木口は不浄のもの ?
木材繊維の垂直断面が表れる面、つまり木材の年輪が見える面を木口と呼ぶ。板や角材のような直方体の形状でも、丸棒のような形状でも、そのような呼び方をする。角材や丸棒など細長い形の材は、ほとんどの場合、両端が木口となる。この木口が、「不浄のもの」であると聞いたことがある。伝統的に、日本の木工の世界では、木口を忌み嫌い、人目に触れぬ様に隠す習慣が有ったと言うのである。「不浄のもの」とは、おかしな言い草である。木口とは物体の名称ではない。特定の方向の切り口の面を示す言葉であり、概念的なものである。木材の空間的な属性であり、木口を切り取って持ち運ぶことはできない。そんな形があるようで無いものをとらえて、「不浄のもの」とは、いささか不可解である。
確かに木口を隠そうとする意図は、様々なところに伺える。ちょっと注意して見れば、木造住宅の部屋の中にも、気が付くはずだ。和室でも洋室でも、部材の木口が露出しているところは、まず無い。柱の先端は天井の上に隠れているし、ふすまや障子も、材の木口が見えないような構造になっている。天井板も、木口が見えることは無い。室内にぐるりと回す長押(なげし)や幅木などは、接合する部分でお互いの端を45度の角度に切り、合わせてある。このように、45度でお互いを接合することを、木工の世界では「留」(とめ)と呼ぶ。「留」は木口が見えないようにする工夫である。世の中で一般的な額縁の四隅は、「留」にしてあるのが普通である。「留」を採用することには、別の理由も有るが、木口を隠すという役割が有ることは確かである。
木造家屋のみならず、木工全般で木口が嫌われている節がある。木工のテキストをひもとけば、木口を隠す技術が至る所に現れる。先ほどの「留」もそうである。「留」にもいろいろな種類があり、使う場所によって様々なバリエーションがある。額縁の四隅のように単純なものもあれば、箱の四隅を組み立てる時に使う、複雑な構造のものもある。それは、「留」の内側に接合のための組手を仕込んだものである。古い木製の火鉢などには、この構造で作られたものがある。
何故木口が不浄のものとして扱われてきたのか、言い換えれば、何故人目をはばかるような嫌われ方をしてきたのか、私なりに考えてみた。理由はいろいろ有りそうである。
一つ目は、木材の性質として、木口は腐れが入り易いということがあるだろう。木材を腐らす木材腐朽菌なるものは、導管に沿って入り込むと進みが速い。木の板を雨ざらしにしておくと、両端から朽ちてくる。木口からやられていくというわけだ。丸太なども、放っておくと木口からどんどん腐れが入り、変色していく。昔は、洗濯物を干す棹をかけるための木製の丸棒が、家庭の庭に立っていたものだが、その先端には缶詰の空き缶をかぶせてあったものである。雨水が柱の先端、つまり木口に当るのを防ぐためである。
神社や仏閣の建築では、基本的に白木の造りでも、木口が現れている部分には塗料が塗ってあるのを目にしたことがあるだろう。これも、湿気が木口から入るのを防ぐ意味があると思われる。多湿で物が腐りやすい日本の気候では、そういう工夫が必要なのである。さらに仏閣建築では、梁が柱を貫通している部分の梁の先端に、渦巻き模様とか、奇怪な動物の彫刻が施されていることがある。例えば、部材の末端が象の顔になっていたりする(正しくは、夢を食べる貘らしい)。これも、木口をそのまま見せるのをはばかり、装飾的なものを加味したように思われる。
二つ目は、やはり木材の性質として、木口は扱い難いということがあるかも知れない。木材は異方性材料である。方向によって材の性質が異なる、特殊な素材である。導管の断面が現れる木口は、他の面とは大きく異なる性質を持つ。加工の点から言えば、釘が利きにくい、接着剤が利きにくいなどの扱い難さがある。木材に木口が無ければ、どれほど扱い易く、ラクだろうかと思うことがある。扱い難いということが高じて、見るのも嫌だということになったのかも知れない。
三つ目も、同じく材の性質として、木口は材面の表情が渋い。他の面は、カンナで削れば光沢のある仕上がりになるが、木口だけは艶を見せない。塗装を施しても、木口は塗料を良く吸い込むので暗くなる。他の面との違いが強調される。いわば木口は異端児である。その特殊なところを生かして使うやり方もある。木口の質感の違いをアクセントとして使うやり方である。そのように、うまく利用すれば面白いが、しかし多くの場合は、やはり製作者を悩ませる存在なのが、木口である。
さて、他にも理由はいろいろ有るかも知れないが、私はここで材料科学的なことを離れ、精神的な面に目を向けたい。樹は太陽に向かって伸びるものである。従って細長い。だから、生えている樹を、そのまま縦に切断することは難しい。しかし、横に切るのは簡単だ。樹齢100年を越える樹でも、横に切って倒すのは、慣れた樵なら数分の仕事である。つまり、樹を切るという行為は、幹を横断して切ることを意味し、それは木口の出現を伴う。逆に木口が日の下に現れるということは、樹が生命を終えたということ、いや、樹の生命が人によって断たれたことを意味するのである。
伐倒見学会というものに参加したことがある。山奥の製材所が企画したイベントで、森の中の大木を切り倒す瞬間を、一般の人に見てもらおうという主旨である。都会から多くの参加希望が寄せられる、人気イベントであった。主催者が仕立てたマイクロバスで現場に到着すると、その日切られる予定の樹がそびえている。樵が数名、チェーンソーなどを取り出して準備する。樹の根元にお神酒がかけられ、伐倒作業が始まる。直径1メートルを超える樹でも、所要時間は十数分である。切り進んで行って、最後のところに達すると、樹は突然傾き始める。それから地面に横たわるまで、あっと言う間の出来事である。写真のシャッターを二度押す暇も無いくらいである。樹が傾き始める直前に、樵が声を上げて見学者に注目を促す。その場に緊張感がみなぎる。見学者の中には、手を合わせる者もいる。樹は倒れる瞬間に、「オン」と言うような音がすると聞いた。断末魔の叫びである。その瞬間、涙ぐむ人もいると言う。大音響と共に、樹は地面に倒れる。観客はどよめく。なんとも言えない感慨が沸き起こった。
小さな木片の木口も、元を辿れば一つの大きな木口、つまり伐採したときの木口から始まっている。その木口は、樹が自然界を離れ、人の世界に入って行く、言わば冥土の旅の一里塚である。そしてそれはまた、人の罪の証なのでもある。
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