材料で勝負の木工 

 美しい杢が出ていて、それに特別の価値があるものを「銘木」と言う。銘木という語を広義にとらえれば、杢の美しさだけが条件ではないが、杢が美しいものを銘木と呼ぶことは一般的である。

 私は、木工を始めた当初から、銘木を使うことに対して消極的であった。銘木に限らず、ムクの大板など、材に稀少価値があり、材そのもので値段が取れるような仕事、言わば「材料で勝負」というような仕事は、好きでなかった。何故そうであったか、理由はいろいろ考えられる。

 エンジニアであったという過去が、私の価値観に影響を与えている。私には素材と製品との関係について、一つの固定観念が有ったように思う。工業社会では、物の価値というものは、製作に関わる部分、すなわち設計(デザイン)、加工技術、加工精度、製品の性能などによって決まると考える。もちろん素材の善し悪しも重要な要素ではあるが、素材だけで製品の価値が決まるわけではない。良い鋼鉄を使っているという理由だけで自動車を買う人がいるだろうか。これが特殊な用途の製品の場合はなおさらである。ガスタービンなどは、工業社会の中でもかなり高級な代物で価格も高いが、使われている材料の値段などたかが知れている。ガスタービンの価格の大半を占めるのは研究開発費であり、設計費であり、製作コストなのである。材料が良いことは必要な条件であるが、材料さえ有れば誰でも作れるというものではない。つまり、「材料で勝負」ではなく、「技術で勝負」なのである。そして、良い材料を作り出すのも技術なのである。ガスタービンに限らず、工業製品というものは、皆このような性格を持っている。

 エンジニアという仕事を通じて私には、物の価値というものは、人間が創り出すものだという観念が固定された。工業社会というと、非人間的な臭いがするように思いがちだが、やはり主体は人間なのである。その思いは、本物の技術者なら誰でも持っているものであり、それが彼等の救いでもある。エンジニア時代に、蒸気タービンの完成検査に立ち会ったことがある。胴体の上半分を取り外して、むき出しになったタービン・ローターの翼列を目の当たりにした時の、その機械が持つ美しさに触れた時の感動は、忘れられない。見た目の美しさを目的に作られたわけでなくとも、人間が叡智の限りを尽くして作り上げたものには、美しさがある。たとえそれが、鋼鉄の塊から出来ている物でも、うっとりするほど美しい。手づくり木工を人生後半の仕事に選んだ私でも、優れた工業製品に対して感動する心は、生涯消えることはないだろうと思う。

 全く違う方面から、「材料で勝負」に対抗する意見を得たこともある。それは私が木工業を始めて間も無い頃であった。母が市民サークルで楽しんでいた油絵の講師の先生にお会いした時のことである。私は、まだわずかしか無い自作家具の写真をお見せしながら、感想を伺った。話が家具の値段のことになり、先生は「今なら大竹さんの作品は値段が安いから、今買えれば得ですね」と言われた。私が、「もっと経験を積んで、高級な材料を使えるようになれば、値段の高い家具が作れると思います」と答えると、先生は反論された。「そういう意味では無いのです。高い材料を使うから高い製品になるというのでは、私は失望します。私の職業は画家です。私が描く絵の値段は、私の技量によって決まるのです。絵の具やキャンバスの値段で決まるのではありません。創作というものは、そういうものです。大竹さんが今後研鑽を重ねて、技術を高め、感覚を磨いて、独自の世界を作り出し、それが世の中で評価されて、高い値段を取れるようになれば、私は本物だと思います」と言われた。

 ミカエル・ダンバーという名の椅子作家が米国にいる。ウインザー・チェアと呼ばれるスタイルの、もともとは英国の田舎で作られ使われたた椅子を、昔ながらの方法で製作している作家である。彼が書いた本を読むと、木目が見える普通の透明な塗装仕上げの作品に混じって、緑色や灰色のペンキで塗りつぶした作品の写真が載っている。ウインザー・チェアは、もともと屋外で使うこともあったので、防水のためにペンキを塗りたくることが昔からあったようだが、現代の木工作家がわざわざそのようなことをするのは、少し奇異な感じがする。それについて、ダンバー氏はこう書いている。「私は椅子をペンキで塗りつぶすのが好きだ。何故なら、木目がじゃまになることがあるからだ。私は、私の作品の中に、造形の美しさを見て欲しいのだ。木の美しさを見て欲しいのではない。私が作り出す形の美しさをより鮮明にさせるためには、木目が見えない方が効果的な場合もある」。これも、一理あると思う。それでは木を使う意味が無いではないかと言われそうだが、そんなこともない。木材は物理的性質からして、椅子を手作りする素材として適しているからである。

 もう一つ、私が「材料で勝負」に馴染めなかったのは、家具というものは実用品であり、アート作品では無いという認識を持っていたこともあるだろう。実用品には実用品の性格と言うべきものがあるはずだ。丈夫で壊れにくいこと。機能的に優れて、使い易いこと。これらは実用品の性格として不可欠なものである。もちろん美しいことも大切だが、美しくても壊れ易いものではダメだし、使いにくくても失格である。美しいということは、実用品の要件の中では、格段の地位を与えられるものではない。そこがアートと違うところである。ことに素材に関しては、他の要件を満たしているものであれば、これといった美しさの無い、凡庸なものであっても、可として良いのではないか。ましてや、強度や機能に差が無いのに、素材の美しさだけで価格を吊り上げるようなことは、実用品の枠から逸脱するのではないだろうか。そんなふうに考えていた。

 このようにして、「材料で勝負」に対する抵抗感が、長い間私の中にあった。従って、銘木にはほとんど興味が無かった。これは、ある意味で異常な木工家である。ふつう木工家というものは、人を押し退けてでも良い材を手に入れたがるものである。使う当てが無くとも、銘木を買い込み、溜め込んでニンマリするのが木工家である。人間国宝のある木工家は、テレビ番組の中できっぱりと言っていた。「仕事の良し悪しは、ひとえに材料によって決まるのです。良い料材が無ければ、良い仕事は絶対にできません。木工とはそういうものなのです」。

 そんな私であったが、木工を始めてから7〜8年経った頃を境にして、序々に考えが変わって来た。別に「材料で勝負」という路線に転換したわけでは無いが、銘木をことさら忌避する自分の姿勢にも、疑問を感じるようになったのである。銘木でも何でも、美しい材は喜んで使うという、素直な姿勢が有っても良いのではないか、と思うようになった。綺麗な材が無ければ、それなりに工夫をして、出来る範囲で最善を尽くす。綺麗な材が有れば、それを生かし切るように、これまた最善を尽くす。それで良いではないか。銘木を使っているということで高級品イメージを作ることはしないが、銘木を使った結果として良い作品が出来上がったなら、それはそれで嬉しいこと。本当に良い作品が出来たなら、高く売っても良いはずだ。要は、その作品を気に入って買ってくれて、その作品で喜んでくれるお客がいれば良いのだ。そんなふうに考えるようになった。少しは肩の力が抜けたのである。

 材木が良いとか悪いとかは、人間が決めることであり、木に責任があるわけでは無い。木はそんなことに、何の関心も無いだろう。人は木を使わせて頂く立場にある。銘木は使わないなどという姿勢は、綺麗でない材は使わないと言うに等しくかたくなであろう。木は他の材料と違い、その特質として、綺麗に見える部分とそうでない部分がある。それを時には有り難く頂き、時には残念だったと諦める。逆に、綺麗な部分を思いきってざっくりと切りさばき、欠点のある部分をばーんと前面に押し出す。そんな使い方もあって良いと思う。自然体の心で受け止め、あるがままに楽しめば良い。木工とはそういうものではないかと思う。適材適所の言葉どおり、良いところも悪いところも含めて材料を生かすというところが、他の工芸ジャンルには無い、木工の醍醐味なのではあるまいか。


(Copy Right OTAKE 2003)

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