沼田の桑細工

 JR上越線の沼田駅前に、こけしを製造販売している店がある。あるとき私は、木工仲間と取材旅行をしている途上で、この店に立ち寄った。店構えはこじんまりとしており、裏へ回ると工房があった。工房も小さなものである。ろくろの機械と、バイトの火造りに使う炉と、木取りに使う丸ノコ盤がある程度だった。家具作りの私の工房と比べると、はるかに小さい。工房の壁には、筒井神社の名が書かれたお札が貼られていた。筒井神社と言うのは、ろくろ師の神様を祀る関西地方の神社で、全国のろくろ師から崇敬されているとのことだった。

 この工房はこけしの他、桑材を使ったろくろ製品を作っている。私は茶筒を二つ購入した。職人の工房を訊ねて、仕事場を見せてもらい、話を聞く場合には、そこで作っている品物をいくつか購入して帰るものだと、私はある人から教えられた。相手の仕事の手を止めさせて、話に応じてもらうのだから、少なくともその時間の手間に見合った品物を、買って帰るのが礼儀だと言うのである。

 確かに、立場を逆にすれば、うなずける事である。私の工房にも、通りすがりで覗き込んでいく人が居る。30分や1時間程度のことではあるが、仕事の手を止め無ければならない。正直に言って困ることもあるのだ。ところが、入って来る人は少しも気遣いが無い。テレビ番組などで、レポーターがふらりと工房を訪れて、やれ話をきかせろとか、やれ少し作業をやらせろとか、やりたい放題のことをするものだから、そういう事をやって当たり前と思っている人が多いようである。また、職人の方も、自分の仕事のことを尋ねられたら、応対しなければいけないと感じている、昨今の風潮である。

 しかし、通りすがりに見知らぬ会社のビルに入り、忙しく立ち働いている社員の一人を捉まえて、「この仕事はどんなところが大変なんですか」などと、30分も1時間も話相手をさせる人はいないだろう。そんなことは非常識だとわきまえているからだ。会社勤務をしている人に対しては失礼なことが、個人で品物を作っている人に対しては失礼でない。そんなことが有って良いのだろうかと思う。自分本位、自分勝手なちん入者には、ほとほと手を焼くのである。本当にその仕事に興味が有るのなら、あらかじめ予約を入れて相手の都合を確認し、それなりの礼を尽くして訪問するのが、当然ではあるまいか。

 さて話を元に戻そう。この工房で聞いた桑細工のエピソードが、実に興味深いものだったのである。

 材料となる桑は、養蚕農家から入手する。養蚕が盛んなこの地域では、そこら中に桑の畑がある。ある程度年をとった樹は、切り倒される。そのような樹を、貰い下げるのである。農家から連絡があると、軽トラックで取りに行く。不要木の処理をしてくれるので、農家は喜ぶ。戴いた桑の木は、ろくろ細工にうってつけである。養蚕のために栽培されている桑の樹は、葉を収穫するために成長が遅い。いじめられて育った樹だから、成長が遅く、年輪が密なのである。そのような材は、ち密で硬く、細かい加工をするのに向いている。

 一般に桑材は、木工芸の用材として最高級とも言われる。江戸指物などでも、高級材として扱われてきた。ただし、桑の大きい材はなかなか手に入らない。貴重材なのである。その点、ろくろ加工で作るサイズの物なら、それほど大きい丸太の必要は無い。養蚕農家の桑畑から出て来る材で足りるのである。

 その桑材を加工して、製品を作るのだが、切り落とした端材は工房のストーブで燃やして暖房に使う。また、火造りの炉の焚き付けに使う。ちなみに火造りとは、ろくろ師が仕事に使うバイト(刃物)を、自分で炉で焼いて造ることを言う。

 ろくろ仕事では、大量の切り屑が出る。それらは、まとめて袋に入れておくと、コンニャク業者が取りに来る。群馬県の下仁田地方はコンニャクの産地である。そのコンニャクを作る過程で、灰を取るとか、製品を燻すとかで、桑の切り屑を使うのだそうである。

 かくして、最大限に利用されて、桑は一生を終わる。とてもうまく出来たシステムである。このように無駄が無く、しかも必要最低限の小規模な設備でやっているから、この仕事は長続きするのだと感じた。地場産業というものは、本来このようにして生まれ、このようにして続いていくものなのであろう。自然のしくみをうまく利用し、しかも有害な廃棄物を出さない。それどころか廃棄物をも利用してしまう。このような親自然の循環系の物づくりと、製造する過程でも、製品を処分する時点でも、有害な廃棄物を生み出し続ける現代工業との違いはどうだろうか。

 

(Copy Right OTAKE 2003)

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