子は木の節を見て育つ


 私は4〜5才の頃、一年間ほどを北海道で過ごしたことがある。父が炭坑会社に勤めていたため、転勤で家族一同引っ越したのである。父はその頃を思い出して「まるで城代家老のようだった」と語ることがあった。確かに、私のおぼろげな記憶の中にも、けっして贅沢ではないが、大きな一戸建ての社宅に住んでいたのを覚えている。家の前は、庭と言っても庭らしい物は何も無く、ただの空き地のようなものであったが、春になると一面にタンポポが咲いた。その家は、木造で、外壁も板貼りであった。当時の写真をアルバムの中に見つけると、その家のたたずまいには妙に郷愁をそそられる。

 北海道からまた東京へ戻り、中野の社宅に移ったが、その建物も外見からして木造であった。当時はモルタル作りの家はまだ少なかったように思う。木の板を重ねるようにして張り付けた外壁の家が多かった。敷地を囲む塀も、板張りが多かった。ブロック塀などは、まだ少なかったのである。

 家の外壁にしろ、敷地の板塀にしろ、木で出来たものには節がある。節にもいろいろなグレードが有って、大きいものも有り、小さいものも有り、またしっかりとふんばっている物も有れば、叩くとポロリと抜けてしまうものもある。通りがかりの板塀に節穴を見つけると、片目をつぶって向こう側を覗いて見るというのは、子供なら必ずやるしぐさであった。

 家の中にも、至る所に節は有った。柱にも床にも有ったが、特に記憶に残っているのは、天井板であった。まだ合板などは使われておらず、薄く作ったムク板をはめていたのである。夜になってふとんに入り、天井を見上げると、薄明かりの中に木目が浮かび上がって無気味であった。大きな節は、まるでそこから何か湧いて出て来るようであった。寝る前に天井を眺めて、そのように不安な思いをすることが、毎日の日課であった。それは、決して楽しい思い出では無いが、今となっては何か不思議で神秘的な体験だったように感じられる。

 ある材木屋さんから、「子は木の節を見て育つ」という言葉を聞いたことがある。文字通りこのフレーズだけ聞かされたので、深い意味は分からない。節を見て良く育つのか、悪い方に育つのか、あるいは節を見ないと育たないのか、そういう理屈は聞いてない。しかし、細かい注釈を省き、ズバリ核心を捉えた表現のような気がして、印象に残った。
 
 節は嫌われ者である。いや、嫌われ者であったと言うべきか。とにかく伝統的な木工の世界では、節は材木の欠点と見なされ、節を持つ材を使うことは避けられてきた。何が理由でそのように嫌われてきたのかと考えてみれば、恐らく材として使う際に物理的な制限が生じることと、見た目の問題、そして、それらの相乗効果ではないだろうか。

 桶や樽などのように、中に水を入れる容器として使うものには、節のある板は使えない。節のところで水が漏ってしまうからである。また障子の桟のように、極めて細い材を使う場合にも、節のところは避けなければならない。節を境にしてポッキリ折れてしまうからだ。木材を切ったり削ったり加工をする際にも、節は邪魔になる。節は硬いので、刃物を痛める恐れがある。また、カンナで綺麗に削るのも難しい。

 見た目にも、節というものは何か異様な感じがする。癖の固まりのような存在感である。そんな印象と、実用上の問題が相まって、節を毛嫌いする風潮が生まれたのではなかろうか。実際には、節が有っても問題ないことが多い。加工の面倒は別として、水が漏れるとか、ポッキリ折れるとかの問題は、木工全般から見ればむしろ特殊な部分である。板であろうが、角材であろうが、程度の問題はあるが、少々の節が有っても実用上の問題は無いことが多いのである。にもかかわらず、昔から節が嫌われてきたというのは、やはり複合概念としての忌避感が有ったからであろう。

 ところが、ここ10年ほどの間に、木材業者、大工、建築家、木工家などの間で、節のある材木が見直されてきている。

 節その他の欠点が無い材木は、「さしみ」などと呼ばれて高い値で扱われるのが常であった。「さしみ」だけを揃えて内装を造り上げるのが、お金持ちの家の立て方であった。家具は建築と比べれば小さい材で作ることが出来るので、節を避けて材を整えることもさほど難しくはない。そのようなことから、家具というものは、「さしみ」で作ることが、言わば当然とされてきた。このように「さしみ」信仰は脈々と続いて来たのだが、この10年ほどの間に二つの方角から攻撃を受けるようになった。

 一つは、使える材を節が有るという理由で捨てるのは勿体無いという考え方。もう一つは、節も木が持つ表情の一つとして認めようという考え方である。このどちらの考え方も、出発点は材木資源の枯渇問題にあると見て良いだろう。資源が少なくなれば、大切に使う必要が生じてくる。大切に使うためには、従来の価値観を変えてみる必要がある。マイナスをプラスに変えるような発想が無ければ、資源は守れないのである。

 木というものの、材料としての役割、意味合いも変わって来たといえる。世の中に構造材というものが、ほとんど木材しか無かった時代に於いては、木材の使い方に粋を凝らすのが人々の憧れだったのかも知れない。「さしみ」で揃えたり、「柾目」で統一したり、木材の一部の特質だけをピックアップしたような使い方をすることが、オシャレであり贅沢であるとされたのもうなずける。しかし、現代のように様々な工業材料が身の回りに溢れ、ほとんど無限とも言うべき自由さを持って素材を扱える時代になると、様相は変わってくる。人が木に求めるのは、それを思い通りにいじくり回して表現の材料にすることではなく、木そのものが持っている魅力を感じることに移ってきた。そうなると、節はもはや嫌われ者ではなく、木の魅力の一部として、重要な役割を演ずることになってきたのである。

 手作り木工家具の世界でも、例えばテーブルの甲板に、節の有る板をドーンと使う。製作者としては、従来の価値観から抜けきれないところがあって、内心びくびくしている。ところがお客の反応は、「この節がいいんだ」とか「自然の雰囲気でステキ」とか「世の中に一つだけという感じがする」などと大変評判が良い。世の中は、変わって来たのである。

 それにしても、「子は木の節を見て育つ」という言葉。何時の時代から言われている言葉か分からないが、妙に説得力があり、考えさせるものがある。
 

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