2025年


ーーー4/1−−−  K2西壁の悲劇


 
「K2西壁ふたりの軌跡」なる番組を観た。K2とは、カラコルム山脈にある山の名前で、標高8611メートル、世界第二の高峰である。ふたりとは、平出和也氏と中島健郎氏。世界トップレベルの登山家で、コンビで幾多の困難な登山を成し遂げ、世界の登山界で権威のあるピオレドール賞を3回受賞している。

 その二人が、昨年7月にK2の西壁に挑み、遭難死を遂げた。K2は極めて困難かつ危険な山として知られ、その未踏ルートを登っている最中の事故だった。二人は登攀中に氷とともに1000メートル以上滑落したが、現場は危険のため接近できず、遺体の回収の見込みは無いと言う。

 番組は、二人がK2に入って偵察登山を行ない、最後に本番の登りに向かうところまでを映像でとらえていた。偵察の登山の際に、お互いが撮影した登攀の映像を見ると、このミッションの難しさ、危険さが激しく伝わってきた。その一方で、登山の合間に、ベースキャンプでくつろぐ姿なども映し出された。

 お二人は、結婚していて、それぞれお子さんもいる。独身で、血の気の多い若者ならいざ知らず、30台後半から40台にかけての所帯持ちの男たちである。いかに輝かしい過去の実績があろうとも、死と隣り合わせの行為に身を投じるには、少なからず葛藤があっただろう。番組はその点にも迫っていた。

 私は学生時代に山岳部に所属し、剣岳や穂高岳、谷川岳などの岩壁登攀を行なった経験がある。覆いかぶさるような巨大な岩壁に立ち向かう時、昂揚する挑戦心、奮い立つような征服欲とは裏腹に、激しい不安や怖れを感じたものだった。岩壁を登っている最中に、誤って滑落、転落をしたら、ザイルで結んで安全を計っているとはいえ、場合によっては死亡事に故る至る恐れがある。その恐怖が先に立って、指先や足が震える事もあった。

 そんな私の経験とは比べものにならないスケールの登山が、彼らのK2であった。死の予感が常に付きまとっていることが感じられた。「生きて帰りたい」という発言も録音されていた。また、家に残してきた家族に思いを寄せ、涙ぐむシーンもあった。それは、過去に目にした彼らの活躍ぶり、困難な事態にも明るく元気に立ち向かう姿からは、ちょっと想像できない、意外な様子であった。このミッションが、いかに過酷で、彼らをしても心の動揺を隠せなかった事が伺えた。

 死への恐怖、家族を残して逝ってしまうことの無念と後悔、そのような予感に苛まれながらも、自分たちが追い求めてきた登山行為の頂点、だれもなしえなかったなかった極限を究めたい、と言う思いが強くあったに違いない。その強い意思で、逃げ出したいような気持を打ち負かし、ねじ伏せたのではなかったか。

 そんなに厳しい葛藤を抱えてまで、登山というものを行なわなければならないのか?。低レベルとはいえ、少々の経験がある私でも、そう思ってしまう。しかし彼らは、プロの登山家であった。自分たちの気持ちとは別の所で、多くの人たちの支援や期待がある。それに応えなければならない責任感と職業意識は、戻ることができない最後の一線だったのかも知れない。

 高みを目指す者には、凡人には想像も出来ない苦しみ、悩み、葛藤があり、それ故に寂しさと孤独を負う。番組を観終わったとき、しばし名状し難い悲しみと、複雑な波立ちを心に覚えた。




ーーー4/8ーーー  今シーズンの象嵌物語


 昨年11月、北アルプスの某山小屋から、2025年シーズンに向けて「象嵌物語」の注文を340ヶ頂いた。「象嵌物語」とは、象嵌加工を施したアクセサリー・プレートの名称だが、この山小屋には固有のデザインを施したオリジナル商品として納入している。山小屋の売店で販売をしており、なかなか売れ行きが良い。3年前から売り始めて以来、毎年300ヶ以上出ている。

 例年4月下旬の山小屋オープン直前に、まとまった数量を納入する事にしてきた。寒さに閉ざされる冬場は、屋内の製作に集中できるので、その間に一気に作ってしまおうという事である。しかし、一つずつ細かい手作業で作るので、日数をかけても作れる数量は限られている。昨シーズンは、400ヶを越える注文を頂いたが、4月に納めることができたのはその半数であった。残りはシーズン中に追加で納めたが、最終的には未納が出てしまった。そのため今回は、売れ筋に的を絞って、実現できそうな注文数に設定したそうである。

 それでも、340ヶはたいへんな数である。それを、4月の上旬までに全て作り終えた。これだけの数を冬場に製作したのは初めての事であり、私にとって快挙だった。何が原因でそうなったかと言えば、まず作業時間を多く取れたこと。昨年8月に骨折をし、マツタケ山の活動や、リンゴ農園のバイトが出来なくなった。そのため、作業に当てる日数が多くなったのである。ところで、骨折をしたのは、くだんの山小屋へ納品と打ち合わせのために登った帰路、下山中の事故だった。何か不思議な関係があったのだろうか。

 二つ目は、体の調子が良かった事。このビジネスを始めて1、2年は、何日も続けて作業をすると、疲れが背中に溜まって、ひどい状態になった。背中の筋が痛くなって、作業に支障をきたしたのである。そんな事態になると、ペースはぐっと落ちる。その痛みが今回は発症しないで済んだ。いろいろ対策を施した事が功を奏したのだと思うが、これは本当に有り難かった。

 三つ目は、作業に使う眼鏡を新しくした事。比較できるデータは無いが、おそらく目の疲れが減り、長時間の作業が出来るようになったと思う。また、見え方が良くなったために、加工中のプレッシャーやイライラが軽減し、心理的なダメージが少なくなった。そのため、長時間の作業に耐えられるようになった事も考えられる。

 ともかく、「分割納入でも良いですよ」と言われていたのを、一回で納入出来たのだから、こんなに嬉しい事は無い。後は、これらが全て売れて、シーズン中に追加注文でも入れば、最高である。

 昨年11月、取り掛かった時点では、気が遠くなるような長い道のりに感じて、気が滅入ったものだった。しかし、終わってみればあっけない。まるで長い日数をかけて登る登山のようである。麓を出発する時は、先の行程の長さに、絶望的な気持ちになる。そして歩き始めれば、背負う荷の重さに、押しつぶされそうになる。何でこんなに辛い事をやっているのかと、自分ながら嫌になる。しかし、ゆっくりでも歩き続ければ、次第に高みに達し、最後に頂上に立つ。終わってみればあっけないのである。そして、こんなに苦労をして、嫌になるような思いをしても、また機会があれば、取り組むことになるだろう。それも、登山と同じ。

 ところで、「象嵌物語」に関しては、過去に2回このコーナーで取り上げた。興味がある方は、2022年10月25日の「象嵌物語の日々」と、2023年12月12日の「象嵌物語のヒストリー」をご覧頂きたい。




ーーー4/15−−−  手作りのボール  


 仕事をしながらラジオを聴いていたら、中高生向けの人生相談のような番組がかかった。その中で、こんな話があった。中学生の女の子が、ある男の子が気になりだし、その子に何かプレゼントをして、お友達になるきっかけを作ろうと思った。男の子はテニス部に所属し、練習に打ち込んでいる。女の子は、自分で布を縫ってテニスボールを作ってプレゼントすることを考え付いた。手作りのボールが出来上がり、チャンスを見付けて男の子に渡した。すると相手は「いらない」と言って突き返した。それで淡い恋は消滅した。「何がいけなかったんでしょうか?」という女の子の問いに、相談員が何と答えたかは覚えていない。ただ、たまたま私のそばに居合わせた人が、「この女はバカじゃないか」とせせら笑ったのを聞いて、ちょっと悲しくなった。私は、「発想が可愛らしくて、ステキな娘だな」と感じたからである。

 私が小学生の頃、一家は東京都中野区に住んでいた。父親が勤めていた会社の社宅である。庭が結構広かったので、近所の子供たちが集まって遊んだものだった。野球もよくやった。バットは木の棒、ボールは手作りの玉だった。それほど貧しい家庭ではなかったと思うが、バットやボールを購入すると言う考えは全く無く、とりあえず手近な物で代用するのが当たり前だった。そういう時代だったのである。

 ボールの作り方は、いろいろ試した挙句、母の使用済みのストッキングを使う方法に落ち着いた。芯となる物は、ボロ布を丸めて紐で縛った塊。それをストッキングの爪先に入れ、ギューッと絞ってストッキングを結ぶ。次に裏返してまた結ぶ。その作業を繰り返す。結び目が重なると不恰好になるので、ずらして結んで位置を調整する。ストッキングに張力を与えれば、繰り返すことでかなり固い球になる。紐を巻いただけの玉だと、使っているうちにほどけてグズグズになったりするが、ストッキングの層で覆えば、形が崩れることも無い。そのようにして作ったボールは、けっこうしっかりしていて、そこそこ弾力もあり、バットで打った感触も良かった。そのボールが気に入って、繰り返し何個も作って使った。

 冒頭の中学生の女の子が作ったのは、実際にラケットで打つためのボールだっただろうか? 手作りのボールでも、一人でサービスの練習をするくらいなら使えるだろう。自宅の庭など、狭い場所で練習するなら、弾みが鈍い玉の方がむしろ具合が良い。そういう実用的なボールではなく、可愛いぬいぐるみの、マスコット的なアイテムだったかも知れない。それでも、物を自分で作ってプレゼントするという発想は、私にしてみれば好感が持てる。むしろ高価な品物を買って渡すよりも、気持ちが通じるようにも思う。

 もちろん、相手が気に入ってくれなければ、どうしようも無い。残念ながら、彼女の場合はそういう結果だった。しかしね、お嬢さん、そういうことで相手を知ることもできるのですよ。




ーーー4/22−−−  金属プレート入り


 
昨年夏の骨折から、8ヶ月が経った。もう日常生活にはほとんど支障が無いレベルに回復した。骨折した事が頭から消えてしまっていることに気が付き、はっとするくらいである。もっとも、右足と比べて見れば、左足のくるぶしの辺りはまだ緩やかな膨らみで腫れが残っているが。

 骨折した部分には、手術で金属プレートを当ててある。何本かのネジで固定してあり、X線写真で見せられた時は、ギョッとするような印象だった。手術をすることが決まったとき、担当の医師に、プレートは最終的には取り外すのですかと訊ねたら、「年齢的に、外す必要は無いかも知れません」と、予想外の答えが返ってきた。

 高齢者は、骨が成長する事が無いので、プレートを付けたままでも問題無いというような説明だったと記憶している。老い先短いのだから取り外す必要も無いとのニュアンスも伺えたが、それは私のひがみだったか。後で調べたら、プレートを外す手術は、取り付ける手術より大変だということが分かった。プレートが骨に癒着して、剥すのに苦労する事もあるらしい。そんなに大変な手術を、年寄りがやる必要も無いというのは、理解できる。お金もかかる事だし。

 金属プレートを装着していることを人に話すと、たまに「飛行機に乗る時は困るでしょう?」などと言われることがある。搭乗前の検査で、金属探知機に引っ掛かるのではないかという心配である。当人が気にしていない事に、他人は気付くものである。ネットで調べてみたら、航空会社が発信している情報があり、それによると、検査の時に口頭でそのように申し出れば、適正に対処するから大丈夫とあった。医師の診断書などを準備する必要は無いと。

 このプレートは、この先あまり長くも無い私の人生で、ずうっと体の一部として存在し続けるのであろう。お骨になった時に出て来たプレートを、記念に取っておいてくれと言ったら、カミさんは「いやだわそんなの」と顔をしかめた。そういう事に詳しい人の話では、お骨に混じって出て来た金属を、引き取ることを希望する遺族は少なく、火葬場に処分を頼むことがほとんどだそうである。

 ところで、体の中に金属プレートが入っていることを、日々の生活を行う上で一つの戒めとして意識することは、悪くないと思う。もう歳なんだから、無理をしてはいけないという自覚である。そして、「私は金属プレート入りですから」というネタも使えそうだ。何かきつい作業を頼まれそうになったら、そう言って逃げるのも、良いかも。

 なんだか暗い感じの話になって来たが、最後にちょっとお笑いを。

 骨折後3ヶ月ほど経って、自転車の3本ローラートレーニングを再開した。いちおう今まで通り出来たのは良かったが、どうもバランス感覚が悪い。ちょっと油断すると、脱輪しそうになる。それをカミさんに話したら、「左足に金属が入っているから、重さのバランスが悪いんじゃないの?」と言った。タイヤのバランスウエイトじゃあるまいし、そんなことあるか?(笑)。




ーーー4/29−−−  小学校の紙芝居 


 私が子供の頃通ったのは、東京都中野区立塔ノ山小学校だった。その当時、我が家は中野区上ノ原の社宅に住んでいたのである。その小学校の思い出はいろいろあり、その先の中学校、高校、大学と比べると、総じて一番楽しかったのは小学校だったようにも思う。

 思い出の一つは、授業中に担任の先生が、紙芝居をやってくれた事。国語や算数の時間なのに、授業に全く関係の無い紙芝居を、先生の気まぐれでやるのである。月に1、2回はそういう事があった。校内には掛図室と呼ばれる学習資料や道具を保管する部屋があり、そこに紙芝居も揃っていた。品数が多く、いつも新鮮で飽きなかったと記憶している。

 突然先生が「紙芝居をやる」と言うと、生徒たちはまるで狂喜乱舞だった。先生が道具を取りに行っている間、教室の中は期待に胸膨らませた生徒たちの、興奮のるつぼと化した。その先生は、私が4年生から6年生までの担任だった。学年の初めにクラス替えがあったが、たまたま同じ先生に当ったのである。従って、先生が紙芝居をサービスしてくれた始まりは、4年生の時だったと思う。現代の小学4年生は、紙芝居などで喜ばないかも知れないが、ゲームなど無かった時代の素朴な子供たちは、身を乗り出して見入ったものだった。

 先生が、どのような判断基準で、学科の授業を紙芝居に切り替えたのかは、不明である。ただ言えることは、先生が好き勝手な事をやることが許された時代だったのだと思う。生徒の人気を得るための行為だったとは思わない。若くてやる気に満ちた男の先生だった。紙芝居を通じて、生徒との間に、学科では得られないコミュニケーションを図ることが目的だったのではないかと、今になって思う。

 紙芝居と言えば、学校のそばの氷川神社の境内に、時々紙芝居屋のおじさんが現れた。自転車の荷台に箱が乗っていて、その箱の一部を組み立てると紙芝居の舞台になった。箱の下部には引出しがあり、そこに駄菓子が入っていた。駄菓子を買えば紙芝居を見られるという決まりだったのである。しかし、買わない子がいても、おじさんは見逃してくれた。ちなみに私は親が厳しく、買い食いが禁止されていたので、後ろからこそこそと只見をしていた部類であった。駄菓子は、薄いべっこう飴のような物で、中に型で押した図形があり、上手く舐めるとその図形だけが残り、それを見せるともう一個おまけをしてくれた。私は見ていただけだったが。高い木立が並ぶ神社の参道の薄暗い静かな木陰で、紙芝居を語るおじさんの声だけが響いていた。その光景は、今でも目に浮かぶ。 

 話は戻って、先生の紙芝居。毎回大はしゃぎで楽しんだものだったが、さすがに6年生にもなると、はしゃいでる自分を、醒めた目で見る別の自分が出現するようになった。「6年生にもなって、紙芝居を喜んでいて良いものか」と。