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平清盛たちが愛した「兵庫津」の道を訪ねる

「兵庫津の道」の概要

兵庫港の歴史-「兵庫津」と呼ばれたのは室町から江戸時代まで」-

 

 神戸港は、現在、日本を代表する港の一つであるが、幕末の鎖国政策が解けた開港以前は、兵庫港がその地位にあった。
 古代には、これらの港の前身として、「務古(むこ)の水門(みなと)*1、 「敏馬(みぬめ)の浦」*2と呼ばれ、朝鮮半島の港と交流をしていたことで知られる。 神宮皇后にまつわる伝説も残っている。
 奈良時代の高僧、行基(668-749年)は、摂津と播磨の両国のなかで海上交通の良港としていわゆる摂播五泊*3 と呼ぶ五つの港を定め、港を整備したと言われている。
 平安時代には「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれて、平清盛が防波堤の役目を果たす 「経ケ島(きょうがしま)」 の築造を行うなど、中国大陸との貿易の拠点となった。
 室町から江戸時代末期、すなわち(慶応3年(1868)に「兵庫港」*4と名前を代えるまでは「兵庫の津」と呼ばれ、 江戸時代の鎖国政策のもとで国内交通の要衝として発展し、山陽道もこの地に迂回して通っていた。翌、慶応4年(明治元年)には、「兵庫港」に県庁 *5がおかれ、初代内閣総理大臣にもなった伊藤博文が初代知事に任命されている。
 しかし、幕末の開国時に「兵庫港」の隣の「神戸港」が外国船の停泊地に指定され、且つ明治25年(1892)に勅命によって「神戸港」 *6となってからは、市の中心が隣の中央区に移ったために、そこに出来た「神戸港」港の機能にその地位を譲り、「兵庫港」は現在、 青果物や造船所などの原材料の集積地としての役割を担っている。
 従って、こうした長い歴史を持つ「兵庫港」の周辺は、米軍の空襲や阪神淡路大震災で多くの史跡が消失破壊されたが、神功皇后の伝説や、 平清盛による「経ヶ島」の築造、源平合戦や、楠正成と足利尊氏軍による湊川の戦の足跡が多数残っている。江戸時代になると、 朝鮮通信使やオランダ商館長の江戸参府時の寄港地にもなり、大阪の外港として大阪~瀬戸内海~日本海沿岸を結ぶルートの要衝になる。 更に司馬遼太郎氏の小説「菜の花の沖」に取り上げられたように、江戸時代中期に兵庫津に本店を置いて活躍した大回船問屋「高田屋嘉兵衛 (たかたやかへえ)や 、江戸三百年間の兵庫の豪商「北風家(きたかぜけ)」たちが兵庫津の隆盛に貢献したことは 計りしれないものがあった。

*1:「務古の水門」の場所は、「日本書紀」や「万葉集」によれば、難波の海から見て、 向こうにある地域を指して呼んだと言われ、その場所は武庫川河口に近い西宮市津門町付近から生田川河口付近までと 考えられている 。
    住吉の 榎奈津(えなつ)に立ちて 見渡せば 六児(むこ)の泊 ゆ出づる船人
                     -高市黒人(たけちのくろひと)-(万葉集 巻3 283
)

*2:「敏馬の浦」の場所は、「日本書紀」に続いて、神戸のみなとについての記述が見られるのは、 「万葉集」においてである。 この時代には、神戸の港を「敏馬(みぬめ)の浦」と呼んでいた。「万葉集」では「敏馬の浦」についての歌が数首ある。 その代表作をあげてみると、
    玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野鳥が崎に 舟近づきぬ
                     -柿本人麻呂-(万葉集 巻3 250)
    まそ鏡 見宿女(みぬめ)の浦は 百船の 過ぎて行くべき 浜ならなくに
                     -田邊福麻呂-(万葉集 巻6 1066)

*3:東から、河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(からさき)(的形)、 室津の五泊を言う

*4:湊川を境に、西を「兵庫港」、東を「神戸港」とした

*5:現在は中央区にある

*6:慶応3年(1868年)12月7日、兵庫港が外国に対して門戸が開かれたが、 当初、幕府が諸外国との間に調印した「修好通商条約」で決められた開港地は兵庫津が対象であった。 市街地に近い和田岬から妙法寺川尻に至る臨海部を外国人居留地とし、 沖合いに防波堤を築いて内側を開港場とする計画だった。 しかし、四ヶ国連合艦隊が兵庫に来た際に付近の海域を測量した結果、 英国公使パークスは兵庫港より神戸の入り江の方が港に適していると判断し、 その後方の土地が居留地に選定された。 居留地に選定された鯉川から生田川の間の土地は兵庫でなく神戸村に属していた。 当時、 外国人は神戸も兵庫の一部と思っていたのか、 或いは幕府がそのように説明していたのではないかと考えられている。 開港後も公文書には「兵庫居留地」と記されている。(この項目は、国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所のホームページより)

「兵庫津の道」名付けの由来

     

 神戸市兵庫区役所によれば、兵庫区内には108の歴史的遺産があると云う。従来より北部・南部には散策ルートがあったが、 南部にある史跡を各散策者が銘々好きなようなコースを作って散策する史跡のネットワークを、市民からの公募により平成12年(2000年)に「兵庫津の道」 と名付けられた。
 参考までに、(一財)神戸観光局発行の「兵庫津の道」のガイドマップを載せておく。

 

(参考)「兵庫区歴史花回道」について

 平成16年(1994年)に、「兵庫津の道」などの既存の散策ルートと他のルートを結ぶ新規ルートを提案することにより、 兵庫区内全域を回遊できるようなネットワーク作りの構想が提案されて、兵庫区民まちづくり会議を中心に検討を重ねたうえに、歴史的観点からは、学識経験者、 歴史研究家、神社、寺院の代表からなる「兵庫区民歴史花回道構想懇話会」を設置し、これらの意見を参考にして「兵庫区歴史花回道」が設定された。