな。
 姑の言葉が背中から刺さってくる。
 毎日、言われたとおり2時間ぐらい散歩をしてくる。

狼狽、無言

 ある日、急ににわか雨が降り始め、
 1時間ぐらいで戻ったことがある。
 すると、
 自分の顔を見た途端、
 家族みんなが慌てて水屋に物を隠す気配がする。
 後でこっそりのぞいてみると、
 刺身の皿。
 他に自分には一切食べさせてもらえない
 おいしいおかずが並んでいた。
 自分がいない間に、
 夫を含む他の家族は
 楽しい豊かな食事をしていた。
 なぜ、自分は一緒に食べさせてもらえない。
 夫は何も言わない。
 自分の母親にはなんにも、
 本当に何も言えない人だった。
 何も言わないだけだった。
 自分の妻にも何も言わない。

衣装

 近所で、
 どこそこの子供が
 新しい何々ブランドの服を着ていた、
 と言う話が伝わると、姑は耐えられない。
 旧家の誉れ高いプライドを持った姑は、
 その日のうちに同じ物を買ってくる。
 幼い孫娘に着させる。
 その母には一言の相談もなしに。
 関係なく。
 着たきり娘にはわからない。

別離

 あなたのように
 世間知らずの人には、
 うちの子と孫は任せられません。
 泣きじゃくる三歳の娘を
 その母の手から無理矢理奪い取る。
 田舎にお帰りなさいな。
 夫は何一つ言わず、
 そのまま離婚となる。
 本人同士は全く問題ない。
 姑の影響大。
 夫は何も言わない。
 なんのために神戸に来たのか。
 神戸では、
 やさしい言葉ひとつもなかった。

 針の筵からの解放。



 自分の無念さを
 娘には繰り返させないため、
 Cには芦屋の知人の所に
 家事手伝いをさせたかったが、
 夫の反対で、できんかった。
 なにされるかわからん。
 しっかりした家だったので、
 是非やりたかったのだが。
 自分は何も知らないので教えてやれない。
 よそで苦労しても教えてくれるだろうに。
 身に付くのに。今でも残念。

後入りさん

 私の後で結婚した人は
 しっかりした人らしい。
 娘を自分の実の娘のように育ててくれた。
 高校の時に
 何かの用事で戸籍謄本が必要とのことで、
 本当のこと、実の母はEにいること、
 自分は育ての母であること、を話したらしいが、
 生みの親より育ての親。
 娘はびっくりしたが動揺しなかったらしい。

住所

 今でもどこに住んどるか知っとる。
 会いに行こうと思ったことは何度もある。
 でも会えない。迷惑をかけたらいかんのだ。
 Aに引っ越そうかとの話が昭和40年代にあった。
 立ち消えになった。前にも書いたが、下の二人が反対したのだ。
 結果、夫婦の危機を避けられたのだろうか。
 なぜ、四十年もの間
 こっそり連絡を取りあったのだろうか。
 未練、見れん、みれん。

成人式

見知らぬ娘さんが、
和服を着て
おしとやかに写っている。
その人は、会ったことのない、
異父姉妹。
後入りさんとのあいだに弟がいる。
今は、良い人と結婚してN辺りに住んでいる。
血が薄いのか、子供に恵まれていないそうだ。
たった一枚の写真を
20数年もの間大切に持っていた。
名前も生年月日も聞かなかった。
誕生日を心の中だけで、
たった一人、
家族にも言わずにお祝いしていたのだろうか。

平穏

 神戸の3年に比べれば
 この40年は貧しかったが平穏そのもの。

 ただ、目頭が熱くなるばかり。
   

平成の歌作り

   いくつか、歌を作ったが、神戸物語とわかるものはない。

   何十年もの間
   歌が唯一の慰め
   その歌も今は一切作っていない
   思い浮かばない
   言葉が続かない


後書きにかえて

      つい先日(平成18年7月1日)、
     久し振りに会った母との
     明瞭でない
     短い会話を交わすうち、
     8年前に聞き取ったこの物語を思い出した。
     本人の承諾は得られていない。
     名前と地名を伏せることとした。
     
第二章はとてもできない。
     今、1時間もあれば
     神戸に行けるところに住む
     母の胸の内はいかばかりか
  

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