B芦屋神社(猿丸大夫の墓、古墳[水神社])
芦屋川上流付近(東芦屋町)

開森橋から芦屋神社への経路
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開森橋から芦屋神社に行く道を見る

[ポイントA] 歩道と車道の分岐点

 6叉路を持つ開森橋東詰交差点から東方向への道を進む。
 東北の角に「芦屋神社参道」の木製標識が立っているからすぐ判る。
この道を真っ直ぐ進むと、左に車道、真っ直ぐは急勾配となる坂道の四つ角に来る(ポイントA)。 車道を進んでも良いが、人は近道である前面の坂道を上る。 やがて住宅に突き当たるので、ここを左折れする。ここで芦屋市内の景色を眺めながら小休止するのも良い(ポイントB)。 ここから緩やかに曲がりくねった坂道を上がって行くと、やがて左前
方に鳥居が見える(ポイントC、D)。 これが「芦屋神社」だ。

[ポイントB] 住宅に突き当たる坂道

[ポイントC] 芦屋神社道の標識が見える角

[ポイントD] 芦屋神社の鳥居が初めて見える道

 祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)*1で、天照大神を始め16柱を合祀し、 摂社として出雲神社(大國主命、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、 竃神(かまどがみ)、菅原道眞、火産靈神(かぐつちのかみ)、 少名毘古那神(すくなひこなのかみ))稲荷神社(倉稻魂神(うがのみたまのかみ)) 猿丸神社(猿丸太夫)が祀られている。
 天穂日命の子孫がこの辺りの村々に住んでいてそれぞれが天穂日命を祀っていたが、 明治二十一、二十二年頃に、それらを集めて村々の総鎮守社として「芦屋天神社」を設立した。 天神さんとして親しまれる菅原道真は、言い伝えによると天穂日命の遠い子孫にあたるといわれていることに加えて、 当時流行した天神信仰によるものであろう。

芦屋神社前景

芦屋神社(天神山)Ashiya shrine
祭神は、天穂日命(アメノホヒノミコト)。もと芦屋天神社と称していたが、 昭和21年に芦屋神社と改称。
毎年4月第1日曜日には花祭りが、10月16日には秋祭りが行われる。境内西側には古墳時代(7世紀)後期の横穴式石室が残されており、 社殿の裏庭には立派な宝塔や猿丸安時の奉献梅樹の歌碑などがある。また、境内には珍木おがたまの木等多くの樹木があり、 実に素晴らしい景観をかなで四季を通じ訪れる人も多い。かっては、境内には、市花「コバノミツバツツジ」が多くあり、 大きなものは3m、樹齢200〜300年を超えた樹木が今も植わっています。
社殿及び諸建物は昭和5年に新改築されたが、平成7年の阪神・淡路大震災で大被害を被り、現在の社務所は、平成14年12月に落成竣工した。
鳥居右横にある「芦屋神社」の説明板
 拝殿の左に、格子戸が閉まっていて中に入れないが、平安時代の歌人「猿丸大夫」の墓といわれる宝塔が建っているが、 南北朝時代の製作であるから、猿丸大夫とは時代が合わない。また、幕末に奥池の開鑿に貢献した「猿丸安時」の歌碑もある。
 境内左ある「みこし庫」の裏手に、七世紀後半に作られたとされる横穴式石室円墳が残っていて、中に「水神社」が祀られている。 古墳は、芦屋市で現存する古墳の中で、最も保存状態が良い。 水神社は芦屋川上流にある「フカ切り伝説*2」が残る弁天岩に祀られていたものをここに移した。
 鳥居をくぐる迄の右手に、宮司が“生活に孝献した印章に報い、認識を深める”ことを目的として昭和五十年に建てた「印章塚」がある。

芦屋神社の概略俯瞰図 (あしやこども風土記 「歴史さんぽ」 芦屋史文化振興財団より)

 昔の村がいかに神社を中心に団結していたかを知るものとして、芦屋二ケ村の農民逃散事件がある。 これは、「四百年ほど前、織田信長が天下統一を目指して活躍していた頃、山の所有をめぐって芦屋庄二ケ村と西宮・神戸東部の十五ケ村の間に争いが起こり、 芦屋二ケ村の農民がすべて抗議の意味で村から逃散したが、当時近畿一円を支配していた三好長慶の裁許*3により 数年後に帰村するという事件があった。 その後も争いは二百年間にわたって続いたが、寛延二年(1749)に幕府の判決で芦屋の勝訴となり、村民は判決文を芦屋神社に奉納した」というものである。
 参考として、このサイトで「三好長慶の裁許状」を記載しておく。
*1 天穂日命(あめのほひのみこと)
天穂日命は、天照大神の第二皇子で、 古事記や日本書紀によれば、天照大神は出雲国を治めるために天穂日命を遣わした。 出雲国を統治していた大国主命は国を渡す代わりに、神社を建てて祭神として祀って欲しいと申し出た。 そこで、天穂日命は大国主命のために宮殿を建てて自らそこの神主になったという。
*2 フカ切り伝説
 昔、村々の間で争いが絶えなかったほど芦屋川の水は必要なにものであった。 特に干ばつに苦しむと、芦屋川の上流にある弁天岩の水神さんに雨乞いをしたが、それでも効き目のない時は、打出沖でフカを捕り、 弁天岩の近くのあるフカ切り岩で料理し、水神さんにお供えした。フカの血を嫌う水神さんが洗い落とすために雨を降らすのだという。 現在、水神さんは芦屋神社に移され、「水神社」として古墳の中に祀られている。
 “天保五年(1834)八月に、日照りのすえ、このフカ切りを行った、と芦屋に残る記録は教えてくれる。  (芦屋の生活文化史 芦屋市教育委員会より)”とあるので、実際に行われたことがあったらしい。
*3 三好長慶の芦屋山争い裁許
 芦屋の歴史を探索する[その1] 「親王寺」の項で、”親王寺の寺名を当初、宗満寺と言っていたが、 天文二十四年(1555)の芦屋荘住民の逃散があり、 逃げた地で浄土宗に帰依した人達が5年後の永禄三年(1560)に戻ってきた時に宗満寺の跡地に寺を建てて親王寺と改名した” と述べた。 住民が戻って来ることが出来たのは、三好長慶による山争いの裁許があったからである。以下にその経緯を記す。
芦屋の歴史と文化財 芦屋市立美術博物館発行 平成3年3月22発行より
 天文二十四年(1555)、芦屋荘(芦屋村・打出村)の農民たちが、 西宮と本庄(今の東灘区青木、深江辺り)に持山(もちやま)を横取りされたと、三好長慶に訴え出ました。 当時、長慶はほぼ五畿内を制圧して強大な権力を持っていました。芦屋荘はあまり豊かな村とはいえず、 山の柴草を取る権利は生活に直接かかわる重要なもので、庄民たちはことごとく村から逃げ去り(逃散)、抗議の意志を表しました。 5年後の永禄三年(1560)に、三好長慶の裁許によって山の権利が戻り、庄民たちはようやく帰村しました。のちの江戸時代になっても、 たびたび山争いがおこりますが、寛延二年(1749)に長きにわたる山争いに一応の決着がつき、芦屋荘の勝訴となりました。

三好長慶山論裁許状(永禄三年[1560])〔吉田雅一氏寄託文書〕

上記裁許状を今の字体にした

猿丸大夫の墓
 格子戸が閉じられているので、中に入ることが出来ないが、拝殿の左隣りに「猿丸大夫」の墓といわれる宝塔がある。 宝塔は南北朝時代(1336〜1391)の製作だから、平安時代の歌人「猿丸大夫」と時代が合わない。 しかし、芦屋神社が昔から「猿宮(さるみや)」と呼ばれ、 現代も猿丸家によって「猿丸大夫」を祭祀している。
 阪急電車「芦屋川駅」の東側沿線に「猿丸家墓所」がある。
伝 猿丸大夫の墓

 江戸時代の地誌に、当地の旧跡として猿丸大夫墓と記されているが、 芦屋と大夫の関係についは明らかでない。
鎌倉時代後期(13世紀)の宝塔。
総高 159.5CM 種別 建造物
材質 花崗岩 指定 平成3年3月
芦屋市教育委員会
「猿丸大夫の墓」の説明板

猿丸大夫の宝塔

古墳(水神社)
 境内の西、「みこし庫」の背後に、芦屋では最も保存状態が良いとされる横穴式石室円墳がある。古墳時代後期、 七世紀の頃のものといわれている。墳丘の南側が削られてる以外、ほぼ完全な形で残っている。
 昭和の初め頃までは、神社の周辺、特に裏山に多数の横穴式古墳跡があったらしいが、住宅開発で消滅した。
 古墳の石室入り口に、芦屋川の上流にある弁天岩に祀られていた水神社が移されている。 水神社は“フカ切り伝説(前記*2参照)”が残る由緒ある神社であったが、 明治政府の神社統合政策で芦屋神社に合祀された。

水神社前景(奥の古墳石室入り口に祠がある)

古墳の入り口(移設された水神社の祠が祀られている)

日本語版
English version
制作 : Sep 1, 2008